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2009年03月11日(水)
ー自民党はすでに死んでいるー 上杉隆 (月刊SITGHT)
「STGHT」という雑誌に、政治ジャーナリストがインタビュー形式の「自民党はすでに死んでいる」が、 正しく現在の自民党の姿を浮き彫りにしている。。 すでに死んでいるのなら、「あの連中」は、ゾンビの集団ということになり 彼等の信じがたい政策と右往左往の理由が理解できる。 戦後の大部分の間、色いろあったにせよ、一応国民の支持を受けて日本の舵取りをしてきた。 小泉も含めて20年間、日本を彷徨える船のように衰退へ導いてきた。 最後の締めは、安部、福田、麻生という二代目、三代目が政権を放り出しを含めて 未曾有の無策を露呈してしまった。 それを一番身近にみてきた政治ジャーナリストが、 彼らの崩壊過程の姿を辛らつに切り捨てているため往生際の悪い醜態が漫画のように思えてくる。
結論の「自民党はすでに死んでいる」の理由を、本の末尾で以下のように述べている。 《2001年4月に、小泉首相が誕生した時に、山本一太さんと会う機会があった、その時彼は 「自民党は、小泉という奇人が登場して、たまたま助かった。だけど、小泉がいるから助かったので、 この人がいなくなったら自民党は終わる」と。 その時に喩えたのが自民党は恐竜だったと。 その恐竜は、森政権が最後で、倒れてしまったけど、小泉が一人出てきて、それが支えてきただけ。 それがいなくなれば倒れるだけと。7年前の山本さんの話は、そのとおりであった。》 ーここで上杉隆は自民党の現状を冷たく以下のように切り捨てているー ・麻生内閣の支持率が下がるのは、今さら驚くことではない。問題は、自民党がまだ古い自民党の 手法、政治体質を維持している麻生に「ノー」といっていることに、気がついてないことである。 ・麻生は、小泉が体現した総理の権限、官邸主導の強さを一番真近で見てきたので、それを在任期間で 使わないと死ぬに死ねない。もう全ての人は彼を見捨てていている。彼は死んだまま存在しているに過ぎない。 しかし、その権限の絶大なことだけは知っている。その効果も・・・ ・自民党はだれでもいいんでしょう。 政権与党でいることが自民党の目標であるから。 ・2009年、大きく変わることは3つある。政治と、行政と、メディア、この3つである。 なぜ国民が国民が必死になって自助努力をして、家族を抱えながら、やっているのに。 金融だって、農業だってとっくにオープンになって、それでも頑張っているのに、なぜマスコミと、 役人と、政治家だけが護送船団方式で安全なところにいて、一切変わろうとしないんだ。 ・「自民党政権は、政権担当能力がないことを自ら認めているのだから、もう下野でしょう?と」 国民は深く実感しているのに、字もマトモに読めないアフォウ首相が政権に汲々としている。 国民からしたら、民主だろうが、自民だろうが、もともに政治をしてくれればよい。 自民党は耐久年数が、すでに終わっている。 ー 以上だが、さすが政治ジャーナリストである。現在の自民党への国民のさめた目を、チャンと押さえている。 政治家、官僚が悪いと思っていたが、マスコミの腐りを指摘している。 国民はマスコミのコントロールを冷静に見ているし、またインターネットという別チャネルを獲得している。 そして、先ほどの「三者」のいい加減さをネット上で指摘、批判をしている。 そりゃそうだろう、何にも分かってない若い記者が、知った風に書いても、人生経験の深い人が ネットをフルにつかって情報を得ている。 むしろ一般の方が遥かにプロ化している。 それは政治に対してもいえること。ゾンビの醜態劇場も、とにかく大衆の民度が低いと騙される可能性がある。 ここまで酷いと大丈夫だろうが・・・ ・・・・・・・・・ 2533, 人間魔界図鑑 2008年03月11日(火)
この事業を始めて28年になるが親戚縁者は、一人も入れてない。 実家の会社で子供の頃から父と兄との葛藤や、親戚の従業員のイザコザを見てきたからだ。 親戚の場合、首を切りにくい。彼らは親戚の立場を利用しようとするから歪みが出るし、これほど使うほうからして、 タチの悪い相手はいない。その逆も言えるのである。立場違えば、これほど微妙な相手はいない。 姉の舅も20年近く勤務していたこともあるが、・・・・ まあ、やめておこう。 次の文章が、人間の本性を辛らつに書き表わしている。 ーー 「金と口の出し方」 Pー25 「君はまだ若いから、わしの意見をきいておけば、何かの参考にはなるだろう。 わしはね、これでもずいぶんひとの面倒をみた。ぽんぽん金もやった。たくさんんの人間を一人前にしてやった。 ー君、君もすこしは人に知られるような人間になってみなさい。蟻やら蝿みたいな奴が、ウヨウヨとたかってくるよ。 