|
2009年02月24日(火)
納棺師ーおくりびと
米ロサンゼルスで行われていた「第81回米アカデミー賞」の外国語映画賞部門にノミネートされた「おくりびと」が 外国部門賞に決定した。 この映画の概要といえば、ひょんなことから遺体を棺に納める“納棺師”となった男が、 仕事を通して触れた人間模様や上司の影響を受けながら成長していく姿を描いた作品である。 10年ほど前に長岡市内の叔母が亡くなった。分家でもあるので葬式の主催者として準備を手伝うことになった。 たまたま喪主の弟の知り合いが葬儀場の担当者で納棺師であった。 納棺師という職業に興味をもって、 色いろたずねたところ、転職の経緯から、納棺師からみた色いろの人生模様を詳しく聞くことができた。 以前に火葬場の火夫の手記を読んだことがあるが、納棺師の話は初めてである。 印象に残ったまま書いてみると ・小さな子どもが亡くなった葬儀は、正視できないほどの哀しみが満ちている。 ・葬式は、人生模様の凝縮された姿が垣間見られるところ。 ・親族が故人を嫌って誰も葬儀をしようとしないケース。門前で「あんな奴は父でも何でもない!」と怒鳴られた。 「親子で何があったかわからないが、何か深い怨念があったのだろう」と・・・葬儀代は、本人の通帳から 貰っていたので、丁寧に葬儀社を出した。 ・職業として割り切っているので、慣れてしまえば傍で見るほど大変ではない。
ーところで納棺師とは、どんな仕事なのか「検索」で調べてみた。 実際には納棺師になるための特別な資格はない。そして意外や20代の女性が多い。 故人への主な仕事は (1)シリコーン注射などによるやすらかな死に顔づくり (2)消臭効果のある薬品を口の中に入れる防臭処置 (3)口、鼻、お尻の穴に綿花を入れる詰め物 (4)白装束などを着せる着衣 (5)納棺 (6)遺体の髪や体を洗う湯灌(ゆかん) 湯灌を行わない場合、納棺師1人で切り盛りしてる。
以上だが、「おくりびと」がアカデミー賞を貰ったことで、この仕事に多くの人が目を向けることになるが・・・
・・・・・・・・・・ 2008年02月24日(日) 2517, カキクケコの精神
何気なく本棚に塩月弥栄子の「冠婚葬祭入門」を手に取ったら 「カキクケコの精神」があったが、それが面白い。 「カ」は 感謝することに照れない。 「キ」は 緊張感を楽しむ。 「ク」は くつろぐ。 「ケ」は 決断力。 「コ」は 好奇心を持ち続けること。 美空ひばりも、この言葉気にいっていたというが、他にもカキクケコの精神として 「カ」感動、感激。神の心。 「キ」聞く、気配り、協力。 「ク」クエスチョン(疑問をもつ)。クリエーティブ。 「ケ」健康。ケセラセラ(なるようになる) 「コ」行動。向上心。 が考えられるが、どうだろうか?「あいうえお」でも「かきくけこ」でも辞書を片手にこねれば 何でもつくれるということ。「あ=愛情を大切に。い=命をいとおしみ。う=運動を。え=笑顔で。お=お互い様。」 というと、年寄りの養生か? 「さしすせそ」というと、止めとこう! 最近、30〜40年前に読んだ本を読み返しているが、また違った読み方ができ、また読んだ当時の自分に出会っている ようで面白い。 読んだ言葉は何らかの形で残っているのに驚いてしまう。本は精神の滋養になっているのである。 この年齢になると、その蓄積こそ己の足元を照らす灯りになってくれていることに気づかされる。 老醜の狂乱こそ、みっもない。それを避けるために本を読むか、趣味を追求するしかないが??
