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2010年12月14日(火)
先週の土曜日に頼まれたミニ講演(レクチャー)のレジメである。 地元では教養人?で通っている人たちの前で話すからには、通り一遍等の内容では何も残らない。 意外と渦中で殆どの人が気づかない、ネット社会到来の意味=価値を中心にすれば酒の肴にとレジメを作った。 ■ 結論からー現在の世界恐慌?は ・20万前に人類が道具を使用を始めて以来の革命的道具=ネット、デジタルと、 ・200万年に人類が言葉を使い出して以来の情報手段の革命的ツールがもたらした、現象の一つでしかない。 このネット社会の当来は、人類にとって大変革をもたらす。ところが、識者の多くは、そのことを、あまり語らない。 裸の王様ではないが、誰が声高に言うかどうかである。 1、時代は、どのようになっているか ・現在はネットデジタルがもたらしている、200万年、20万年、1万年に一度の人類にとっての革命期 ・この恐慌は経済的に見て、500年、250年、100年に一度の大変動の序曲 これも情報化社会の到来の一現象。 ネット化、デジタル機器の飛躍的進歩などによる電脳化は、 人類が言語を持って脳の進化を始めて以来の革命的出来事。 ・宇宙からの視点で、地球外から逆照射した理論が注目されてきた。 環境破壊の問題も含め 2、HPとブログに没頭した10年 毎日、一テーマの文章作成の義務づけ そこで得たことは 起承転結脳、物語化の習慣づけ 論理脳 3、哲学が面白い この10年間、初心者向けの哲学書に徹して読んできた。特にカントに焦点を合わせて・・ 哲学はギリシャ哲学から始まりカントに納まり、そのカントから流れ出て現在に至っている。 4、秘境・異郷旅行について 47回の旅行からえたもの アフリカ、南米、etc 〜〜 何か気楽に引き受けたが、軽すぎるのも、重いのも何である。地元では一応、識者?で通っている人前で何を?と。 そこで、「このネット社会の到来は、実は20万、200万年に一度の大発明で、人類にとって大断層を起こすほどになる」 という内容にすることにした。聞いている方は、何かキョトンとしていたようだ。梅田望夫ではないが、この10年間で、 現実社会の他にネット社会が、いま一つ出来てしまった。そして、それが現実社会の上に覆うようになった。 これが尖閣列島のビデオ漏洩問題とか、アメリカ政府の秘密漏洩事件につながる。抑えようがないのが現実である。 ・・・・・・・ 3175,学習性無力感 2009年12月14日(月) [私はいつも仕事でミスばかりしている」[自分が就職する企業は、何処も良くない」「どうせ自分は何をしてもダメだ」 「旅行に出ると、嫌のことばかりつづく」「女性には持てたことがない」「あ〜あ、面白くない」とマイナーなことばかり 目に捉われる人がいる。そういう心理傾向を[抑うつ的自己意識スタイル」という。悲観主義者である。誰も失敗したり、 何をしても駄目な時期がある。そして自己嫌悪に陥り、欝症になり、それが重くなると、鬱病になる。 そして、マイナーな言葉により、何もヤル気がなくなる。それを[学習性無力感」の法則という。 その底から、這い上がる過程で自分を作り、そこで力がつく。 アメリカの心理学者の実験がある。 ≪ 第一のグループには騒音を止めることが可能で、第二のグループにはコントロール不可能な状況に置き、その後、 全員を騒音を止めることが可能な状況に置いたところ、第一のグループは簡単に騒音を止めることができたが、第二のグループは、 「学習性無力感」が働いたのか、誰も騒音を止めようとせず、その状況に耐え続けることしか出来なかったというのである。≫ 一番の問題は≪どうせ自分なんか≫という考えが習慣になると、ろくなことがないということ。 これに対して、成功体験が人間をプラスを重複して導き出すのである。