| 6285,読書日記 生きることへの冒瀆とは! 〜2 |
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2018年05月29日(火)
『旅人よ どの街で死ぬか。〜「男の美眺」』 (伊集院静 2017年)から。 * 旅、あるいは「出逢い」について ◉ 「人間は焦がれる生きものである。 彼は焦がれていた。崇高なる精神がそこにはあざやかにあった。 美しい旅人であった。人が何かに焦がれるのは、私たちの生が哀切で あふれているからである。」 64p <青年期には、確かに崇高な精神があった。あの精神は、今でも心の中核に 確かに残っている。それが魂というのだろうか? 20歳代も、現在も… 。 ◉ カタルーニャの広場の地の底から死者の声がする。その声は私の耳には 届かない。だがじっと佇んでいると奇妙な心持になる。そしてかすかな 声が我うちから聞こえてくる。 「御前は何者なのだ? ここに何をしに来た。どういう血が流れているのだ。 その血には誇りがあるのか。」 自分という存在の、生きる根源としての誇りが、身体のどこかを刻んでも 流れてくるののか、と問われている気がする。 78p <地球の各地で、感動で茫然とした時に、必ずといってよいほど、生じてくる 内なる声である。「いま、ここ、わたし」が、この大自然に同化している。 わたしは、何ものでもない。この一部であり、永遠のカケラでしかないが、 ただ、いま、ここにわたしが間違いなく存在している… と。 > ◉ ルソーがなぜゲルニカを世界の理想と言ったのか。ゲルニカは町の中心に 一本の樫の木があり、五百年近くの間、この木の下に人々が集まり、あらゆる 問題を合議し、決定してきた。イサベルとフェルナンドが結婚し、大航海時代 のスペインが誕生する以前から、この共和制の原形を人々は存続させていた〜。 〜一本の木を見る旅をぜひおすすめしたい。 91-93p <庭の草木の全てが両親が植えたもの。春から夏にかけて、その多くが花を 咲かせる。確かに、二人とも亡くなったが、残したものは生きている。> ―― ▼ 『男はつらいよ』の寅さんが、旅先の年寄りに、「ちょっと、旅のお方!」と 呼び止められる場面がある。その土地モノにとって、旅人は止まり木の渡り鳥。 ましてツアーの団体客など… 30歳近くまで東京、三重、神戸、千葉、金沢と 今からすると「旅の人」に人だったが、私は何ものでもなかった、なれなかった 存在だった。大波の合間を自分という板切れにしがみ付いて漂う存在でしかない。 それが青春なのだろうが。その時の出逢いと邂逅こそが人生だったようだ。 それは人生全般に言えること。だからこそ、人との「別れ際」が重要なのである。 行動指標に「後味の悪いことは極力避ける」を通していたが、甘かったようだ。 それは大方の人に見れるが、大方の人は関係ないこと。 「世界は広い、そして深い!」…求める者にとって、世界は辛い以上に面白い! 「半径500の世界は狭い、そして浅い!」のは、出ないだけ。 ‘自分の知っていることしか知らないことを自覚ない’から自分を保てるのさ。 アナタじゃない、今の私。落ち着くところは無知蒙昧! せめて比べないこと。
・・・・・・ 5918,閑話小題 〜帰りの宇宙船内で 2017年05月29日(月) * 帰りの宇宙船で 「何故に生まれてきたか?」の問いかけの答えを考えるに、 「宇宙彼方の惑星から地球の80年の旅に来ていると想定すると考えやすい」 と、そして、「子猿に纏わりつかれ、殆ど地球上の大自然も、人間も、人間が 営々としてつくり上げた「文化・文明」をみること出来なかったことに後悔 する」と書いた。 秘境異郷ツアーに嵌って、私にとっての世界の果てからの 現実社会からのトリップする経験をしてきた。この感覚を「人間の生死」の 極みの実感から、「人間の生きる目的」を考えるヒントにしている。 旅行から自宅に近づくにつれ、ホームベースがあればこそ、余裕を持って世界 の果てに飛ぶ立つことが出来た。それを拡大して、宇宙の果てから地球へ、 約80年の時間に色々な条件を与えられた上に、世界と内界を知り、味わい、 宇宙船に乗って帰っていく。宇宙船内で、自問自答するのは、如何だろう? 観て、経験した、感動と、感激と、感涙した極上の感情体験。四苦八苦、四楽 八楽の経験。それを阻んでいたのは、地球のシリアスな小憎らしいが、可愛い 子猿たち。それらも元の惑星に着いたと同時に宇宙の旅として忘れ去られる。 ただ、帰りの宇宙船内には、両親など因縁のある人たちが居る。数年前から、 早朝の仏壇前で、因縁深かりし故人のイメージを繰り返し想い浮かべている。 「末期の死の床での予行演習」の準備の一環ですか、これは。「暗い!」と、 いうアナタ。これは時間をかけ身につける「必須科目」。私だけの話だが…
