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2011年04月28日(木)
「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著) 孤独については、これまで何度も書いてきた。結局、人間は独りでは生きられないのである。 しかし孤独は、世間とかいうのがある限り必要である。私の出身校の「長岡高校」の校是が「和同」の精神である。 和して同ぜず。 和せ、同じになるな!である。これは、それぞれが孤独を守る中から生じてくる。 ここで孤独について、ニーチェの体験を指摘している。 孤独の素晴らしさを「私の故郷」の良さに譬えているのは言いえて妙。 ーまずは、その部分をー 【 ー孤独の大切さー ニーチェはかつて、孤独を「私の故郷」と呼んで、その至福にみちた優しさを讃えた。 孤独が終わるところ、そこに「市場」が始まり、世間の大人物や大俳優たちの騒々しさが耳を圧し、毒をもった蝿たちの うなりが聞こえ、小人物たちの刺が私たちを突き刺す。そうした騒がしい市場を離れ、海辺に出て、高い品位をもって沈黙し、 岩陰にそびえ立つ大きな樹木を見よう、とニーチェは誘う。その樹木のように、静かに耳を澄ましながら、存在の声を聞こう、 とニーチェは促す。そのとき、ニーチェは、「孤独」の素晴らしさを、「私の故郷」と呼んで、その声が、なんと優しく、 また至福にみちて、自分に語りかけてくるか、ということを打ち明ける。ニーチェは、そのとき、あらゆる「存在」が、 「言葉」となって自分に開かれてくると言い、存在の内奥の秘密を宿した言葉の小箱が、一気に開かれ、ありとあらゆる生々流転が、 その秘儀を語り始めようととするかのようだ。 このニーチェの体験は、すべての人間の体験だと言ってよい。 言い換えれば、孤独とは、そこで私たちが本当の自分を取り戻し、改めて純粋に、自分自身と世界の人間のすべてを見直し、 存在の真相に触れ直す瞬間なのである。実際、私たちは、物事のほんとうの姿が何であるのかをよく熟慮しようとするときには、 世間や俗事の雑音を一旦は遮断しなければならないことをよく心得ている。たとえば、他の人々と大勢で、がやがやわいわい騒いで いるときには、私たちは、ほんとうに自分らしく純粋に物事を見直し、考え直し、正しく事態を把握する余裕や冷静さを 持つことができない。 人間は、それほどまでに非力なのである。 】 ▼ 世間や俗事の雑音を一旦、遮断するため孤独になるために、古典などの世界に浸ることが最も手短である。 それか、一度自分の住んでいるところから外に出て、純粋に物事を考え直し、冷静さを保つことが必要である。 宇宙の塵でしかない己を自覚すること、しかし、その塵の素晴らしい存在である一度だけの人生を自覚するためにも。 ・・・・・・・ 2010年04月28日(水) 『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康著 −2 * 理性は絶対を求め、「理念」を生みだす 学生時代の問い「理念の意味は何か?そして、その理の意味は?」が、40年以上経った現在、その答えを見つけたのである。 何か微妙な感覚である。 理念が理性の「何故?何故?」を徹底した問いの極限というから、眼から鱗である。 ーまずは、その部分を抜粋して考えてみる P−24 ≪ 理性的とは、「なぜ?ーなぜならば」という仕方で物事に筋道をつける能力である。それも、どこまでも道筋をつける能力である。 というのは、「何故?ーなぜならば」の関係は原則的に一組でほ終わらないからである。一つの「なぜ?.」にいったん「なぜならば」 と答えても、その答えに対して再び「なぜ?」と問いうるし、そのまた「なぜ?」へとさかのぼりうる。 理由のそのまた理由……、 原因のそのまた原因……、という具合にである。そのようにして、「どこまでも」ということは、「徹底的に」という意味になる。 そして「徹底的に」ということは、究極に迫るということ、すなわち、最後には「極限」にいたるということである。 それは、理性が推理の能力であるということと表裏一体である。 ある物事(結果)の理由や原因には、そのまた理由や原因がある。 すなわち、いったん「なぜ? なぜならば」の推理が開始されるや、その鎖は原理的にどこまでもさかのぼる。ということは、 理性は原因のそのまた原因、そのまた原因のさらにそのまた原因、等々の果てに、必然的に究極原因を求めざるをえなくなる。 要するに、理性は極限に迫らざるをえないのである。 いわゆる「理を通す」とは、そういうことである。・・・・ ・・(中略) 冷めた言い方をすれば、理念は理性固有の本性や関心から理性自身によって生みだされ、現実社会に合理的な脈絡を つけるために、現実社会のかなたに「投影」された像に他ならない。 