| 6353,閑話小題 〜二年続けて「長岡花火は行かずしまい! |
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2018年08月05日(日)
* 猛暑の朝、やはりTVの話題ですか!
◉ 暑い夏は、寝室でTV映画とスポーツ観戦を 一月生まれもあってか、暑さに弱い。そこで、例年のごとく、寝室に籠って 録画した映画とドラマ三昧。ブルーレイの300本以外に、ディスクに数十本、録画 をしたのを、当たるも八卦と、一番面白そうなのから順次見ているが、当たりが 当然、多い。 空いていたら迷わず録画をして、閑な時間に頭出しをして、90点 に到達してないと消去をする。それでも、なかなか少ない。それでも時々、飽き がくるが、そこで、YouTubeの何時もの定番のコースへ。 ◉ ワールドカップも終わり… 甲子園の高校野球が今日より始まる。地元からは中越高校が出るが、相手は 慶応高校で、強豪チーム。残念だが、8〜9割は勝てないのだろうが、そう思って みれば、負けても落ち込みは少なく済むし、甲子園、何が起こるか分らない。 前評判の良いのは、この数年、準々決勝まで勝ち上がっていたチームばかり… 多くの有望選手もいる。さて、今年のスターに誰が? ますます俗っぽくなった 自分が良いのか悪いのか。 成るほど、<命短し、恋せよ乙女>である。
◉ 去年に続き、今年も花火見物に行かず自宅のTVで… 以前から人混みが苦手。会場で生でみるか? ドッチが好きかの好みの問題に。 現場に溶込んで雰囲気と共に楽しむか、冷房の効いた寝室で、独り、電気を消し TVで見るのも、なかなかのモノ。TVの画面がリアルで、これはこれで… 3日、BS:TBSのライブの花火中継に回すと、花火案内人が見たことのある お年寄りがいた。 …それが何と小学校同期生の「長谷川健ちゃん」。 「60歳超えからは、その5歳上は「大年寄り」と言うが…。 先生の子息で、 当時から、人を寄せ付けない異様な感があった人。 当時から現在に至るまで、 殆ど口はきいたことがなかったが、古希の同期会のスナップの写真を送って くれた。 無難に花火の蘊蓄を話していたが、どこかソワソワした浮いた感が あったが、これで当分、良い、悪いの世間話のネタの恩恵?を受ける羽目に。
◉ 私の知人に数年前にリタイアした人がいる。それをキッカケに65インチの 有機TVを入替えたのはいいが、夫婦して嵌って、夫婦交代制で見ているため、 24時間、TVを付けっぱなしで、僅か二年で、加熱のため、修理に出したとか。 考えてみたら、我家の二台のTVを合算すると他山の石ではない。 NHKで、4k、8kの専門チャンネルが新設され、これが生活を一変えるというが。 現在でも現場の数倍、数十倍の臨場感を味わえる?と、言うから…。 これにゴーグルでも使えば、更にライブ感が増す。 ・・・・・・ 4891,定年後の4年目のリアル −1 2014年08月05日(火) 「定年後のリアル」勢古 浩爾 (著) 朝日新聞の新刊広告に『定年後の7年目のリアル』があった。3年間、私が、 ここで書いてきた内容と同じような見出しにあった。 そこで、アマゾンで 内容紹介を見たところ、前著の『定年後のリアル』があり、『・・7年目のリアル』 の内容は続刊。 内容紹介だけだが、生々しいだけ私の内容の方がシリアスの筈・・ ーまずは、内容紹介よりー 《 ◇お金、仕事、健康、生きがい……退職したら、どんな毎日が待っている? 不況のいま、いかにして生きていくかという問題がクローズアップされている。 特に定年退職が迫った人に対してメディアは、定年後は「6,000万円の貯えが必要」 「孤独死にご用心」を語る。著者は、さまざまな定年本、定年者たちの生き方を 引き合いに出しながら、メディアが煽る「不安」など、実際にはそれほど思い わずらう必要もないことがほとんどという。いまの日本人は、過剰な情報に振り 回され、不必要なほど不安になってしまっているというのだ。たとえば貯蓄や 健康状態の「平均」がどの程度かといった話が盛んに語られ、自らを引き比べて 不全感を増している人も多いが、現実には「平均」は自分の生き方とはあまり 関係のない情報であり、気にしすぎる意味はない。またアンチエイジングや若さ を保つ方法が日々声高に喧伝されているが、本来、人は年を取ったら取ったなり の自分を認めていくのが自然であり、若さを過度に持ち上げる価値観自体がいびつ だともいえる。 ・・人は死ぬ、年を取ったら衰えるのが当たり前であり、 そうした事実を正面から受け入れて、初めて本当の人生に出会える。そのうえで 一日一日から得られる人生の喜びを享受して生きていくのが、定年後の理想的な 生き方だという。さまざまな不安の正体を解き明かし、心をほっとしてくれる。》 ▼ 私の喩えで、「森の生活からサバンナへ!」がある。 森の中でイメージを していたサバンナの生活は、そこはそこで面白く、生きがいもあり充実をしている。 森の住人には、それが理解できない。そのことを、森の住人に問いかけている 内容のようである。しかし、これは森の生活で、準備をしてきたかで大きく違う。 私の場合は、ハードランディングだったとしても、万一の備えを長年にかけして いた為、何とか着陸をした。そして、リアルな毎日が待っていた。そして 4年目に入って、そんなことより、老いそのものの方が現実として迫ってくる。 この紹介の中で「老いの一日一日から得られる人生の喜びを享受して生きていく のが、定年後の理想的な生き方だ」というが、享受するのは、喜びと楽しみだけ でなく、怒り、哀しみが伴なう。老いは確実に精神も肉体も衰えさせている。 哀しみに覆われた日を何とか過ごすのもリアルの一日になる。逆に有余る時間で、 思いのままに一日を過ごす楽しみもある。 夕暮れの残照の中での、最後の宴も良いもの!
