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2008年10月14日(火)
「ソロスは警告する」 ジョージ・ソロス著 講談社 ー読書日記ー
『アメリカ経済の終わりの始まり』などの著者の松藤民輔の解説の中の次の文章が、 欧米のエリートの意識感覚を言い表している。これがアメリカのエリートだけでなく、日本の官僚や、 エリートの偽らざる意識である。 所詮そんな意識とて、猿回しの芸を仕込まれたエテコウが一方的に 大衆をブタと決め付けているだけのこと。そのエテコウの舞い上がった演技で最悪の犯罪を犯したのが、 このサブプライム問題。 しかし彼らから学ぶことは「哲学と歴史を学び続けること」である。 歴史と哲学は最も重要な基本的な教養であるからだ。といって所詮あんなものかと、冷笑して学ばなければ、 ブタと言われた時に認めざるを得なくなってしまう。 まあ、面白いから、一度は知っておくべき彼らの意識構造である。 世の中は差別で出来ているのです、 −−− ー松藤民輔(解説文)よりー 「オックスブリッジ」の歴史学科を出ているその人物は、 私たちに平然と 「歴史を勉強していなかったら、ブタだ(人間じゃない)よ」と言い放った。 特定の人間を愚弄した言葉ではなく、ごく普通に口から出た言葉のように思えた。 これが世界の政治経済を牛耳るトップの感覚なんだなと、その時、私は痛感したものだ。 現実に、彼らエリートには彼らだけの標準である「共通言語」や「共通認識」がある。 そうした共通言語をもち、真のエリートたちのクインナーサークルに入れるごく一部の者だけが、 世界の大企業のトップとなって数十億円の年収をもらい、プライベートジェットでスイスのダボス会議に参加し、 「次の金儲けのテーマは「金融」から「エコ一にしよう」などという、地球の新しいルール作りにたずさわる資格をもつ。 欧米、特にヨーロッパでは、エリートになるための教養知性として哲学や歴史学は必須科目なのだ。 実際、どちらも彼らが己の理想や世界観を自分の言葉で語るのに不可欠な学問だと思う。・・・・・ 一見、現実的な政治と観念的な哲学とはあまりにもかけ離れているようにも思えるが、実は、そうではないのだ。 あくまで私見だが、「私のようになりたかったら、哲学を勉強しろ。私のように考え、歴史から学べ。 そうすれば世界の政治経済に参加出来るエリートになれるチャンスがあるぞ」といったソロスなりのメッセージが、 この本には込められているのだと思う。だからこそ、彼の本は、欧米で、、明日のエリートの仲間入りを夢見る 多くの人々に読まれるのだろう。 さて、ここでまた一つ、厳しいことを言わなければならない。 それは「日本には真の意味で世界の"インナーサークル"に入れるエリートがいない」という現実だ。 これは戦後の日本がひたすら大衆国家の道を歩んできたこととも深く関係している。残念ながら、今の日本には、 数十億円もの年収をもらい、ダボス会議で世界のエリートたちから相手にされるような経営者はいない。 それは、これまでの日本の政治家、経営者に、世界のエリートからサークルの会員として認められるような 資格を備えた人がほとんどいないからである。 (哲学や歴史を学び、世界で起こっている出来事と関連づけて考え、さらには、その世界観を自分の言葉で語ることが出来る」。 それがエリートの道へのパスポートなのだ。 私がこの本を勧める第二の理由は 「ソロスのような欧米型知的エリートの思考法を身につけるのに格好の本」は、以上の背景による。
おそらくソロスは、市場の微妙な動きやデータを、彼の長年にわたる経験や独特の直感から「認知」と「操作」とに分類し、 瞬時に頭の中で判断しているのではないか。これは論理的というよりも、心理学で言うところの「内観」的ー自分の意識や その状態を自ら観察することなどの発想法に近いと私は思う。本書でも明らかなとおり、若き日のソロスが熱心に学んだのは 一経済学『というよワも一哲学一や「歴史学」だった。哲学で知り得た膨大な知見を金融市場に応用し、 常に考.義けていくことで、彼は独自の直感を磨いていったのだと思われ、おそらく、ソロスの言動や発想や思考は、 ソロスの境地に到達しないと分からないし、短期間の学習ですぐに習得出来る類のものでもないだろう。 だが、たとえソろスでなくとも・ソロスのような「頭」をつくるためのトレーニングは出来るはずだ。 私が冒頭で、「ソロスのような天才投資家に不可欠な、"市場を読み解くための技を体得するために本書は最適の教材である」 と断言したのは、まさにこのことを言っている。 ソロスの本が欧米のエリート志願者に読まれる理由も一つである。 本を読んで非常に強く感じたのが、「エリート」としてのソロスの自負である。 −−− 以上である。アメリカ国民の大半が、金融機関の救済に反発するのは、この文章からも理解できる。 1929年の大恐慌のときは、千数百人を逮捕したというが、今回は無理だろう。 今回の大統領選挙で、それを選挙公約をした方が勝つだろうが、資金の出所が、そこだから絶対に無理 !