それは現実社会を合理的に読みとくためには、 はなはだ有効であり、それどころか不可欠でさえある。 ところが、ひとたび投影され現実世界と融合した像は、いつしか 現実世界の一部はおろか、その全体として実在するかのように、うっかりと思われてしまう。 ちょうど、熱心な観客が映画の スクリーンの中に、あたかも実在の世界があるように思い込んで、感動したり憤慨したりするように。 このように、 理念は「功」と「罪」の両面性を持っている。 この両刀論法、すなわちパラドックスの原因とオーバーラップする。 この理性の両面性事態がまさしくパラドックスである。 このパラドックスこそ、アンチノミー(二律背反)に他ならない。 その理性が意志をコントロールし、決定をする。 ≫ ー以上だが、我が社の理念とか、私の理念とかで、使うが、まずは理性から考えていかなければならない。 そうすると、やはり何故、自分は目指すのか、そして、何を目指すのか、その根拠(理性=理由)を明確にし、 それを突き詰めたのが会社理念となっていく。 それが個人としての私の行動指標なら、その根拠の明示が必要になる。 ・・・・・・・・・ 2945,タレント知事をどうみるか? ー1 2009年04月28日(火) 最近、一時なりを潜めていたタレント知事がマスコミで注目を浴びている。青島幸男、横山ノックなどで選挙民は、 その正体を見てあきれ果てたはずだったが、再び田中康夫、東国原、大阪の橋元知事、直近では森田健作が千葉県知事になった。 田中にしろ、橋元、東国原知事も、現在見るところ、最大限にタレントの経験を生かしているようだ。 産経新聞のオピニオンというコーナーで、その功罪を浅野志郎と佐高信が論じていた。浅野は、タレント議員を肯定する立場で、 佐高は否定する立場である。 まず浅野は「知名度で圧倒的有利なのは言うまでもない。外に対する発言力に長けている。 マスコミに面白がられて目立つことも悪くない。また政治的未経験について、「ほとんどの知事は政治未経験者だ。 これは決してマイナスでなく、むしろメリット。僕は国家公務員を23年7カ月間務めたので、知事になったとき行政については お手のものだったが、大きな改革や新しい発想をするときにはマイナスになる。『センス・オブ・ワンダー』、 つまり驚きを感じる心が必要だ。東国原知事や橋下知事は県(府)庁に入って驚きの連続だったと思う。 驚きによって新しい発想や改革案が出てくるのだ。センス・オブ・ワンダーの反対を『もんだの人々』と私は呼んでいる。 『役所とはそういうもんだ』『政治とはこういうもんだ』という訳知りで来た人は危機意識やワンダー(驚き)がないため、 いつまでも悪習が残ったままになる。タレント知事というのは驚きを感じる立場にある。あとはその驚きをどう使うかだ」 有権者の心理をどう見るかについて、 有権者のタレントを選ぶ心理として「政党や組織という既存の権威に対する アレルギーの反映ではないか。ただ、だれが知事になっても同じなら面白い方がいいという考えは非常に危険だ。 (字数制限のためカット2011年4月28日) ・・・・・・・・ 2581, 連鎖する大暴落 -3 2008年04月28日(月) 才ノヽ∋?_φ(゚▽゚*)♪ この本の「まえがき」に「アメリカがいよいよ暴落する。・・・少しだけアメリカから離れましょう。 自分の財産を守りたかったら、ここで『損切り』を敢行すべきである。 (字数制限のためカット2011年4月28日) ・・・・・・・・ 2007年04月28日(土) 2216, 中村うさぎ 才八∋ウ_〆(∀`●) 「女殺し借金地獄」 ー読書日記 書き写しながら、何でこんな文章を自分が?時間を潰していて、果たしてよいのだろうか? と自責の念にかられる内容である。男には、こういう文章はかけない?ものである。 アル中の、買い物依存症の、バカ女が、それを売りに捨身で文章にして、生計をたてているだけの本でしかない。 それもブランド買いの世にも哀れな気の毒な底の浅さを売りに!その哀れな女のサガが共感を得るのだろうが・・。 一番嫌いの、そのバカさの露悪が、逆に面白いから取り上げている。しかし、考えてみれば現象を変えてみれば 自分の姿でもある。お水の世界には、こういう人は意外と少ない。虚飾を見抜いているからだろう? それとも、実は虚飾人間の吹き溜まりで、高い店に行かないだけか!? ーとっておきの場面を抜粋してみるー P-177 その夜、私は、何人かの友人と、一気飲みのゲームをしていた。何回か負けた後、「これはヤバイ」と気がついた。 これ以上飲むと、私ははいてしまう。これ以上飲めないと宣告すると、友人たちは、苛酷な罰を私に課したのである。 「飲めないのなら、代わりに、ケツの穴を見せてもらおう」吐くより、ケツの穴を見せるのは、 ただ一瞬の恥で済むのではないか。痛くもなければ、体調をくづすわけもない。