これが世の中に出回っている「成功本」の共通点。 この「学習性無力感」をもじれば、「学習性達成感」ということになる。大相撲やプロ野球で、優勝回数の多い力士や選手は、 ますますヤル気が出て練習に熱が入る。 優勝というゴールセッテングが体験でハッキリイメージできるからである。 逆に、失敗時のイメージを持つと、負け犬になってしまう。 「学習性無力感」が付いているのである。 恐ろしいのは、この20年近く日本は、バブルの崩壊以来、どうも学習性無力感が国に、ついてしまったことだ。 現在の若者の間で、「一度で良いから景気の良い社会を経験してみたい」という願望があるという。 景気がよく、努力をすれば報われる実例が周りにあれば、自分も!と啓発されるのだろうが・・・ ・・・・・・・・ 2810, 禁断の市場 2008年12月14日(日) 「禁断の市場 ーフラクタルでみるリスクとリターン」 ベノワ・B・マンデルブロ (著) この本の「内容紹介」と『禁断の金融10ヵ条」が、簡潔に纏めてある概要である。 それぞれのページは、あまりに難しいので、この部分をジックリと理解することで良しとした。 これもフラクタル理論の応用? ー内容紹介ー 「フラクタル」という言葉、あるいは本書の著者である「マンデルブロ」については、どこかで聞き覚えがあると思います。 フラクタルとは、全体を一定の割合で縮小すると部分が再現できることを指します(部分と全体の自己相似)。 1970年代にマンデルブロにより命名され体系化された概念です(本書167頁)。自然現象との幅広い関わりが研究され、 統計物理学、宇宙論、気象学、水文学、地形学、解剖学、分類学、神経学、言語学、情報技術、コンピュータグラフィックス などの分野にさまざまな影響を及ぼしています。 インターネットで「フラクタル」あるいは「マンデルブロ集合」を 検索していただければ、どこかで見たような図を多数見ることができます。雲や山脈などの風景を描いた、「写真」のような 図もありますが、コンピュータが計算して描いたグラフィックスです(本書196、324頁)。 マンデルブロ以前には、自然の世界において「雲は丸くないし、山は円錐ではないし、海岸線は滑らかではない」ことを 数学的に説明することは不可能でした。それを明らかにしたのが、1982年に刊行された『フラクタル幾何学』(翻訳は1985年)です。 その功績は「私たちが自然を見る目を変えてくれた」と称えられ、1993年には物理学の世界で権威あるウォルフ賞を受賞している。 また2003年には日本国際賞を受賞しています。 本書は、その考え方を金融市場に応用したものです。 マンデルブロにとっては、1960年代から続けてきた研究ですが、一般書の形で発表されるのは本書が初めてです。 マンデルブロの研究は、所得の分布と綿花価格の変位の分布、乱流状態にある流体エネルギー散逸量の変動と金融市場における ボラティリティの変動の類似性など、グラフを見比べて「似ている」と感じた直感に基づいて研究が発展したそうです。 本書では、「自然現象のフラクタルと経済現象のフラクタル」は同一のものであり、このフラクタル幾何学を金融市場に 適用することによって「ランダムウォーク理論からは予想できないバブルの発生と崩壊」が理解できるようになるという マンデルブロの考え方が示されています。金融工学の基礎となっているのは、コインを投げて、表が出たら相場が上がり、 裏が出たら下がるという最も単純な「マイルド型」のランダムさの変動をモデル化した概念です。実際の市場は理不尽な動きをする 「ワイルド型」のランダムさに基づいて動いている。市場の動きを説明しモデル化できるのは「洪水」や「大気の乱流」などを 説明できる「マルチフラクタル・モデル」であるとマンデルブロは主張します。 2008年1月のダボス会議でライス国務長官は、 サブプライムに揺れる世界経済について「われわれは今、タービュランス(乱気流)のなかにいる」と発言し、話題になりました。 