そんな奴にかぎって、みんな面倒をみられ、金をもらい、一人前にしてくれるのを当然と思ってるな。 そうした意味でいちばん不愉快なのは、あかの他人より、知人親戚という奴だな。 わしがこうなるまでには、血の小便を出すほど奮闘した。しかし、むろんわしひとりの力とは思わん。 恩になったひとはずいぶんある。しかし、そういう知人親戚と称する奴とは何の関係もないな。 なかには、生まれてから、いちども顔をみず、名も知らなかったような親戚が続々と現れてくる。 叔母の従兄の細君の妹が嫁にいった先の義弟なんて連中だ。 あの安藤も、わしを叔父さんと呼んどるが、 その口だ。むろん、わしには一切合切みなたかるがままにしておいた」 「・・・・・・」 「ところがだ、それが、ちっともありがたがらんのだ。いや、ありがたがってもらいたくないが、 恩を仇でかえす連中が多いのだな。これをわしの不徳のいたすところなんて、 ていさいのいいことをわしはいわん。かんがえてみると、はじめからただで人にたかろうなど という気を起こす人間は、所詮それだけの人間なんだ、むろん、それはそれでよろしい。 そういう連中にかぎって、あまりものにならん。そいつらはたかっただけの勘定を、 どこかでじぶんで支払うことになっとるようだが、それはわしの知ったことじゃない。 ただ、よくよく見ていると、はじめわしが金をやり、面倒をみてやったことが、 かえうて害をなしておるのだね。世の中はこれで通ると甘くみる根性をうえつけたらしいのだな。 そうと知ってからは、わしは一切無意味な金は出さんことにした。 人間は、自分のカだけで生きてゆくべきものだ」 「・・・・・・」 損得をいえば、はした金をやって悪口をいわれん方がトクだよ。しかし、わしもこの年になれば、 死んだあとで馬鹿者の悪口がのこることより、この世にじぶんの養成した馬鹿者をのこすことの方がいやだ。 ーしたがって、わしは、わしにちかづく人間はだれでも、その人間の値打ちだけの待遇しかせんのだ」、 『極悪人』 ・・・・・・・・、 2007年03月11日(日) 2168, 池田晶子が亡くなった!ー 2 おはよう!♪? ヽ(´π`)ノ 先日、8年前に出版された『考える日々』の中古本をネットで買ったが、最近の本を読んでいるためか、 一つピンとこない部分があった! 哲学者も8年で大きく成長するようだ。 彼女を偲んで、印象的な彼女の文章を幾つか書き出し考えてみる。 ーー 『人生のほんとう』 ー人の死は悲しいのかー
・・・親しい人が死ぬと、当然「悲しい」という感情が起こります。 ただ、なぜ悲しいのかなと少し距離を置いて考えてみると、第一に「もう会えない」という思いがあります。 その次がたぶん、「かわいそう、気の毒だ」「死んだひとは悲しいんじゃないか」そういう思いもありますね。 でも、これはよく考えてみると、わからないんですよ。ひょっとしたらそれも思い込みではないかと考えることもできます。 死んだ人が悲しいと思っているかどうかはわからない。死ぬのが本人にとって悲しいことなのかどうか、 われわれにはあくまでもわからないんですよ。だって、われわれは死んだことがないわけですから。 (略)けれど、たいていは、「もう会えない」という感情のほうが、悲しみの内容としては強いのでしょう。 でも、その「もう会えない」とはどういうことかと考えてみると、裏から言えば、会えたこと自体が、 そもそも奇跡的なことだったと気がつくことになる。つまり、なぜ存在するのかわからない宇宙に、 なぜかわれわれは存在していて、なぜだかわからないけれども、その人と出会ってしまったわけです。 これはすごく不思議で、これ自体が奇跡的なことだったと気がつくと、悲しんでばかりでもなくなる。 驚きとともに、感謝にも似た感情も起こってきますね。また、会えたこと自体が奇跡ならば、なぜまた会えないことがあるのか、 という考え方もできますね。さきほど「無というものはない」といいましたが、いなくなるということは、実は無がないかぎり 「ない」のですから、いなくなるということ、無くなるということはないともいえる。 おそらくそれが、われわれがなぜだか出会ってしまったという奇跡の意味でしょう。 「一期一会は存在の構造です」 ーー 解)昨年末に義母が亡くなった時に悲しんでいる家内に、{亡くなったとしても、自分の生きてきた過去が消えるわけでなく、 母親が生きているより身近な存在になっただけ。「いま・現在のここ」で母親を思い出せば、会っていると同じではないか。 もう会えないということ自体、将来のことで今のことではないか。いま、キッチリと母親と心の中で会話ができれば、 それでいいじゃないか。}と諭したところ、「それでも会えないという事実は事実。」と言い張る。 「それでは、貴女が明日、来月生きている確証がどこにある?灰になってしまった母に会いたいというのはセンチメンタルな感情。 それはそれで良いが、悲しいという気持ちは、死という在りもしない言葉に縛られた感情でしかない。 そこを早くしないと、『母の死というイメージ』に降りまわされているだけ!死のイメージを早く払拭すればよい!」 ーー 『あたりまえのことばかり』 ー言葉はそれ自体が価値であるー
