堀井On-Line



1810, 女子社員の結婚式祝辞

2006年03月18日(土)

         \(^▽^*)おめでとう!
        (*^▽^)/

昨日は会社の女子チーフの結婚式があった。
新潟市の護国神社であったが、
格式と趣きがあり神聖でよい結婚式であった。
神前の結婚式での巫女の舞いが、何とも日本的でよい。

             ゛♪(o´・ω・)人(・ω・`o)♪゛
  最近は、祝辞を言うのが楽しみになってきたのも、
  歳のせい?!
  それと結婚式の若い二人の門出に立ち会うのも、
  幸せを(o^v^o)を共有できて心から祝えるからよい。


昨日の祝辞の原稿をコピーしてみた。
     実際、話した内容は少し違ったが。
              
               ♪♪(*´∀`*人*´∀`*)♪

  ー祝辞(原稿)ー

ご両家の結婚式、誠におめでとうございます。
謹んでお祝い申し上げます。
何かスピーチということで・・

数回前まで結婚式の前日あたりに何人かが部屋にコッソリきて
「お願いがあります、明日の結婚式、あまり刺激的なことを言わないでください。
 私は貞淑な妻になるのですから、それに相応しい内容にしてください・・・」
 といいに来るのです。
そう言われると尚のこと、際どいことを言いたがる私の癖を知らないのです。
今回の新婦はそういうことはありませんでしたが。

といって、私は決して際どいことを言っているわけではないのです。
話を面白くするために、際どくみせて最後に落ちを入れているだけなのですが。

まあ、結婚は
一年目は、支配権をめぐっての権力闘争になり、
二年目辺りが、せめて同権要求の闘争、
三年目は、最後の生存権を求めての争いになります。

そして、その後は哀れみと軽蔑の中、家の片隅においてもらっているのが
私の現状になります。
更に言えば、たんなるカネヅルと、つかい走りです。

といえ、気持ちの中では20組に一組位、上手くいっていると思っています。
そう自己暗示をかけているのが、本当のところです。

その33年間の闘争の結果、得たノウハウを今日は特別教えます。
それは、
・夫婦間の日常の会話で可能な限り他人の悪口を言わないことです。
 これは、重要のことです。絶対に言わないのではなく、言わないように
 心がければよいのです。

・次に、相手と自分の間に距離を置くことです。
 私たち夫婦には、溝がありません。
 そのかわり、広くて浅い川があります。
 いやなら、反対側の岸辺にいればよいのです。
 もちろんこれは、気持ちの問題をいっているのです。
 
 決して心をお互いに許してはなりません。

ゲシュタルトの祈り という言葉あります。
それを紹介して、私のお祝いの言葉として終わります。
                (o´・_・o人o・_・`o)ギュッ

ーゲシュタルトの祈り

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。

Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。

und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。

ICH BIN ich und DU BIST du -
私は私。あなたはあなた。

und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なこと。

wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいこと。

(フレデリック・ハールドン)
                ♪(p´・∀・)乂(・∀・`q)コ♪
 −
以上、ながく幸せな結婚生活を過ごしていくための秘訣です。
お互いの自立を尊重しあってこそ、円満にいくのです。

私が招かれた‘会社の円満退社の女性の結婚式’が十組いました。
全て上手くいっています。
それを裏切らないように!!

                。.@(-ェ-)@ノ~~~バイ〜

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2005年03月18日(金)
1445, 小学校中退、大学卒業


ある雑誌の中に花柳幻舟の文章が載っていた。
「家元制度に疑問を感じて傷害事件などを何回かおこした問題の多い舞踏家」
という印象がある。が、そのテーマが面白そうなので読んでみた。
その特異の生立ちと、その世界に引き込まれていった。


その文章の一部を抜粋する。

ー1994年、父は逝ってしまった。
旅芸人として私とともに闘い、極貧の中を生き抜いてきた私の同期であり、
芸の師父は、私を残して、あっさり逝ってしまった。

父が私を残して逝ってしまったあと、私の周りの人たちは、まるで櫛の歯が
抜けるように、一人、また二人と去っていく。
私のどん底の精神状態を百も承知でのトンズラには、私は激怒した。
ガソリンを一杯にしたポリタンクを持ち、深夜の道をたった独り、
それらの人の家の前に立ったこともある。・・・・・・
 