ーーー それにしては、内容が難しい。そこで、一番の要点の12章の「禁断の金融10ヶ条」から、「サブプラム・ローン入りの債権」 で大損をした無数の人を対象に、これを当てはめると、この意味が解るから面白い。 私も証券会社の人を近づけていたら、 毒入り債権を買っていた可能性があるからだ。「だろう」と、結果としての「〜になった」は、違うのである。 *禁断の金融10ヶ条 *市場価格とは乱高下するものである。 *市場とは、きわめてリスクの高いものである ー既存の金融理論ではけっして起こるはずのないリスクが現実に起こる *市場のタイミングはきわめて重要である。 巨額の利益と損失は短期間に集中して起こる *価格はしばし不連続にジャンプする。そして、それがリスクを高くする。 *市場での時間は、人によって進み方が違う *いつでもどこでも市場は同じように振る舞う *市場は本来不確実であり、バブルは避けることがでぎない *市場は人をだます *脳の予想は無理と思え。しかし、ボラティリティなら予測可能だ (*価格変動率) *市場における価値は限定された価値である −−− 何か大損をしたと想定して、これを読むと、一言一言が実感として解る。 間違っても、証券会社の言いなりになってはならないということである。 ・・・・・・・・・ 2007年12月14日(金) 2445, ルサンチマン (Оゝ∀・О)。+゜+。ォハョォ☆ 初め、ルサンチンマンという言葉をニーチェを読んで知った時に、その鋭い指摘に驚かされてしまった。 弱者の怨念を宗教の巧妙な手口で利用したのがキリスト教の基本か?と。 昨年の9月の読書日記に一部書いたが、更に掘り下げて考えてみる。 *まずルサンチンマンを ーGoo辞書ーで調べてみた。{ もともと恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態を いう言葉だが、ニーチェはこれを弱い者への思いやりや自己犠牲を説く平等主義的な道徳の起源を説明するために用いた。 彼によればキリスト教道徳や,そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は, 弱者の強者に対する恨みや復讐心を道徳として表した奴隷の道徳なのである。 この延長上にある社会主義の思想も,このような奴隷道徳の一部に他ならないと考えられる。 ニーチェはこれに対して強者の道徳,貴族的な誇りや勇気を讃える戦士の道徳, 君主の道徳を対置した(ニーチェ『道徳の系譜』)。これは結局ファシズムによって利用される結果にもなった。} ーー あるブログの中では、 {ニーチェは、人が「善悪」という言い方をする真の原因は現実世界の力関係にあると言う。 強大な民族が平和に暮らしていた弱小民族を襲い、征服したとしよう。勝者は敗者の財宝や婦女を奪い去っていく。 残された人々は、相手に害も及ぼしていない自分たちを襲い、悲惨な目に会わせた相手を悪の権化として呪うだろう。 それに比べ、罪なき自分たちは善である。「善悪」はこうして、カでは相手にかなわない弱者がせめて「道徳的」には 優位に立って、相手を見下そうとする心理、「妬み(ルサンチマン)」から発生する。 同じことは「正義」「節制」「勤勉」「清貧」などあらゆる道徳的価値に言える。 肉食獣に襲われた草食獣が円陣を組んで抵抗するように、弱者が強者から身を守ろうとする蓄群本能」から生まれたのが、 ローマ帝国の奴隷にまず普及した「奴隷道徳」としてのキリスト教である。}とあった。 ーーーーーーー 以上を、更に噛み砕くと・・・ たとえば、善を高貴で富んだ者とすると、 悪は、その反対の、野卑で貧困で弱い人になる。 しかし一方で、この価値判断に対立する考えがある。「貧困で弱い者は善である」という考え方である。 これをルサンチンマン=怨念と考えた。 