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2011年08月23日(火)
* 驚きを忘れた人々 (P/29より) 【 あらゆる意味とあらゆる目的がこの世界のなかにあリ、価値と道徳は人間によってつくられる、つまり、価値と道徳は社会的・歴史的に 形成されるのである。真実はミステリアスであるとの意見を『彼ら』は理解できず、それゆえ人間の経験の意味するところは私たちの理解を 超えているのかもしれなといった意見を、まわりくどい戯れ言(その正体はやはり宗教的なもの)とみなした。私にとってこの態度のどこが いちばんなじみにくく、いちばん理解しがたかったというと、それは私たちが存在していることに、というより、なんらかのものが 存在していることに驚異(あらゆるものが奇跡にほかならないということ)を感じる感覚が欠けているという点である。 結局のところ、 深く考えなくても、子どもくらいの思考力さえあれば、私たちの経験のきわめて一般的かつ基本的な特徴すら私たちは自分では 気づいて当然なのに、私がいま述べているような人々はその点を見抜けなかったらしい。 ある種の常識的なものの見方がほぼ正しいと いうことを自明だととらえているようだが、私にとって自明だったのは、「常識は正しくない」ということだった。 あっという間に不可解さと自己矛盾の泥沼に嵌ってしまうからである。さらに正直に言うと、「『彼ら』は常識的な世界観を否定することを ばかげているとみなしたけれども、私からすれば、それを容認することこそばかげていた。彼らの見解は、その基盤を顧みないあいだしか もちこたえ代物だった。はなはだ浅薄であったばかりか、支えとなるものはなく、ぽっかりと宙に浮いていたのである。『彼ら』の見解の 根本を問いただしても、そうした疑問はことごとく退屈で的はずれなものとして退けられた。世界や経験のさまざまな基本的特徴は、 人間の推理力ではとうてい理解できそうにないという事実に注意を向けようとすると、彼らはこの事実を逆手にとって、問題を提起する ことを封じこめた。彼らの望みは、理解できる事物の領域に自分の人生を閉じこめることだった。最初に挙げたクルーブと比べると、 わずかながら深遠で批判的でもあったが、結局、両者の態度には多くの共通点があったのである。 大人になるにつれて、世界にまつわる驚異の念にひたり、世界が差し出す解決できそうにない問題(とくに、時間、空間、物体の知覚、 物体の本質などに関する問題)にのめりこんでいったおかげで、私はまわりの人たちからやや孤立することになった。こうした問題を 語りあえる相手が見つからなかっただけではない。 そんな問題をもち出せば変人扱いされかねないことを思い知らされたのである。 人づきあいをしなかったわけではなく、人生のほかの局面ではとても社交的な人間だった。昔から友人はいたし、17歳になって恋愛もした。 パーティが大好きで、熱烈な音楽愛好家にして、芝居通でもあった。それでも、経験のきわめて形而上学的な次元に心を奪われていることは、 たとえ日々そうした問題に取リ岨んでいたとしても伏せておくべきだと知ったのである。そんなふうに孤独感を覚えながらも、この問題に 取り組んだのは、なんといってもこの問題が圧倒的に重要であったからだ。私たちの本質や、私たちが暮らしている世界の本質にとって 根本的なものであるのに、こうした問題に何故誰も魅了されないのか理解できなかった。 頭の良い人なのに、何よりも重大な問題に 暗黙のうちに禁じられているには、何とも奇妙に思われた。 】 ▼ ここで、マギーは「 私にとって自明だったのは、常識は正しくないということだった。あっという間に不可解さと自己矛盾の泥沼に 嵌ってしまうからである。さらに正直に言うと、彼らは常識的な世界観を否定することをばかげているとみなしたけれども、私からすれば、 それを容認することこそばかげていた。彼らの見解は、その基盤を顧みないあいだしかもちこたえ代物だった。」