堀井On-Line



2705, 酒の話

2008年08月31日(日)

ここでも、何度か酒の失敗について書いてきた。 しかし楽しい酒はこれまた格別よい。
致命的な大失敗をしても仕方が無いと割り切れるほど、酒は日常の制約や退屈さから解放をしてくれる。
「酒はモラルの休暇」とは、よく言ったものだ。 世界の人たちは酒の少々の失敗は認めてくれる。
歴史を振り返っても、どの社会でも飲めや歌えの大騒ぎを許容する祭りや行事があり、その日のことは、大目にみられてきた。
ただ酒で抑制が解放されてしまい、殺人や、思ってもいない浮気や、失態も起こる。
「しらふの人間が心の中で思っていることを、酔っ払いはベラベラと話してしまう」ことが、酒の一番の欠点だろう。
そういう不節制にも教育的?価値もあるという。 少し無理はあるが、直接跳ね返ってくる身近な事件?になるからだ。
あまりに真面目くさった人生も、これまた面白くも可笑しくもない。 
下戸の人は、酒を飲んで大騒ぎをしている高揚した楽しさ、至福を知らないまま生涯を終えるのである。 
 
普段の生活の中に、自分を解放する夕時の一時の時間として一般的には、
どの世界もアルコールは日常の生活に入りこんでいる。
どの街にも飲み屋街が繁華街にあり、多くの人が頻繁に出入りする。スペインにはバールが、何処にいってもある。 
値段の安い西欧居酒屋である。 そこには、誰もかしこも入り浸っている。
長い歴史の中で、出来上がった庶民の娯楽施設だが、そこで家族や友人同士が夜遅くまで話し合っている。
カフェテラスのように店の前にも席があって、多くの人が親しそうに話しをしているのを見ると、奇異な感じがする。
バイロンは「理性があるからこそ、人は酔わねばならない。人生で最高のものは、けだし酩酊なり」と、いっている。  

  酒に十の徳あり(酒には十種の長所がある)という。
 百薬の長、 寿命を延ばす、 旅行に食あり、 寒気に衣あり、 推参に便あり、
 憂いを払う玉ぼうき、 位なくして貴人に交わる、 労を助く、万人和合す、 独居の友となる。

酒は、つらい日々ほど、その時間だけは美味い酒で楽しい最高の気分になれる。 辛い日々の酒こそ、美味い味わいが残る。
一時的に天下を取ったような気分に慣れるのである。 達成感など実際の喜びを感じるには長い年月と、汗と涙が必要となる。
しかし、酒は酔いという作用で、その喜びを与えてくれるのである。 だから、恐ろしいのである。

 まあ、よくぞ、これだけ、酒で失態をしたものだ。 しかし、その時々に本当に美味い酒を飲んできた。
これが、もしかしたら、人生で一番の価値あることだったかもしれない。
 たまには大騒ぎをするのも良いじゃないですか、ということだが、「御前の場合は、それさえなければ、な〜」
と何度言われたことか。 そして自戒しとことか! 
 でも、私から、それを取ったら毒の無い河豚みたいなもの。
  棘の無いバラ、それともノンアルコールのビール? それにしても、酒を飲んだ楽しい思い出の多いこと。

先日、亡くなった赤塚不二夫の本を読んだ。 今度書くが、明らかにアルコール依存症。
新宿を中心に飲んで騒いだ具体的内容が書いてあるが、想像を絶した酒騒ぎである。
酒を飲んで漫画の世界に入り込んでしまうのである。
カリブ海のホテルの一つや二つ分は飲んだと言うから、数十億円は飲んだのだろう。
 なら、アル中になるわけだ。 でも、面白かっただろうな、う、ら、や、し、い ! 
  そうでもないか? いや、やはり、うらやましい??
                 

 ・・・・・・・・・・
2007年08月31日(金)
2341, 「私」とは何か?
            〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●)
  「狂人三歩手前」−中島 義道 (著)
                    −読書日記
ー「私」とは何か?ー

「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。
成る程と合点がいったが・・・ 常に考える時、「私」は何々・・・と一日、数百回も自問自答しているのに、
その「私」とは何ぞや?と、考えたことがない。 
それをキチッと知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。

    ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。
      ある哲学書で「私」についての説明があった。
    {「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、
      さっきの橋を歩いていた主観が「私」として飛び出してくる。云々}と。
     成る程と思いつつ、解ったようでもう一つ理解できないモヤモヤが残っていた。
     過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?
     垂直に縦にある「いま・ここ」の主観は、まだ私になってないということ?