・・・・・・・・・ 2007年10月14日(日) 2385, 私の嫌いな10の人びと −3
「私の嫌いな10の人びと」 中島 義道 (著) ー読書日記
2章の「常に感謝の気持を忘れない人」が中島らしく面白い。 少し歯切れは悪いが、それでもただ無闇に感謝する日本人の感覚に疑問を持つのも、ご尤もである。 感謝を売りにして一財産をなした小林正観という人もいる。この人の本を何冊も何度も読んだが、 一度ひいてみれば、所詮は「感謝という言葉を売りにして、一財産を築いた男」でしかない。 英語で、まず憶えるのはイエス、ノーの次にサンキューであるから、大事なのだろう。 営業の場合、この人の本を読んで心から感謝をする訓練をすれば、営業ギアは一桁は間違いなく上がるだろう。 といって熱くなり過ぎも問題。 何か宿泊施設がある会があるようだが、集まるのは羊たち。 隠れ狼からみたら、これほど美味しい集団はないだろう。 少しは哲学の本を読め!ちゅうの。 手っ取り早く、効果を求めるものではない! 「このウマシカ!」と言ってやりたいが! しかし、感謝の念が足り無すぎる人があまりに多いが・・・。それより無知の方が問題じゃないのか? いや、自分が無知ということを自覚すること!それが哲学だろう! 自分のことだから!よーく解るの。 ーまずは、その一節を書き出してみるー おうおうにして現代の日本は、これを知能指数ならぬ「人間性指数」とかみなし、全ての人に高飛車に強制し、 これが欠如している者、希薄な人を欠陥人間とみなす風潮がある。 そこには、身動きの出来ない定型化があって、 一種の魔女裁判のような糾弾の姿勢に対して、疑問をなげかける。 一見平和の日本では、この感謝の念の足りない人に対する異端裁判が日々行われている社会である。 何かをしてもらった時に、感謝したい気持になる時と、感謝をしたくない時がある。 それは、相手が自分に何を期待しているかによる。何も期待してないとき、われわれには自然と感謝の念が湧き上がる。 しかし背後に、相手の自己利益や、計算高さ、自己愛、放漫さ、自分に対する軽蔑、恩着せがましさや、 見返り・・・などが透けて見えるとき、とっさに感謝の言葉を呑み込んでしまうのです。 常に感謝の念を忘れない人は、困ったことに、自分が心がけているように、 それを人類の普遍的法則のように、全ての人に要求します。そして裁きます。 しかも、絶対に表向きでなく、じろっと白い目を向けて、感謝のない人を裁きます。 現代では、現代の日本では、感謝を忘れない人がうじゃうじゃ生息していて気味が悪い。 とくに私が生理的に受け付けないのが、女性に多いのですが、頼みもしないのに、色いろ世話をやく人。 ここまでは、まあいいです。気心がしれてない、膨大の人は、私がちょっとでも恩恵を受けると、 全身を耳にして私が感謝の言葉を発するのを期待するのです。私のように世の大多数と信念や趣味が ずれていると、他人から受けた普通の好意に感謝の念が沸いてくることはないです。 −−− 感謝は大事であるが、感謝を意識しすぎると、他人にまで無意識に強要してしまう害を言いたいのだろう。 感謝、感動、感激、驚き、歓喜は最も大事な心の働きで、常に忘れないことである。 それは自分の心の奥で培養すべきこと。三波春夫の「ありがたや節」として呟いていればよいもの。 何ごとも中庸、中庸! 感謝ヽ(´∀`*)ノ感激ヽ(;´Д`)ノ雨ヽ(@´з`@)ノ 嵐♪ ┌(。Д。)┐ あは ・・・・・・・・ 2006年10月14日(土) 2020, 13日の金曜日恐怖症 (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ
昨日は「13日の金曜日」であった。日本では、あまり騒がれないが、西欧社会では「13日の金曜日恐怖症」がある位、 この重なりの日は自重をしている人が多いようだ。さっそくネットの検索で調べてみたが、 インターネットは手軽に調べることができるから便利である。 古代から、13という数字が不吉というのは、初めて知ったが金曜日との重なりを嫌うのは週末もあるのだろうか? 数年に一度しかないので、この機会に知っておくのもよい。 まずは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のー13日の金曜日ーから抜粋してみた。 −−− ・キリストの最後の晩餐に13人の人がいたことから、13は不吉な数とされた。 ・またキリストが金曜日に磔刑に処せられたとされていることから、13日の金曜日が不吉であるとされた。 ・一説には、イヴによるアダムの誘惑も大洪水からノアが脱出したのもバベルの塔が壊されたのも 13日の金曜日だと言われるが、聖書にそのような記述はなく迷信の域を出ない。 (中間、字数の関係でカット2008年10月14日) ーリアルの例としては、 オーストリアの作曲家シェーンベルクが有名である。彼は1874年9月13日に生まれた。 13は縁起の悪い数とされており、7と6をたすと13になるから彼は76歳で死ぬと思い込んでいた。 1951年、76歳になった年の7月13日の金曜日。その日が来ると彼は用心してベットから一歩も外に出なかった。 そしてその日がいよいよ終わろうとする午後11時47分、彼は死亡した。 −−−− まあ、13日の金曜日は皆で、このような話を楽しむ日ということか? (。^0^。)ノホンジャ、マタ! ・・・・・・・・・ 2005年10月14日(金) 1655, 北イタリア旅行記−6 イタリア三大巨匠 ーダ・ヴィンチとミケランジェロ、そしてラッファエロー