そうせ、こいつら酔っ払いだ。 私がケツの穴を見せた事など、一晩たてば、すっかり忘れるにちがいない。 (字数の関係でカット2,008年04月28日) ゲッ!!ε=(@.@;) ーー これ、書き写していて「バカじゃないかい! 書くほうも書くほうだが、書き写している私はもっとバカか!」と、 不気味な気持ちであった。でも、これほど酷くないとしても、バカ騒ぎをしているのだろう、酔っ払いは。ヘ(゚◇み)ノ~ ところで、自分は如何だったのだろうか? まあ、忘れてしまった! 都合の悪いことは、どういうわけか忘れてしまう。 (・_・) ノ ホンジャ~ ・・・・・・・・ 2006年04月28日(金) 1851, ローマから日本が見える?7 才ノヽ∋?_φ(≧ω≦*)♪ ー読書日記 1千年以上にわたって広域の多民族を支配し続けたシステムの根幹とは、驚くほどの合理的、かつシンプルで、 それぞれの民族にとってもプラスでなければならない。そこは突き詰めた組織の経験則の宝庫のはず。 その秘密が、『組織のローマ』の中で解明されている。時間をかけて写すだけの価値は充分にあった。 過去より現在の方が果たして進歩しているのだろうか? 宗教は人間にとってプラスだったのだろうか? それは神のみぞ知る?である。著者はローマ帝国史を読んでいる時には、自分が皇帝になったつもりで 読むと良いといっているが・・・ しばし、皇帝になるのも良いものだ! ーーー 第4章 『組織のローマ』、ここにあり 前章で述べた「リキニウス法」で、100年にわたる貴族と平民の対立は解消へと向かう。 この決断が、驚くべき決断であり、どの社会でも起こりえる階級対立は『取りこみ方式』で解消しようと したのはローマのみであった。その選択が結果として正しかったのは、その後のローマ史が明らかにしています。 僅か100年前にケルト人によって、あわや滅ぼされそうになった民族がイタリアの覇者になれたのは、 貴族と平民の融和政策であった。平民の中から優れた人材を集めて、その人材を元老院を中心とした 統治体制の中で活用していくやり方を、今日の表現に変えると、「組織力」という一語に集約される。 ー二つのネットワークー 歴史家リヴィウスをして『アレクサンダーをも退けたに違いない』といわせたローマの組織力は何も、共和制度だけに 負っていたわけではない。リキニウス法以後のローマには、同時代の他の国の持ってない二つの大きな武器がありました。 ・一つは、モノや人を動かす上でのネットワークとしての道路網。 ・もう一つは、ローマを中心とする、国家間のネットワークとしての「ローマ連合」。 この二つのネットワークの力で、ローマはイタリア半島の覇者になり、その後には地中海の覇者になるのです。 実はこの二つが同じコインの裏と表になるのです。別の言い方をするならば、 ・道路網がハードウェアなら、 ・「ローマ連合」がソフトウェアであった。 歴史家プルタルコスは、ローマが他を圧して大きくなった理由として次の一言に要約しました。 「敗者さえも自分達に同化させる彼らのやり方ぐらい、ローマを強大化に寄与したことはない」 この美徳はロムルスの時代にすでにサビーニ族との同化において現われていたが、それが王政から共和制に 移行した後も変わることがなかった。 ー次回は、その「ローマ連合」の内容である」 ? つづく o(▽^*)ノ~~=バイ?バイ♪ 皇帝諸君! ・・・・・・・・ 2005年04月28日(木) 1486, 男と女 男と女を語らせるなら、「オカマ」が面白い。その話が面白くて一時オカマバーにかよったもの。 あからさまな女の本音を聞かせてもらえたり、突如、男に変身?する身の変わり方が絶妙である。 最近になって書店で、特に目につのが美輪明宏である。なるほど読んでいて鋭いが、あくまでも男女間の機微だけで、 人間の本質に関しては深くはない。これもオカマの宿命で仕方がないのだろうが。近くの図書館から借りてきた本で、 現在売れっ子の美輪明宏と斉藤隆の対談集の「人生賛歌」ー大和書房ーがよい。特に「第四章のセクシュアルに生きる」 ー弱い女と強い男は見たことがないー美輪明宏の言葉がなかなか男女の本質の差を言い当てている。 ーその一部を抜粋してみるー 長い間、男女を見てきて思うのは、女はものの考え方がとても大人なんですよ、老獪なんです。 ところが視点が「浅いところ」をみている。男の考え方はとても幼稚で子供っぽい、稚拙なんです。 ところが実は「深いところ」を見ている場合があるんです。そこが女と男の本質的な違いがあります。 女は生まれながらにして、大年増、「オバタリアン」なんです。 小学校の6年生の男女を比べると、 一年と六年生位の差があります。 はるか年上の先生を好きになったり、性的に迫ったり、悪知恵を働かせます。 最近私がよく言うのは「弱い女と強い男は見たことがない」ということです。 