と、述べている。 常識は、殆ど正しくないことは、今さらだが、あえて事を荒立てることもない。私も常識とやらは、ほぼ間違えていると、この年齢で実感する。 考えてみれば「あの人は常識人」ほど侮蔑の言葉はない。大部分である常識人のいうことを、まともに聞いてきた人生、何だったのだろう。 ・・・・・・・ 3437, 64歳の現時点で、感じること! ー2 2010年08月23日(月) * あと5ヶ月で65歳になるが 65年の人生を振り返ると、月並みだが長いような短いような感じだが、決して長くはない。アッという間である。 家庭に恵まれていたし、時代背景にも恵まれていた。 満足度は70、いや80点である。 明日の金が無くて呆然としたことも無かったし、人間関係で悩むことも比較的少なかった。 また事業を四十年近く、やれたことが良かった。また装置産業を選択したため、自由時間に恵まれたのが良かった。 好きな秘境ツアーも、私の環境=条件内では最大限に楽しむことができた。 好きな本も充分に読むことができた。 好きな箱物(ビル)造りも、小規模だが増築を含めると8棟を立ち上げることができた。 もっと事業を大きくできたチャンスがあったが、恐慌になった現在、それが良かったかどうか。 第二次世界大戦の終了から、米ソの対立、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中国の文化革命、そして、ソ連と東欧の崩壊、 日本の高度成長、バブルと、その崩壊、そして失われた20年という長期の停滞。アメリカのニューヨークの9・11テロと、 アフガン・イラク戦争。そして、極めつけがアメリカ発の大恐慌である。それが今後、10〜20年と色いろなカタチで、 20世紀的なものや、文化の破壊がすすむ。65年の人生で、半分以上は成長期の時代を味わってきた。特に20代、 30歳代は、高度成長期にあたっていた。もう日本が、これだけの右上がりに成長を謳歌する時代は二度とこない。 そうこう考えると本当に良い時代背景だった。 情報化社会の到来で、劇的変化を始めた時代の入り口を生きている。 その変化は想像を遥かに超えている。 毎日が驚きと、感動と、おののきの日々である。それにしても知らないことが多すぎる。 ・・・・・・・ 3062,階級社会だと! −2 2009年08月23日(日) 上流階級?の人が落ちぶれた時に、階級の存在をシビアに知ることになる。 その時のハビトゥス(その人の習慣をつくりあげている文化構造)の崩壊のプロセスを身近で何人か見てきた。その崩壊は人間性の崩壊になる。 階級社会にとって必要なことは、その入れ替えの弾力性である。弾力性が無くなれば階級社会が自滅することを経験的に知っているからである。 時間軸の長短から考えれば誰もが成上がりでしかない。イギリスは階級制度のハッキリした国であるが、その入れ替わりには長年の経験上、 当然のように受け入れるシステムになっている。新しい価値をつくりあげれば、その価値の創造者として認める。日本でも明治時代の伝統で、 家柄より学歴を優先する社会的システムができている。日本の最も優れた文化資産である。 (字数制限のためカット 2011年8月23日) ・・・・・・・・・ 2697, 散歩について 2008年08月23日(土) 散歩の習慣と効用については何度か書いてきた。1月から3月半ばを除けば毎朝、豪雨でない限り歩いている。 もう25年ほどになる。年々少しずつだが歩数は減っているが、それでも毎朝一時間弱は歩く。 日本人の歩行は、この三十年で激減しているという。30年前で7000歩が現在では6000歩弱に、車通勤では、4000歩も歩かない。 江戸時代には日本には散歩という概念がなかった。車がないので、何処に行くのにも歩いていたから、敢えて歩く必要も無かったようだ。 それでも、現代人と比べると3倍から5倍は歩いていたという。西欧人のように、「楽しみのための目的なしの歩き」に名前を散歩と名を つけたのは、勝海舟であった。