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2006年09月17日(日)
おはよ〜!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・
もっと「きれいな字!」が書ける本−1 ー読書日記
私は、悪筆である! 書店で、この本を手に取って驚いてしまった。 「上手な字の大原則の逆」と「下手な字の共通点」 が、ホボ自分に当てはまっていた。 本を買おうと思ったが一日時間を置いて、その間にアマゾン書店で 内容を調べることにした。 しかし、幾つかの原則が頭に残っていたので、 注意しながら書いてみたら、見違えるほど良くなった。
・縦棒線は縦に真っ直ぐに ・横棒は真横に真っ直ぐに (その癖がついたら少し右上がりに) ・横画から縦画に折れるときは、 角に一度点を描くようにアクセントを入れる。 ・文字の中心点(特に縦のライン)を意識する。
たったこれだけを意識するだけで、自分の字に驚くべき変化がおきた。 逆にいえば、それだけ悪筆だった。 我流のクネクネ字で、自分でも呆れてしまう位ひどい字。 この基本を50年以上も忘れて悪筆を続けてきたのだ。
学生時代に、あまりの悪筆に寮の近くに習字を習いにいったことがある。 「悪筆を直したいのでお願いします!」と言っても、 その書道の先生は何にも教えてくれなかった。 月に二度ほど、一年近く通ったが・・・ しかし、それで終わってしまった。 ・ゆっくり書きなさい ・全体として円の中に収めるように 位であった。 考えてみたら子供の頃、習字の一番初めが縦と横棒の練習であった。 チャンとペン字でもすればよかったのだ。
次回からは、その詳細を目次ごとに書いてみる。 「クネクネ字は、 ただ縦・横の線を真っ直ぐという初歩的なことさえ守っていれば、 直っていたのだ」 この初歩的なことが何故気づかなかったのか? 「他人には出切る範囲でよいから親切にしなさい!」 「他人の話をよく聞きなさい」 という、初歩的なことと同じということか! この基本、出来てない人が意外と多い! 驚いてしまうほどだ、字は自分でも解るが! これはみえない。 何で他人の話を聴かなければならないの? と思っているのか、他人の中味がみえないのか? 話は逸れたか?
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ーもっと「きれいな字!」が書ける本ー ・知的生きかた文庫 著者:山下静雨 出版社:三笠書房 発行年月:2003年05月 「字が上手になりたい人」のバイブル。「 【目次】 プロローグ たとえ、どんな下手な字でも大丈夫!今すぐ効果が出る方法/ 1章 ちょっとしたコツで、あなたの字は見違える!/ 2章 この「書き方」を知るだけで、漢字がもっと上手になる!/ 3章 文章全体の印象をよくする「美しいひらがな」を書く法/ 4章 日常使う行書が、簡単にスラスラ書ける技術/ 5章 実践で必要なのは、「漢字」と「かな」のこのバランス/ 6章 「できる」と思わせる、「実用文」の書き方 − つづく (。・ω・)ノ☆゚+.バイ! ・・・・・・・・ ・・・・・・・・ 2005年09月17日(土) 1628, ソウルの富士山ー日野敬三 対談集 −2
また、作家の保坂和志の対談 ーソウルの富士山ーも含蓄がある。 死に直面した日野の心理が二人の対談から、 みごとに浮かび上がっている。
ー保坂和志 今日は日野さんが、脳の手術から回復される過程で体験されたことを、 闘病記というより旅行記のような感じでうかがいたいと思います。
ー日野ー 自分が脳を手術されて、術後に安静状態にあるんだとわりあい客観的に 自覚したのは一ヶ月ほどあとでした。 なんとなく現実がわかるようになっても、まだうつらうつら夢を見ている状態が さらに一ヶ月続きました。 そこには、どうも完全な夢とは違う。 自分がソウルにいて窓の外がソウルの街がみえる。(実際は東京だが) そして、富士山でなくてカイラス山がみえる。 もしかすると、この人生ではなくて、その前のいつか巡礼に行ったことがあるのかも、 と思い直しました。だとすると、僕の中で辻褄が合うのです。 カイラス山はそれだけの格と威厳がある山ですからね。 超意識の神話的空間内だったら、カイラス山も見える。 それだけのリアリティのエネルギーを持ってなかったら、何が聖山ですか。
ー日野ー 僕は実は世の中を楽しんでいる、あるいは生きていること、人間であることが 好きなんじゃないかと思い当たったんです。 それを好きでないように思い込んでいきていたのが、いよいよ最後のところに来て、 その思い込みが剥がれ落ちて本当の地が出たんだと気がついた。
もう一つ考えたのは、人生はなにも正しく生きねばならいことはないと。 楽しく明るければよい。 正しくありたいと思ってきたが、それは最も大切ではないと、 ベッドの中で声に出して自分に言った覚えがあります。