生きるために必要なものは、言葉であって、金ではない。なぜなら、金のために生きる人もまた、 なぜ金のために生きるのかを問うためには、言葉によらなければならないからである。 生きている全ての人は、問わなければならないからである。「なぜ人は生きるのか」。 したがって、言葉はそれ自体が価値である。人がそのために生きるまさにその価値である。 価値とは思わないもののために人は生きることをしない。それなら、「真善美」という言葉は、 われわれの全生活をその根底において衝き動かしている価値そのものではなかろうか。 価値ではないものを間違えて価値だと思うためにも、これらの価値による以外にないのだから、われわれの人生とは 言葉そのものなのである。「売れなければしょうがない」、そう言う彼らが間違えているのは、 損得という価値と善悪という価値だ。しかし、値段は価値ではない。 逆に、言葉に値段がつくと思うそれがその人の生の価値だ。だから、安い言葉を大量に売り飛ばして平気なのである。 「読まれなければしょうがない」、言葉を仕事に選びながら、なぜそう言うことができないだろうか。 ーー 解)言葉自体が価値とは、自分が絶対と信じていることそれ自体が、言葉の羅列としてこびり付いている 絶対確実言明でしかない。その絶対確実言明(信じきっている価値)自体も小さな自分の体験か、 親か世間様の価値をそのまま信じた結果でしかない。 頭の良し悪しは、言葉がストンと脳に入るかどうかで決まってくる。 他人事ではないが、「本を読まない人は、ストンと言葉が脳に落ちない」のだ。 体験を経験に落とし込むには、そこに言葉を介して脳に刻み込む作業が必要になる。 その為にも言葉への変換能力と、逆に言葉から脳への変換作用が必要となる。 ~~ヾ(´ω`●)バイ(●´ ーーーーーーーー 2006年03月11日(土) 1803, 閑話小題 (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》○
ー日曜日の殿町 先週の話になるが、家内が所用で留守なので日曜の殿町にウオーキングを兼ねて行ってみた。 日曜日に飲み屋街に行くのは十年に一度あるかないかである。 17時半の殿町の実態は! スナック・バーは殆んど休み。駅前のチェーン店の居酒屋は全て営業。個人の居酒屋の三分の一が営業。 ピンク系はホボ休み。そこでマンションの1Fにある古びた居酒屋に入ってみた。 40年営業を続けていて、マンションなどの立ち退きなどで、この店で三店目という。 居酒屋にしては、ネタがそろっていたが、客単価は居酒屋として上の下?ー4000円位。 「開いていて客が来てくれれば、それでよし」で、用が無いかぎり店は開いているという。 何軒か店を覗いてみたが、その時間帯でも数人の客が入っていた。 (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが? C□^(゚◇゚;)ノ゙ アチチ! ー道州制についてー 道州制について以前にも書いたが、最近になって新聞に大きく扱われだした。 市町村大合併の次に、道州制も流れだろう。47の都道府県を五分の一にして、思い切った権限委譲は、 日本国をスリムにするベスト?の方法である。情報化が進んだ現在、県そのものの機能は遅かれ早かれ必要はない。 時代の変化に対応していく為にも必要なことである。反面、州都の所在地以外は間違いなく寂れるだろう。 ある新聞の全国知事調査で、道州制賛成の知事が47人中27人。反対が二人。 どちらでもないが18人という。 知事のかわりに首相制度にして、現在の日本の首相制度を大統領制度にすれば、役割がハッキリする。 その位のことをしなければ、この日本の行革は追いつかない。 ー自民!どうしたー 自民党のライブドアの送金指示メール問題で、前原民主党代表への風当たりがあまりにも弱い。 推測するに、前原代表が改憲論者で憲法改革が待ったなしの現在、自民党にとって前原の方が組みやすいからだ。 小沢一郎が表舞台に出てきたら、自民党にとってマイナスになる。 国会対策委員長が渡部恒三になったのだから、鳩山が代表、幹事長が小沢も考えられる。 それにしても、渡辺恒三が国会対策委員長になったと同時に、風が変わるのだから、政治は面白いものである。 ε(´',_c')зβyё ・・・・・・・ 2005年03月11日(金) 1438, BOSEのステレオ