氷川清話には、散歩の話がところどころ出てくる。散歩の語源は、漢方の言葉で、漢方の内服薬を飲んだあと、 その薬を早く吸収させるため歩くことを意味していた。勝海舟は、外国人が生活の中に散歩を取り入れているのを見て、 心身の健康の効用を看破した。私にとって、散歩のない日々は考えられないほど、日常の生活の一部になっている。大雨で歩かなかった 翌日など、身体から毒素(恐らく活性酸素だろう)が抜けていくのがわかる。それと、脳の活動が活発になるのも分かる。 これを続けていると鬱病などなる訳がない。早朝に、陽光にあたりながら、鳥の声と、川のせせらぎの音を聞きながら、深呼吸を して歩いていれば、マイナス思考など出ようがない。最近はiPodでアルファー波のタップリ入った音楽を聴く習慣も取り入れた。 哲学の小道が京都になるというが、決まった道を、他のことを意識しないですむ道という。 ソクラテスではないが、プラトンなどと問答しながら歩いたのは、脳が活性化するためである。散歩を健康のためとか、 考えるため、というのでは長続きはしない。あくまで楽しい日課の一つとして取り入れて、スキップするような気持ちで歩くことだ。 最近80歳過ぎの少し痴呆症の入った年配の人が散歩をしている。道に立って、来る人来る人に手を上げて親しそうに話しかけている。 それが一日の大きな楽しみになっているようで、決まった時間に決まった何人かと親しそうに話しをしている。 私も話しかけられたが、どうも苦手で笑って通り過ごしているが・・。痴呆症にとっては、あの習慣は一番の薬になる。 ところで何でもっと多くの人が早朝散歩をしないのだろう。あれだけ心身にとって良いことを。 時間が無いのなら、チョットした時間に意識をしてあるくことだ。もし私が散歩を取り入れてなかったら間違いなく現在、 娑婆には居いだろう。寝る前の風呂と、早朝の散歩で猿コールを蒸発させているから、事なきを得ている。 二十年ほど前に「散歩について」書いた随想を読んだ恩師が手紙をくれたことがあった。その恩師は鬼籍に入られてしまった。 後記)面白いものだ、偶然の一致になるが「夜明けのリゾートタイム」であとに書いてあった。 ・・・・・・・・・・ 2007年08月23日(木) 2333, ホッファー −2 *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ! この特異な哲人ホッファーの存在が、今日のように我々に知られるに至ったのは、マーガレット・アンダーソンという 「コモン・グラウンド」編集長である。「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を待っているのだと思えることが、 自分の思索を持続させた」と、ホッファーは書いている。世に出た著書は、好評だったが、爆発的に売れたわけではない。 あくまでも彼は本の“著者”にすぎない状態だった。1964年にカリフォルニア大学のバークレー校で週に一度の学生たちとの講義も 担当するようになったときも話題をよんだわけではなかった。ホッファーのような変わった人物を講師にするのは、バークレーのやり方。 しかし、ホッファーはひとつの感慨をもつ。「人にはこのように、世界のどこかでそれを待っているところが、少なくとも一カ所は あるものなのだ」ということを。 以下は、ある本からの抜粋である。 ▼ ホッファーが人気をもつきっかけはテレビであった。1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映され大反響になった。 それから一年に一度、ホッファーはテレビ対談に登場する。かれ自身はつねに目立たない存在を望んだが、どんな評価も名声も ホッファーの生活を豊かにすることも、その精神を危機から脱出させることもなかった。社会や世間のほうがホッファーのような “例外者”を必要とした。