|
2005年11月03日(木)
--読書日記
「創造する心 日野啓三対談集」につづいて、図書館から 日野啓三著「自薦エッセイ集 魂の光景」を借りてきた。
読めば読むほど、日野啓三の深い洞察に驚きざるを得ない。 数年前に亡くなったが、1990年代、60歳代に入ってから大きな手術をし、 死と向き合うことによって、一段と深い所に達したようだ。
心の奥底に、先祖たちの、生物のあらゆる記憶の存在を感じている。 神秘思想に非常に近いところにいる。 しかし同時に心の奥底に、神秘思想のところがありながら、 「意識は脳の働きである」という意識を明確に持ったまま、 心の奥深い世界を描写している。
印象に深い章から抜粋しながら考えてみる。
ー「書くことの秘儀」ー
”小説を書くってことは、なにひとつ実在しないところから、 リアリティを生み出すことだ、”
”だが死は恐怖であると同時に、生をより自覚的に劇的に物語的に、 悲壮の輝かしく喜ばしいものと痛感させる条件ではなかっただろうか。 死者を弔い。祖霊、神霊への祈り、祭り。 それに伴う様々な建築物、道具、装備品の洗練。 歌と壁画。 食って寝て性交をして子供を育てる以上の膨大な事柄が、 われわれの生を満たすようになったのだ、意識と言葉の進化によって。 一口に言語といっても、他人とのコミュニケーションのための話し言葉と、 ひとり物思い思考しその過程と結論を刻みつける書き言葉とは、 ほとんど異質なものである。 新人を、その抽象的・象徴的能力を特徴づけるのは、 書き言葉とその洗練である。
”「書くことは、話し言葉の領域とは違う領域からやってくる」 「当人は口をきかない、別の人格の言葉なのだ」 本当に、このことはとても微妙で重要だ。 「別の人格」とは何のことか> ユングは「神話的元型」といった。 インディアンの祈祷師マツゥスは「沈黙の知」といった。”
”自分自身の言葉で自分自身の想念、思考、予感、物語を書く人は、 よく知っているはずだ―文章を書き進んで自然にふしぎな加速度がついて、 自分の内部がどんどんめくれ上がって、何者かに乗り移られたような状態に なる瞬間があることを。 以後、自分はいわば巫女のように、自動筆記機械のように、その正体不明の何者かの、 言葉以前の暗い想念のエネルギーのゆらぎを言葉に翻訳するような具合になることを。”
”少し落ち着いて考えてみれば、”自分の言葉”などないのだ。 何万何十万年の間に数え切れぬ人々の体験と感情と思考が折り重なり、 まといつき、溶けてはまた固まってでき上がってきた言葉の連なりのシステムがある。 ただしとても曖昧で重層的なシステムだ。”
”より自分に近く言葉を使う人の方が、もの言わぬ「別の人格」あるいは 「沈黙の知」に、つまり自分を超える何者かに近づき触れることができるということ。 あるいは心ならずも近づき触れて、その無言者の代弁ないし通訳になってしまう ということ。”
”自覚的に書く人―書く前からわかっていることを他人に伝えるためにではなく、 書くことによって自分の奥の、あるいは夜の果ての何かを呼び出して、自分を、 世界を少しでも意識化しようとして書く人、すなわち職業的にではなく運命的に ”書く人”である人=作家にとって、書くという事態はそういうことである。 神秘的とまで言わないにしても、逆説的、背理的な異様なことである。 彼あるいは彼女を駆り立て支えるものは、そのように<自分のために書くことが (特定の読者層に向かって書く作家より)、より普遍的な声に至るであろう> という信念というより信仰に近いものだ。”
”少なくとも結果の保証のない賭け。 賭け金は自分でもよく分からない自分の生涯の体験の闇の奥行と自己判定不能の才能。 確実に失われるのは、保証された人生の幾つもの現実、その安定と安心。”
ー 読んでいるといつの間にか、深い心の底に導かれてしまっている。 [深いことを書くこと]は、読者を深いところに導くことになる。
・・・・・・・ ・・・・・・・
2004年11月03日(水) 1310, 23歳の日記−3
ー卒業式の思い出
大学の卒業式の写真が数枚残っているが、その前後の事や詳細の記憶は殆ど無かった。 ところが、この日記で当日の記憶が鮮明に蘇ってきた。 最終の学校の卒業は、人生の大きな境い目である その記念日の記憶は、大事なことと読んでいて実感する、それも年齢を重ねれば 重ねるほど。幼稚園、小学校、中学校、高校とその日のことは憶えている。
その日の父親の気持ちが、今あらためて振り返ってみると少しは解かってくる。 写真も大事だが、気持ちの記録はもっと大事である。 それにもっと早く気がついていれば、日記を書き続けておくべきだった。
読み返していて感じることは、 「若いということは、若いというだけで光り輝いている」ことだ。 不安定で、歪がまだあっても、あらゆる可能性があるのが若い時の特徴である。 それが悩みになるが、その悩むということがよいのだ。 それも振り返ってみて初めて気がつく。
ー1969年 3月24日
