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2010年11月28日(日)
* エコポイントは目先延命の劇薬、それが切れる来年は? 少し考えれば分ることだが、「エコポイントの駆け込み購入」で、このところ家電チェーンが賑わっている。 しかし、この騒ぎが終われば値崩れが起きて、このポイント以上に値下がりをするのは火を見るより明らか。 元もとエコポイント制度そのものが、恐慌に対する延命のためのカンフル剤で、目先の苦痛を避けるためのもの。 しかし来年の前半には、この前倒しの反動が大きくなる。薄型TVは典型的な相場商品、大きく値崩れをするのは火を見るより明らか。 そういう批判がないのは、マスコミがメーカーから広告を貰っているため。地デジ化は来年の7月、その間に大きく値下がりは 当然のこと。その上に世界的恐慌の火の手が更に大きくなる。 他人事ではない、当方は460台のTVの買い替えがある。 来年7月の瀬戸際ほど安くなる、と仮説を立てたところ、このことに気づいたのである。エコポイントは、間接的には住宅、 家電、自動車メーカーに対する間接的援助ではないか。そのピエロが、それで買いに走っている大衆。決して穿った見方ではない。 誰も気づかないだけで、これはこれで良い。それを声高にいうこともない。国家にとって目先の失業と倒産を避けなければならない。 しかし来年は、この反動で、日本経済は大きく落ち込むことになる。 「来年、怖い!」が、キーワードか。 デフレ・スパイラルが更に大きくなる。総中流が、総下流社会に墜ちていく。しかし、総下流が大部分なら、それが普通になり、 総中流ではないか。 ブラックジョークになるが、それが社会主義の理想とするところ。格差のない清貧の社会。 ただし選ばれし者は別。当然の権利として何代かの権利が保障される。その意味で、日本の政治家は社会主義体制で守られている。 で、国家は衰退している。しかし、これは愚民化された国民の無知のなさる技。 失われた20年から、さらに失われた 10年が始った。このグローバルの時代は、世界の住民が平準化していくということ。 最も恵まれた時代が終わり、その豊かさが失われていく30年の、後半の10年が始ったということ。 その愚民の一人か〜 それにしても生きてきた65年間の世界は、大きく変動した。 ドラッガーは「断絶の時代」という書を40年前に出したが、以来、想像を絶するほど時代が大きく動いてきた。 ・・・・・・・・ 3159,金を通して世界を読む −2 2009年11月28日(土) 「金を通して世界を読む 」 豊島 逸夫 (著) 住宅価格下落を予測して、下げで大もうけをしたジョン・ポールソンが近く金《ゴールド》を中心としたファンドを始めるという。 彼が3〜5年スパンで金に「兆」単位を投資するというから、2〜3倍以上の高騰を予測しているはず。 銀も一年前から高騰を始め、年に90パーセント以上も値上がりをしているから、金はまだ40パーセントだから、 50パーセントの値上がりと考えることができる。 そうはいかないのが相場の世界である。まあ、どうなることやら。 ーこの本の中で、含蓄の深い部分を抜粋してみるー 日本で最も金が売れる地域といえば、京都である。 店舗の面積坪当たり最大の金小売店も京都にある。 京都には宗教法人が多く、資産も蓄積されている。 長年歴史の波にさらされてきたからこそ、スイス流の 「最後に頼りになるのは金」という考えも強いようだ。 ある金ディーラーが縁あって某名刹の住職と面談したときのこと。 住職曰く「金は先の大戦でもそのまま残り、資産として破損することはありませんでしたな」。 ディーラー氏答えて 「はあ、第二次大戦でも京都は空襲を免れましたしね」。 住職「なにをおっしゃる。私の申しているのは応仁の乱のことです」。 各県別に見ても、金が売れる地域というのは必ずしも県庁所在地とは限らない。 現代の経済行政の中心地より、城下町であった 都市のほうが資産のストックは多いようだ。 郡山より会津、山形市より米沢、青森市より津軽、というようなあんばいである。 一万円札の新札への切り替えのときのこと。 ある歴史ある都市の貴金属店に金地金を買いに訪れた顧客がボストンバッグから 取り出した紙幣の束は半分濡れたような古い旧一万円札ばかり。どうやらそれは地下にでも眠っていたのか、独特の古いインクの すえたような臭いが店中に広まった(筆者も新入行員だった頃、銀行の金庫で同じ臭いで気持ち悪くなった経験がある)。 紙幣同士がくっついてはがれないので、まず1枚1枚と丁寧にひきはがし、乾かすこと四時間。やっと紙幣勘定機に入った。 ーー こういう金融恐慌だからこそ、「金」ということだろう。 そして世界中の投機筋が買いに入った? 金の動きから世界をみていると、測り知れない世界の一端が見えてくる。 