このイタリア旅行まではフィレンツェの「ウッフィッツェ美術館」の存在を知らなかった。 この美術館にはイタリア美術史に燦然と輝く名画が勢揃いしてあり、馴染みのある絵画を次々とみることができた。 ・ボッティチェッリの「春」「ヴィーナスの誕生」 ・ミケランジェロの「聖家族」 ・レオナルド・ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」「受胎告知」 ・ラッファエロの「ヒワの聖母」 ・フィリッポ・リッピの「聖母子と二天使」 などなどである。 特に印象的だったのが、ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」である。 この絵は下書きの未完のものだが、「モナリザ」「最後の晩餐」に匹敵するもである。 また、ボッティチェッリの「春」と「ヴィーナスの誕生」が素晴らしい。 「春」を壁紙のHPよりコピーして一ヶ月位パソコンの背景画にしていたので身近な感覚で観ることができた。 地元の女性ガイドが絵画の説明の中で、同時代に生きたダ・ヴィンチとミケランジェロ、 そしてラッファエローの三人の関係を解りやすく説明してくれた。 特に、ダ・ヴィンチとミケランジェロの人間臭い対立のエピソードが面白い。 それぞれの絵画の中の意味を知れば知るほど、その奥行きの深さが伝わってくる。 きしくも、三巨匠にボッテェチェリーなどが同時代にいたことが不思議である。 「旅は肯定である!」と、何かの旅についての随想にあった。 ー旅は、肯定するためにある。ときにおこなう否定もまた、肯定の一種なのだ。 人間は、存在そのものが「!」であり、肯定なのだ。− 全くそのとおりであり、人生にも通じることである。如何なる場合でも人生は前向きにあらねばならない。 憎むためでなく、愛するためにある。苦しむためにあるのではない、楽しむためにある。 疲れたら、休めばよい。 急ぐことはない。 旅行は、そのことに気をつかせてくれる。 つづく ・・・・・・・ 2004年10月14日(木) 1290, ダイエーが再生機構活用!
一昨夜、自宅の近くにあるダイエーの紳士売り場と、靴売り場を見て驚いた。 売り場に商品が、あまりに少ない。債権が焦げ付く可能性があれば、メーカーや問屋が商品の納入はしない。 まさに末期現象と思っていた。ところが、昨夜のTVのテロップで、「ダイエーが再生機構を受け入れる」と 臨時ニュースを流していた。これで、解体、売却の手順が踏まれることになる。 一つの時代の終わりの象徴といってよい。学生時代、ダイエーが流通革命の旗手として飛躍を始めていた。 チェーンストア理論を売りにしていたペガサスクラブの優等生であった。 グループとして、解体過程に入っていたが、これで本体も売却か、解体に入る。 ジャスコ、ヨーカ堂が生き残り、ダイエー、西武流通グループ、マイカル、長崎屋、ヤオハン、九州の雄の寿や、 などが消滅することになる。多角化を経営方針にした会社が、消滅していったのが印象的である。
話は逸れるが、この文章の下地を書いている19時のNHKのニュースで西武鉄道の堤義明オーナーが、 全てのグループの役員を辞任、プロ野球の西武のオーナーも降りるという。 巨人のオーナーが辞めたので、堤が辞めれば更にプロ野球は一変する。 リストラこそ大事な時に、肥満の方向に逆流するのだから、±プラスマイナスの両方ではなく、 マイナスである事は間違いない。 西武も売却の可能性がでてきた?勝ち組、負け組みとか いっていられない時代になってきた。堤義明の場合、逮捕されるかどうかの瀬戸際の大問題になる可能性がある? そうじゃなくては、全てのグループの役職を降りるということはないからだ? グループで上場廃止になる会社が幾つかある。大問題である。いずこも大変な時代である。
・・・・・・・・ 2003年10月14日(火) 923, アイスランド旅行記ー3
