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2007年01月08日(月)
b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪よう♭さん♯ 「それがどうした!」 究極の開き直りの言葉として、何ともいえない響きのある言葉である。 そして「それでどうする」が、ギリギリのところで思考から手順への 転換点への切り替えの最後の言葉となる。
「エ・アロール それがどうしたの」は渡辺淳一による小説作品になっている。 フランスのミッテラン元大統領が、女性問題について質問した記者に対し、 応えた言葉「Et alors?(それがどうした?)」もコミック的である。
人は他人の誹謗とか中傷に弱く、常に不安感に悩まされる動物である。 この中傷・誹謗や不安感のために人生の一番大事なチャンスを逃してしまう。 その時の悩みに対して、「それがどうした!」「それでどうした!」 と開き直ってみると、ほとんどは何ということもない。 そうでもないか?まあ、話を逸らさないために、そういうことにしておく。
「それがどうした!」と開き直ったとき、その対象を考え始める基点とするか、 思考停止にするか大きな分かれ目になる。その対象の問題の本質の 「正一点中心無」に向かって開き直って掘り下げていくか、中断するかの分岐になる。 掘り下げると、殆んど「そんなもの、何とことない!」に行き着く。 関西で「何ぼのもんじゃい」という言葉もあるが・・・ 事業を一つ立ち上げる時、常にこの言葉と向き合うことになる。 「それでどうした!」そして、「それが何だ?」 「それでどうする?」とつづき、「それしかできないのだから、しかたない!」 となり、そしてあとは「なるようにしかならない」となる。 その繰り返しの中から手順をみつけていく。
先日、飲みにいったママさんが、あるお客に 「御前はこの辺の飲み屋の中で評判が悪い!」と言われた、 と深刻そうな顔をしていた。「ああ、引っ掛け言葉にやられたな!」と。 これは定食屋の定番言葉で、迷っている時ほど、これにやられる。 卑しい「世間屋」のあれらの「低俗男」が何も考えないで、 二軒で同じような話を聞いていう、あの引っ掛け言葉である。
「週間ポスト」「週間現代」「週間文春」の低俗記者の記事レベルの 売らんかなのタイトルレベルの引っ掛け話である。 その程度の話を一度いった連中は二度と身辺から遠ざけてきたが。 それでも寄ってくるが・・・ 長岡のある不動産関係の??の男に 「あんた、不動産仲間の中で評判悪いよ!」と言われた事があった。 ムッとして思わず言ってしまった。 「私にとって最高の褒め言葉として聞いておく!」と・・・ これが本人にとって大うけをしたらしく、それをその連中に 言って回ったと言う。これだけ侮蔑した言葉は無いだろうが ますます、世間屋様に嫌われたか! それがどうした!
父親の下で「うだつのあがらない二代目」などの小池宇宙の世間屋様の商品に対し、 「それがどうした」「それがなんじゃい!」を自分の脳を守る「超越確実言明」 にするしかない。
石ころが遠くから見れば同じような砂利でしかないが、 ただ変形度がおおきいだけ!じゃないかい、という声が大きく聞こえてくるが。
「それがどうした」そして、 「うんで〜?」と呟いていれば知恵が出てくるから。 ゴミ取り言葉! 蝿取り言葉! か? そんなところだ! ウンジャ(o ・д・)ツ 蝿、いやバイ! ・・・・・・・ 2006年01月08日(日) 1741, 教養とは −1
「教養の意味」を検索で調べてみた。 (/´Д`)/Hei !!!!! (;¬_¬) sonnnamon 今日用がない monn! ・高く評価される人間性の背景となると想定される知識・経験。 勉強勉強!!((φ(◎ロ◎;)φ)))ウラウラウラー!! ・(一般には)一人前の人間が当然持っているべきと考えられる 一定レベルの知識や 常識を持っていることは当然として、 古典文学や芸術などに対する幅広い知識を備えており、 かつ、 それらの知識が品位や人格およびものごとに対する理解力・創造力に 結びついている状態を指す。 ーギリシア語ではパイディアであり、 意味は「子どもが教育係に指導されて身についたもの」のこと。 ー英語ではcultureで「粗野な状態から耕された、人の手を経たもの」、 ードイツ語ではBildungであって「つくられたもの」のこと。 それぞれに教養の捉え方に対する文化的な温度差がある。 学問や芸術および精神修養などの文化的活動のことを指す。 