父の死によって、大海の中で羅針盤を失い、自死を本気で考えた。
しかし、なぜ今死ぬのか、自死の理由を自分の中で検証し、
悲壮感や絶望感を、主観的でなく、客観的に、確たる自死の理由をつかみ、
父の元に元気に行きたかった。

大きな模造紙を買ってきて、自死の理由を思うまま書いてみた。
父を失った喪失感、裏切られた絶望感、あれこれ考えていくうちに、
劣等感、疎外感という文字が表れた。私自身思ってもみなかったことだ。

幼いころ、旅回りの先々で学校に行ってもろくろく勉強をしていないため、
テストに遭遇しても全く理解できず0点。
旅役者ということも重なって、疎外され、虐めにあう。
それが「トラウマ」であることがハッキリした。

この「傷」と向き合って、この傷を癒して、元気になって父の元に行こうと
私は決心し、小学校中退でも入れる「放送大学」に入学をした。

入学したといっても、並大抵のことでなかった。
教室から逃げ出したり、深夜飛び起きて、おお泣きしたり、
まさに心の「傷」の後遺症が噴出して、心のバランスを保つのに必死であった。

大學の勉強に少し自信がもてるようになってきたころ、
負けん気の強い私は、どうせやるならと、司法試験にチャレンジするため、
法曹界へ90�佑凌佑鯀�り出しているという有名専門校に入った。

                        つづく
 ーーー
花柳 幻舟(はなやぎ げんしゅう、1941年5月15日 - )は、
 舞踊家、作家、社会運動家、フェミニスト。
 本名は、川井 洋子。

2歳で舞台に立ち、旅役者の子であることを理由に転校先の学校でいじめに遭う。
18歳で結婚して家父長制の矛盾に直面し、夫から自立するために花柳流(踊り)に入門。

花柳流名取となったが家元制度に疑問を感じ、その根源に天皇制があるとの認識を
持つに至って、家元制度打倒の運動を開始。
花柳流家元(三世)花柳寿輔を襲撃して包丁(*1)で刺し、傷害罪で服役。
天皇即位礼の祝賀パレードで爆竹を投げて道交法違反(路上危険行為)で
罰金の支払いを拒絶し服役。

2004年、放送大学を卒業し、その報告をまとめた『小学校中退、大学卒業』を上梓する。
講演活動などを続けながら舞台への復帰を目指している。

映画『幻舟』は、
キム・ロンジノット監督が、1989年、共同監督ジャノ・ウィリアムズとともに
撮影したドキュメンタリー映画。幻舟が被写対象になっている。
原題タイトルは、『Eat the Kimono(着物を食え)』。
日本女性を縛る因習を描いた作品である。
拘束衣でもある着物に家父長制の象徴的な意味を込め、
「着物を着て自由を表現したい」
「着物に食われてはいけない、着物を食え
(着物に食われて身動きのとれない女性になってはいけない)」
と作中で語る幻舟の言葉からつけられた。
ロンジノットは黒澤明のファンだったが、映画に登場する日本女性に親しみを持てず、
違和感を感じていたところ、花柳幻舟の記事を読んで興味を持ったことが
撮影のきっかけとなった。
英国のテレビ局・チャンネル4が放映、アセン国際映画祭ではグランプリを獲得した。

1995年、幻舟は放送大学学園に入学、途中、司法試験を目指して勉強した3年間の
ブランクをはさみ、2004年3月に卒業した。
禁固以上の刑を受けた者は弁護士の欠格事由(弁護士法六条の一)となることを知り、
司法試験は断念することになった。
卒業論文は、
「メディアの犯罪、その光と影−ある創作舞踊家が逆照射した現代の報道イズム」で、
著書『小学校中退、大学卒業』に掲載されている。

・・・・・・
・・・・・・

2004年03月18日(木)
1079, 晴れ間の出来事
 ーつれづれなるままに

車に乗っていて、信号待ちをしていると、家の軒先のガレージで
犬が自分の毛布を引っ張っていた。
日陰から陽があたっている場所に移動していたのだ。
犬のその微笑ましい姿に笑ってしまった。

