堀井On-Line



1631, 愛か、夢か、それが望めないなら仕事を!

2005年09月20日(火)

       
この連休前に借りてきた
DVDの『フライト オブ フェニックス』の一場面の、ある男のセリフである。
砂漠の真ん中で墜落した飛行機から一人絶望のうえに脱出しようとした男が、
助けに行ったリーダーに向かって言うセリフである。

「この状況では愛など関係ない、ならばせめて夢を与えて欲しい。
それも無理なら仕事を与えて欲しい!ただ死を待つのはもう耐えられない!」
極限の言葉である。
それに対して、「あくまで援助隊を待つべし」という方針だったリーダーは、
その考えを変える。
この言葉は人間のあるべき姿を全てを言いあらわしている。

・人間の一番だいじなことは、「愛」    −暖かさ
・次に「夢」を持つこと          −方向
・そして、それを可能にするための「仕事」 −力ー愛と夢を支える力ー現前の気晴らし?
 である。

リーダーとしても、人間にとってもこの順位は変わらない。
どれも、決して侮れないことである。
極限では、この一つも見出されないのが人間の姿である。

極限の中にこそ、これを見出せるかどうかが試されるのだろう。
何気ない映画の一言に、胸がドキッとした。

ー検索で調べた荒すじをコピーしておきます。

 閉鎖された石油採掘所のスタッフと廃材を運ぶ運搬機が、巨大な砂嵐に遭遇し砂漠の
ど真ん中に不時着する。
毎度お決まりの仕事を無難にこなすだけだった貨物機操縦士のフランク(デニス・クエイド)は、
自分たちの状況が最悪なのを察し、助けを待つしかないと悟る。
しかし、コスト削減のため採掘所を閉鎖した本社が、彼らの捜索部隊を出す予算など持っている
わけがないことに気付き、彼らは絶望の淵に立たされる。
その中で正体不明だったエリオット(ジョヴァンニ・リビシ)が不時着した貨物機の
破損していない部分を見つけ、彼らはここから新しい飛行機を造ることを決意する・・・。

 1965年製作の「飛べ!フェニックス」をリメイクした作品。
砂漠の真ん中で遭遇した事故により過酷な状況に陥った生存者が、
砂漠から脱出を試みようと飛行機造りに奮闘する姿を描く。

 飛行機の残骸から新たな機体を造るという荒唐無稽なアイデアと軽快な音楽とが相まって、
過酷な状況である筈の生存者達の姿には、悲壮感や緊迫感があまり感じられない。
この点は賛否が分かれるだろうが、心理描写よりも飛行機造りをメインに据えて展開する
ストーリーは思い切りが良く、映画ならではの面白みがある。

 シンプルで解りやすいストーリーはテンポ良く進んでいき、すぐに作品の世界に
入り込むことが出来る。
ラストは容易に想像できてしまうものの、冒頭の飛行機墜落のシーンや飛行機造りの過程で
次々起こるトラブルは、観ていて飽きることがなく最後まで観賞する事ができる。
気楽に楽しめる娯楽作である。

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2004年09月20日(月)
1266, 仲人制度が消滅?

新聞に出ていたことだが、
「結婚式で仲人を立てたカップルは4・6�佑函�
前年より3�誘瓩�も減少。20組に1組以下になった。
首都圏では、僅か1�佑靴�なく、制度としてほぼ消滅した。

終身雇用が揺らぎ、ついてゆくべき上司に頼む風潮がなくなったこと、
「家」と「家」から「個人」と「個人」の結びつきに変化したためである。
更に仲人を頼まれるのを嫌がる人も増えているのもある。
三年前には20�佑�まだ仲人をたてていたが、そのサラに4分の1に激減
した」という。

そういえばこの数年来の結婚式で仲人をたてた結婚式はみたことがない。
非常に良いことだ。
昔から、仲人が二人の経歴を長々述べて、ただ祭壇に黙って座っている姿が滑稽で、
気の毒でさえみえた。

