堀井On-Line



2392, 人生で出会いしもの

2007年10月21日(日)

                φ(* ̄0 ̄)ノ[才八∃一]ヘ

   10月02日(火) の {「2373, 人は60歳で何をしたか」−2} の読書日記で、
   作家の新井満が寄稿していた「60歳以降に何をすべきか」について書いた。
   ところが、その中で彼の奥さんとの出会いの話が非常に印象的だった。
   人の出会いの不思議さをつくづく感じる内容である。
   20歳代に何回かダブル・デートで、片方が結婚したケースがあった。
   私は相性のあう相手がいなかったか?ためか、簡単に一生の伴侶を決めてしまう彼らを見て、
  「何でもっと色いろな人を見てからの方が?」と、不思議でならなかった。
  「本当に決めなければならない時は、それなりの人と出会うもの」と、信じて疑わなかった。
   更に、常に4人の姉と比べて、それ以下?は妥協できない!
   あとは両親に対して自信を持って紹介できる人?
   という無意識の判断があったのだろう。ところで、姉と上さんドッチが?? 
    まあ、それはそれで・・・
   色いろあって、新井満の、こういう出会いに驚いてしまった。
   もう少し、色いろな女性と付き合ってからという生き方もあろうに?
    というのも、相手次第ということか! それにしても幸せな人だ。
  
  ーその一部を抜粋してみるー
   −−−
*人生最悪のコンディションで出会った運命の人は誰だったか

人にはそれぞれ、運命的な出会いというものがあります。
私にとっては妻との出会いがそうでした。19歳の大学生のときに、
郷里の新潟から上野行き特急の座席指定車に乗ったら、
隣の席に座っていたのが、たまたま彼女だった。
以前から、おふくろには「東京の女には気をつけろ」とよくいわれていました。
見るともなしに見ると、どう考えても典型的な東京の女性。
ベレー帽かぶって、その上にミニスカートです。
だから列車が出発して2時間ぐらいは一言もしゃべらなかった。
清水トンネルを越えたあたりから、ちょっとお腹が減ってきたので、
ポストンバッグの中から、おみやげの笹団子を出して食べようとしたんです。
すると、どうも団子を持った手に熱い視線を感じる。
新潟を出て2時間も経っていて、私も空腹を感じているんだから、
きっと隣の彼女もそうだろう、とそのとき思った。
で、どうしようかと一瞬迷ったんです。おふくろからの注意もあるから、
そのまま放っておいてもいいわけですからね。だけど、身近にお腹を空かし
ている人がいるのに、それを見て見ぬふりをするのは、やはり温かくないですよね。
で、一種の人類愛みたいなもので(笑)、ジーッと熱い視線を笹団子に注いでいる彼女に
「よかったらこの笹団子、一つ食べてみませんか」と差し出した。 
普通、見ず知らずの男から食べ物を進められたら、
たいていの女性の反応は決まっています。多少気持ちが動いたとしても
「いえいえ、とんでもない」と一応は遠慮するものです。

*人を疑わない態度にひかれて自然と会話がはずんでいった*

 今はどうなのか知りませんが、当時の女性としてはそれが常識だった。
だから私もそうなることを予想していたんです。しかし、最初から外れてしまった。
「一ついかがですか」といったら、「はい」と素直に受け取ってペロリと食べちゃった。
そしてどうもまだ欲しそうな素振りなんですよ。で、「もう一つ食べてみますか」。
一つめはいいとしても二つめとなると、だいたいは「いえ、もう十分いただきました」
となるものですが、また素直に「はい」。そしてペロリ。三つめも「はい」、ぺロリ。
 これは人生にそうとう自信のある人だと思いましたね。
人間同士のつきあいや生きるということに対して、
ある種の自信みたいなものがなければこういう反応はできません。
そしてこの人はどういう状況にあっても、人間に対する信頼性を失わない人
なんだろうと感じたわけです。 人間に対してあくまでも楽天的で、
そこから肯定的な人生観を持つに至った人だと私は直感したんですね。
お腹が空いているときに見ず知らずの人から食べ物をもらうのは
とても有難いことです。しかし同時にそれは、一種の負い目にもなる。
何かお返しをしなければならないだろうという気持ちになるからです。
常識的な考え方にとらわれると、そういう負い目を負いたくないから、
他人からの親切を心ならずも断ってしまう。
 でも彼女の場合は、そんなギブ・アンド・テイクの世界を最初から超越していて、
袖すり合うも他生の縁で、みんな仲良くすればいい、というような天真欄漫としたと
ころがあった。だから、何のわだかまりもなく、気がついたら自然と会話が
進んでいたんですよ。人間には2通りのタイプがあって、
物事の暗い面を見る人もいれば、明るい面を見る人もいます。
見ずしらずの人を警戒するタイプもいる。・・・・
天真燗漫で人間に対する信頼を決して疑わない生き方に、
私は生命力と命の輝きを見る思いだった。

