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2009年01月26日(月)
ー 貧困とは溜めのない状態 ー 格差について、一昨年の今時分に(2007年01月25日(木)階級社会ー不平等社会を考える)で取り上げたことがある。 他にも読書日記で幾つかの本を取り上げた。 ところが先日、図書館で、半年前の08年8月30日号の 「週間ダイヤモンド」を見つけた。 ー「下流」の子は下流? 格差世襲 ー の特集である。 普段の会話ではタブーに近い内容が次々と出てくる。格差といえば差別である。 自分が上位に立っているときは何とも感じないが、下位にたたされて差別で屈辱を経験した時に 格差社会の実態を知ることになる。 差別からくる屈辱は傷になり、恨みは何時までもまとわりつく。 般若の面は、差別の屈辱に対する怒りの顔。 この特集では、いろいろな視点から格差を調査しているが、 ・「育った家庭によって、機会の不平等が生じている」という「格差世襲」の残酷な調査結果を示している。 ・「まるで溜めのない貧困層」、それに対して 「溜めに包まれた富裕層」 「貧困とは‘溜め’のない状態」と現実は教えてくれる。 その典型が何も考えない若い人の成り行きの「??婚」。何の経済的な裏づけのない人たちの結婚である。 ここに夫婦格差が生まれる。 その子どもには両親以上の教育が施すことなど、出来ようがないのである。 その結果、下流の子は下流になるしかない。
「溜めのない貧困層」といえば、大阪・堺市の生活保護受給者の四分の一が、親の世代も生活保護を受けていた。 母子家庭にいたっては、四割が‘生活保護二世’。 また母子家庭の26・4パーセントが十代の出産を経験。 まさに貧困の連鎖の構図がここにある。 逆に溜めのある人は、溜めのある人と群れるケースが多くなる。 一例として最近、医者同士の結婚が多い。 女性が医学部に多く進学するようになった結果である。 また医者社会での結婚のチャンスも多く、二人の給料の総額は莫大になる。
1995年以降に自分でのし上がってきたベンチャー経営者や、専門職を中心にした新世代の富裕層は、 お金より自分の知恵や経験を子どもに相続させたいと考えている。 多額のお金を相続させるより、子どもの教育に金の糸目をつけないのが特徴。 無形の財産を与えることで、子どもにも自分の力で成功を勝ち取るように教えている。 「地位獲得競争ゲーム」に、無形の「出来レース」を与えていることになる。 世界の億万長者のトップのビル・ゲイツ、ウォレン・バフェットとも、資産は子どもに残すことをせず、 その大半を寄付をすると公言している。 とはいえ、同じ兄弟でも大きな強弱が出来る。 − つづく ーーーーーーー 2008年01月26日(土) 2488, iMacの感想!
○( ̄ ̄ ̄ ̄o ̄ ̄ ̄ ̄)○ おっ W( ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄)W は〜♪ Mac製品の売り場を何度か通って、何時かは使ってみたいが何か壁があった。 それは外国メーカーと、 少数派の壁だったろうか、それとも周囲に一人も使っている人がいなかったため? だったのだろうか。 しかし、今度思い切って買ってみた。iMacというWindows兼用可能の製品で、オールインワン型である。
買ってみて初めて分かったことは初心者に優しいということである。 まだ合計でも数時間しか使って(いや、触って)ないが、それでもWindowsより使いやすいことは分かった。 Windowsは、あらゆるメーカーのパソコンにのせるため、メーカーの方に顔を向けざるをえないのである。 ソフトとハード一体型開発の大手は、考えてみたらアップルしかない。 それを強みにして消費者に(特に初心者)にとって使いやすい開発に特化してある。 ところで、なぜマイクロソフトにシェアをおさえられたのか? 多くのパソコンのメーカーが、それぞれ特化しながら売り込みを図るからである。 更にマイクロソフトのナンバーワンの強みに、ソフトのシェアがWindowsで占めている事情がある。 一般企業や大衆はMacに魅力を感じながら躊躇するのである。 ところが私のような、ブログとHPとインターネットと、写真管理ぐらいしか必要としない大多数が、 Windows vista の不評をキッカケにMacに関心を向けはじめつつある?ようだ。 会社の事務所のMacはWindows Vistaと兼用のものだが、ソフトを多く必要としなければ、Mac専用の方が、 その良さを引き出せるのでは!という見方もある。あと一〜二週間後に結論を出すが、その方が面白そうか? それも時間が経ってみないと分からないのか? 自宅は、少し様子をみてからMacを入れるつもりである。 恐らく、一年後、いや数ヵ月後は、Macの熱狂的なファンになるだろう? まあ単純なものだが・・・ それにしても、現在使っているノート型のパソコンと、この薄型のデスクトップ型と、 これほど違うのには驚きである。ブラウン管とデジタルTVの差の違いと同じである。 ブログにしても、このMacにしても、進化はとどまることはない。 (。´_`)ノ ホナ! ーーーーーーー 2007年01月26日(金) 2124, 死んだ人に、もう会えない? <(_ _)> おはようございます!