中小企業の社長で死ぬのは男だけ、女は絶対に死にません。社会通念では「女がロマンチスト」で「男は現実的」 と考えられているが、これはあべこべなんです。ちょっとした叙情的な要素はあるが、女は現実そのもの。 私は男性がロマンチストで女が現実的というのは、それが必要だから、神様がそのようにつくったのだと思います。 男が雄雄しく、女は繊細でつつましく、やさしくあれというのは、実はそうでなかったからそう言われていたわけなんです。 女が現実的で、男はロマンチストだから、女に天才が少なくて男に天才が多いんです。男は仕事のほうでは驚くくらい老獪でしたたか、 抜け目がなくて油断ならないところをもっている。しかし、私生活になったら、迷子になるぐらい方向音痴だったり、 世の中の常識を知らなかったり、ストンと大きなところが抜けています。そのギャップが天才の資質なんです。 ・・子供っぽさと深いところを見ている大人のところの落差が、天才の条件なんです。 ーーー 姉が上に4人もいたことと、女性の職場にいたため、この程度の男女の違いの内容は常識で初歩的でしかないのは解るが、 しかしオカマが言うから面白い。何で時間をかけて書き写したかといえば、ズバリ解りやすく表現しているからだ。 女は男よりシビアで現実的なのは生理があり、一つ間違えば妊娠してしまう立場にあるからだ。 雄犬と雌犬の差である。雄犬は本能に任せておけばよいが・・女性も見ているので、この辺で止めておいたほうがよい。 ・・・・・・・・・・ 2004年04月28日(水) 1121, 平均寿命100歳! 新聞を読んでいたら、「今世紀後半に平均寿命が100歳になるとなるかもしれない」とあった。 ーその概要を書いてみるとー 線虫をモデルに、老化にかかわっている遺伝子「クロック1」を傷をつけると1・5倍に延びるという。 同じような遺伝子は人間にも見つかっており、「人も遺伝子の操作で最大1・5倍の延ばすことも 不可能でないはず」という。人間の寿命が120歳が定説になっているので、単純に当てはめれば180歳まで延ばすことが 可能でないかということになる。「老化は体内の神経系、免疫系のバランスが崩れ、体全体の機能が低下すること」である。 この研究を進めることによって、老化そのものを遅らせることも可能になる。脳が重いほど最大寿命量が長いともいう。 その意味からみても人間はより長生きができる可能性を持っているといえる。 ー以上であるが、 新聞の死亡欄を毎日見ているが、90歳を越えた人が多いのに驚かされる。100歳の平均寿命の可能性は、 一昔前までは考えられなかったことだ。長生きは、元気であるかぎりしたいものだが、100歳まで生きたいとは思わない。 (字数制限のためカット2010年4月28日) ・・・・・・・ 2003年04月28日(月) 754, サエゼリアで思うこと サエゼリアのことは、よく事例として書くが更に書く。先日の新聞でスパゲッテーを何割か値下げを発表した。 290円ラインのスパゲッテの新商品も新たに加えていた。少し工夫すれば夕食を二人で千円で済むことになる。 ドリアにスパゲッテーにミニサラダにグラスワインで千円である。 さすがである。 イタ飯は、一つのサラを2~3人で食べるのが中華料理と同じだ。前菜を入れて三品を食べたことになる。 ー以下の文章は数ヶ月前に書いてそのままペンデングしておいた内容である。 (字数制限のためカット2010年4月28日) ・・・・・・・ 2002年04月28日(日) 390, 因縁と果報 因は直接原因、縁は間接原因。 果は直接結果、報は間接結果。 嫁を求めている男が、ある知人の家に遊びにいて、 妹を見初め結婚をした。因が嫁を求めていたである。縁がタマタマ遊びに行ったーこれが間接原因である。 果は妹と結婚したである。報は知人と嫁本人が納得して応じたである。よい果報を得る為には、よい因と縁をなくてはならない。 特に因が大事だ。その因に縁がついてくるからだ。その中に感謝する気持ちがある。感謝をすれば、感謝をするような事が どんどん集まってくる。これは意外と難しい事だ。 感謝は言葉を変えれば、ありがたいことに気づく事だ。 特に商売をしていると、客様のありがたさを見落とす事が多い。顧客第一主義といいながら、そのことを忘れてしまう。 準備は「因」づくりそのものである。準備は誰でもやれる魔法である。解っていながら?それをおろそかにする。 そして「果」のみを追う。事業でも、旅でも、人生でも全てそうだ。教養とは生きていくための基礎知識だ。 永年かけて積み重ねていくものだ。ところで基礎教養が自分にはあるのだろうか? 過去にその準備をしてきたのだろうか?ただその問いかけは常にしてきたつもりだが。
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