伝統的に西欧の大学で扱われていたリベラル・アーツに 相当するものとしても捉えられる。 大学の専門課程以前に身に着けておくべき幅広い知識。 社交界や人付き合いの場面において、 洗練された会話や身のこなしができる能力。 (ノ^^)乂(^^ )ノ (ノ^^)八(^^ )ノ −− 以上が検索で調べた内容である。 私が理解していたのは 「教養=過去に蓄積された知識・経験で全て忘れた後でも残っている素養」 という言葉である。 「高い人間性の背景になる知識・経験」というのが解りやすい。 私など無教養を自認しているのは 「高い人間性とは、程遠い生き方をしてきた」からだ。 ( ゚д゚)ンマッ! 何故必死に本を読むかというと、 「せっかく人間として生まれたなら、 可能な限り人類が蓄積してきた文化を知りたい」 からである。 「教養は愛の別名」というのがある。 愛[*´ω`人´ω`*]愛 「既存の学問分野を縦断しながら、人生への愛を学ぶのが教養」 というとなお納得できる。 豊かな人間性の背景になる経験・知識というのが一般的な意味である。 ~~匸Pヽ(・ω・`)コーヒーデモノモウ… つづく ・・・・・・・・ 2005年01月08日(土) 1376, 日常最上
書店で「日常最上」という言葉に目が吸い寄せられた。 日常の何げない生活の中にこそ、実は最上の時間であるという意味である。 それに気がつくのに、何年かかったことか。
この随想日記に「22・23歳の日記」を書き写してきたが、三十数年ぶりに 読み返してみると、当時の「日常の何げない些細な友人との会話や議論、 そして感情の起伏や感動全て」が光り輝いていたことに、初めて気づく。
現在でも日常の些細なことが全てが実は最上ということに気がつけば、 毎日が充実した生活を過ごせるのである。 あの35年前に、そのことに気がついてはいなかった。 それを今にあてはめて考えてみればよい。
逆に言えば、日常にドップリつかってる俗世間を否定するのではなく、 その俗世間そのものを味あうことがも必要である。
以前読んだ本で、印象的な内容があった。 「神様に過去の、ある一日に戻してあげる」 と言われた人が、昔のある日に戻ったという。 両親・兄弟がいて幼馴染の友達がいて、何げない全てが光り輝いていたという。 何故その時、それに気がつかなかったというと、 「どうでもよい事」ばかりに気がいっていた為だった。
日常最上は「生きていること、そのこと」が素晴らしいということである。 悩みも、恐怖も、不安も、怒りも、全てが最上ということに、 気がつくことである。「生まれてこなければよかった!」なぞ言語道断である。 そう思える人が多いが。 他人から見たら、そう思われているのだろうが。
・・・・・・・・・ 2004年01月08日(木) 1009, 心を軽くする言葉
何気なく図書館で借りてきた本を読んでいたら,ある項目にこの言葉があった。 そうそう手軽に「心が軽くなる言葉があるのだろうか」と思いつつ読んでみて、 ナルホドと思ってしまった。この随想日記も考えてみたら、自分の心を軽く する効用がある! を軽くする映画シリーズは「男はつらいよ」であるが、少しテーマから外れるか。
私自身にとって「心を軽くする言葉は何だろうか」と考えてみた。 「何とかなるだろう、何とかならなくなったら、何ともならないでよい。 ただ問題の中心点からは眼はそらさないこと、最善を尽くすこと。 何があっても卑しくはならない事、そして人を騙さないこと」ということか。
この本の中で、ある女性には魔法のような呪文があるという。 引用の引用になってしまうが。
「どうにもならないことは、どうでもいいことだ」
この一説を目にしたとき、スッと肩の力が抜けたという。 努力のかぎりを尽くしたのに成果が出なかった。 といって、誰かを傷つけた訳でなし、死んだわけでもない。 どうしても必要なものなら何とかなったはずだから、 どうにもならなかったことは、それだけのものでしかなかったのだろう。 これがその人の解釈だという。本人にとって正しく魔法の呪文だったのだろう。
この文章を書いていて、気がついたが今実行している「ありがとう」という 言葉の呪文こそ、「心を軽くする」言葉である。 ウォーキングをして、1千あたりからスッと気持が軽くなるのが解る。
この本ではシンプルな例として ・「時間はすべてを解決する」 ・「小さなことは気にしないことだ。そしてすべてのことは小さなことだ」があった。 ところで、この不景気ほんとうに心が重くなる。 心のレッスンと受け止めて、日々過ごしているが。 ・・・・・・ 2003年01月08日(水) 640 ,ラスベガス