・・・・・・ 4823,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー4 2014年05月29日(木) 「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著 * 万能薬としての「語り直し」 ー「事業人生の45年」の語り直しーを書き始めたが、何故か心が重い。 気持ちの中で目的のため、多くを切り捨ててきた部分を違う視点で見ることに なるからだ。しかし、一つのことを得ようとしたら、それに見合うだけを捨てて かからないと、何も得ることができない。万能薬として「語り直し」も、劇薬 にもなってしまう。これまでの記憶のありようを現在の主観的経験で変えようと するのが、「語り直し」である。 ーその辺りから 《 その人の立ち位置によって、同じできごとでも違って解釈できる。だから、 過去のどんなできごとも、必ず違ってみることができることを、肝に銘じて 賜おくことが必要だ。その上で、ある過去のできごとについて意味づけを変える ために、そのできごとを、それまでとちがうことばで語り直さなければならない。 世間には「時間が癒す」という言いまわしがある。ここで、見過ごされがちな ことだが、「時間が癒す」のは、単に時間が過ぎ去るからではない。 時間が過ぎ去る間に、人はそのできごとについて何度も考え、悩み、さらには 新しい経験をする。このことによって、元のできごとの意味づけ、語りかたが 変わるからなのだ。 ・・(中略) 「記憶をつくり変えたり、それを遠ざけるのは無理なことである。・・(略) しかし、―つねにー私たちは、自分の苦悩、自分自身の内的経験、自分自身の 精神の経過を処理しているわけである。それは、過去とよばれる客観体ではなく、 現在とよばれる主観的経験である。変える必要があるのは、誰か他の人間では ない。最も大きく影響されているのは、私たち自身である。記憶をぬぐい去る ことはできないが、記憶の有りようを変えることは可能なことを、私たちは 知っている。」・・ 》 ▼ 現在、連続シリーズで書き始めたのは、「語り直し」だが、それより、 全く忘れていた記憶の書き加えが多くなる。それが、書き直しということだが、 太い幹の記憶から、忘れていた細い幹と小枝と葉っぱ記憶が出てくる。 その記憶が新たな気づきを喚起する役割なってくる。若い時分は、誰も経験も 知識の絶対量が足りなく、ただ漠然と日々を過ごすしかなかった。あるのは、 何とかなるのでは?という、儚い想いだけ。語り直しは内省そのものになる。
・・・・・・ 5553, 「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとでしよ」」 2016年05月29日(日) * 「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとで」 <「要するに」「面倒くさい」「面白くない」「あとで」>は、自らの壁を つくることになることに気づかない。この随想日記を読み返すたびに、 「要するに」が目に付いてしまう。 要約を一度する癖も必要としても、 自分の理解した枠に、せっかくの新しい知識、情報を押し込むために、 次の深化が、そこで止まる。 最近、老いの一現象か、「面倒くさい」の思いが先立つ。しかし、何事も、 「面倒くさい」先に、面白いこと、楽しいことが待っている。乗り越えてこそ、 面白いのに、「よる年波に勝てず」と、年齢のせいにする。「面倒くさい」を 乗越えるためには、一日、週、月、年単位のスケジュールを予め組むとよい。 次に、「面白くない」。 これは老化のバロメーターである。