ーオーロラハントー 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。その時は「何だこんなものか」 という程度で、期待とは全く違うものであった。薄い雲がスジ状に光っているだけであった。 だだ行きの飛行機から見たオーロラがカーテン状に広く光っていたが。 今回も5日間で一日しか見えるチャンスが無かった。夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。 感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。 そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。 天空に展開した時の感激は、想像をしていたより遙かに神秘的かつ荘厳であった。 写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。 これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。
天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に壁になり揺らぐ青白光の波がこの世のものと思えない、 神秘的なものであった。あとは「・・・」である。 取材できていた共同通信社のカメラマンが、 「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」と私に話しかけてきた。 「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。その時、涙が出そうになっていた。 以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。 「もういつ死んでもよいと思った!」「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」 それを聞いて、「ちょっとオーバーではないか?」としか思ってなかった。 しかし、この言葉の意味が実際見て初めて解った気がした。 あと一度見たら、アフリカの大地のように完全にハマってしまうだろう! ・・・・・・・ 549,「宣戦布告」 - 2002年10月14日(月)
先日、映画の「宣戦布告」を見てきた。 北朝鮮の拉致事件の帰国も迫っていることもあり、 迫力と現実味のある面白い内容だった。「日本海沿岸の海に,一隻の国籍不明の潜水艦が海岸近くで座礁した。 浮上した潜水艦からは、戦闘服に身を包んだ男たちが出現、夜の闇の中に姿を消していった。 −そんな中からかって無かった未曾有の緊急事態に見舞われる。 今の法律では北朝鮮の戦闘員に発砲すら許されない。 追い詰めるが、一方的に射殺されていく。そして全面戦争への危機に発展していく姿」をまねいている。
この危機状況は、現実に起きても不思議でない状況である。 スターリン時代のソ連が、プチの状態で存在しているのが北朝鮮である。 その現実と平和ボケの日本をこの映画はいいたいのだろう。日本も北朝鮮に似ているのが皮肉だ。 日本の官僚は北朝鮮のそれと全く同じといってよい。巧くカバーしているだけだが? 今の経済危機の状況にも酷似しているのが不思議でもある。相手はアメリカでしかないが?! 非常事態にも、その危機状況に気がついてない政府と官僚の姿がそこにあった。 明日にも拉致をされた5人が帰ってくる。そのうちの3人が新潟県で拉致をされた人だ。 その姿を見て世論が沸くだろうが、景気にマイナスにならないかと心配だ。そこにある危機を実感するからだ。
・・・・・・・・ [186] 野村と円楽 2001/10/14
10年前の話になるが、新潟の大蔵ホテルで野村と円楽の講演会があった。 メインが円楽で前座が野村であった。もちろん私も円楽がまず面白そうで、野村も面白いのではと期待していった。 まず野村が出てきた、そして黙って会場を見渡し、ニヤッと笑い、「大部分は女性ですね、私の話なぞ如何でもよい と思っているんしょう。円楽の刺身のツマぐらいと思ってるのでしょう」実際そうでだったから、ザワツイテイタ会場は シーンとなってしまった。その瞬間に野村のペースに聞き手をのせてしまった。 ー要点はー ・自分は投手の練習用のキャチャー「壁」として採用され ・数年後解雇を言い渡された・丁度その時父親が癌になっていた ・直接上司と掛け合い絶対に辞めないと粘りかろうじて首を免れた ・そのぎりぎりのところでどうしたら一流になれるか考えた ・一流の選手は持って生まれた天性ある、努力だけでは埋めがたい差がある ・そこでぎりぎりのところで、どうしたら一流になるための方法を考えたー頭を使ったー 等々、底から這い上がってきただけに、一言一言が経験のうらずけがあるため説得力があった。 また彼も浪人の真っ最中の状態で、話に力が入っていた。 今までー王、広岡、森と講演を聞いたが、 野村だけは底から這い上げって来たためか、ずば抜けた内容があった。 その日の円楽の話も力が入っていたが、所詮噺家の内容はしれたもの、しらけた会場の空気が漂っていた 。 さすがキャチャー、瞬間その場を雰囲気をとらえ、自分のペースに捉える術。今でもありありと憶えている。 キャッチャーは9人の選手のうち、一人だけ逆方向を見ているのだから。
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