間違いないのは重い10年が続くということ。 ・・・・・・・・・ 2794.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・3 2008年11月28日(金) 【第二の法則】 なんでも鵜呑みにするな!人間は鵜ではない。 「世間において 常織とみなされていることに対して、疑問を呈する勇気を忘れてはならない。 健全な猜疑心こそ、ものごとの裏に潜む本質を見極める近道である 」 ロバート・ルービン 「誰もが同じように考えているときは、一人として真剣には考えていないものである」 ウォルター・リップマン 「貴殿の理論が狂っている、つまり突飛であるかという点では、我々の意見は一致している。 だが、正解になる可能性があるほど狂っているかについては、意見がわかれている。 私の直感では、まだ十分に狂っているようには思えないのだが」 ニールス・ボーア 「二つの文化のうち、それぞれの半分だけ足しても、一つの文化は 生まれてこない」 アーサー・ケストラー 「半分の真実といえば聞こえはいいが、本当は真っ赤なウソである」 ユダヤの掟 「権力とは 究極の媚華である」 ヘンリー・キ・ソシンジャー 「違うよ。そうじゃないんだ。君は、思考していない。ただ、論理に支配されているだけなんだ」 ニールス・ボーア 「嘘には三つの種類がある。 ウソ、 真っ赤なウソ、 そして統計である」 ベンジャミン・ディズレイリ ーーーーー 何事も、自分の頭で一度は精査することが必要である。それが、考えることになるのだ。考えない方が良い人が多いが。 ・・・・・・・・ 2007年11月28日(水) 2429, 20世紀を生き、21世紀を覗き見て (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪ 大よそ半世紀少しを20世紀に生き、世界の色いろな変化を見てきたが、明治・大正生まれの人は、その感慨は更に深いだろう。 この20数年間、憑かれたように秘境ツアーで地球の果て?を見てきて、自分の庭とは言わないが、デズィニーランドのように 世界の文明と自然を見ることができたのが最大の収穫である。21世紀になって、携帯電話やパソコンによる情報革命の 大きな変動を見るにつけ、何と恵まれためぐり合わせが良かったと、信じられない思いである。 情報化が良いか悪いかは二の次に置いて、これだけの知識・情報が世界を駆け巡る事態はSFの世界に迷い出た思いである。 20世紀と対比できるから言えるのだろうが。恐らく、数百年、いや数千年の経験を60年余りの時間の中で味わったのである。 その不思議である。 21世紀は、やはり違う世界である。それも想像を遥かに超えた。 その結果だろうか?、この数年から哲学が面白くなってきたのである。この地球の大自然の由来は、宇宙の果ては、 130数億年前のビッグバンは何故おきたのか、それ以前は何があったのか、人間の6千年の文明史はどのようになっているのか、 等々、疑問が噴出してからである。地球を見てまわり、少なからず人生経験を積み、人類の遺産の文化や文明を見てきた。 そして、知れば知るほど、知らないことの多さと不思議の多さに呆然とする。 それらを考えること(哲学をすること)で、少しずつ理解できると哲学者は言う。 「死んでしまえば、それが何だった」としてもである。少し地球に存在し、少し認識したということか? それが存在の不思議を問う存在論になり、認識の意味を問う認識論になる。我われは地球に、遊びに、働きに、 そして学びに来ているのである。「よく遊び、学び、学べ」とは、よく言ったものである。 (((。・-・)从ホンジャ ・・・・・・・・・ 2006年11月28日(火) 2065, あたりまえなことばかり −16 b(^o^)d おっ W(^O^)W はよー! ー♪ この女哲学者よりも、私のほうが「心の中で生きているとは、どういう意味か」という内容に関しては、 深い経験をしているように思えたが、どうであろうか?両親が亡くなったときに、あくまで夢?であるが、 色いろな体験をしているからだ。父の場合、父の方の心理そのものになったり、母親も最近まで夢の中に出てきたからだ。 {全過去の記憶を現在として保有する「心」とは、その意味で存在そのものではなかろうか。 記憶は、「心の中」に存在するのではない。記憶こそが存在する現在である。 逆に、我われが現在生きるとは、存在の記憶を生きることである。}「記憶をなくした男」の映画を観たことがあるが、 まさに上記のとおりである。「自分が何者かわからない」ほど、恐ろしいものはないと、寒気がしたのを憶えている。 ただ、虚無が自分を取り囲んでいるだけだろう。本人がどうしてよいか解らない心理が、その映画で出いていた。 「過去を消したい」と思うのは、都合の悪い過去を消したいだけである。 「いま、ここ」は、全過去があるからこそ、垂直に立ち上がる。 