家という制度が確実に破壊していることもある。
これは決して良いことではない、少子化の時代の現象でもある。

反面、気楽に結婚して子供をつくるのはよいが、家庭を維持できなくなり、
先日の「幼児殺人事件」に見られる現象が度々起こってくる。

少し減ったというなら解るが、ほぼ消滅とは驚きである。

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2003年09月20日(土)
899, 《V・E・フランクル》について

十数年前にフランクルの「夜と霧」を読んで感銘した。
そして数年前、春秋社の以下の彼のシリーズをむさぼり読んだ。
人生丁度まがり角であったためであろう。
その意味の深さー絶対的人生の肯定に魂を揺さぶられた思いであった。
彼の「意味」発見のための3つの問い
・「私は、この人生で,今何をすることを求められているか」
・「私のことをほんとうに必要としている人は誰か。その人は、どこにいるのか」
・「どの誰かや何かのために、私のできることには、何があるか」
この3つを常に念頭において生きることが,『なすべきこと』
『満たすべき意味』を発見するための手がかりになると、
フランク心理学では考えている。


特に以下の分析には深く納得をした。

ー自己超越のための3つの意味(価値)ー
1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味
          =仕事・子育て・学問・芸術
       ー力への意志
2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味
          =自然・芸術・愛
       ー愛への意志 
3・態度価値: 運命に対し模範的な態度を取ることで
        得られる価値・意味ロゴスの覚醒=対象との一体化
        ※自身が何らかの喜びに満たされていること
       ー知への意志 

人生には発見されるべき価値や意味がある
 (1)意志への自由 (いかなる境遇でも自由意志を持つことができる)
 (2)意味への意志 (意味と目的を発見し充足するのは人間の努力である)
 (3)人生の意味  (創造・体験・態度生きる姿勢の中に意味を見出す)
  ー生きることは価値判断(学習)と選択の連続である

ー私が読んだ本は以下であるー

・「夜と霧」:ドイツ強制収容所の体験記録
 V・E・フランクル 霜山徳爾(訳)
  みすず書房  1985年

・「それでも人生にイエスと言う」
 V・E・フランクル 山田邦男・松田美佳(訳)   
  春秋社   1993年

・「宿命を超えて、自己を超えて」
 V・E・フランクル山田邦男・松田美佳(訳)   
  春秋社   1997年

・「<生きる意味>を求めて 」
  V・E・フランクル  諸富祥彦(監訳)
  上嶋洋一・松岡世利子(訳)   
  春秋社   1999年

・「フランクル回想録:20世紀を生きて」
  V・E・フランクル  山田邦男(訳)  
  春秋社   1998年

・「フランクルに学ぶ 」    
  斉藤啓一 日本教文社  2000年

・「どんな時も、人生に‘YES’と言う
  諸富祥彦
  大和出版

ー印象的なところを「検索」で調べてコピーしたー
 
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『夜と霧』(みすず書房、1971年新版)

収容所での体験を描写することによって語っているのは
「人は変えようのない運命に直面したときでも、それに対して取る゛態度゛というのは
自ら選ぶことができる」という真実です。

「精神的自由、すなわち環境への自我の自由な態度は、この一見絶対的な強制状態の
下においても、外的にも内的にも存しつづけたということを示す英雄的な実例は少なくない
のである。強制収容所を体験した人は誰でも、バラックの中をこちらでは優しい言葉、
あちらでは最後のパンの一斤を与えて通って行く人間の姿を知っているのである。
そしてたとえそれが少数の人数であったにせよ――彼等は、人が強制収容所の人間から
一切を取り得るかもしれないが、しかしたった一つのもの、すなわち与えられた事態に
ある態度をとる人間の最後の自由、をとることはできないということの証明力をもっている
のである。
「あれこれの態度をとることができる」ということは存するのであり、
収容所内の毎日毎時がこの内的な決断を行う数千の機会を与えたのであった。
その内的決断とは、人間からその最も固有なもの――内的自由――を奪い、自由と尊厳を
放棄させて外的条件の単なる玩弄物とし、「典型的な」収容所囚人に鋳直そうとする環境の
力に陥るか陥らないか、という決断なのである。」