ー保坂ー 今回の日野さんの体験がものすごく言葉にしにくいのは、 死のそばまで行ったはずなのに、死の遠くに行っちゃって、 ずっと夢とも幻覚でもなかった、本人はもう一つの現実だとおっしゃっている。 つまり、死とか、夢とか、現実とかの定義が一般のものとは違っているわけです。 ふつうの人も同じ手術をすればたぶん何割かは似たような経験をするものでしょうけど、 たいていは周囲の目が怖いから、その辺のことを正直に言わないだと思います。 日野さんの場合、職業的な自負なのか、 ありのままに語れているところが非常に貴重ですよ。
ー日野ー 僕に言わせれば、やっと退院をしてみたら現実のほうが定義が壊れかけているかの ように思いました。ちょうど僕の意識が戻ったころに、同じ脳の病気の 小渕前首相は亡くなるし、そのあとを継いだ森首相は妙なことを言い出すし。 もっとショックを受けたのは、社会面では子供達の殺しの記事ばかりですよ。 ものすごく異様だった。 ソウルで富士山やカイラス山を幻覚?で見ていて、 僕はとてもまともだったんだなと思いました。 僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、全く別のように。 でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。 「夢現のあいだ」ということを東洋の人たちは古くから知っていたように思います。 「夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。
退院をしてから老荘の本、道教関係の古い本を改めて身近に読んでいます。
たとえば、中沢新一さんもチベット密教を修行して幽体離脱を体験した話を 書いているでしょう。 もうひとつの微細な分身をこしらえて、肉体から自由に出て動きまわる・・・・・ 僕も入院中にいろんなところに行きましたからね。 実際に行ける場所ではないにかかわらず、そこで見たり考えたりしているのは、 たしかに自分自身なんです。 この僕の肉体に限定された存在がギリギリ最後のものじゃなくて、そこからまだ先の、 本当のエッセンスのような小さく精妙な自分があるらしいと思うとドンドン自分が 怪しくなるから、まだきちんと考えつめてはいないですけど。 この予感は気味が悪いし、楽しくもあります。
−保坂ー 社会がひとつの現実だけをもって見ることができないのと同じように、 人間もやはり一つの個体のなかにすべてが規定されているのではないかも。
ー日野ー その個体を離れるというか、さまよい出るというか、叩き出されるとうか、 どうであれ自由になることは楽しいですよ。 無責任ゆえの自由のみたいなものは。
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冷徹な記者あがりの作家が幽体離脱をして、チベットの霊山のカイラス山に いってきた。それも夢ではないと言い切っている。 また、 ー僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、全く別のように。 でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。 「夢現のあいだ」ということを東洋の人たちは古くから知っていたように思います。 「夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。 という、クダリは、生死の狭間での極限から生じた魂の深い世界を 垣間見た体験があるからこそ、言えることだ。
人間の脳には、信じられない能力が隠されている。 死の瀬戸際を漂うと、その一部を垣間見ることができるのだろう。 死ぬ時の楽しみでもある。
ー面白いことに、去年の今日老子と荘子のことが書いてあった。 意味ある偶然の一致である。
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2004年09月17日(金) 1263, 老子と孔子
本を読んでいて、時々ハッとする文章に出会うことがある。 以下を書き写してみるが、儒教と道教を対比させることによって、 それぞれの本質を、より解りやすく知ることができる。 (生き方の研究ー森本哲郎 P・302より)
ー「孔子の教え」はあくまで「厳父の思想」であり、 対する「老子の思想」は「慈母の思想」とみることができよう。
老子と目される人物が生きたのはー孔子もそうだがー春秋、それにつづく 戦国時代の乱世であった。誰もが真剣に生き方、というより生き抜くための知恵を 求めていた。それに、応えて、孔子と老子に代表される儒教と道教が生まれたのである。 対立というより、対照というべきかもしれない。 いずれが是で、いずれが非か、などという問いは愚かである。 我われは、ここに二通りの生き方を見、学べばよいのだ。