ーーーーーーーーーーーー 他者の死はなぜ悲しいのかー? ーーーーーーーーーーーー *心の中で生きているとは、どういう意味なのか? 肉体として存在しないけれど、 記憶として存在する他者は、その限り、「存在する」。この存在の意味を考えてみよう。 死んだ人が心の中で生きている、しかし、先に我われは、死んだ人はあの世にいると納得したのではなかったか。 心の中にいながら、あの世にいるその人は、すると、どこにいることになるのか。彼は「今」どこにいるというのか。 生きていたのは誰なのか。という、かなりの程度奇妙な問いが、押えがたく立ち上がってくるのが、ここである。 更には、「生きている」ということすら、肉体の所有と消滅で理解できるような自明な何かなのか。 肉体として消滅してなお、死者は生者の記憶として存在する。死者の記憶を心に抱いて、生者もまた死者になる。 それなら、その人が存在したということはなかったことになるだろうか。そんなことはあり得ない。存在したことは存在する。 すなわち過去は現在である。 全過去はこの現在に存在しているということだ。 全過去の記憶を現在として保有する「心」とは、その意味で、存在そのものではなかろうか。 記憶は、「心の中」存在するのではない。 記憶こそが存在する現在である。 逆に、我われが現在生きるとは、存在の記憶を生きることである。 ー2009年11月28日ー字数制限のため削除ー ・・・・・・・・・ 2005年11月28日(月) 1700, 人生の価値についてー2 (*´o)*ゞふぁぁ
このHPの維持も、「退屈と不安の解消が目的か?」と、問われれば、「目的ではないが、手段である」が答えになる。 退屈に対して、これだけ赤裸々に抉っているのも珍しい。「小人閑居して不善をなす」というが、閑居に対する姿勢が 小人かどうかを決めるのだろう。閑居は何か悪いように錯覚するが、逆に最も大事なことである。 アラブの遊牧民は、閑居を第三の時間ー瞑想、仕事と遊びと、そして休みの時間)として、一番大事にしている。 第104節の「人生の退屈そして不安 」でさらに、生きるとは何かをさらに掘り下げている。 何ヶ所か抜粋してみる。 φ(・_・) ードストエフスキーはシベリアの徒刑地で、 懲役の労働が囚人達に苛酷なのは、仕事の内容のつらさではないという。 つらさという点では農民の方がよほど苛酷なはずだ。 しかし、農民には自分のために働いているという目的がある。 だが懲役の労働には目的も意味もない。 それが刑罰の刑罰たるゆえんである。 ー彼は囚人達が「意味の無い労働」でない、 例えば家を建てる仕事を与えられると、 にわかに夢中になり、生き生きしてくるさまを伝えている。 強制労働で立派な家を建てても、賞金がもらえるわけではないし、 刑期が短くなるわけでもない。 それでも囚人達は少しでも具合よく、良い家を仕上げようと 一生懸命になるという彼の深い観察のうちに、人間の生きる目的 ということの秘密が宿っているのではないだろうか。」 この節で、人間の日々の行動に何らかの目的があることの重要性が説かれている。 ‖┓ (( (_) 匚P ━┻ ードストエフスキーは次のようにいう。 「もしも囚人に、一つの手桶の水を他の手桶にあけ、 それをまた逆に始めの手桶にあけたり、砂を搗いたり、あるいはまた、 土の山を一つの場所から他の場所へ移し、それをまた元へ戻す というようなことをさせたら・・・・ 囚人はきっと四、五日も経ったら首を吊るか、 でなければむしろ死んでそんな侮辱や苦痛から逃れようと思って どんな罪でも犯すだろうと思う」 ヽ(゜Д゜;)ノ!! ーわれわれの暮らしや仕事もまた、つきつめて考えると 「一つの手桶の水を他の手桶にあける」 作業の繰り返しのようなものだと自嘲せずにいられぬ一面をも具えている。 しかしそれを刑罰とも感じないし、苦痛とも感じないのは、 我々が鈍感だからということもあるが、毎日の活動の中に、 なにか物を作る行為にも似た行為によって自分で自分を生かす目的なり 意味なりをいつの間にか黙って自ずと見出して、その日その日の自分を 無言のうちに支えているからだともいえるであろう。」 (以上、字数制限のためカット 2010年11月28日) ・・・・・・・ 2004年11月28日(日) 1335, 「おカネの発想法」 ー読書日記−2 ー前回に続いて、印象的なところを抜粋してみるー ーおカネが本物かニセモノかという点は、実は本質論ではないのです。 そのおカネが受け取ってもらえるのか、それとももらえないのか、というところに、おカネであるか否かを 峻別する本質があるというその性質がおカネにとって最も重要な「一般受容性」なのです。 おカネが増えるとしたら、それはそのおカネを使ってビジネスをする人がいるから増えるのです ー株式会社の株式を所有していると、万が一倒産したときに投資がパーに なってしまうということを「リスク」と呼んでいるのであれば、 株式会社に勤めることはもっと大きな「リスク」である。 