 生きていれば、誰しも避けがたい苦悩に直面するわけですが、そういったときに、
 「どのような゛態度゛を取るのか」というコトが問題となってくるのだと思います。
 変えられない運命に絶望しニヒリズムに陥ることや、責任を転嫁して他者を恨むこと、
 現実逃避のために自暴自棄になることは簡単だけれども、フランクルは、そういった態度は
 人間としての自由と尊厳を放棄した態度だ
と言っているのだと思います。

「〜生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに
違いない。苦悩が生命に何らかの形で属しているならば、また運命も死もそうである。
苦悩と死は人間の実存を始めて一つの全体にするのである。
 一人の人間がどんなに彼の避けられ得ない運命をそれが彼に課する苦悩とを自らに
 引き受けるかというやり方の中に、すなわち人間が彼の苦悩を彼の十字架として
 いかに引き受けるかというやり方の中に、たとえどんな困難の状況にあってもなお、
 生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである。」

 変えようがない事実そのものをそのまま認識し、そこから自分はどうするのか
・何が出来るのか、といった自らの可能性を考える態度。
それは、苦しみを受け入れ、苦しみに耐えながら、苦しみと共に生きていこうとする態度。
人はこのような苦悩を正面から受け取る態度を取ることによって初めて、その苦悩を乗り越え、
自己をさらなる高みに引き上げることが出来るのだと思います。
ここにおいて、苦悩の持つ意味・価値が創り出されるのでしょう。

 フランクルは、このように苦悩を超えることによって生み出された価値というのは、
 他の価値とは次元の違うものであるとしています。
彼は、それは如何なる外的状況(例えば、傍から見れば「失敗」であったり
「不幸」であったり「悲惨」であったりするような状況)に関係なく得るコトの出来る
価値だと述べています。

 このように、苦悩を自己の飛躍へと転化することというのは、きっと誰にでも
可能なことなのだろう、とわたしは思います。
わたしたちの苦悩が収容所での経験を凌駕するほどの悲惨なものでないのなら、この、
人間が運命に対して挑むことの出来る唯一のやり方、「事実を受け入れ、そこから生きていく
という姿勢を取るコト」は、わたしたちにも可能だろうと思うのです。
フランクルも本の中で、このような態度を取ることが出来た人が過去において一人でもいた
という事実そのものが、「人間がその外的な運命よりも内的にいっそう強くありえる」
ということの証しとなると述べています。

 わたしたちはともすれば、自分を取り巻く様々な運命的な制限
(生まれや能力、容貌、環境などなど)に落胆し、成す術もなく空虚な気分になりがちな
ワケですが、しかし、これらの変えようのない事実をしかと受けとめ、その苦しみに塗れながらも、
どうにかして何かをしていこうという姿勢こそが、わたしたちを内的な成長へと導いてくれる
のだとフランクルは言っています。

収容所の中でさえ、そのような偉大な所業を成し遂げた人間がいるのなら、現代に生きる
わたしたちに出来ないはずがないでしょう。全ての苦しみをかかえる人が、それぞれ立っている
場所から自己と自己に与えられたモノを見つめることによって、それぞれの意味を見出し、
苦しみを乗り越えることが出来るはず。
わたしはそう思っていたりします。


「真の運命を正しく耐え、率直に苦悩することは、それ自身、行いであり、まさに人間に許される
最高の成就であり業績である。」(『神経症の理論と治療』より)

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 525,光ファイバー
- 2002年09月20日(金)

昨日から、会社のランが光ファイバーでネットされた。
今までの電話線の10�涌造ぅ優奪販繕發妊灰好肇僖侫�ーマンス
はよくなったが、諸経費等が65万である。
1~2年で元はとれるが、それで1000倍近い速度だ。

自宅では来月半ばに入る。
長岡で導入の一号だそうだ、その証明書も出してくれるという。
何か営業に強引に加入されてしまったが、一号の証明書をもらって我慢だ。
月9000円で、来春5800円に下がる?そうだ。
電話代が無料になるから、その辺が入り時という。

ブロードバンド ポルノと検索入力して、はじめは 定番から
入るしかないか?
「ブロードバンドと何々」の何々をこれからキーワードに
意識をしていくと、面白いものに行き当たるだろう。

愛犬家だったら犬と入れると、犬の画像が出てくる。
おしゃべり日記といれたら、何か話している人の画像が
出てきたりする?
自宅ではADSLが一月前に入ったが、早速ブロードバンドとポルノ
と入れたら、リアルな映像が出てきた。
それから見ていないが、あれはこっそり見るもので、
パソコンで見るのに適してない?