以前は、 あれほど面白かったことが、何か詰まらない。「あれは、ああいうこと、 これは、こういうこと」と、小さな自分の範疇に入れてしまう結果である。 何事も、急がしい合間に、無理をしてするから楽しいことが多い。 老いるほど、中村天風の『積極一貫』を心がけなければならない。 「あとで」と後回しにして、多くのチャンスを逸してきた。「あとで」と 後回しにした事の山積みが、あまりに多い。『20秒ルール』と法則があり、 とにかく、20秒以内に、手をつける。投手がキャッチャーからボールを 受取ってから投球に入らなければならない時間を、何事にも当てはめれば よい。これは、上記は老化現象として、私たちの生活を劣化させる。 ・・・・・・ 5188,人生相談という気晴らし! 〜 2015年05月29日(金) 『人生、しょせん気晴らし』中島義道著 * 父親とは、息子にとって「存在自体が悪」である 父と息子の関係は、古代より続く永遠のテーマである。「息子にとって、 存在自体が悪!」とは・・ 私にとっての父親は、最大の理解者で、 独立を一歩、踏出したベストのタイミングで亡くなった。私に必要だった のは、まず父親からの独立だが、計ったように亡くなっていった。 人生で一番に恵まれていたのは、父親の直の愛情。その温もりは、 今でも残っている。ただ、私には具体的な指示は一切しなかった。 私から、能動的に具体的な何かを求めてくるまで、何も言わなかった。 ≪ Q: 父親とはどういう存在であるべきか? 六十二歳の父親です。三十歳代の息子と娘がいます。私が育った家庭環境は 封建的であり、父を敬う風潮のある時代でした。しかし、その風潮も現在では 古臭いと子供や妻に反感を買うだけです。最近、思うのは私自身が父親として、 どんな存在だったかということです。子供たちは、大学を出たのですが就職 氷河期ということもあり、安定した職につくことなく、社会を彷徨ってますし、 結婚もしていません。私は家族の幸せを考えこれまで働き、経済的な豊かさも 獲得してきたつもりでしたが、これで良かったのかと疑問が残ります。 子供たちに一体何をしてやれたのかと考えるとやりきれない思いに囚われます。 父親の役目を終える時期が近づいているのですが、父親とはどういう存在である べきかと今頃になって悩んでおります。中島先生はどのようにお考えでしょうか? A: 父親は子供から忘れ去られることを望まなければならない 今回の二つのご質問を読んで、あらためて私は「人生相談」に向いていない なあと思かました。人生相談を持ちかける人は、たぶん常識の範囲を超えない かぎりで、つまりあまり苦労なく実行できる範囲で、何らかのポジティヴな 回答を求めている。あるいは、ちょっと考え方を変えれば「楽になる」そんな 妙薬を求めている。とすると、私にはそういうご期待に答える素質も趣味も ないからです。人生が何の意味もないことは自明であり、その無意味な人生 の終局は死であって、永遠の無に突入するのでしょう。こうした差し迫った 大問題に比べると、どんな相談も失礼ながらちっぽけなもの、どうでもいい ものに思われてしまうのです。と厭味を言ったうえで、お答えします。 私も一人の息子の父親ですが、「父親とはどういう存在であるべきか」と悩んだ ことはまったくない。なぜならば父親とは、とくに男の子にとって三島由紀夫 の言葉なのですがー「それ自体としての存在が悪だ」ということがよくわかって いるからです。もともと存在が悪なのですから、善人ぶってもすぐに化けの皮が はがれてしまう。父親は子供に何をしても、いや、何かをするほど嫌われます。 とくに、感謝されよう、尊敬されようとして何かをすることが一番いけない。 とすると、何もしないのが一番いいという結論が直ちに出ます。父親は勝手に 子供を作ったのですから、子供を経済的には二十歳までは支援する義務がある。 子供に生きていくカを授ける義務もあるかもしれない。しかし、それが「義務」 なのですから、何の見返りも期待してはいけない。とくに、「立派な人」に なること、「幸福になること」を期待することが一番いけない。そんなことは、 (父親という)他人が口出すことではないのです。父親は苦労に苦労を重ねて 子供を育て上げたら、子供から忘れられることを望まなくてはならない。 