義母が昨年の12月01日に亡くなって、もう49日以上が過ぎ去った。 家内を慰める言葉として、哲学者のエピクロスの「<われわれ>が生きているとき、死はそこになく、 死がそこにあるとき、<われわれ>は生きてはいない。だから死はわれわれに何のかかわりもない・・」 の意味を説明し、補足として、「一人称の本人の死は存在しないし、三人称の死は他人ごとでしかない。 二人称の死も実際のところ本人じゃない。死に慌てている、そして死に対し無知な自分がいるだけ。 死はあくまでも他人の昇天と周囲の悲しみを見て感じつくりあげた観念でしかない。実際は死んではいない」 といったところ、家内「でも、会うことがもう出来ないじゃないか」と素直な気持ちを吐露した。 それに対し、スラスラ出た言葉が、「でも、それはこれからのこと。唯心論じゃないけれど、思い出の中で会える。 自分の大部分は過去で出来ているし、過去は都合の良いように変えることも出来るが、 間違いなく存在していた。 その存在こそ絶対であるし、消すことも無くなることもない。 もし死んだとしても、実は死んではいないし、 もう会えないということより、母親その人と会えたことの方が奇跡だし、その方を考えた方が良い。 悲しいのは解るが、死とは何かじっくり見つめ学ぶ機会と考えた方が良いんじゃないか」悟ったような答えであったが、 考えてみたら哲学者の池田晶子の言葉のうけ売りの言葉。 しかしスラスラと出たのは事実。
『死』は人生の最大の関心事である。それも自分の母親の死は、自分そのものの死を考える機会になる。 両親が亡くなって、その直後の数ヶ月を過ぎてからは寂しい思いはなかった。 亡くなることによって、心の中心により深く住むようになった。そして心の底から感謝ができるようになった。 しかし、これは義母−二人称の死の話だが、実は自分のことでもある。まさに死そのものより、 「現在、いまここ、にある自分の存在」の意味と同じことをいっているのである。死を考えるということは、 自分が「いま・ここ」に、そして生きてきたことの不思議を考えることである。 亡くなる=無になるということは有り得ない。「無にどうしてなるのか? 無いものに成るなど、ありえないこと!」 全くそのとおりで疑う余地は全くない。それが存在することの不思議につながる。 「何故いま・ここに、自分がこうして存在しているのだろうか?」不思議で不思議で、 まずそこから出発しないと・・存在とは何か?そして、その消滅とは? ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪ ・・・・・・・・・・・ 2006年01月26日(木) 1759, 閑話小題 (●′∀`)σ )Д`○)★Ohayou☆ ー新手のおれおれ詐欺?ー
・友人A 氏の名をかたった「おれおれ詐欺?」の電話が自宅にあった。 一昨日の午後、自宅に友人A氏 の名前で「主人在宅ですか?」という電話が入った。 家内が声が違うので不審と思い、直ぐに切ったという。昨日友人A 氏に聞いたら、先週の金曜日に、 彼の前の会社の元部下B氏の自宅にも同じ時間に同じような電話があり、やはりB氏の奥さんに疑われて 電話を切ったという。私とその友人氏B は顔見知りだが仕事上の直接の繋がりは無い。 友人A氏の10年前の会社を名乗ったというから?A氏の現状を知らないとみてよい。 恐らく十年以上前にA氏と行った飲み屋?で渡したA氏の名刺の裏?に、会話の中から名前を知り書いたか、 あるいは私もB氏も(別々)に名刺を置いてきたのかもしれない。こういう仮説をたてるのは面白い!が。 直ぐ電話を切らないで、相手が何を狙ったのか聞いていたほうが面白そうだ。 新手のおれおれ詐欺だろうが、気楽に名刺も出せない時代になった。 ~旦_(‥ )ま、茶どうぞ! ーうそー 日本語は面白い。その中で、人のためと書いて「偽」ーウソがある。 昔の人は深く偽善を見抜いていたのだろう!人が為すことは全て偽とも受け取れるが! 論語を黄色い声で読んで、その視点で(自分ではなく)他人を攻撃する輩を何人か知っている。 それでも勉強をしないよりましか?そういえば亡くなったが、茶坊主の経営評論家が、 論語を持ち出し片っ端から切り捨てていた。経営者は人格がまず要求される第一の要素だが。(*ノω<*) ヾ(*´▽`)ノ=з=з=з バイバイ! ・・・・・・・ 2005年01月26日(水) 1394, 人間の成長角度 ー知人が面白い話をした。