・・・・・・ 5256,蓄群本能 〜ニーチェ「超」入門〜 2015年08月05日(水) 〜ニーチェ「超」入門〜白取春彦著 * 蓄群本能 誰も持っている『群蓄本能』。城下町では、その小さな世界で群蓄本能が、 互いの足の引張りあいになり、その個性を内に押しとどめるしかなくなる。 違うということが、マイナスの世界。割切るしかないとしても。〜その辺りから〜 ≪ わたしたち現代人はただなんとなく、道徳とは個人の行為に関する規範だと 思い込んでいる。あるいは、人間性が生んだ規範、社会を健全に生きるための 知恵のようなものだと思っている。 ところがニーチェは、「道徳とは、共同体 のために個々人の内部で作用する一種の畜群本能から生まれたものなのだ」 (『悦ばしき知識』116)という。 この畜群本能というのは、「共同体が個人より も価値が高いのだから、個人の利益より共同体の利益を優先すべきということと、 「一時的な利益よりも永続的な利益を優先させる」という、国家や社会の全体を 益するための考え方を因習とし継承してきたあげく生まれた。 たとえば、盗んではならないという身近な一つの道徳律を考えても、ニーチェ の説はあてはまっているように見える。実際に、空腹ゆえにパンを盗んでも、 社会に損失を与えたとして罰せられる。そして、「個人よりも全体を優先する という因習が覆う社会で人間は教育され、生活してきた」。よって、「人の心に ある道徳性とは、これらさまざまな因習の全体に向かう感情にすぎないのだ」 になる。一般的な道徳が自然な心情や宗教の神の配慮から生まれてきたのでは なく、利益の重さをどこにおくか、つまり功利がその出発点になる。 そう考えた二ーチェは、もちろん道徳の発生を理性に見るカントに反対する立場 にいるわけだ。二ーチェのこういう考え方は、現代哲学で使われている用語で いえば明らかに構築主義的だということはもうわかるだろう。 だから、ニーチェはこうもいう。 ・「道徳的、倫理的であるというのは、古くからあった掟、古くからの因習に 従順であることを意味しているのだ」・・ ・「良心の中身とは何か。幼少時代のわれわれが尊敬し、かつ恐れた人々が、 理由もなく規則的にわれわれに要求してきたものすべてが良心の中身だ。 …そういうさまざまな古い権威に対する信仰が良心の源泉なのだ。したがって、 良心は人の胸の中にある神の声などではない。その人の心の内にいる幾人かの 人間の声である」(「人間的」) つまり、良心は群れとして生きる人間がみずから生み出したものだということ。 だから、本当に個性的であることはいやがられるし、個性的ゆえに良心の痛みを 覚えやすい。しかし、そこを越えなければ、新しいものは出てこないのだ。 けれども、自分の中に巣くっている古い群れの声にしたがわない行為、考え、 発見はどれも社会からは悪だとみなされる。過去をふりかえれば、みなそう。 新しい思想、新しい知識、新しい方法は、それぞれの時代で弾圧され、 狂気だとみなされ、犯罪扱いされてきた。≫ ▼ 一匹狼的か、群れる羊の一匹として生きるか。論語も蓄群の精神マナー? 確かにマナーは必要だが、古くからある因習に従順過ぎると、世界を自分 から小さくするし、個性的人生からは遠ざかることになる。「個性、個性と いうが、所詮は砂利の一つの石ころじゃないか」ともいうが、その石ころの デザインを自分でしてきたか、してなかったか? それも同じことか?