卒業式に出席する為に、8時半に起床、10時半に四日市から東京に向け出発する。 15時前に東京駅に到着する。大学時代の友人の川崎のところに電話を入れる。 一科目、追試が残っていて、それが及第しないと卒業できないのだが、 大丈夫だった。絶対に大丈夫と思っていたが、本当に良かった。 万一の時は、就職もオジャンになってしまうのだから。
その足で、寮に行く。佐藤君は居なかったが、残してあった荷物は娯楽室にあった。 その荷物を持って、千葉の検見川にある(三番目の姉)優子さんの家に泊めてもらう ために向かう。父が私の卒業式の為、来ている。何か父も嬉しそうだ。 恐らく、最後の子供を無事卒業させたという安堵感だろう。 父に言ってはならないことをズケズケといってしまった。 「このままの仕事では、必ず淘汰されるのでは!」とか。 父は何か悲しそうな顔をした。本当に何をやっているのか、自分を怒鳴りつけたい。 それも自分の卒業式にわざわざ出てきてくれたのに。 「親父よ、私はまだまだ未熟なのだ。ご免なさい!」 本当に恥ずかしい。
3月25日
7時半に起床。 今日は卒業式だ。8時過ぎに近くに住んでいる(4女)姉の礼子さんがくる。 父と私に会う為だ。 私は寮に行かなくてはならないので、父より一歩先に家を出る。 寮で大家の奥さんに挨拶をする。
丁度その時、佐藤君とバッタリ会う。 最後の握手をする。初めは親しかったが、途中から行き違いが出た。 しかし、気持を何時も通じていた。良い寮での同僚であった。 佐藤よ、ありがとう。これで壊れた関係を元に戻せたようだ。 これで恐らく会うこともないと思うが、良い友人に恵まれた。
さて、その後父と待ち合わせて、大学に行く。 これが本当に、本当に最後の最後の行事になってしまった。 まずは深井に会う。新橋しのだ寿司の御曹司で、無神経だったが 何ともいえない暖かさがあった。彼も興奮気味であった。 その後、武澤先生に会う。父を紹介した後、父ともども記念写真を撮る。 武澤先生には、言いたいだけいい、その結論を出さずしまいであった。
その後、河村、外山、石川、奥野、兼古、広瀬、皆が居た。 本当に最後ということで涙を浮かべて最後の握手をする。 彼らとも、もう二度と会えないのだろう。 思い出の深い校庭である。 ここが日本かと思われるような何ともいえないアメリカ的な雰囲気があった。 父が、あまりに私のところに多くの友人が次々挨拶に来るので唖然としてみている。 父は何か取り残されているようだった。しかし、それより全ての友人に 挨拶をする方が先である。 卒業式は、一人一人が壇上に上がって,総長から直接卒業証書を手渡された。 その後、全員で校歌を歌い無事終了した。 そして、学食に集まり、ビールで乾杯をして、コップを床に叩きつける。 これで学生時代とお別れという儀式である。
そして学校を後にする。 ところが面白い現象がおきた。 ふと見ると、歩いているのが、入学当時のグループの兼古と奥野と 広瀬の4人なのだ。最後はそこに収まったということだ。 兼古は千葉の方向ということで、駅前の喫茶サルビアで思い出話と、 今後の人生について話し合う。 そして電車で千葉の検見川まで一緒に帰ってくる。 これで、完全に学生時代は終わってしまった。 良い学生時代であった。そして、良い卒業式であった。 これだけ、素晴らしい!と思えるというのは、 一生の宝になるだろう。 明日から再び現実が待っている。
・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・
2003年11月03日(月) 943, トンネル怖い
先週TVを見ていたら、磐梯山から紅葉の景色の生中継をしていた。 「今年は紅葉の時期が例年に比べてかなり早い」と現地の人がいっていた。 その言葉の中に「11月初旬の連休には終わってしまって残念である」という 気持ちが読み取れた。
ところが会社の大矢さんが、その時行っていたという。 それが「素晴らしい紅葉」であったと教えてくれた。 昨日、思い立って磐梯山に行ってきた。 しかし最後の盛りは、やはり先週であったようだ。
ゴールデンラインのコースの木々の大部分の葉っぱが落ちていた。 それでも低い山には紅葉が十分残っていて、快晴に恵まれたこともあって 素晴らしい磐梯の秋の景色を楽しむことが出来た。
ところで10年位前から、高速道路の一車線のトンネルが恐ろしくなった。 誰もがそうだろうが、特に緊張をしてしてしまうのだ。 不安になり他の車はみるところ80キロは出しているのに65キロが精一杯。 手には汗ビッショリ、気持ちが悪くなるのだ。 高速道路にほとんど乗ることないのが理由なのだろうが。 神経症の可能性もある。 トンネル内の事故は死亡のケースが多いこともあり、なおのこと焦るのだ。
一般道に下りればよいのだろうが、時間を節約しなくてはという気持ちが それをさせない。帰りは高速の入る直前にある事故用?の空間に車を止めて、 後続車を追いやった後にユックリ走るようにしたが。 歳をとったということか。若いうちに家族と日本中を車でいっていて本当に よかったとつくづく思った。 今度からはバスツアーにきりかえなくては。 いや日本はもう京都を除けば行くことはないか? それとも、泊り込みで一般道をのんびりいくかだ!