美術館とか博物館などが早速取り入れてくるだろう。
それとサービス関係のホームページも。
これに携帯が連動してくると、さらに面白い時代なってくる。
今まで写真中心の海外旅行のホームページが、写真が出てくるまで
時間がかかりすぎて、見るのに躊躇していた。
その問題は軽くクリアーするだろう。

二紙とっている新聞を一紙にしようかと、今月中に結論を出す。
トレードオフだ。
以前は3紙とっていたが、日経をまずやめた。
この時はWOWOW に加入した時だった。

次は朝日か?新潟日報か?どちらを残すか。
会社に行けば見れるのだから。

今の若い人は新聞を見ない傾向にあるという。
インターネットでネット新聞を見ているという、もちろん無料だ。
死亡広告がなかったら日報もやめたいのだが、全くつまらない!
考えてみたら、とってないのもいいかもしれない??!!
新聞社の斜陽が更に進むだろう。

ヒカリファイバーで3年先には大きな社会的な変化が進むだろう。

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[151] 世間様      
2001/09/20
「世間とは現実にドップリつかった馬鹿な4^5人のこと。」
浪人を重ねるうち悟ったことである。それは諦めと醒めた視点から感じたことだ。
現実とは世間とは「教養のない馬鹿な女と女みたいな男の現象世界」でしかないことを。
それが馬鹿な彼女・彼等にとって、現象が全てだからそうなのだろう。

 世間の目、世間様とかは自分の(自己の範囲を自分というなら)日々の泡でしかないのに。
それが解ってないから前に書いたチンドンヤや子狐が出てくる。
その言葉に呪縛されて、一生終えてしまうのが95%いやもとっと多いのでは。
世間様に笑われないようにとか、世間様に迷惑をかけないように!これも大事だろう。
城下町街はこの世間様の世界に入る。彼らの情報(噂)は下ネタか夜逃げか不幸,
それを皆で楽しんでいる。社会と世間の言葉の違いを定義つけておかないと!
こういう世界に迷い込んでしまう。
 ーーーーーーーーー
(10年近く前に書いた文章に
似たような内容があったのでコピーしておきます。)

H0407城下街小唄

 私の出身地の長岡はかつて“長岡藩”の城下街であった。
その大手通りのほとんど真中に生まれ育った事もあり、その長所・短所がよくわかる。

その特質は閉鎖性・固定的、商人的であり、“城下街曼陀羅”がきっちりできており
漫画的ですらある。彼等の社会は“ウワサ社会”で構成されている。

特に長岡財界とかいう社会が存在(?)しており、彼等の出す“ウワサ”がその社会を
大きく左右する。それが事実であろうがなかろうが
“マンダラ”の中心点に近い人間が言った事こそ絶対のようだ。(“ウワサ”として)

彼等の社会をみていて、維持型の人間こそ“一級”と評価される。
固定社会が故に何もしない(何もできない)事こそがベストなのだ。

“非能動的二代目+婿取り娘サロン社会”と言える。先日もいやな“ウワサ”を聞いた、
今は下火になったのだが、新興の各業界の�癸韻亮卍垢�十人あまり�癸韻�ゆえに聞くに耐えない
“ウワサ”を流された。“一種の集団いじめ”なのだが、

そのストーリーが陰湿でリアリテーにとんでいる。
冷静に考えればほとんどが尾鰭のついたウソである。それがおもしろおかしくて
集団ヒステリック的につくりあげられており、自らの名が出るかどうか怯えている。

“参加型変態うわさゲーム”を全員で楽しんでいる“痴呆社会”そのものといえよう。

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