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2009年09月20日(日)
* 明治以来の政治形態の実態は「官僚内閣制度」
「日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ」飯尾潤著 に刺激の強い内容が書かれている。 菅直人のブログにも「2重の政権交代」(2009年9月15日)と題して「今の政権交代は自民党から民主党への政権交代と 官僚主導の官僚内閣から国民に選ばれた政治家主導の国会内閣への2重の政権交代。明治時代に内閣制度が生まれて初めて の大改革。この実現に全力を挙げたい。」と書いている。これまでの実態は議院内閣制度ではなくて官僚内閣制度であった。 * 9月17日の産経新聞の正論のコーナーで屋山太郎が、その辺の実態と弊害を次のように述べている。 《 その官僚政治の元凶は財務省、その中の主計局である。 官僚政治は省の中の省である財務省に仕切られてきた。 財務省は各省予算の査定と国税の査察の権限を持つ、これに真っ向から歯向かえる政治家は一人もいなかったろう。 そこで民主党は予算の大枠を決める財務省のコアの部分を握ることになった。 主計局は戦略局の大方針に従うことになる。 国家戦略会議に加えて「行政刷新会議」が設けられ、仙谷由人氏が担当相になった。自民党政権では「行政改革推進審議会」 「地方分権推進委員会」などを作って識者を集めた。私も土光臨調での「国鉄分割民営化」のあと12年にわたって行革審に 参加させられた。この種の官僚が事務局を務める審議会は官僚にうまくごまかされ、全く無意味だった。 新設される「行政刷新会議」が役人抜きで、政治家の判断で、運営されれば、地方分権から地域主権に至る改革にも到達できる。 内閣に100人の政治家を入れるという。今までも60、70人入れていて効果がなかったから、意味がないという批判がある。 しかし、効果を発揮できなかったのは大臣と副大臣、政務官が各派閥への均衡人事で配置され、全く“一体感”がなかったからだ。 今回は大臣が自分の同志や盟友を集めてチームとして君臨する。秘書官がついて各個撃破されていた現状とは様変わりになる。 重要案件は「閣僚委員会」で火曜、金曜の閣議の前日に行われた事務次官会議は、翌日閣議に諮る案件をすべて決める。 閣議でそれ以外のことが議題になると即、閣僚懇談会に切り替えられ、正式の議題から外される。次官会議の決定は全会一致であり、 一省でも反対すれば決定されない。貿易交渉などで日本の回答が何カ月、何年も遅れるのは全会一致主義のせいなのだ。 この仕組みでは「農業で譲って他の分野で獲る」といった政治判断は不可能だ。この事務次官会議は明治19(1886)年 から始まっているが、法令上の規定はない。明治の元勲政治以来の伝統で、自民党はこの官僚絶対の「慣習」さえ破棄することは できなかった。民主党はまず、この官僚支配の元凶である事務次官会議を廃止する。 重要案件は関係閣僚を集めた「閣僚委員会」 で決するという。 民主党の「官僚内閣制」から「議会制民主主義」へ脱却するための仕掛けは実によく考えられている。 安倍晋三内閣でも同様の発想で国家公務員法改正が行われ、渡辺喜美行革担当相時代に公務員制度改革基本法が成立した。 これに基づいて麻生内閣で仕上げの法案が作られたが、最後の段階で谷公士(まさひと)人事院総裁が首相が招集した会議を ボイコットして法案は結局流れた。行政府の一機関にすぎない人事院総裁が首相の会議をボイコットするほど官僚は増長していた。 日本の民主主義は官僚にスポイルされていたのだ。(ややま たろう)》 麻生太郎は「官僚は使うもの」と官僚を弁護して最後まで官僚に使われていることに気付かぬほど暗愚と、矢山は指摘し、 民主党が政治主導の要として設計した「国家戦略局」が、それに取って替わるという。 先ほど取上げた菅直人氏が副総理、 国家戦略担当相に就任し、ここで予算の基本方針や外交、防衛などの国家基本戦略を仕切る。これは、日本にとって 革命的なことになる。 それを阻止しようと、自民党の悪霊と、検察官僚と大蔵官僚が組んで、国策捜査を仕掛けた?が、 もう流れは止めることは出来なかった。 戦略会議に、その宦官を取り締まるCIAみたいな部局も必要になるだろう。 ことと次第によっては、アメリカのCIAも乗り込んで、大仕掛けの謀略も参院選挙まで行われ可能性が大である。面白い。
・・・・・・・・・ 2725, サブプライム・ローン販売の現場 2008年09月20日(土)