ところが彼は、この本の中で、その「私」を噛み砕いて解りやすく説明をしている。
 ーー
−p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。
だが、そうであろうか? いま両肩から下に頭部を欠いた独特の身体が広がっているが、
なぜこれが「私の」身体なのだろうか?そこに独特の感じがするから?だが、
なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか?こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。

「私」とは知覚とは別の独特の作用によって端的にとらえられるものではないか?
いや、そんな独特の作用など見いだせない。「私」とは知覚しているときに、同時にそこに感じられるものではないか? 
いや、胃がきりきり痛い時にそれと並んで独特の「私」という感じなどない。
そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。
そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」とか名付けた。
だが、人間としての「私」がそんな抽象的な発光点のようなものであるはずがない。
あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。

ここで、別の視点から反省してみるに、「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。
「私」とは過去のあの時も同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、
現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。
「私」は、過去と現在との関係において登場してくるのだから、現在の世界を隈なく探しても見いだせないのは当然である。
過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っているのだ。
現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて「私」は身を現わすのである。
ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても「私」の同一性は保たれるということだ。

夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は自覚されていない。
「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。
まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を見ていたことになるのである。

夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、
ぼんやりもの思いに耽っている時など、いわば消えている。
しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。
ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。
私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。
ーーー

    夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。
    じゃあ、夢の中で私は何々、云々といっているのは何だろうか?
    ただ夢の中で過去のことを考えただけで何の問題は無いか!
    まだ夢の中で成立してない純粋何とかいう未成立の?が、
    夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた!
    ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた。
              グッ。・:*:・゚☆w(´・з・`)バァイ
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2006年08月31日(木)
1976, 充実した人生
  おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・  時差ぼけだ〜

先日の新聞広告の「男の品格」という紹介文で
「自分の一生が幸福だったかどうかは、男にとっては大した問題ではない。
だが充実していたかどうかは大きな問題だ」という内容があった。

    ところで私の場合はどうか、考えてしまった。
    幸福度は70~80点? 充実度は、どうだろう? どうしても知人との比較対象になってしまう。
    その充実度は外的なものになってしまう。 それでも、やはり80点か?

幸福度は気持ちの問題だから、その本人次第だが充実度は? やはり過去の人生の密度に関係してくる・・・
密度は濃かった?、それとも淡白だった?のだろうか・・・

    ところで「充実したか」と、「幸福」を置き換えて、「人生は充実していたかどうかは大して問題ではない、
    だが、幸福と思えるかどうかは大きな問題だ」という理屈も、成り立つのでは?
    充実をした人生を送ってない人も多いから、その見方も大事じゃないかと??  
                               ( ̄ω ̄;)!!
全て解釈ー受け止め方、そう言葉・言葉でしかない。
どう考えても充実した人生を送ってない人が、自分は充実した人生を送ったと勝手に思い込んでいる人もいるし、
充実した人生を送ってきた人が、自分は充実した人生を送ってこなかったと思い込んでいる人もいる。
だからよいのだろう!人生は。  充実した人生か〜 やはり大事なのだろう!
  ところで充実した人生とは?
・感動・感激・感謝の詰まった人生
・自分の夢を追い求め、そのプロセスで自分の力を出し切った人生
・自分の好きなことをやり遂げた人生
・燃焼しきった人生
・よく遊び、よく学び、よく働いた人生  というところか!!
                ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
    美味い酒を飲んで、美味い飯食べて、上さんで満足して、ニコニコしていて、
    充実した人生のことなど我関せずで人生を終えるのも良いのだが・・・
ところで充実している時って充実感など意識してないものである。
食べている時満腹感がないのと同じこと。 感動・感激、そして達成感などが、溜まった状態をいうからだ。
不幸のときに充実感はない!しかし充電をしているのだから、空の状態。
下手に充実感など持たないほうがよほどよいのでは?とも考えられる。まあ、いいか!
この旅行の直後のためかイヤニ充実感がある! 気功をすれば、 早朝の散歩も、 気の充実はできる。
それで充分といえば、それまでだが・・・            
          
              ホンジャ(。・ω・)ノ☆゚+.バイ!
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2005年08月31日(水)
1611, 日本人「上機嫌化」プロジェクト−2