・・・・・・ 5986,閑話小題 〜最後の講義・6 ー石黒浩:対談 2017年08月05日(土) ロボット学者ゆえに、切口が新鮮である。自分のロボットをつくり、常日頃、 対峙すると、無機物のロボットの、サルトルのいう、「対自」「対他」「即自」 が、クッキリと浮かび上がってくるのだろう。 ヨガの仕上げの5分間の 「死者のポーズ」として、宇宙の彼方から魂の抜けた己の姿を逆照射する イメージと同じような。「定年までの自分」と、「それ以降の自分」の対峙も 似たような? これらは、一般的には「余命半年、3ヶ月」と宣言された時に、 初めて、自分に突きつけられるのだろう。落語の米朝のロボットが、生身の 米朝と高座に上がっている写真があるが、文化遺産として残すには最適だろう。
―― ―人の気持ちの正体とは― <本荘> 石黒先生は小さいころから「テーマ(問い)」を持たれましたよね。 <石黒> 僕は、小さいころ夢がなくてぼんやりしていたのですが、小学5年の時、 「人の気持ちを考えなさい」と大人に言われて衝撃を受けました。 その気持ちを考えることは大事なことなのに、考え方自体を一度も教わって いないし、大事にしろというその「気持ち」を見たことがないわけです。 皆さんは「気持ち」が何か知っていますか。
<本荘> 「気持ち」を100字以内で説明せよ、というやつですね。 <石黒> そうです。「気持ち」でも「考える」ということでもどちらでもよい ですが、それを定義した瞬間にコンピューターが勝ってしまいます。 だから、 小学校5年生のときには、「自分の考えている次元とは違う世界に行けるなんて、 大人はすごい」と思っていました。ようやく高校生ぐらいになって、全員うそを ついていると分かったので卒業しないままずっと学校の中にいるのです。 ▼ 石黒は、「気持」について、逆照射して考えるため、曖昧な定義を 戒めているのでは? ― そこで、<「気持ち」を100字以内で説明せよ>の私の答を即興で書くと… 【「気持ち」で浮かぶ言葉は、感情である。感情といえば「喜怒哀楽」と、 「感動、感激、感謝」になる。「クールヘッド、ウォームハート」と分けると、 温かい心。逆に、冷たい心とは、生物の本能の「エゴ」を優先すること。】 たまたま、考えを進めるに、去年の以下の文章が参考になる。ロボットには 無い真逆の問題だから。幸・不幸など、感情でしかないことが浮かびあがる。
・・・・・ 4149, 強迫性障害 2012年08月05日(日) オリンピック開会式で久しぶりにサッカーのベッカム選手の姿があったが、 彼は強迫性障害であることを最近、告白した。「何でもまっすぐに並んでいない と気が済まないし、何でもペアになってないと気が済まない」という。自宅の 冷蔵庫や、宿泊先の部屋でもすべてを「左右対象でまっすぐ」に並べ直す作業に 長時間を費やす。 ディカプリオ主演、『アビエイター』のモデルになった 大富豪のハワード・ヒューズも、この病。この映画をみたが、 「すべてのものが汚染されている」という考えにとりつかれ、人との接触を 避けるようになり、自分が買い取ったホテルで20年間も暮らして、最後は 孤独死を遂げた。 ーそこで、ネット辞書で検索してみるとー ≪ 強迫性障害とは、簡単にいうと「わかっちゃいるけどやめられない症候群」。 自分でも不合理だと思いながら何回も繰り返すので、本人には大変つらい病。 よくみられるものは、トイレに入った後何回も手を洗う、ドアのカギをかけたか どうか、ガス栓をしめたかどうか何回も確認するというもの。本来これらの行為 は安全を確保するために誰でも行うが、それが何回も何十回も確認しないと 気がすまない状態になると社会的に支障をきたすことになり、何らかの治療が 必要となります≫ とあった。 これは、心の病と、脳の病の原因があり、 それぞれの治療がおこなわれているという。心の病の場合、過去の「喪失と悲しみ が、原因になっていることが多い。病気に至るのは、喪失の悲しみを乗り越え られないため。人生は、考えてみれば喪失と悲しみがつきもの。 そんなことをいったら現在の私は、重症の強迫性障害に陥っていて当然である。 定年も転職も失業も同じ。「喪失と悲しみ」の中で、最も辛い一つは、連れ合い との死別。傷が癒えるに最低二年は要するという。 亡くなった姉が晩年、 合唱の先生をしていたが、未亡人だけのグループをつくって(歌で互いに癒しを 隠れテーマにして)いた。その姉が私に「誰も平静を装っているが、死別の傷の ためか尋常でない何かを感じる!」という。躁鬱症も、分裂症も、この強迫障害 も、誰もが多かれ少なかれ持っている。それをコントロールしようとしてできる ものでない。私も当然、それに思い当たる強迫障害に近い症状が幾つかある。 多人数の兄姉の末っ子で、両親が終戦直後で、家業の再創業期にあり、異常な 生活環境にあった影響が、心の奧底に大きく存在していた。人生を通して、 その脱皮が人生のテーマだった。それぞれが、それを抱え生涯を生きている。 私の場合、心の底から笑える性格があったのと、両親の温もりが地熱として あったのとが、症状を軽くしてくれた。分裂、躁鬱、強迫障害症の三つを 束ねるのが自己になる。
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