・・・・・・・・・・ 2007年02月24日(土) 2153, 幸福に驚く力 −2 オッ(*^○^*)ハ〜ヨウ! ー 読書日記 幸福に驚く力とは、日常の中にある見落としている幸せに気づくことです。 それは大自然の中で己の小ささを自覚すること、その小さな自分の中の、小さな幸せに気づくことが第一歩である。 まずは、その抜粋から ー自分の小ささを知るということー ーー *世界の広さと深さを感じとる 子どもって小学校も高学年になれば、大人たちを冷徹な目でみますよね。 卑しいなとか、えげつないとか・・・・。でも本の中にはもっと卑しい、えげつない人がいっぱい登場してきますし、 周りに素敵な人だなと思う人がいても、物語の中にはもっと素敵な大人がいっぱい出てくる。イメージできる 人間の幅がぐっと広がってくるわけです。これは今にして思えば本当によかった思います。何故そう思えるかというと、 今の学生は人間を殆ど知らないと思うからです。生の人間に会っていないのではないかと思う位です。 すべてあるのに、何もないって感じ。学生たちは「どうせ大人なんて」とか、「どうせ社会なんて」とよく言うんですね。 「そんなことはない。大人の中には凄い人はいる。人間ってそう簡単にタカをくくれるものではないぞ」と知らせたいのです。 人間の素晴らしさを知り、世界の広さを知ることで、自分が限りなく小さい存在だということがわかってくる。 でも、小ささを知ることが、喜びにもなる。そういう体験を、無意識だったかも知れないが、私は子どもの頃より ずいぶんしてきたような気がします。学生たちに、「自分がうんと小さいことが、喜びになるような体験をしたいね」 というと、「そんなことをしたら、生きられなくなる」と言いますが、それは、言いかえると、人間というものは こんなに素敵なんだ、世界はこんなに奥行きあって広いんだと知っていくことなんですね。 苦しみや悲しみは生きているかぎりあって当たり前。それらと闘うことは、その時は苦しいが、でも面白い体験なんだ ということを、本を読めば徐々に知ってくることができる。自分と周りのわずかな世界しか知らないと分らないんですね。 学生たちは情報が大切というが、でもいくら情報を集めても生きたことにはならない。 しかし物語は読み方によっては疑似体験ができるし、体験を積み重ねることができる。 ーーー 解)ライフワークの秘境旅行に惹かれる理由の一つは大自然との一体感の感動の中で「自分の小ささを思い知らされる」 ことである。その実感が歓喜に変わる瞬間、この一ポイントが永遠への窓である。 求めなければ何度でも永遠を感じとることが可能なのが、人生の面白いところである。人間はアナザー・ワンで あると同時に、オンリー・ワンであることを知らされるということです。
*「傷つく権利」と「怪我する自由」 若い人たちは、愛することを知らないで、愛されることばかり願っている。 悩む力、悲しむ力、あるいは苦しむ力が最近非常に弱っているように感じられます。 現実的に難しいなら、せめて文学を読んでこういう力を少しでも養わなければ。 人には傷つく権利もあるのです。「傷つく」という言葉と「権利」という言葉を結びつけることもできるのです。 いま、学校は子どもたちの安全を考えるあまり、過剰な管理をしています。 でも、事故が起こるたびに「あってはならないことが起こりました」と学校が謝るのを見ていると、 事故はあってはならないのだろうか、と思ったりもする。 人間が本当に自由を求めて生きようとしたら、死をつねに想定しておかなければ、 無理じゃないかと。常に死を含めて考えない限り自由には生きられないのです。 −−− 解)日本の教育現場が崩壊している幾つかに、先生、校長が過剰に己のミスに神経質になっていることである。 訓練の入っていない猿以下のジャリ?に、人権とか個性の尊重とかの建前を盾に教育の責任放棄をしている。 どの世界でも虐めはあるし、弱肉強食は世の倣いである。何が平等である、何が自由の尊重である。 それは社会的な訓練を受けた人間がいうことである。「傷つく権利」も「怪我する自由」もあって当然である。 著者の指摘は、そのまま現在の教育の混乱の原因を言い当てている。 ~~~ヽ(^▽^)))さいなら! ・・・・・・・・ 2006年02月24日(金) 1788, 愛のアフォリズム−3 ≪( \(・ω・)/ )≫オハヨゥ☆ −読書日記
ー情熱 情熱はさめると氷より冷たくなります。 (ジャ・シャガール) (ノ゜ロ゜)ノ<呪呪氷呪呪 情熱を癒すことができるのは分別ではない。 別の情熱だけである。(ルートヴィッヒ・ベルネ) ー多情女か?・・・ 私たちが情熱から解放されるのは、その情熱をとことん味わいつくした場合だけである。(マルセル・ブルースト) ーそりゃそうだ!でも、そうでもない場合もあるが! 火が欲しかったら、煙ぐらい我慢しなくては。 (ドイツの格言)−その煙がむせぶからね〜? (〃 ̄ω ̄〃ゞ カップルが幸せになるケースはごく少ない。情熱が荒々しい炎が燃えつきる前に、愛着というおだやかな火を なんとか焚きつけることが出来た場合だけだ。(ジェローム・ジェローム) −そうか・・ 性格もあるけど!