「金融偽装」ー米国発金融テクニックの崩壊 伊藤博敏著 以前にサブプライム・ローンを扱っていたNHKのドキュメントで、ローンを販売していた人の 証言を映していた。図書館で見つけた、この著書の以下の場面と、ほぼ同じ内容だった。 こうして、世界中に、証券会社の契約社員達によってバラマカレテいったのである。 −−− P−18 販売プロセスは、綿密に仕組まれた詐欺のようなものである。しかも米国の住宅ローンビジネスは 分業化しているから責任者不在で、詐欺を働いていても、誰も罪の意識を感じなくてすむ。 例えば、住宅ローンを組む際に、購入者が接するのは住宅ローンブローカーである。 こうしたブローカーは歩合でセールスを雇い、複数の住宅ローン会社の商品を斡旋、 セールスにはローン残高のー%を報酬として支払う。それだけにセールスは必死だ。 審査が緩いのをいいことに、自己申告で収入と仕事を記載させ、借り手に不利な重要事項は教えず、 最初の金利は安くして支払い可能なローンと思わせて売りまくった。 サブプライムローンが好調な時には、年収100万ドルのセールスがざらにいたという。 こうして、最初の2年は金利が6%で残り十数年が十数%といった無茶なローンを組ませた住宅ローン会社は証券化で 「貸し手責任」から解放され、証券化した金融機関は格付け会社や債券保証会社の信用供与で責任を逃れる。 この「負の連鎖」の特徴は、誰にも責任が及ばないことだった。 この実体経済を揺るがす金融商品は、 住宅ブームを演出したいという金融当局の思惑によって生まれていた。 そこには、「マエストロ(名指揮者)」とまで呼ばれて尊敬を集めた米国FRB(連邦準備制度理事会) のアラン・グリーンスパン前議長もいたという。 P−24 (字数の関係でカット2009年9月20日) ・・・・・・・・・ 2007年09月20日(木) 2361, 閑話小題
ー新潟駅にビック・カメラが出店ー 来年12月にオープンする新潟駅内のビルに「ビック・カメラ」がオープンと新聞に発表されていた。 現在「ヨドバシ・カメラ」がオープンしているので駅再開発の前に、このビルに移転するのではと予測をしていたが、 何とヨドバシの競合相手の「ビック・カメラ」になった。 現在のヨドバシ・カメラは1500〜2000坪あるかなしかで、 同じ商品構成では今度のビッグ・カメラの3500坪とでは闘いにならない。こういう場合、カメラとパソコンなど品種を絞り、 闘いを挑むしかない。秋葉原ではヨドバシ・カメラが超大型店を出店したら、多くの中小規模の量販店が撤退か廃業を 余儀なくされたばかりである。ヨドバシも闘いは無理と判断するかどうか? これで、新潟駅が俄然面白くなってきた。 (字数の関係でカット09年09月21日) ー阿部首相の退陣についてー あっさりと安部首相が退陣することになった。福田で決まりのようだが、その手腕は未知数である。 経歴、年齢からいっても短期内閣で終わるのは誰の目にも確か。しかし民主党も心もとないことも確かである。 小沢はアメリカの共和党が次の大統領選挙では民主党に取って代わることを読んで、 思い切った戦略を組んでくるだろう。そのため思いもよらない事態が起こるかもしれない。 その前に、政界の大編成が起こるのだろうか・・・。安部と小泉では、やはり力量が違ったということか。 それにしても、阿部は損な役回りをしたことになる。総選挙の敗戦時が辞め時だったが、その位のことも解らなかったと いうこと。一昨日のネット上で「阿部首相が自殺未遂!」という情報が飛び交ったというが、有りそうな話である。 彼も一年もすれば立ち直ってくるだろう。 それが政治家というものだ。
・・・・・・・・・ 2006年09月20日(水) 1996, 悪筆ー3 才八∋ウ_〆(∀`●) =もっと「きれいな字!」が書ける本= 読書日記 二章 この「書き方」を知るだけで、漢字がもっと上手くなる! ー上達の近道 (字数の関係でカット2008年9月20日)
・・・・・・・・ 2005年09月20日(火) 1631, 愛か、夢か、それが望めないなら仕事を! この連休前に借りてきたDVDの『フライト オブ フェニックス』の一場面の、ある男のセリフである。 砂漠の真ん中で墜落した飛行機から一人絶望のうえに脱出しようとした男が、助けに行ったリーダーに 向かって言うセリフである。 「この状況では愛など関係ない、ならばせめて夢を与えて欲しい。 それも無理なら仕事を与えて欲しい!ただ死を待つのはもう耐えられない!」極限の言葉である。 それに対して、「あくまで援助隊を待つべし」という方針だったリーダーは、その考えを変える。 この言葉は人間のあるべき姿を全てを言いあらわしている。 ・人間の一番だいじなことは、「愛」 −暖かさ ・次に「夢」を持つこと −方向 ・そして、それを可能にするための「仕事」 −力ー愛と夢を支える力ー現前の気晴らし? である。 リーダーとしても、人間にとってもこの順位は変わらない。 どれも、決して侮れないことである。極限では、この一つも見出されないのが人間の姿である。 極限の中にこそ、これを見出せるかどうかが試されるのだろう。何気ない映画の一言にドキッとした。 ー検索で調べた荒すじをコピーしておきます。 閉鎖された石油採掘所のスタッフと廃材を運ぶ運搬機が、巨大な砂嵐に遭遇し砂漠の ど真ん中に不時着する。毎度お決まりの仕事を無難にこなすだけだった貨物機操縦士のフランク(デニス・クエイド)は、 自分たちの状況が最悪なのを察し、助けを待つしかないと悟る。しかし、コスト削減のため採掘所を閉鎖した本社が、 彼らの捜索部隊を出す予算など持っているわけがないことに気付き、彼らは絶望の淵に立たされる。 