ーーーーー
最終の学校時代に出会った人が最適の人と出会う確率が高いというから、
彼は彼なりに最高の人と出会ったのだろう。
               ババ━━━( ´ _っ`)ノシ━━━イッ!!!
・・・・・・・・
2006年10月21日(土)
2027, 「私」のための現代思想  −14
        おはよ〜!(*^ワ^*)i(~O~)ふぁ・・

ーこの章の一番のポイントは次の部分であるー
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。
死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している「声」も消失します。
それでも、<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。
また、構築されていた《私》も消滅しません。
    ーー
     
    何度も何度も、この部分を考えてみた。
    納得できるような、釈然としないような深い内容である。
    《私》が死なないのは、ソクラテスの《私》がプラトンによって記録されて、
    永遠に生きていることをみても解ることだ。
    《私》は消滅しないということが哲学的にみて正しいとすれば
    「いま生きている瞬間」を全てを丁寧に、そして人生そのものを、
    あらためて考え直さなければならない。
    {<私>と《私》は消滅しない}という言葉を「超越確実言明」としていれば、
    過去の人生は変わっていた!
    「死んでしまえば、それまでよ!」を{超越確実言明」としてきたが、
    そうではないということだ。
    ブログなどで自分を語り、公開する時代なら尚のこと顕わになる。

その意味で、この本は難しい内容だが、根本から人生観を考えさせられる。
「私」のことだから、根本問題である。<身体>が消滅しても、<私>と《私》は
消滅しないというカルトみたいなことが論理的にもいえるとは・・・
もう一度、本当に納得できるものか振り返ってみたが、矛盾は無い。
<身体>も<私>も《私》を大事にしなくては!
ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味 −��
    ー 正しく死ぬ・正しく生きる ー
    
*<私>は「死」によっては消滅しない*
「《私》は、<他者>によって引き受けられている」
<身体>が消滅しても、<私>は存在しつづける。 決してカルトではない。
ある個人の「死」とは、<身体>に属する要素が存在しなくなることを指す。
死によって、<身体>が消滅し、<身体>の属している「声」も消失します。
しかしそれでも、<私>を構成する要素である「超越確実言明」は消滅しません。
また、構築されていた《私》も消滅しません。

   さらには、<声>によって共振することはできないものの、<他者>も消滅しません。
   <身体>が無くなり、「声」への応答がなくなったことによって、<他者>は
   直接的に「糧」を得ようと《私》や<私>に接近し、それによって、<他者>が
   共振を受け取ることができます。
   一方、死によって発生するのは、「もはや『糧』を得ることのできない私」であり、
   「受益を放棄した私」です。
   死んだ後に残るのは、「<他者>によって引き受けることのない生」としての
   《私》と、「超越確実言明」の束としての<私>です。

*「死ねば楽になる」は正しいのか?*
「死ねば楽になる」は、「死ぬ」−>「辛さから逃れる」と変換できる。
そこでの「辛さ」とは、束縛から逃れられないときに<私>が発生する信号である。
それは「私」が「逃れる物語」を遂行中であり、かつ、そこにおいて「自由が失われている」
ことを指している。
「辛さ」とは、<私>において発生し、<私>に含まれる概念であるということです。

    したがって、まず「どの物語が『辛さ』を発生させているのか」を
    考えるのが、論理的な思考であるはずです。それがわかれば、
    それを放棄すればよいだけですが、『生きること自体が辛い』
    という場合は、自ら死を選ぶことになっていまいます。

[<身体>の消滅]−>[辛さから逃れる]は、正しくありません。
なぜなら、[辛さ]とは<身体>に属する概念ではないからだ。
但し、
[<身体>の消滅]→[痛みから逃れる] は、可能です。

痛みは身体が発している信号なので、
<身体>が消滅することによって発生しなくなります。
[<私>の消滅]−>[辛さから逃れる]という図式を考えなくてはなりません。
これが[死ねば楽になる]という表現の意味です。 末期ガンの患者が望むそれ?