考えてみれば、この世には「人間なるものは存在しない。 生きつづけてきたのは、男と女である」。 人間とは、女と男の総合した抽象概念である。 だとすれば、その「人間」には、当然二通りの生き方が考えられよう。 すなわち、男性原理による哲学と、女性原理につらぬかれた思想である。 中国は孔子、老子という祖によって、二元的に、つまり、全人的に生きてきた といってもよい。私たちが学ぶべきことは、そのような二つの知恵 なのだろうか。
中国の作家、林語同は、こう書いている。 ー功なれば儒教ー孔子ーの徒になり、 失意の時は道教ー老子の徒に奉じるようになる。 道教の自然主義は、中国人の傷ついた魂を和らげる鎮痛剤なのである。
得意と失意で織りなされた人生、それを歩む人間の生き方ー それは何といっても「父」と「母」に従うことなのではないだろうか。
ーーーー 以上であるが、 道教と儒教を対比させ中国そのものを、いや人間の生き方の知恵を 提示している。
学生時代、「諸子百家」を読んだ時に、孔子の教えは堅苦しく思い、 むしろ老荘の思想に共鳴をした。
老子の言わんとする要諦は ー小さな私心を捨て去れということだ。 人間存在なんぞは宇宙から見れば砂、いやチリのような存在だ。 それを真に理解すれば、無為自然、母なる自然の道に従うのが一番の 近道ということが解ってくる。
人間が生きていくからには、常に挫折と失意が波のように、 押し寄せては返していくものだ。 その時、宇宙的視点でその波を見つめる視線が道教の真髄である。
ー老子の思想の幾つかを書いてみると、
・道を体得した人は、何事にもとらわれず、言葉を使わず教えを行なう。
・もっとも理想的な生き方は、水のようなものである。 水は、万物に恵みを与え、相手と争そわず、衆人の嫌がる所へと流れていく。 だから道に近いのである。
・実在が意味をなすのは、無が作用しているからである。
・道を体得した者は、行動した跡をのこさない。
・戦いの上手なものは、目的を達したら矛を収め、むやみに強がらない。
・人をよく知っている者は、知識人であるといえるが、 自分を知っているものは、智恵者である。 人に勝つ者は、能力のある者といえるが、自分に勝つものは、 本当に強い人である。
・本当に巧妙なものは、稚拙なように見える。 本当の雄弁は訥弁と変わらない。
・道を体得している人は、知識をひけらかさない。 知識をひけらかす者は、道を体得してはいない。
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2003年09月17日(水) 896, 言いわけ読本 ー読書日記
塩田丸男 白水社 P230 \1,900 2000年3月30日 中央図書館ー2003・09・14日
ー感想 言いわけの評判は古今東西かんばしくない。 といって言いわけが無くなればよいのかというと、そうではないだろう。 言いわけも考えてみれば、原因追求の不可欠な要素とも言える。 また、自分を正当化するためにも必要な部分があるだろう。
この本では、文学 日本 エッセイ 歴史上の人物から現代人まで、 古今東西の多くの人が、紆余曲折のなかで思わず口にした逆境の 自己主張を摘出しながら、人生の苦境と人間の業の一端を示している。 言いわけもここまで集めると見事といわざるをえない。 そこで人間の滑稽さと本音を見ることができる。 これを読んでいるだけで、人間勉強になる。
面白そうなところを、書き写しながら、自分の言いわけの場面を多く 省みてみた。その時は言いわけとは思わなかったが。 特に、最後に心の内奥で、自分に対して強引に言いわけをしている時の 歪みが、今更のようにリアルに目に浮かぶ。
この本を読むまでは、言いわけの悪い面だけを見ていたようだ。 言いわけを『言いわけ』している本として捉えると全く面白い。 言いわけの言葉の奥にある深い真実?があるからこそ、その言葉が浮かび 上がってくるのだろう。 知人で枕詞が言いわけの人がいる。 こうなると芸術の域になる。 また小泉首相の一言コメントの言い訳もすばらしい! ーこれ皮肉
全てのことに対して『言いわけ』を通す人が読んだら、当をえる本だろう。 言いわけの真骨頂は「浮気に対しての言いわけ」である。 「だまし続けてほしかった!」という相手に対するマナーであろう。 この本は切り口そのものですでに、読者を引き込んでしまっている。
ーー印象に残った順に幾つか書き写してみたーー
・それは駒とは違う。坂田三吉が銀になって泣いているのだ。 坂田三吉(13世名人関根金次郎との対局で不覚の手を指して)
・ジンギスカンは日本人だったのだ 関東軍(日本が満州に進出する理由を聞かれて)
・行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に関せずと存じ候 勝海舟(福沢諭吉に江戸無血明け渡しの批判に対して)