こういうホッファー・フィーバーのなかで、彼はまったく変わらなかった。 沖仲仕をやめて著述に専念するようになるのは六十五歳をすぎてから。八十一歳で死ぬ(一九八三)まで、本を書きつづけ主要な著作は 十一冊をかぞえる。うち六冊は日本でも邦訳が出たが、現在も入手可能なものは一冊しかない。これほど数奇な人生があろうかと 思わせるほど波乱に富んでいるが、これ以上に面白いのが、彼がいろんなところで出会った、数々の特異な社会的不適応者たちの語る 自分の人生である。この自伝には、そのような忘れがたい人々との忘れがたい出会いがつまっている。その一つ一つが、 まるで短篇小説以上の仕上がりになっている。こういった出会いのすべてが彼の哲学的思索のナマの素材になっているのである。 (以下、字数制限野関係でカット 09年8月23日) −つづく ・・・・・・・・・・ 2006年08月23日(水) 1968.事業百訓・・・? −1991・1992年(6) H0301新年を迎えて!! (字数の関係でカット 08年8月23日) ーH0307事業百訓 ー 今より20年前、人間には周期(波動)があるのではないかと気がついた。 九年が一周期で前半が陰・後半が陽である。 (マイナス3才〜5才) (6才〜14才) (15才〜23才) (24〜32) (33〜41) (42〜50才)(51〜59)(60〜68才)(69〜77)……。 そして周期の変わり目が厄年となり 人にとって非常に危険・不安定の年となる。これは決して人の論理の借物ではなく 私自身の周期であるが、昔より数え年で24・33・42才と厄年と丁度一致する。中高年の当社の応募の人の履歴書をみていると、 大体厄年をきっかけに何か失敗しているケースを見うける。厄年は、丁度肉体的に精神的にも節目の年ではないかと考えられる。 現在の私は今年までが陰で来年が転換の年となり1993年より陽転になっていく。偶然の一致か事業計画も丁度それにあわせて立ててある。 過去を振り返ってみると全て陰陽はかったように明確になっており、一年の狂いもない。少し運命論的な書き方になったがそうではなく、 いかにその“節目”をみつけ“運”という波動(勢い)に乗るかである。“陰”の時は“陽”の為の内的エネルギーの充実をはかる時になる。 これを書いていてマイナス3才(生まれる前の3年)とは、どういう意味なのか非常に興味がわいてきた。 私の兄が三才年上という年まわりに関係あるのだろうか? それとも…… ーH0309事業百訓ー (字数の関係でカット08年08月23日) ーH0311事業百訓ー 最近私が造った言葉で“夜明けのリゾート・タイム”がある。(江藤淳の“夜明けの紅茶”をもじったものだが) ・早朝(4時半〜5時半)起床 ・近くの土手を一時間散歩 ・テレビ体操 ・瞑想 ・家族全員のお祈り・食事と続く。 特に散歩がよい。山の彼方をみながら複式呼吸をして歩く。季節ごとの草花や鳥をみながら川のせせらぎを聞き、 時々に般若心経をとなえる。この散歩に全てが含まれても過言ではないという“気”にもなる。これを実施して4年、 副産物として夜に出あるく事と、酒量が激減した事だ。健康食品を口にする事も加えて七kgも体重が減った。 時々不節制が続くと散歩していると身体がだるく重くなるのがはっきり判る。 また朝の風呂も非常によい。当初は疲れが残ったがなれると気分爽快になる。 早朝型のきっかけは松下電器の山下俊彦元社長の講演を聞き感激して、自ら挑戦してみた事だ。 彼は登山がライフ・ワークであり、その訓練も含め毎朝3時半起床。 1時間半10km歩くという。 そして読書とシャワーをあびるとの事。夜は定時がくるとすぐ帰宅。夜のつきあいは一切断っている。 これが逆に考える時間と、心の余裕をつくったのでないか。山下跳び(飛躍的出世)の秘密もこれがポイントではないか。 