「人間には、それぞれ上昇角度がある。それを早く見抜いてエリート教育をすべきである。 その角度は、よほどの事がない限り変わらない。変わるとしたら、大きな挫折か、大失恋かである。」 なるほど、と感心をした。ある共産党員が話していたとか。 中学校は選抜される前の最終の集団である。 (今は違っているケースが多いが)その時の成績の順位が、そのまま人生の優劣を決定している。 以前にも書いたことがあるが私の中学校の同級生を見ると、一番が慶応の教授(故人))、 二番が日本レコード協会の専務理事、三番が自衛隊の偉いさん?で、四番が私?で、大手損保の支店長、 中学の先生、その後が税理士になって?の税理事務所長(二代目だが)で、ー女性は省いたー成績で見ると 目立った人はいなかった成績の悪い順は書かないほうがよいようだ。??な人が殆んどである? 別に「慶応の教授がどうだ」ということはないが、生き生きしているかどうかで判断してもよい。 人間の成長角度は、その時に決まっていたのは事実である。大体が10歳で既に決まってしまっているが、 次の筋目の時期は、中学二年であろう。両親の質?の問題が、大きいのが最大の理由である。 その成長角度も、20歳で終わってしまうケースもあるし、40歳の場合もある。 大器晩成型もある。高校一年の時のクラスが担任の先生が素晴らしいこともあって、そのクラスから東大、 早稲田、慶応に多く合格した。しかし、東大は精神病で廃人、早稲田は自殺、・・・。 振り返ってみると、順調な人生の人は性格のよい人が多い。 そうでもないか?いや、そうだ! 反対に無事・長生きにかけるしかない人もいるが。老後は、これが一番か!しかし、これは傍迷惑になる? ライフワークを持って、仕事とのバランスを保っている人が成長角度を保っているようだ。世間様の世界で 浮きしずみしている人は、下降角度になっているのが多いが。まあ、いいか!誰が見ているか解らない?
・・・・・・・・ 2004年01月26日(月) 1027, 大人のワッペンー勲章の意味
「新リーダーの研究」 読書日記−1 「叙勲に辞退」が価値をもつ時代
飯塚昭男著の「新リーダーの研究」を図書館で借りて読んだが、なかなか内容があった。 目次の見出しだけ見ていても、ハッとする内容が並んでいる。 その中で『「叙勲に辞退」が価値をもつ時代』というのが良い。叙勲は春と秋の定例行事になっている。 批判をしたいが、「貰えないからやっかんでいる」と思われるから、誰も批判しないで黙っている。 著者は、誰もが普段思っていることを辛らつに書いているのが良い。 私の意見と、著者の意見をミックスして書いてみる。責任転嫁もできるからよいが、著者は辛らつである。 ・「大人のワッペン」とズバリ言ってのけている。ーもらって涙をこぼしている姿は可愛いといえば可愛いが。 ・大体が叙勲で人の価値が決められるというのか。 どういう規準でランクをつけるというのだ。 詐欺まがいの元首相と一生を教育や福祉に捧げた人を含めてどういう規準でランクの上下を決めているのか。 ・総理府の勲章局というのがあって、「全銀連盟」や「鉄鋼連盟」 などの業界団体が推薦者をあげて、 各々の所轄官庁に書類を提出。その中から選ばれるという。要するに官民の談合で決められるという。 それを総理府などの長官会議で決めたものを、総理がサインをして決定する。 それは政財官の癒着の温存の元凶になっているという。ーこの本を読んでマスマス馬鹿馬鹿しくなってきた。 ・心ある財界人はほとんど辞退をしているという。政治家は喜んで、いや自分から働きかけて哀願するという。 政治家は国民を騙す以前に自分を騙しているから、ワッペンで自己証明をしないと御祓いができなくなる。 政治ごろの鑑札?は、言い過ぎか。 文化勲章は認めてよいのではというが、人間国宝というのがあるから、充分である。 さっきも書いたが国が、いや役人がそれを決めるとはオコガマシイ。天皇制の一つのフレームなのだろう。 また経営改革は自己改革という言葉にハッとした。会社の転換期に入っているので、 一番実感している。 一番の抵抗勢力は、自分の固定観念と甘さである!