著者の斉藤孝は、日本人の持っているエネルギーは「自己肯定力」と看破している。
日本人が忘れかけている独自的な自己肯定力を、次の6つの特質としてあげている。

前回も書いたが、その6つを少し詳しく繰り返しみてみる、
1、日本人とは「上機嫌文化」をもっており、毎日の労働の中でも
 楽しむことを忘れず、仕事の辛さを軽減する智慧があった。
2、日本人は本当に子供を可愛がる民族であり、子供っぽさを慈しんできた。
 その子供っぽさが、新しい文明を取り込む積極性のもとになっていた。
3、日本は湿度の高い国であるから、「とにかく水に流す」ことが好き、
 変わり身が早く、ストレスを溜め込めない民族であった。
4、かって日本人は「身体から入る」ことの重要性をわかっていた。
 経験から勉強する伝統があった。だから向学心が高いレベルで維持できた。
5、私たちの意識は「気づかいを育てる日本語」に大きく影響されており、
 言葉に出さなくともお互いに気を使うことを求められてきた。
6、桜に対する愛情でもわかるように、日本人は「はかなさを愛でる」民族であり、
 その感受性は繊細な心で支えられている。
 そうした細かさを持つ日本人は、心の容量が大きく強い心を持っていた。

上機嫌化プロジェクトといえば、自分がそうだ。「毎日欠かさず、面白可笑しく生きる」ことを、自分に課している。
土・日は、特に「お笑いの日」にして、お笑い番組を4~5本は観ている。
毎朝の散歩では、肯定語を繰り返し口の中で呟くようにしている。
トイレには「絶対肯定・積極一貫」の中村天風の本が置いてある。
同級会で同じ歳の連中を見ると、ほぼ全員が不機嫌そうな顔をしている。
如何してそんな顔をするか、そして胡散臭そうな顔をするのか、不思議である。
「楽観は意志、悲観は感情」というが、上機嫌も意志でつくり上げることが可能である。

私の知人に、万年躁の人がいる。何か不自然な感じがするが、それはそれでよいのかもしれない。
「そう」演じているのかもしれないが。 しかし、かなりの遊び人。
やはり性格なのだろう。 歌でいえば「チャンチキオケサ」のような人だ。この歌、上機嫌の最たる歌である。

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2004年08月31日(火)
1246, オーストリア旅行記 −1

 8月22日〜29日までオーストリアのツアーに参加してきた。最近、文化圏の国に行ってきたのは久しぶりである。
オーストリア一周というから、自然系の旅行かと思って行ったが、チロル・アルプスの景観を見る機会は殆ど無かった。

チロルといっても、ザルツブルクやグラーツやインスルブルクなどの都市の教会やお城を見る内容であった。
それよりも、ヨーロッパ文化の底知れぬ深さに驚いてしまった。
何ごともそうだが、実際何ごとも経験したことしか、自分の世界が広がらないことを毎回実感する。 
知識も然りである。生きるということは、自分の世界を少しでも広げることでもある。
学生時代の欧州一周旅行でウィーンに来たことを思い出したが、ほぼ記憶に残っていないのには驚いた。
  オーストリアの概略を書いてみる
・オーストリアの面積は、北海道とほぼ同じ。
・人口は800万人、そのうち170万人がウィーンに住んでいる。
・国土の65%が山岳地区。
・欧州の中央にあり、北の異民族の防波堤的役割があった。
・ハプスブルク家が何といっても有名である。
日本の人口の15分の1しかないのに、これだけの存在感がある。
やはり文化の深さと広さが、それを成しているのだろう。

                      ーつづく
 ・・・・・・・・・
 2003年08月31日(日)
879, 敗戦の時 ー有事の時代に突入
『会社と個人の資産防衛セミナー』
2003年8月27日 池袋・かんぽ会館12時30分〜17時
             講師清水洋  −中央会ー主催

東京で先日『会社と個人の資産防衛セミナー』に参加してきた。 
以前この随想日記に、この講師の本の感想文を書いたことがあるが、
実際のところどうなっているか聞いてみる時期にきていた。
講師の清水洋の本を二冊読んでいたが、実際参加してみて日本の現状の酷さに驚かされた。
彼は税理士をしていると同時に、会社の再建・再生・債務対策などの指導に奔走している。
その生々しい一言一言がドラマで面白くさえあった。
40人ぐらいの参加者全員が食い入るように聞き入っていた。そのためか、講師も熱が入っていた。