ーーーーーーーー 事業百訓ー1992年(11) H0401新年を迎えて!! (字数の関係でカット) ーH0405事業百訓ー (字数制限のため中間カット2010年08月23日) ーH0407事業百訓ー 395 ~402,字数の関係でカット ーH0407高野山へ旅してー 十年前より行きたいと願っていた高野山へ二泊三日の旅(ドライブ)をしてきた。 初日は比叡山の延暦寺へ寄り、“根本中堂”へ、二度目だがその荘厳さに圧倒された。 また新しくできた国宝堂の国宝・重要文化財の仏像・仏画等も延暦寺ならではのものであった。 翌日の高野山、特に“奥の院”への老杉に囲まれた参道は神秘的で左右の墓石群に千年の歴史の深さを感じた。 何げなくみた墓が上杉謙信、明智光秀、浅野内匠・伊達政宗・前田利長・豊臣秀吉等の墓であった。 三十人位の白装束の集団がすわりこみ“般若心経”を、あげていたのが武田信玄の墓であった。 県内では村上藩、長岡藩、新発田藩などがあった。他にも代々の天皇家の墓や松下(電器)家の墓等も印象的であった。 この終点にある灯竜堂も灯竜の灯火が天井等に無数にならび、形容しがたい感動的なものである。 その奥にある弘法大師の御廟所も信者がそれぞれ“お経”をあげており、奥の院そのものという感じであった。 秀吉が母の菩提を弔うために建てた金剛峯寺も剛荘な構えで、“柳の間”(関白秀次が切腹させられた間) がそれとは知らず、突然目の前に歴史を見せつけられたようであった。 高野山へ登る途中の林海の深さに感動、千百年も前によくぞこの場所をみつけたものと不思議であった。 ーH0407城下街小唄 ー 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。 (字数制限のためカット 2011年8月23日) ーH0407霊的体験ー 二十年近く前になるが、父の死後四九日の終わるまで何度か不思議な体験をしてみた。死後一週間後位か妙な夢をみた。 私自身父の気持になり“死にたくない。もっと生きたい、生きたい”という“念”になってしまった夢である。 そして夢よりさめた時の妙な気持。私自身父になってしまった。いや私自身(父自身)生きている!という妙な不思議な感覚である。 夢の“念”は父そのものであるし、父と一年身近で苦しんだ為に“念”が実感できたのだと思う。 それが夢よりさめた自分の魂が“父の魂”と一緒になった!という不思議な実感。経験した人間ではないとわからないはずだ。 また死後二〜三日後の夢も強烈な夢であった。何か強烈な恐怖感がおそってきた。その時、父のベットで寝ていたが“おやじ助けて!” と言ってしまった。と同時に廊下の向こうにある仏間より本当に強烈な“引力”が足をひっぱった。そのひきずりこまれた瞬間 ベットにしがみついたが、その時隣に寝ていた母がスクッと立ちあがりトイレに行った。全身汗びっしょりであった。 まだまだ不思議な事がいっぱいある…。あれ以来最近は少なくなったが幽体離脱とか、妙な霊的体験が多くなった。 ーH0407禁断の秘密 ー 「近年の分子レベルの系統進化学は、神学者や哲学者によって数千年守られ続けてきた禁断の秘密を一気に暴露してしまった。 DNA(遺伝子)の構造上の相違量を測ると、ヒトと二種のチンパンジーは1.6%であり、一方我々に近縁なもう一つの類人猿ゴリラは、 人とも二種のチンパンジーとも2.3%異なっていた。この結果はゴリラがチンパンジーと人類が分枝する少し前にわれわれより分枝した。 となるとチンパンジーにとって最も近縁な動物はゴリラではなくヒトであり、チンパンジーは実は“チンパン人”だった。 ……せいぜい六万年前まで「単なる大型ほ乳類の一種あるいは、ちょっと変わったチンパンジーにすぎなかった。」 “7/14読売新聞” 東大、動物行動学 助教授・長谷川寿一 霊長類ヒト科ヒト属ヒト、これが我々の今までの分類上信じられており、人類だけが高み立って勝手に分類していた事になる。 ヒトも含めた三種のチンパンジーの一種でしかなかった。 本当に刺激的“禁断の秘密”
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