去年の年末にBSTVでラスベガスのショーを連日放映した。 その華やかさにただただ驚いた。 NHKの紅白より豪華で格段の差があった。 センスといい規模といい比べること自体が可笑しいといってよい。 アルゼンチンでタンゴのショーを見て圧倒されたとき、ラスベガスの ショーはこんなものでないのだろうと思った。
先日図書館で借りてきた本に偶然そのラスベガスを書いてあった。 浅田次郎の「絶対幸福主義」である。 彼は仕事の頭の切り替えにラスベガスに年5^6回行っている。 そこでこの街をわかりやすく描写している。
ーラスベガスというのは、カジノだけでなくホテルもレストランも、 全体が堅気ではない。すべてが遊び場、夢の世界なのです。 だから24時間、私を別の自分にしてくれる。 こんな街は世界に二つとないでしょう。 何を求めて年に5回も行くかというとリフレッシュのためです。 いやリライフー生き返る・蘇生するという造語を言わせてもらう。
まずホテルからして面白い。私が滞在しているのは「トレイジャーホテル」ですが。 その名のとおり、コンセプトが「宝島」。で、地下のフロアーに行くと海賊が ウロウロしているんです。隣の「ザ・ミラージュ」は、ホテルそのものが ジャングルになっている。 その隣の「シーザーズ・パレス」は、古代ローマそのままの内装なんであります。 街そのものがワンダーランド。ディズニーランド顔負けであります。 意外と思われる方も多いでしょうが夫婦や家族ずれで来るとさらに楽しいところだ。
どこに行ってもきれいだし、治安がいいし、買い物をするにも世界一というほど ショップが揃っている。洒落たレストランもそこらじゅうにある。 この街の健全性に、私は感動してしまいました。 と同時に、いかに日本人が博打を罪悪してるかを再確認しました。 ・・・・・・・・・ 等々、目に浮かぶような描写である。 俗っぽく言えば 「如何にお金を持つことが大事であるかと、またそれを使うには能力が必要」 ということだ。
私の場合は秘境旅行を、そのままこの文章に当てはめることができる。 「こちとらは、ニセモノのジャングルや古代ローマや宝島じゃないぞ。 本物なのだ」というのも金と能力の限られた人間の負け惜しみだ。 一度ラスベガス行ってみたくなった。 何時も乗換えで飛行場から遠く街を眺めていたがこんな楽しい街なら 行ってみたい。 金をたっぷり持った人種に圧倒されて帰ってくるのが目に見えているが。
・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ 2002年01月08日(火) 294、正面突破しかないのでは?
今の日本は6掛け規模に収縮になるべき立場にある。 何をもって6掛けかはただ勘であるが、間違いはない。 今の生活を維持をしようとして、それを嫌がりどんどん銀行から金を借り、 雪達磨式に借金が年収の10倍以上に増えていった家庭の状態と仮定できる。
今もその範疇より一歩も出れない状態にある。 「こうすれば、よくなるという」視点より脱却しなくてはならない時期に来ている。 やはりクラッシュに向かって正面突破しかない。 もっとも自然にそうなっていく。しかし今の評論家のほとんどが、 この視点から一歩も出ていない状況である。
ソ連の崩壊までの前提と、それ以降の前提が全く変わってしまった。 アメリカの優待の立場が消滅してしまった、その事実が解ってない。 解っていてもどうにもならないのだ。 この10年ああすれば、こうすればと小出しにいろいろやってきて気づきはじめた。一度清算しなくては、これを小泉首相が建前で言った。 しかし見ていると、まだ腰が引けている。
恐らくクラッシュがおきるだろう、いやおき始めたと言ってよい。 仕方がない、いや長期的にみたらよいことだ。大津波がきている、 しかし全ての知恵を使って各自が自助努力するしかない。 恐ろしいことだが!近じか地元の大手の建?業が倒産するとの噂も入ってきた。
・・・・・・・ 1月8日 1969年
9時過ぎに起床。 10時半に両親と料理屋の「青木楼」へ行く。 11時から実家の店の新年会だ。 70人ほどの会であった。 大広間にこれだけ集まるとさすがに凄い。 終了後店の二人の女性とボーリング場に行く。 その後4人が来る。 6人の女性とのボーリングは楽しい。 その後、ゴーゴー喫茶に行く。 一時間で切り上げて一人で帰ってくる。 家に変えると、株屋の田中さんがきて父と話をしている。 22時に就寝。
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