カントは、キリスト教の教義「神は貧しき者の味方なり」 「貧しき者は幸いなり」など、キリストの名を借りて、貧しいものが善で、富める者は悪であるという 概念をつくり上げた功罪を厳しく批判した。弱者を正義に祭り上げようとした宗教は、もう必要はないと、 「神は死んだ」と主張。 まだまだキリスト教の教義にガンジガラメの当時の社会を変革しようとした。 キリスト教も、ユダヤ教が対象としなかった女や病人などの弱者の立場を擁護する教え。 そこにニーチェは、弱者善人、強者悪人という怨念の縛りを感じとったのである。 大部分の弱者である一般の人にとって、宗教は必要になる。 しかし、他の国や民族から、自国や民族を守るには 強者の支配も必要なこと。 その結果として、左手に聖書(正義)、右手に剣が必要になる。ヽ(゚∀゚)ノ バイバイ! ・・・・・・・・・ 2006年12月14日(木) 2081, あたりまえのことばかり −20 才八∋ウ_〆(∀`●) ここでは哲学という視点で、心の問題を取り上げているが、感情について、なかなか切れ味は鋭い。 「激しい感情が、向こうからの訪れる」とは、なるほど!である。 向こう側とは何処なのか? 学生時代に[情念の話術]という本を読んで、実際に自分で試したことがあった。 喜怒哀楽を前面に出して、自分を押し出して、話しをする。車でいうと、感情というエンジンを前輪駆動にする。 これをやりだすと、それまでと全く違った自分を見出せる。 抑えている感情を逆に、エンジン代わりに言葉にのせて自分を奮い立たせる。 これは性格改造にもなるが半面、非常に危険である。一つ間違うと、周囲を深く傷つけてしまう。 これはヒットラーが大衆を煽動する手段として演説などに使った。よほど計算を緻密にしておかないと、 自分が見えなくなる。しかし自分の感情を常に支配下に置くに、よい訓練になった。 感情を道具にするのだから。傷つくということは、感情に支配さえていることだから! ー傷を癒すには傷とは何か、傷つく感情とは何かを、考えてみなければなるまい。 虚構の自我に捕らわれている自分に気づいていない無知が、勝手に傷ついているだけ。 要点を抜粋してみる。 ーーーーーーーーーーー どうすれば癒されるのか −? ーーーーーーーーーーー 私が私であり、私の心が私の身体の中に存在するという錯誤の世界像を思い込んでいる人だけが、各種のグッズや セラピーによって「癒される」。癒されたと思い込むことができる。「本当」の傷を負った人々は、 そのような単純な主客二元の処方箋では治療できず、「本当か」の問いに直面するのではなかろうか。 すなわち、傷ついている人は誰なのか。「私の」意志を越えて立ち上がるこの感情の激しさとは何か。 「私の」運命はなぜこのようでなければならないか。私は私である、すなわち私は自我であるとは明らかに虚構であり、 しかも近代特有の虚構である。それなら、病理として現れるその崩壊現象こそ、ある意味では、近代以前の本来的の ありようを示しているといえるかもしれない。古代の人々にとって感情の自律性とは、それ自体で神々の訪れだったようである。 怒りの神が、嫉妬の神が、憎しみの神が、到来する、私の心に、このとき私の心が私の所有であるとは意味を成さないだろう。 感情それ自身が神々である。あるいは魂が複数の人格から成るという世界観は、現代のわれわれの心的生活を、少なからず 解放する。ある強い感情に圧倒される時、これは「私の」感情ではない。向こうからの訪れなのだと捉えることは、 自己観察の距離を生む。逆に、見慣れない感情、厄介な感情をもむかい入れ、親しむ余裕すら生じるかもしれない。 否定的な感情というのは厄介なものである。主客が分かれた世界においては、黒々とそこにあるそれは、目を逸らすにも 抑圧するにも明瞭にすぎ、人は主観のうちに担い切れず、客観の側に犯人探しをして、その責めを負わせることになる。 現代社会の構造が、人の感情を否定的にしていると思われがちだが、話は逆で、否定的感情の処理の仕方を知らない現代人が、 それを社会のせいにしている場合がおおいだろう。