先週の店舗ショーのあるブースで立ちすくんでしまった。 今まで聞いたことのない生演奏のような音楽がコンポから聞こえてきたのだ。 立体的な音響効果がきいた上に、それぞれの楽器が分かれて聞こえてくるようであった。 (好きな人なら、格別取り立てる音ではないだろうが、音の世界には全く無粋な人間の話である) 看板を見ると「BOSE」という名前が目に入ってきた。立ち止まって聞いていると、セールスの人が話しかけてきた。 その内容をリアルに再現してみる ー凄い音でしょう! これこそ音響マニアが百万円以上をかけて部屋に音響機器をセットした音です。 誰もここで‘信じられない’と立ちすくんでしまいます。新商品で、まだ一般には売られていません。 コンサートの音を解析したボーズ博士がある発見をした。その研究から解ったことは、 楽器からリスナーに届く直接音は10?。残りはまわりの壁、天井に反射して到達する間接音であること。 間接音が音の暖かさ、臨場感、豊かさを認識させる大事な役割があるとわかった。 この発見からスピカーで20世紀最大といわれるモデルが誕生した。その理論を発展したのが、この小さなステレオです。 全面左右に二個。 側面の両側に二個。後ろの両側に二個。 合計六個の中高音スピーカーを配置してあり、間接音と直接音を理論の通り配置してあります。 その音は後ろは後ろと、その方向にそのまま直線的に流れ、壁に向かって反響してきます。 また、それぞれのスピーカーを専用アンプで別々にドライブさせてある贅沢な方式がこの音を出しているのです。 これなら、マニアが凝りに凝った音響機器と部屋で聞くと同じ音楽が素人でも聞けるのです。 だから、貴方だけでなく誰もが立ちすくんでしまうのです。 ーー 以上が、その中年の担当のトーク?の内容である。それをリアルに憶えているのは、 「信じられない」音であったからだ。以下は、BOSE社のHPの会社概要のコピーです。 ーつづく かなえるために歩みつづける会社です。人間は「音楽を聴いてくつろぐ」といった いつまでも変わらない欲求を持っています。BOSEではその欲求を満たすために 「自然に聴こえる音楽の再生」を最大の使命と考えています。
・・・・・・・・・ 2004年03月11日(木) 1072.つれづれにー今日はお笑いの日ー3 ーお笑い ジョーク・ユーモア辞典より (字数の関係でカット2009年03月11日)
・・・・・・・・・ 2003年03月11日(火) 706, スーパーTV-コンビニ戦争
昨日の21時のスーパーTVの番組が面白い。私の初めの事業の立ち上げが、郊外型貸しビルであった。 ところがドルショックがカウンターパンチになってしまった。 誰もテナントが入らないのだ。 これが良かったのか悪かったのか?! いかなる場合でも最悪を想定しなくてはならないことが、 骨の髄まで知ることになった。その一角で養老の滝のフランチャイズに参加して、 日本で初めての郊外型居酒屋を始めた。日経流通の記事に大々的?出た。まあそれはそれでよい! 二年前に長男が失業した時に、息子の仕事にコンビニと考えた。 そしてまずは情報を取った結果は、すざましい内容で、開いた口が閉まらない世界であった。 土地持ちの酒屋や、自然消滅寸前の小売店を狙った搾取商売そのもの。 無知の敗者を狙った残酷物語。しかし自殺より良いのかもしれない。 出店では当たりと外れの部分がある。当たりると本部は、その店を基点として周辺に店を出すのだ。 卑劣そのものの世界である。しかし彼らからすれば他の競合店が出る前に自社の店を出すのは当然のことである。 当たり外れは実際のところ店を出してみなくてはわからない。 セブンイレブンの場合、当たりは一日あたり100万円、外れは50万円だ。 平均が62?63万万である。外れは、そのマニュアルがあってハイサヨナラの世界。 当たりの場合が、それをダシにして他のオーナーに売りこむ。無知ー無力のオーナーは、如何にもならないのだ。 「よくやるよ!」という世界である。今の北朝鮮のドン様と人民の世界である。 しかし契約の世界なら仕方がないのが現実である。 当然家庭内は崩壊のケースが多くなる。子供の非行や離婚や自殺が多いのは当然の事だ。 何よりも、商売がなによりすきかどうかが問題になる。そうでない人が安易にやるから、こじれるケースが多い。 好きな人がヒットしたらこれほど面白い仕事もないだろう。したがって決してなるべきでないといってはいない。 やる前に熟考して、覚悟をしてやるべきだといっているのだ。 フランチャイジーの立場から見れば、家賃分は入るし一日60万の売り上げがある。 しかし、オーナーは大体夫婦一人当たり時給7百円位の人件費の収入にしかならない。 それで満足するかどうかである。人の褌で相撲をとるとロクなことはないが、能力がないことには仕方がない世界である。
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