ー要点を印象順に書くとー
・近い将来、間違いなく国債の暴落・金利上昇・ハイパーインフレになる。
 それに備えてヘッジをしておくべきである。動産ー金ーなどに換えておくべきだ。 銀行は預金封鎖もあり得る。
 戦前の預金閉鎖の法律が残っており、閣議決定だけで可能である。
・年間1万9千社が倒産といっているが、実際は転廃業を含めると22万社が消滅している。
 これは関東大震災が目に見えないカタチで毎年おきている以上のことだ。
・今年140兆、来年が150兆、再来年が170兆円の国債発行の予定。
 −という事は、一家の借金にすると毎年500万円の借金が増えていることになる。
 破綻をはるかに超えている状態である。
・それをカバーするのは国債しかない。そろそろ銀行が、その買取に難色をはじめてきた。
 次の手段として小口にして国民に売り始めた。
 歴史的にみて、そうせざるを得なくなった時は国家財政の破綻の時期。
 第二次世界大戦の敗戦直前に、戦時国債が多発された。 それを信じ買い取った国民は財産を失った。
 金やドルに換えていた人もいたという。そういう人が大資産家にとってかわった。
 いま無知蒙昧な国民がこぞって買い始めている。
・現在は大清算時代の有事の時だ、今までの考え方では自己防衛は不可能だ。今までの常識を全て捨てることだ。
・不動産はまだまだ値下がりが続く。良質の不動産と、それ以外の不動産の価値の差がますますつく。
・借り入れは可能な限り返し少なくすること。
・政治家の旧守派と官僚と財界の利権のトライアングルが国家を破綻に導いている。
 国民がその自民党を支持している。この程度の政党の嘘に騙されている国民そのものが悪いのだ。
・日本政府は世界最大の金融機関である。郵貯に、年金、多すぎる税金をかき集め、政治家と官僚が好き放題使っている。
 道路に橋に第三者機関によるホテルや体育館などなど。 すべて採算割れ。 
                     ーつづく
・・・・・・・
2002年08月31日
(土) 505, 独り言

最近、自宅近くで自転車に乗ったり、歩きながら独り言をいっている人に
たて続き4人にすれ違った。 別に精神に異常をきたしているとは思えなかった。
60歳位の男の人は怒りながら歩いていた。家内は何回もそれを目撃しているという。
時代がそれだけ世知辛くしているという事か。 今まで見てきた独り言をいっている人は、明らかに精神の異常な人。
独り言は聞いていると本当に内容が重いことが多い。ところでこの随想日記を公開しているのも独り言といってよい。

25年前になるが、岐阜に向かう丁度通勤列車に乗った。突如何処かで男が独り言を大声で話し出した。
初めは何気なく聞いていたが、過去に北海道に旅行した具体的内容であった。
それが結構面白く内容なあるものだったことを今でも憶えている。列車に全員が咳払い一つしないで聞いていた。
知らないうちに頭で思っていることが溢れ出ている状態をいうんだろう。聞いている方は非常に不気味だ。
50年近く前に長岡駅の周辺に頭のおかしな「たるまのゆき」という女の浮浪者がいた。
独りでぶつぶつ笑いながら歩いていた。 なかなかのインテリで学校の先生をしていたという?
以前に都会である中年の女性が通り向かって怒鳴っていた事もあった。

・・・・・・・・・
2001年08月31日(金)
[127] 特異点

‘自分自身’宇宙の特異点である。もちろんこの地域も、職場も、友人も特異点である。
この当たり前?のことがきずかない。 考えてみればそれぞれの経験の世界以外知ることができないし、
その人にとって、その世界は特異点でなく普遍の世界にみえる。

総ては特異点の集まりであり、「普遍」はそう見えているだけだ。
従がって、もしその世界に埋没したり、停滞すると全てが「普遍」に見えてくる。
私が嫌うのが、`中高年の教養のないおばさん'である。それこそ特異点そのものである。

「現象が真実と信じている点」である。真実とは何かも考えたことがない。
俗にいう噂とか社会現象にドップリ浸かっている。それぞれが特異ということが解らない。
そして対象に集中して相手の特異を見つけると、あたかも、とんでもない欠点と思い込んでしまう哀れな存在。

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