おカネの発想法に基づく株式投資 ・どの株式会社がうまくいくかわからないから、いろいろな株式会社に分散投資することによって、 全部が全部ダメになるということのないようにしよう ・二〇銘柄に分散→「転職してみたい会社の株式」がお勧め株式投資における究極の目的は、 おカネを儲けることではないのです。 株式投資の究極の目的は、人を動かすパワーを手に入れるということ。 ーおカネというツールに頼らないコミュニケーション能力を持っている人はおカネが要らないということなのです。 おカネがなくとも、他人を動かせる人には、おカネは不要なのです。おカネに頼らなくとも、自分の好きなモノが 手に入る人には、おカネは要ない。めざすべき究極の姿は、「自分自身がおカネになる」ということ。 コミュニティとか、仲間とか、人望とか、信頼性とか、信用というモノはカネと同じなのです。 そういうおカネをどういうふうに獲得していくのかが極めて重要なのです。 おカネは、インフレで価値が減ってしまいますが、コミュニティとか、仲間とか、人望とか、信頼性とか、 信用というモノは、インフレによって影響を受けません。逆に、そういうときこそ、真価が発揮されるに違いありません。 『金持ち父さん貧乏父さん』の教えには反してしまいますが、まずは仕事をしておカネを稼ぎながら、 自らを鍛えなければなりません。何も他のことは考えずに一二〇%の力を現在の仕事に注ぎ込むべきである。 節約ができる人は、意志が強い人です。自分の行動を自分でコントロールできる人です。 外部の雑音や他人の行動に惑わされることなく、自分の意志を貫ける人です。そして、意志が強いということは、 財産形成で成功するために不可欠の要素なのです。複利を味方につけられるかどうかが、あなたの財産形成の成否を決定づける。 財産形成のメインエンジンは、仕事からの収入→最も重要な投資は自己投資。 財産形成のスピードをアップするためには、仕事で成功することが一番重要(中略)株式を売買する前に、 まずは自分を磨く――それが財産形成の王道です。 ーーー ー以上が抜粋である。 書き写すに(前回分を含めて)2時間近くかかったが、戒めのためだ。 (以上、字数制限のためカット 2010年11月28日) --------------- 2003年11月28日(金) 968, 「企業の人間的側面」 以下は字数の関係でカット この後は、分類のコーナーの検索に「X理論とY理論」と入れてください。 ー2007年11月28日ー削除 ・・・・・・・・・ 594, パソコンの恩恵 - 2002年11月28日(木) 毎日飽きずに、こうも書けるか種明かしをしよう。パソコンのおかげである。 会社の机の上と、自宅の居間の パソコンの存在のおかげで、パソコンが無かったら絶対に不可能である。何か思いついたときパソコン内のメモ帳に書きこむ。 それに気楽に書き足していくのである。最後に適当にテーマを書いて保存しておく。反対にテーマを思いついたら、 まずはテーマと思いついたことを2〜3でも書いておく。特に夕食前後に面白いキーヮードが出てくる。 10秒もしないうちに書ける休止状態にしておき、遊び感覚で打ち込む。これで飛躍的に文章力と量が増えたのだ。 その場が一瞬に書斎に変わるのだ。更にパソコンのよいことは修正と追加が軽くできることだ。順序も考えないで、 思いついた事が打ち込めるのだ。後で順序を並べ替えればよい。そのプロセスは思考である。そうするとパソコンは思考機械になる。 これが紙に書くとそれ自体で気分が重くなる。さらに書きなぐっていると、頭が混乱してくるのだ。勿論大切な事だが。 ポイントはテーマなどは後で面白おかしく書き換える事だ。毎日書き続けて解ったことは推敲の回数を重ねるほど 文章は良くなっていくことだ。文章上達はそれしかないといってよい。それがパソコンの場合簡単にできるのである。 話しは変わるが随想日記の最大の読み手は実をいうと私なのだ。数ヶ月前のある日の随想日記を突然ランダムに呼び出して、 毎日のように読んでいる。その都度、こんなことを書いていたのかという驚きがある。 これは自己対話をしていることである。あるいは自分を深耕していることにもなる。これもパソコンだからできる。 書斎に移動して読む必要はない。我が家には書斎はない、いや必要ないのだ?? この一年半で、自分の文章力が飛躍的に向上した。これは毎日文章を書き続けたことと推敲を毎日重ねたおかげである。 その最大の武器がこのパソコンである。 それとホームページのおかげだ。 誰かとつながっているという動機づけがあったからである。パソコンは知的玩具です。 痴的にもなるが?!
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