以前、犬に手を上げて挨拶をしたら、何と手(足)を上げて挨拶をかえしてきた。
私は犬が大好きなのだが家内が大嫌いで、家で飼うことが出来ないのが残念だ。

十姉妹と一緒に入れていたインコを、違うカゴに移したら、インコが焦って
入り口を其処にあった小さな棒でこじ開けようとしたこともあった。
動物を見ていると時々信じられない行為をすることがある。

先日、久々の日曜日の晴れ間に土手を歩いた。
この時期、居残り鴨(残り鴨)が、アチコチに5〜6羽づつ群れをなしていた。
彼等は人家近くは逆に安全であることを知っているのだ。
この時期の散歩は冬を越えた何ともいえない春の芽ばいがよい。

近くの河の桜の花の芽がチラホラ目だってきた。
ニュースで、福岡のソメイ桜が咲き始めたといっていた。
東京の桜も今週中にも開花するとか。
給料前の開花は、花見の客目当ての業者には大きなマイナスという。

そういえば去年、京都に深夜バスで見にいってきた。
盛りを過ぎていたが、それでも良かった。

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2003年03月18日(火) 713,
「メシのタネはどこに行った」
        ー読書日記

 邱 永漢 著の「メシのタネはどこに行った」が面白い。
現在の日本の現状をわかりやすく書いてある。
東南アジアや中国にその工業生産地の地位を奪われ、まさに
地方は空洞化で劣化の道を歩んでいる。
首都圏が世界に向けての工業地帯ー企画と高品質化を提供する発信基地となり、
地方からシフトの変更をしている。

 地方の時代といわれたが、一瞬で終わってしまい、いまや寒風が吹き荒れている。
もう二度と春は来ないであろう。次ぎの日本鉱脈を探っているが、海外に資本と
ノウハウをもっていくしかない。
「国がどうなるかと考える前に、自分が如何したらよいか考えるべきだ」
と日本人一人一人につきつけられている。
みんなで大損をして再出発の時である。
フローが細ってしまえば、ストックは減るのは当たり前のことである。

 ー以下はあるホームページの要約のコピーである。
以下の要約を何回か読めば大筋がわかる。

 ・・・・・・・・
「メシのタネはどこに行った」
 邱 永漢 著
 経済界 刊
  1238円+税金
 発効日 2002年8月8日
 中央図書館 3月15日
   ☆☆☆

1.工業的豊作貧乏のトップ・バッター日本

 日本の富の大半は工業生産によってもたらされたものであり、工業生産が付加価値を
生み出す限り、日本経済は安泰だったし、サラリーが貰えなくなる心配はなかった。

それどころかサラリーは年々上がり続け、円高のせいもあるが、遂にアメリカを追い越して、
世界のトップに立ってしまった。それでも世界中にマーケットがあり、
メイド・イン・ジャパンを売り込める余地が残っている間はまだよかった。

ところが全く予期していなかったことが起こった。輸出で財を築いた日本だが、
輸出で稼いだお金で日本国中が資産インフレになると、一大消費ブームが巻き起こったのも
束の間、国内消費が壁にぶつかってしまったのである。

1989年の株高を頂点として日本の株価も地価も反落に転じたが、それがきっかけになって、
日本が不況に陥ったわけではない。実は工業化社会に転じてからの日本が欠乏と不足を
充たしてほぼ飽和点に達し、豊作貧乏に見舞われるようになったことが日本に大きな変化を
もたらしたのである。

日本の景気を左右するのは実は国内の消費動向であって、輸出の好調、不調ではないのである。
消費の減退は日本経済に重くのしかかっており、お金の流れそのものを変えてしまったのである。
実はそうした認識を私自身もつい最近までは持っていなかっ た。

これはひょっとすると60年に1度あるかないかの大恐慌かもしれないと考え直すようになった。
今の日本で起こってい ることは世界で類例のないことであり、日本がトップ・バッターとして
世界ではじめての経験をしているということにほかならない。

では世界に先んじて日本がおかれている社会条件は何かというと、いち早く工業化に成功して、
世界のトップを行く工業先進国になったということである。その成功によって世界中で最も
稼ぎの多い富裕国になったわけである。