・投句したのは別の人よ。私は被害者です ある盗作女性)(文部大臣奨励賞受賞作が盗作で取り消されて)
・女にとって悪い社会は、本当は男にとっても悪い社会よ 中山千夏(参議院議員になった才女が離婚するにあったって)
・学問するには多額の金銭が必要です ベートーベン(ゲーテにお金の無心の手紙を書いて)
・主さんを客ではなくて亭主同様と心から思っているのさ ある遊女(客の前でうっかりオナラをしてしまって)
・後悔してないんです。死んだ人には悪いけど 阿部定(稀にみる猟奇事件「!−>・」をふりかえって) ーところで、「!−>・」の意味解る? 解る人にはわかるはず!・阿部定を知らない人は無理
・通常の人間関係以上の強い結びつきがほしかった 矢野暢(元京大教授が秘書にセクハラで訴えられて)
・自分にとって、女性の局所は入れるところであって、 出てくるところじゃない 笠井信輔(フジテレビのアナウンサーが妻の出産に立ち会って)
・なんにもつけてなかったなんて、うそよ。ラジオをつけていたわ マリリンモンロー(売り出し前オールヌードを撮っていたことに対して) ・私がルールブックだ 二出川延明(ジャッジに抗議する西鉄の三原監督を斥けて)
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522,勉強法ーノートのとりかた--3 - 2002年09月17日(火)
以前にも「鳩山家の勉強法」でも書いたが、 レオナルド・ダビンチやモーツアルトなどの過去の天才のノート やメモの共通点があるという。
・絵と図を中心として、そこに文章を書き込んでいる。 空間配置を中心にしてある。 知識としてより、創造のエネルギーが、 それを共通項として必要としていたのか、直感的なのか?
・似た方法として、左か右に普通のノートをとり、 反対側に絵や図や遊びなどの自由のコーナーにしてある。 考えてみれば、脳そのものが右脳・左脳と二重構造になっている いるから、そうする事が自然で効率が良くなる。
このような箇条書きも、してないよりはず〜とよいが、 できたら空間配置のほうが良いのだろ。 空間配置の中でフルに○と→をフルに使ってそれぞれの関係を 現しながら、解りやすく表現する事が重要だ。
考えてみたら、これはある目的を達成する為、 中世から現在まで、見取り図、発想法、かつ記憶の手段であった。 また対象をわかり易くする為の手段でもあり、準備作業でもあった。 今はパソコンに変わろうとしている。 私の場合パソコンのワープロ機能の活用で、毎日の随想日記が可能になった。 この画面で左がこのワープロで書き込め、左にノートパッドに ペンで自由に手書きで書き込めるソフトあると、便利のはずだが。 もうあると思うが?いやないか?デジタルとアナログの融合になるのだが。 「天才のノート」というソフトを創れば、売れると思うが! 手書きも、タイプで打ち込める混合のソフトだ。 アナログから脱皮できてないレベルの発想か? 携帯電話の絵文字はその先をいっているのか?? 絵文字の組み合わせは、まったく違った可能性を含んでいる。 時代は技術はどんどん変わっていくが、可能な限りついていくつもりだ。
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147] 機動捜査隊 2001/09/17
7〜8年まえになろうか。当ホテルで年平均二〜三人の犯罪者を逮捕している。 その協力の功績で、機動捜査隊が表彰状をやるから私に来いとのこと。 「何いってるのか!来るのはお前らの方だろう」と思ったが、「面白そう!」 という誘惑に負け行くことにした。まずは車で若い私服の機捜隊が迎えに来た。
そして、機捜の新潟本部についた。10人ぐらいの機捜が玄関で整列をして出迎え。 「面白い!そして気分がいい!かっこいい!」だった。そして捜査隊長の部屋に! 暫くすると隊長が部下を連れてお出まし!世間話をする間もなく写真班が2名きて、 撮影バチバチとられた。そしてそれから表彰状と金一封の授与式と続く。
まあいいや、いい経験だ!と有難く戴いた。そしてまた会社まで送ってもらった! 彼等はまっさらな目で見ていて、新選組みたいな一体感を感じとった。 ウエットな親分子分という感じであった。それが異様であった。 こんな人間関係まだあるのか!という感じであった。
‐さてこの内容が面白いのは、これからであるー その一年近く後に、機動隊の若い男と第三シングルインのマネージャーをしていたAさんが、 結婚するという。そうすると、あれは何だったのか?機捜に紹介された機動隊の人とか? ーこんなものか世間は! まあ人生面白い!であった。
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