愛は生理的欲求であり、不可避の身体機能である。 (エルベシェス) ― 一升瓶?
愛とは、心に感じられるものとなった空間・時間だ。 (マルセル・ブルスト) −牢獄にもなり、宇宙空間にもなるということ?(●ゝω・)ノ【 love = 時・ 空間 ☆】 頭は真理によって輝き、心は愛情によって輝く。 (ロシアの格言)
愛情によってのみ、人間は自分自身から解放される。(フィリードリヒ・ベッヘル) ー相手からも解放される! 恋人を棄てるのは、空想力が衰えたことを証明する。(ホーフマンスタール) ーその反対もあるからね〜 たくもう〜! (*・ω・)(・ω・*)ずっと一緒にいようね!な〜んてのは一年まで!ー ☆(((((((((・ω・。)iバイバイ♪ ・・・・・・・・ 2005年02月24日(木) 1423, 名画200選 −読書日記
購入して数ヶ月、時々読んでいるが味わい深く飽きない。その半分は観たことがあった。 思ったより多く観ていたのには自分でも驚いた。そのうちTVで観たのが、半分だろうか。 この本を読んで初めて「成る程!」と、今になって感心をしているものが多い。 ラブストーリーとか、ウエスタンとか、サスペンスなどのジャンルに分かれているので読みやすい。 映画は日々つくられ、無数の映画のなかで見れる映画は限られる。その中で、よほど良い映画でないと残らない。 そのため、名画200選の一つ一つの内容の説明・解説に説得力がある。 名画は古典の書と同じで、良いものは何時まで経っても残る。黒澤明の「7人の侍」など何回観ても感慨が残る。 私が時々に感動したと、いま現在いえるのは ベンハー、アラビアのロレンス、駅馬車、荒野の7人、 ウエストサイド物語、モダン・タイムス、ゴッドファザー、ダンス・ウィズ・ウルブス、 そして、太陽がいっぱい、などなどである。しかし、最近の映画があまりにも面白く心に残るものが多い。 ーー ビデオで観たい 名画200選 淀川 長治 (著),佐藤 有一 (著) 知恵の森文庫
生涯を映画にささげた「映画の伝道師」淀川長治は、1998年11月11日この世を去った。 本書の原稿を書き終えたのは同年の春。それを弟子であり、共著者である佐藤有一が丹念にまとめ上げ、 淀川の死後から2年の歳月を経て完成させた。本書は「もっと映画を観なさい」と言い続けた淀川長治の 遺言書であり人生の集大成といえよう。 本書のつくりは、「ラヴ・ストーリー」「サスペンス&アクション」「SF&スペクタクル」「ウエスタン」 「ミュージカル」「ヒューマンドラマ・アメリカ編」「ヒューマンドラマ・ヨーロッパ編」 という7つのジャンルに分かれており、見やすい見開き1ページで1作品を紹介するかたちをとっている
・・・・・・・・・・ 2004年02月24日(火) 1056, 千回の力
「何事も千回続けると、何かが見てくるか、何かを感じるようになる」という。散歩時に「ありがとう」を 言い続けて、千回を越えたあたりから何かが変わる。心から「ありがとう」の言葉が出てくるのだ。 そういえば、この随想日記も千回を去年の暮れに達成をした。千回を達成した安堵感の為か、その後何も考えた ことがなかった。そこで改めて「何か変わった事や感じることがあっただろうか」を内省をしてみることにする。 ・ものを見る眼が全く変わった。 ー記者の目、書き手の目で現象を見る習慣がついた。 ・テーマ探しを無意識にするようになった。 ・そして、そのテーマに対し内省をするようになった。 ・脳内サテライトの面白さを実感できるようになった。 ・自分が知らない読者や、子孫を意識をして書くようになった 「何かが見えたか」と問われれば、別に何も見えないし、「何か感じたか」と問われても、何も感じない。 しかし、書き始めた以前と、それ以降という感がする。脳内を公開することが想像する以上のインパクトを 自分に与えていることになっている。書いている内容に対してコンプレックスも自信も、全くない。 ただ考え、感じた全てを、書き込んでいるだけだ。その集積が、基地としてのネット上にあることは異様な感じである。 「石の上にも三年」も大よそ千日である。一つの言葉を気持ちを込めて千回いえば、大よそのことが達成可能になるという。 「駄目だ駄目だ!」と自然に流されれば、繰りかえしてしまうものだ。言葉は、意識して使わなくてはならないと解っているが・・
・・・・・・・・ 2003年02月24日(月) 691, 「わたしを認めよ!」 −2「読書日記」 ー 気になったところを書きうつしてしてみた。
「ふつう」の意味とは・・ 普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。 だれも知らないからだ。 わたしが考えるふつうとはこういうものである(普通」と区別する)。 奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、 目指されるべきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。 普通が惰性なら、ふつうは意思である。 すなわち、その場その時に可能な限り最善の判断をしようとすること、それがふつうである。 たしかに、普通に生きていくのは簡単ではない。けれどもふつうとは困難にして容易である。 できるかぎり認識と思考の元手をかけて、どう考えてみても自分にとっては これが最善であり最も正しいと思うことを、 覚悟してやるしかないのである。 