主観と客観の狭間で、処理することができずに膨張する一方の否定的感情に 追い詰められて、自爆寸前の現代人にとって「魂」という第三の存在の視点として所有することは、それ自体で対立に風穴を 開けることになる。 それはあくまでも視点でしかない。主観と客観の対立が虚構であるように、魂もまたひとつの虚構である。 (字数制限のためカット 2010年12月14日) ・・・・・・・・ 2005年12月14日(水) 1716, 絵文字が面白い!ー2 ー喜怒哀楽の絵文字 (以下、字数制限のためカット 09年12月14日) ・・・・・・・・・ 2004年12月14日(火) 1351, 全日本相撲選手権 この時期の日曜日、全日本選手権が行なわれている。全日本学生選手権か、この選手権で優勝すると、多くが卒業をすると 大相撲にいく。 (字数制限のためカット 2010年12月14日) ・・・・・・・ 2003年12月14日(日) 984, 電波時計 (字数制限のためカット 2010年12月14日) ・・・・・・・・ 2002年12月14日(土) 610,ある時間の断片-24 10月24日 木曜日 6時半起床。 7時半に三浦さんが上京の為に、車で駅までおくる。ホステラーが帰った後、一人で過ごす。 16時半に寮の高橋君と佐々木弟を迎えに行く。寮の難波嬢もくる。そういえば彼女と一年前に2時間位散歩をしたのを思い出す。 ただそれだけだが。あいも変わらずキャキャやっている。去年ここでホステラーをしていた時に、夜の話の中で4人のうち 私だけが外国に行く予定がないのに疑問をもった。そして、その夜のうちに旅行を決定した。 両親を口説いた。 まず母を篭絡して、母と父の篭絡の相談をした。母が「私が反対すると、あの人は賛成に回るから」と言ってくれた。 そしてその通りになり、その後その計画に父は気づいたが、うれしそうな顔をしていた。19時の列車で寮に向かう。 22時前に部屋に着く。ボクシングで原田弟がノックアウトで勝ったところだ。その後駒村と米と語り、零時まで明日の ゼミの予習をして就寝。追文ー軽井沢はスランプのためによかったが、気を取り戻して卒論をやらなくては。 ・・・・・・・・ 2001年12月14日(金) 269,再開発の愚 過去に書いた再開発の愚の文をコピーしておくが、懲りずまたもや新潟駅前で始まった。 それと万代橋の近くの再開発もである。 理屈はわかるが、民間がやるべき事だ。 どうしても権力を持つと自己証明をつくりたくなる。そしてやり逃げをやる。 逃げるところがあの世だから、更に始末が悪い。再開発だけには関係するな!これが鉄則である。 (字数の関係でカット08年12月14日) ・・・・・・・・・ 12月14日 土曜日 1968年 12時に、同級生の雨宮のフォークソングのライブを聞きに行く。以前、長岡の自宅の遊びがてら泊まりにきたことが ある友人だ。ーその見返りに茅ヶ崎の旅館に泊まりに行った。知り合いでは彼と角田などがいる。 想像をしていたより、ズット上手いのと生き生きしていたのに驚いた。それと堂々といていたのも新しい発見である。 しかし途中で飽きてしまった。わざわざ池袋まで行ったのにと思ったが中座をして帰ってきた。悪いことをした。 18時から寮の忘年会である。 全員が楽しそうであったが気持ちの奥で、何か白けている自分がいた。 何げなくその会場から出る。 先輩の文夫さんの言っていることは何だ! 先輩だろう、情けない!自分で考えることのできない人間だ。 何も考えないできたのだろう、 気の毒の一言である。 同僚のいや同寮の水野君と新宿のクレージキャッツに行き、踊り狂う。 汗ビッショリである。しかし気分がすっきりとした。0時半に帰寮。毎日何をしているのだろうか。
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