・・・・・・・・ ・・・・・・・・
569、ケーススタデー ー2 - 2002年11月03日(日) 1968年
毎週金曜日の15時か16時より2時間開かれる。 ゼミが終わると太陽が黄色に見える位疲れていた。 知的訓練など全くしたことがなかったためか?
二年間コースで初めの一年は課題の本を読んで、それの感想と議論。 二年目の前半は事例研究で、後半は各自が自分で事例を創り、 当事者として2時間ゼミの全員に質問と追及を受け、その結果を討論 する内容だった。私は途中二年目からの編入であったが。
他の人を聞き取る場合は刑事のような内容追及がリアルで面白いが、 自分の場合は追求されて、瞬時に物語を創っていかなければならない。 今でもその全て憶えている。
このケーススタデーは「見聞皆師」にあてはめて考える事が出来る。 現象ー事象の中から真理を探し学ぶ方法にもなった 。 また人間関係だけでなく、営業や経営のベストプラクテス− ベンチマーキングにも酷似している。
ゼネコンの営業の社内研修でも、これに似たケースでOFF−JT が行われていると大手のゼネコンの営業の人から聞いたことがある。 流通やサービス業の他店見学も似ている。
サラリーマンの足の引っ張り合いは善意を装ってくる 陰険版か??????!!
現象とあるべき姿の格差を埋める作業だ。 少し違うが、帰納法に似ている。 現象の中の真理の内容を検討して結論に導くという点で??
新しい車が発売されると工場ですべて解体して、 それぞれのパーツで業者やその部門の人達が集まってチェックする のはどこのメーカーでもやっていたという。 今はコンピューター処理でインターネットをフルに利用している のだろう。 これの人事管理版が武澤ゼミのケーススタデー?!
管理されるという事はあまり気持ちのいいものではない。 でも組織体としては、それは必要欠くべからざるものである。
ここでいま一つ学んだ事は、 当たり前のことー自分の能力は自分で創りあげるものという事だ。 最後は独りの自覚で自分造りをしなくてはならない。 習慣づくりといってよい。
問題が逸れたが? 私の辛辣さは、露悪ー露善(偽悪ー偽善)を自分や他人の中で すぐ直感してその原因を構造化するためだろ ー父もそうだったから、その理論的訓練を受けた事になる。
それよりその結果として自分の無知蒙昧をいやというほど知らされた。
・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・
[214] オカマバー - 2001年11月03日(土)
14〜5年ぶりに新潟駅前にある、オカマバーにいってきた。 オカマバーの面白いのはその話術である。
変わった飲み屋がないかと言われて当時よく、知人を連れて行ったものだ。
始めは近くの大原簿記の理事長が近くにビルを創りたいが、 この辺の情報を知りたいとので一献と、どう云うわけか奥さんと娘と行ったのが きっかけであった。
やはり初回は異様な感じで、カウンターに男同士の絡みの置物の像には 驚いた。しかし知人に話をすると殆どの人が連れていげという。 喜ぶが二度と行こうとは誰も言わない。
奥にやはりもう一軒あるそうで、そこはその気のあるホモのタマリ場という。 男同士はあまり猥談は言わないが、かなり際どい下ネタをあっさり言う。
以前姉達が新潟に来た時つれていったが、その時私の手をとって人先指をふき始めた。 そして目をツブレと言うつぶった瞬間その指をシャブラレタ!ぞっとした。 もしホモの味を知ってしまったら、抜けられないとその時思ったが、 それより気持ちが悪いほうが先であった。
悲鳴をあげたが、1人の姉が私にもやってみてという。真面目を絵に書いたような人 で、皆凝視の中シャブラレタが「何ともないわ、それより真面目な顔でやってる ほうが面白いは!」と言ったのに驚いた。
私の知り合いが、子供を連れてサウナに行ったららそのママがいたと言う。 子供を盾に下半身を隠しホウホウのていで、出てきた時のシグサガの話が面白かった事を 思い出した。
|
|
|