   <私>の思考は、すべて「超越確実言明」という基盤を支えとして、
   その上に構築されています。そして「超越確実言明の束」とは<私>そのものです。
   それに、論理は自己言及できないということを考え合わせると、
   <私>という基盤の上に構築された論理が、<私>を否定するという構造は、
   矛盾していることになる。そして、その結果として、「<私>の否定」を意味する
   「死ねば楽になる」という考えは誤りであり、成立しないことがわかります。
   −−
  以上だが、死ねば楽になるのは、身体の苦痛とそれに伴う絶望だけ。
 精神の歪みが「死ねば楽になる」と妄想させる。
 それでも、死にたくなるのは解るけど!
 だから、死後に天国のイメージを作りあげたのだろうが・・
 その一つが音楽、そして絵画であろう。
 毎晩、クラシックを聞きながら「ア〜よい一日だった!」と思いながら寝入っているが・・
 それでも夜半にマイナスの気持ちが襲ってくる。 それが人間じゃない?
 死ぬしかない時、「死ねば楽になる」と思えたら実際のところよいが、
 理屈は違うのです・・    まあまあ!
                Good.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.bye
・・・・・・・・・
2005年10月21日(金)
1662, 「人生の実りの言葉」−2
ー運命
 この章『運命』冒頭のモンテーニュの「エッセー」の一節がよい。

ー運命はわれわれに幸福も不幸も与えない。ただその素材と種子を提供するだけだ。
それを、それよりも強いわれわれの心が好きなように変えたり、用いる。
われわれの心がそれを幸福にも不幸にもする唯一の原因であり、支配者なのである。ー
自分の人生で、いつも何時もこの心の葛藤があった。
そして、いつも何事も修行と思えば、気分まで卑屈になることはなかった?
何事も、その対処をするに如何考えるかである。
   高見順がガンによる死の前にこういう詩を作った

    電車の窓の外は
    光にみち
    喜びにみち
    いきいきといきづいている
    この世ともうお別れかと思うと
    見なれた景色が
    急に新鮮に見えてきた

    この世が
    人間も自然も
    幸福にみちみちている
    だのに私は死ななければならぬ
    だのにこの世は実にしあわせそうだ
    それが私の心を悲しませないで
    かえって私の悲しみを慰めてくれる
    私の胸に感動があふれ
    胸がつまって涙が出そうになる
                                
       高見順『詩集 死の淵より』
  ーーー
 死に切迫した人間の、ぎりぎりの葛藤から生まれる孤独の詩である。
誰もが身近な人の死に直面した経験があるはずだ。
以下は字数の関係でカット(2007年10月21日)

・・・・・・・
2004年10月21日(木)
1297, 原価は一人170万円

毎日新聞の『外国人事件の実情』という、シリーズものの記事によると、
「フィリッピンパブや、外人パブや、性産業に売られる女性の値段は
一人当たりの原価が170万円前後。女は原価の3倍の500万を返すまでは逃げられない」という。
その筋の男の話によると、
「タイの女性なら、シンガポールやブルネイに寄らせて、その国の
偽造パスポートで日本に入国させる。両国は、日本入国にビザが必要ないからだ。
現地からブローカーが付き添い、例えば上野のホテルで170万円と引き換えで
引き渡す。タイ、フィリッピン、台湾、コロンビア・・・。
女性の国籍はさまざまだが、値段の原価は一緒である。
取締りの厳しい時は、品不足になり、高くなる。
売春の値段は大体、泊まりで3万が相場で、早い娘で3ヶ月で返す娘もいる。
その後は儲けになるから、悲壮感は無い」とか。
一方で、「同じ地域の出身者を一箇所に集め、逃げたり通報した場合、
どの家の娘か分るようにして、ブローカーから家族から取り立て出来るように
なっている」という。

バブル華やかな頃、何回かフィッリピン・パブに行ったことがあった。
そこは、ただ遊びに行くコースと、口説いて店の外で売春をするコースが
あると聞いていた。ただ会話が面白く、陽気で、何ともいえない異国情緒が良かった。
それと、一生懸命、接客してくれるのが良かった記憶がある。
ところが最近になって、殆んど暴力団が背後にあると知った。
彼女等は、こういう値段で仕入れられていたとは、
また日常的に売春がおこなわれていたことも、この記事を読むまで知らなかった。
バブルの崩壊とともに、そういう店が激減したようだが。
こういう記事が出れば出るほど、こういう店は激減するだろう。いや、しないか?