その中で正体不明だったエリオット(ジョヴァンニ・リビシ)が不時着した貨物機の 破損していない部分を見つけ、彼らはここから新しい飛行機を造ることを決意する・・・。 1965年製作の「飛べ!フェニックス」をリメイクした作品。 砂漠の真ん中で遭遇した事故により 過酷な状況に陥った生存者が、砂漠から脱出を試みようと飛行機造りに奮闘する姿を描く。 飛行機の残骸から新たな機体を造るという荒唐無稽なアイデアと軽快な音楽とが相まって、 過酷な状況である筈の生存者達の姿には、悲壮感や緊迫感があまり感じられない。 この点は賛否が分かれるだろうが、心理描写よりも飛行機造りをメインに据えて展開する ストーリーは思い切りが良く、映画ならではの面白みがある。 シンプルで解りやすいストーリーはテンポ良く進んでいき、すぐに作品の世界に入り込むことが出来る。 ラストは容易に想像できてしまうものの、冒頭の飛行機墜落のシーンや飛行機造りの過程で次々起こるトラブルは、 観ていて飽きることがなく最後まで観賞する事ができる。 気楽に楽しめる娯楽作である。
・・・・・・・・・ 2004年09月20日(月) 1266, 仲人制度が消滅?
新聞に出ていたことだが、「結婚式で仲人を立てたカップルは4・6?と、前年より3?近くも減少。 20組に1組以下になった。 首都圏では、僅か1?しかなく、制度としてほぼ消滅した。 終身雇用が揺らぎ、ついてゆくべき上司に頼む風潮がなくなったこと、「家」と「家」から「個人」と 「個人」の結びつきに変化したためである。更に仲人を頼まれるのを嫌がる人も増えているのもある。 三年前には20?がまだ仲人をたてていたが、そのサラに4分の1に激減した」という。 そういえばこの数年来の結婚式で仲人をたてた結婚式はみたことがない。 非常に良いことだ。 昔から、仲人が二人の経歴を長々述べて、ただ祭壇に黙って座っている姿が滑稽で、気の毒でさえみえた。 家という制度が確実に破壊していることもある。これは決して良いことではない、少子化の時代の現象でもある。 反面、気楽に結婚して子供をつくるのはよいが、家庭を維持できなくなり、先日の「幼児殺人事件」に見られる 現象が度々起こってくる。少し減ったというなら解るが、ほぼ消滅とは驚きである。
・・・・・・・・ 2003年09月20日(土) 899, 《V・E・フランクル》について
十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。 人生丁度まがり角であったためであろう。その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。 彼の「意味」発見のための3つの問い ・「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」 ・「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」 ・「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」 この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』『満たすべき意味』 を発見するための手がかりになると、フランク心理学では考えている。 特に以下の分析には深く納得をした。 ー自己超越のための3つの意味(価値)ー 1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味 =仕事・子育て・学問・芸術 ー力への意志 2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味 =自然・芸術・愛 ー愛への意志 3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで 得られる価値・意味ロゴスの覚醒=対象との一体化 ※自身が何らかの喜びに満たされていること ー知への意志 人生には発見されるべき価値や意味がある (1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる) (2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である) (3)人生の意味 (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す) ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である ー私が読んだ本は以下であるー ・「夜と霧」:ドイツ強制収容所の体験記録 V・E・フランクル 霜山徳爾(訳) みすず書房 1985年 ・「それでも人生にイエスと言う」 V・E・フランクル 山田邦男・松田美佳(訳) 春秋社 1993年 ・「宿命を超えて、自己を超えて」 V・E・フランクル山田邦男・松田美佳(訳) 春秋社 1997年 ・「<生きる意味>を求めて 」 V・E・フランクル 諸富祥彦(監訳) 上嶋洋一・松岡世利子(訳) 春秋社 1999年 ・「フランクル回想録:20世紀を生きて」 V・E・フランクル 山田邦男(訳) 春秋社 1998年 ・「フランクルに学ぶ 」 斉藤啓一 日本教文社 2000年 ・「どんな時も、人生に‘YES’と言う 諸富祥彦 大和出版 ー印象的なところを「検索」で調べてコピーしたー ーーーーーーーー ー以下は、字数の関係でカットー2007年09月20日