工業化によってつくり出された過剰生産は人間自身がストップをかけない限り、
ライバルが敗退して姿を消すまで続く。
従って一時的な勝者はあっても、永遠の勝者はなく、
息の長い殺し合いが繰り返されることになる。

ダイエーやマイカルやそごうの業績不振を見れば、
過剰生産のもたらすデフレが企業をどういう形で痛めつけるか、いやでもわかってしまう。
欠乏と不足の時代は終わってしまった。
これから工業化による豊作貧乏の時代が始まろうとしている。

2. 日本の大企業がメーカーでなくなる日

物の不足した時代と物のありあまる時代を昨日の続きの今日と考えてはいけない。
供給が完全に需要をオーバーし、物が売れないことが目立つようになると、値段を下げるか、
生産をコントロールするか、二つに一つもしくは、同時に二つとも手を打つか、以外に方法が
なくなってしまった。

戦後の日本が豊かになったのは工業生産に従事することによって付加価値を生み、富を創造する
ことができたからだが、同じことをやっているうちに付加価値を生まなくなってしまったら、
鉱石の出なくなった鉱山、湯の出なくなった温泉になってしまったようなものだ。

今回必要とされているコスト・ダウンは既に省エネと省力の限界をきわめたあとに更に
要求されているものである。従って、生産工場をもっとコストの安い外国に移動するか、
現地の生産工場に生産を委託して、それを自分たちのルートにのせて売るか、二つに一つの
選択枝しか残っていないところまで一挙に追い込まれてしまったのである。

3.職人日本を襲う戦後最大の危機

日本人はものづくりには熱が入るが、財産を運用してふやすということについて全くと言って
いいほど無関心だった。
それに比べると、中国人は物づくりより金づくりに熱心だから、自分で物をつくるよりも、
右のものを左に動かすことによってその差額を稼ぐことに力を入れてきた。

日本に比べて工業化が遅れを取ったのは、むしろこうしたお金優先の思想が
ブレーキになっていると言ってよいだろう。先ず中国人にとって工業化は金儲けための
手段だから、効率が高くてあまり時間がかからない方法を選ぶ。

そのために資本や技術も外国に頼ることをためらったりしない。
世界中の資本と技術がますます中国に集中すると見て間違いないだろう。
また、技術やノウハウを外国に頼りすぎるので、少なくとも近未来では、独自のブランドを
つくりあげることは難しく、極端に言えば、諸外国の委託工場に徹することになる。

日本人の場合は、現地の生産に資本と技術を投じるのだから、そこからの利益が日本企業の
収入になるし、また国際間の格差を利用した流通過程からあがる収入も日本企業の収入になる。
労賃として支払われる分と税金分が現地に落ちるだけで、成熟した日本の取分は資本と経営が
もたらした分に集約されることになる。

日本人はグローバル化の中で自分たちの生産者としての役割をはっきり見定める必要がある。
日本のメーカーは今後も世界的規模で生産を展開して行くのか、
それともユニクロのように計画とデザインは日本でやって加工は現地企業に任せるべきなのか、
二者択一を迫られるところまで来てしまったのである。
足元の明るいうちに流通分野だけ残して生産過程から退去する道を選ぶべきだろう。

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・

2002年03月18日
旅行中につき書き込みなし

・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・

<おわらい>
『それどころ じゃない !』

 ある男、友人のお見舞いに行きました。
「どうじゃな。具合は」
「う・・。ぐ・・」
あちこちチューブでつながれた友人は、しゃべることもできません。

「かわいそうじゃのう。息子さんに何か伝えたいことがあったら、
この紙に書いてくれ。わし、ちゃんと持って行くぞ」
「ぐぅっ!!!」
「どうした!どうした!」

その友人急いで走り書きしたかと思うと、急にぐったりし、
帰らぬ人となってしまいました。

お通夜の日、その息子に会いました。
「あんたに伝言はないかっちゅうて聞いたら、死ぬ1分前にこれを残した。
よっぽどあんたに伝えたかったらしい」

「え・・。これが僕への伝言ですか」

「たのむからチュウブを踏みつけた足どけてくれ!」


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