・・・・・・・ 【新】リーダーの研究 ◇飯塚昭男著 <内容紹介> ー以下、字数の関係でカット2009年01月25日ー (次回は、この目次の小項目と、その解説を書き込む予定) ・・・・・・・ 2003年01月26日(日) 662, 「他人の血で自分の傷口を洗うな!」
この言葉を初めて聞いた時、その意味をしばし考えてしまった。相手を傷つけてしまう事は 「何らかの意味で自分の問題を相手に投影してしまった」という事でないか。 いじめっ子は家庭の不和の子が大部分だ。そのトバッチリを学校で弱い相手を捜して攻撃する卑劣の行為だ。 これが「他人の血で自分の傷口を洗おうとする行為」の典型だ。あと戦前の日本軍の古参兵の新兵虐めもそうだった。 「新兵の時の虐めをやりかえす」という行為で傷口を洗っている愚劣の行為だ。必要悪の部分もあるが。 傷ついて膿を心に持っている精神症(精神病)の人も、その苦しさのあまり血の匂い嗅ぎつける。 「自分の人生失敗だった」という敗残者もこういう傾向が強い。精神に深い傷を持っている。 といって正常の人でも、誰でもその傾向はある。その軽い症状が「他人の噂しか話す内容を持たない人種」だ。 教養を積んでこなかったオバちゃんだ。男ー子狐もいるが。これには大きな落とし穴がある。 他人の血で傷を洗うという事は、その傷を目先癒すが逆にどんどん傷を深くし、さらに黴菌が入ってくる。 それこそ「無知の涙」である。他人の事といっていられない自分の問題だ。誰もが心の傷を持って 知らないうちに他人を傷つけている。そして傷つけてきた??・・!それに気がついているかどうかのだが。 「恨んだ相手は高いびき」その相手になっているのではなかろうか?
・・・・・・・・・ 2002年01月26日(土) 312,書くということ
書くということの意味とは 毎日随想日記を書き続けて、いろいろの事にきずく。 書くということは、話すということより、ずっと多くの事を、意味を感じるようになってきている。 この20年間社内報に隔月に文章を書き続けて、その継続も含めて意味を感じるようになりました。 その時々のメルクマールだ。あの時アア考えていたのだ、こういう本を読んで感銘していたのだと。 それが全くやり続けてなかったら何が残っていたのだろうか。書けば消えずにそのまま残っている。 話すという表現手段と、文章化の手段と一見小さな相違が、継続という時間の中で無限に近い相違を引き起こす。 つくづく 書き残していてよかったと実感している。時間が経つとその自己表現が、自己認識になってくる。 したがって、それに書き加えていけば、自己認識が深まる。そして自己吟味できるようになる。 実をいうと、そのためにホームページにさらし、自己表現のレベルの維持と、自己顕示のそれを原動力にして 書き続けているのです。地方にいると例の「子狐の群れ」の中で自分を見失いがちになります。 見失わない為に、これは最低限必要なシャワーでもある。 ー自己詭弁,正当化もいいとこ? まずは書き出す、そしてそれに筋を通す、そして客観化する、そして深めていく行為である。
・・・・・・・・ 1月26日 日曜日 1969年
12時起床。 市川さんと食事に行く。この人、理系がお医者さんのお守りの営業をさせられているためか、 理詰めで社会を理解しようとしている。人間の、いや社会の、いや自身の嫌らしさを知らない。 その後読書をする。夜、レポートの作成に入る。次にマーケッテングのレポートを作成。 夜半の3時に就寝。今は卒業をする為の集中が必要だ。
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