むろん判断は一回かぎりではない。 覚悟もまた一回かぎりではない。 ・・・「断念」について・・ いうまでもなく、自己承認は挫折の連続である(それゆえくりかえし打ち立てられなければ ならない)。 自分はよくやっている、だれが認めなくても自分が自分を認めるという弧絶した 自己承認には限界がある。 すくなくとも、わたしが承認する一人の他者から、わたしは根本的に承認されているという 自己確信は不可欠である(たとえ錯覚であれ、この確信がなければ、そもそも〈少しだけ大きな他者〉 などただの戯言にすぎない。そこまで個人は強くない)。 世界のなかで、わたしはすくなくとも ひとりの人間から承認されているという確信さえないところには、ほんとうの勇気や元気は出てこない。 ところが、ここには根本的な逆説がある。だれも認めてくれなくても、自分はあくまでもふつうを 一生懸命生きるという覚悟のない者には、他人からの信頼に値する承認はもたらされないという逆説である。 ー感想 地方にいると「部落」的噂社会に呆れかえる。もっとも都会は内幕情報社会だが。 この三層の元−下層は「魂」で、その次は「社会」そして「世間」になる。 子供時代は「世間」レベルしか見えない。 成人になるにつれて「社会」レベルに生きる比重が大きくなり。 成人の後半になるにつれて、魂の世界比重が更に大きくなる。 前に書いた「厭なことはなるべくやらない!」の世界である。 三層の世界をきっちり意識していれば、特に世間の現象をクールに対処する事が できそうなのだが。 ーつづく ・・・・・・・・・ 2002年02月24日(日) 341,遊びについて−1
人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。 まずその達人を事例で考えてみる。一番身近では母がそのプロ?であった。 戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、父とともに苦労の連続であった。 そして長男、次男の連続の不幸な死で今の重症のノイローゼーになった。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。 亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。 それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。約40年近く遊びきって 亡くなった日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。
子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。 重点としてだが父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。 ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、 罪悪と教えられてなかったか。子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。 ただただ無心に遊んでいた。あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。 人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。 競争に打ち勝たなくてはならない。その為に勉強もしなくてはならない。 しかしそれだけでは、それだけの人生だ。それがクロなら、その対象の白が必要になる。 どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。それを特に母の生き様から学んだ。 一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。 そして厄介な不安という心理がある。その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」である。
遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。そうすると、仕事も遊びになりうる。天才はその典型であろう。 あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。何でも遊びの対象にした「遊び心」を。純真の心を失っているからだ。 「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」 と暗示をかけられてないか? 私の趣味の一つにウオーキングある。初めは腰痛対策であった。 今は大事な趣味ー遊びになっている。純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。 その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。 それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。 そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。「遊びになるまで集中する」という事か。
これから散歩だ!
|
|
|