子供に対する執着を断つこと、子供から独立することです。どうせ、ちょっとで 死んでいくのだから、子供の人生は、子供に任せて、残された人生を自分の ために使ったらいかがでしょうか?悪人は悪人に徹することです。≫ ▼ 父の亡くなった年齢に近づくにつれ、やはり父親が、最大の理解者で あったと同時に、教育者だった。いつも、待ってくれていた。傷ついて、 横たわっていた時に、ただ一言『死んでしまえ!』以外、何も言わなかった。 死ぬに死ねないから、ただ、ジッとしていた。そのジッとしている効用こそが 人生にとって大事なことである。 明日は、その父の43回忌になる! ・・・・・・ 4456, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー4 2013年05月29日(水) 『一日5分「簡単ヨーガ」健康法』ー番場浩之著 * 1日目 "胸を開いて積極的に A・完全な呼吸法をする体位……40 1、基本体位=仰向けに寝て、脚を少し開く。両手は臍の上に置き、 親指と一さし指で三角形を作る。「静かな一息」−>「軽く一息」で息を 出し切りながら、足の甲と膝裏を十分に伸ばす。顎も引いてウナジも伸ばす。 2、お腹と脚を緩めると自然に息が入る。さらに「深く一息」を入れながら、 万歳をするように両腕を左右45度に開いて上げ、手指を開いて肘を伸ばす。 次に、膝裏を伸ばしながら、足先を手前に引っ張るように足裏を反らし、 足指も充分に開く。この状態を保つ。 3、ゆっくり息を出しながら、手を元に戻して「基本体位」で「軽く一息」。 4、もう一回、1〜3を行い、最後に「軽く一息」−> 「静かに一息」−>「各自の一息」で整える。 B・背骨をねじる体位(腕で半円を描く)……47 1、基本体位=仰向に寝て両足を揃え、手のひらを上に向けて腕を横に伸ばす。 次に右手を左の手の平に重ね合わせて左脇を下に横向きになる。次いで右膝 を曲げて床につけ、足裏を左膝上部にあてがう。右腕を顔前の床に伸ばし、 左手は右膝にあてがってしっかりつかむ。 2、「静かな一息」−>「軽く一息」の後、「深く一息」を入れながら 右腕を垂直に上げ、腰を入れる。このとき、入息に合わせて指先は きちんと揃え、肘もまっすぐ伸ばす。 3、息を出しながら足指を握り、左膝裏を伸ばして腰をしっかり入れて意識 しながら、右腕を背中側に押し倒して背筋をねじる。ここで、出息に合わ せて、足先から手指先までの「大地のアパーナ気」の流れを感じながら行う。 (膝が床から浮かないように注意し、首もねじって右手先を見ながら行う) 4、戻すときは、まず息を入れながら腕を垂直に上げて腰を感じ、次に、 ゆっくりと息を出しながら、丁寧に1の姿勢に戻す。「軽く一息」したら、 もう二回2〜4を繰り返す。計三回。軽く一息、静かな一息、各自の呼吸で、 息を整え手、右腕側が終了。 5、向きを変えて、反対側も、同じことを繰り返す。 ▼ 座位で呼吸する他に、仰臥の姿勢で身体を伸ばしたり、捻って呼吸する ことで、「大地のアパーナ気」と、「天のアパーナ気」を取り入れるポーズ。 ヨガの実習は、前屈、反り、ねじり、直立、完全弛緩、座法の姿勢を意識的に 繰り返す実習で本来の姿に戻すことを目指すもの。特に、一日目の、二つは、 基本中の基本である。これを身に着ければ、ダイナミックな「気」を引き出す ことが出来るはず。そういえば、学生時代の合気道に、ヨガの呼吸法に似た ところがある。合気道は相方と呼吸を合わせて気を練る。それに対しヨガは あくまで己独りの世界。 合気道の基本技には、「前屈、反り、ねじり、 直立、完全弛緩、座法の姿勢」の全てが含まれている。ヨガの「大地の アパーナ気」と、「天のアパーナ気」を取り入れる行(ポーズ)も、20年位 前の早朝ウォーキングの途中の橋の上で、天に両手を上げて天の気を取り入れ、 それを、大地の底(地球の芯)に吸い込ませる呼吸をしていた。ところが、 暫く休んでいたら、地球の芯が「ひさしぶり!」と反応してきた。 あくまでも擬人化した対自か即自だが、現在では「球芯様」と名づけて、 早朝のミニ・サイクリングの自転車上の自己対話の相手にしている。
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