・・・・・・・ 525,光ファイバー - 2002年09月20日(金)
昨日から、会社のランが光ファイバーでネットされた。今までの電話線の10?安いネット料金で コストパフォーマンスはよくなったが、諸経費等が65万である。1~2年で元はとれるが、それで1000倍近い速度だ。 自宅では来月半ばに入る。長岡で導入の一号だそうだ、その証明書も出してくれるという。 何か営業に強引に加入されてしまったが、一号の証明書をもらって我慢だ。 月9000円で、来春5800円に下がる?そうだ。電話代が無料になるから、その辺が入り時という。 ブロードバンド ポルノと検索入力して、はじめは 定番から入るしかないか? 「ブロードバンドと何々」の何々をこれからキーワードに意識をしていくと、面白いものに行き当たるだろう。 愛犬家だったら犬と入れると犬の画像が出てくる。おしゃべり日記といれたら、何か話している人の画像が出てきたりする? 自宅ではADSLが一月前に入ったが、早速ブロードバンドとポルノと入れたら、リアルな映像が出てきた。 それから見ていないが、あれはこっそり見るもので、パソコンで見るのに適してない? 美術館とか博物館などが早速取り入れてくるだろう。 それとサービス関係のホームページも。 これに携帯が連動してくると、さらに面白い時代なってくる。 今まで写真中心の海外旅行のホームページが、 写真が出てくるまで時間がかかりすぎて、見るのに躊躇していた。その問題は軽くクリアーするだろう。 二紙とっている新聞を一紙にしようかと、今月中に結論を出す。トレードオフだ。 以前は3紙とっていたが、日経をまずやめた。この時はWOWOW に加入した時だった。 次は朝日か?新潟日報か?どちらを残すか。 会社に行けば見れるのだから。 今の若い人は新聞を見ない傾向にあるという。インターネットでネット新聞を見ているという、 もちろん無料だ。 死亡広告がなかったら日報もやめたいのだが、全くつまらない! 考えてみたら、とってないのもいいかもしれない??!新聞社の斜陽が更に進むだろう。 ヒカリファイバーで3年先には大きな社会的な変化が進むだろう。
・・・・・・・ [151] 世間様 2001/09/20 「世間とは現実にドップリつかった馬鹿な4^5人のこと。」 浪人を重ねるうち悟ったことである。それは諦めと醒めた視点から感じたことだ。 現実とは世間とは「教養のない馬鹿な女と女みたいな男の現象世界」でしかないことを。 それが馬鹿な彼女・彼等にとって、現象が全てだからそうなのだろう。 世間の目、世間様とかは自分の(自己の範囲を自分というなら)日々の泡でしかないのに。 それが解ってないから前に書いたチンドンヤや子狐が出てくる。 その言葉に呪縛されて、一生終えてしまうのが95%いやもとっと多いのでは。 世間様に笑われないようにとか、世間様に迷惑をかけないように!これも大事だろう。 城下町街はこの世間様の世界に入る。彼らの情報(噂)は下ネタか夜逃げか不幸,それを皆で楽しんでいる。 社会と世間の言葉の違いを定義つけておかないと!こういう世界に迷い込んでしまう。 ーーーーーーー (10年近く前に書いた文章に似たような内容をコピーしておきます。) −H0407城下街小唄ー 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。 その大手通りのほとんど真中に生まれ育った事もあり、その長所・短所がよくわかる。 その特質は閉鎖性・固定的、商人的であり、“城下街曼陀羅”がきっちりできており漫画的ですらある。 彼等の社会は“ウワサ社会”で構成されている。 特に長岡財界とかいう社会が存在(?)しており、 彼等の出す“ウワサ”がその社会を大きく左右する。それが事実であろうがなかろうが“マンダラ” の中心点に近い人間が言った事こそ絶対のようだ。(“ウワサ”として)彼等の社会をみていて、 維持型の人間こそ“一級”と評価される。固定社会が故に何もしない(何もできない)事こそがベスト。 “非能動的二代目+婿取り娘サロン社会”と言える。先日もいやな“ウワサ”を聞いた、今は下火になったのだが、 新興の各業界の?1の社長が十人あまり?1がゆえに聞くに耐えない“ウワサ”を流された。 “一種の集団いじめ”なのだが、そのストーリーが陰湿でリアリテーにとんでいる。 冷静に考えればほとんどが尾鰭のついたウソである。それがおもしろおかしくて 集団ヒステリック的につくりあげられており、自らの名が出るかどうか怯えている。 “参加型変態うわさゲーム”を全員で楽しんでいる“痴呆社会”そのものといえよう。
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