・・・・・・・・
2003年10月21日(火)
930, 自己責任の時代

 今日、ある見積もりの結果を見たら、77万円と240万の二つの結果であった。
工事関係は素人が餌食でしかないのだろうか。
当事者が解ってやっているのか、どうかも問題であるが。
今のホテルを創めるとき、客室掃除の下請けの見積もりをとった。
五社から見積りをとったが、最低が月67万で最高が280万。
凄い世界を垣間見た思いをした。
建設業界は業界そのものが、こういう恐ろしい世界である。
 
 いま道路公団総裁が首を切られそうなり、自民党の癒着の暴露を脅しにして、
情けない醜態を見せている。今までの官僚社会主義世界の暴露と、自民党の
利権汚職構造を露呈してをしてくれるから!、面白いといえば面白い。
奇麗事で人間信頼の経営などというと、こういう手あいが工事で入り込む。社員もだが。
ホテルの創業時には二代目の??ビル管理の専務が、二倍の見積もりを
持ってきた。小ばかにしたような面をしていた。
世間様の世界に、だまさて二倍の経費をかけるか、シビアにやるか?
当然後者でやるべきである。いや前者だというのが、いまだ地方世界でまかり通っている。
地方ー痴呆の崩壊は当分続いて当たり前である。

 いま、マンションをつくらせ、「入居保障の殺し文句」で詐欺に近い商法を
している会社があるが。「つりの計画書」も素人騙しそのものである。
倒産した「ジュエリーをいつでも買い戻すといって販売道具にして倒産した」
詐欺宝石会社より性質が悪い。
「断言してよいのか?」と思われるかもしれないが、事実だから問題はない。
ある人がマンションビル計画の提案に
「入居保障が不可能の場合はどういうケースですか?」の問いに、
「当社が倒産した時」と答えたと言う。
こんな営業保障は、当然行き詰るに決まっている。

 株式の四季報でみると減資をしたり、内容が滅茶苦茶!
月に一度は自宅に営業から電話がかかってくる。 義弟にも電話があるという。
それもしつこく何回もあるという。ジュエリーの詐欺販売の世界と全く同じである。
これだけもっともらしく広告を出して、よくやるよ!という世界である。
素人に、この手あいを見抜くには限界があるはずである。
 
「マルコー」という会社が以前、違う形で詐欺的商法?でマンション販売をして倒産。
その会社が成長真っ盛りの時に、周囲に「あれは詐欺世界!」と言たが、
誰も「まさか!」という顔をしていた!

・・・・・・・
556、一秒一円の価値
- 2002年10月21日(月)

[時は金なり]というが、人生という意味でわかり易く考えてみよう。
一秒一円で一生を80年とすると何と25億円になる。
時給1000円のアルバイトとすると、一生で換算すると7億円だ。
時間をお金に置き換えるのはおかしいが、わかり易く考えるに丁度よい。
高利貸しや銀行はその事を一番知っており、借りる方はその事を一番解ってない。
海外旅行は大体の目安が一日3〜4万、実質滞在日が4〜5万円である。

一年を一秒に圧縮すると、一年前が3153万年前になる。
数年前に恐竜がいたことになる。150年前が地球誕生、
400年前がビッグバンになる。人生を考える時に一日に圧縮して考える事がある。
昼の12時ですでに40歳で、60歳で夕刻の6時である。
そうすると私は17時半あたりになる。このテーマとは関係ない事だ。

製品もグラムあたりで値段を読む事がある。
鉄が安い象徴で、パソコンの半導体が高単価である。
人生で感動の場面は金かプラチナの価値、平凡な日々を
銅か鉛と例えると、可能な限りそういう場面を求めていった方がよい事になる。

芸術や大自然に可能な限り触れ感動のシャワーを浴びる事だ。

・・・・・・・・・・・・・
「193」 まだ生きている!ー漂流
         2001/10/21
 もう古い?話になったが、数ヶ月前に
「33日の漂流の後、奇跡的に助かった漁船の船長」がTVに出ていた。
「スイカが流れてこないかなーとか、おや今日も生きているとか、
 なかなか死なないもんだとか、ぼーと考えていた」このような一つづつが奇跡の原因らしい。

スイカが流れてこないかなーはプラス発想、なかなか死なないもんだは生に執着しない、
おや今日も生きているのかというは、事故(自己)の客観化、一人者で、一人船長で、
待っている家族もないのも諦念にあったのだろう。
10年位前ののヨットレースの佐野某の漂流記を読んだことを思い出した。
鴎をを捕まえて食べていたらしいが、一種の死の瞬間の倒錯?がすごい。
「乗っているボートごと垂直に数百メートル昇っていった」という。
「それは夢でもない事実としかいえない出来事だった」という。
かれは手記で今でも絶対に事実と信じていると強調していた。

 ユングがそれに似た経験をしている。瞑想をしていてそのまま天に上るくだりである。
インドの上空をどんどん昇っていく、インドの国の地形,青い海,そして地球が
見えたという。それがそのずっと後,宇宙飛行士が見た光景と同じであった。
中世では人肉を食べた内容が克明に残っていたりした。
子供の時読んだジョン・万次郎を思い出した。

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