堀井On-Line



1329, 教養と自由とバカの壁

2004年11月22日(月)



「教養とは自由になるためのアーツ(芸術・芸)」と、
昨日の読書日記で書いた。
そういえば「自由」について以前書いたことがあった。
(後に、コピー)

そこでは、自由について
・積極的な自由とは、自分の真にしたいことを見つけて追求すること、
・消極的な自由とは、束縛されていることから解放されること、
 の二つに分類した。

教養とは、真に自分がやりたいことを見つけ実施していくための、
蓄積しておく知識、経験を芸にまで高めておく、ということになる。
また自己を束縛していることから、いかに解放するかのアーツ(芸術)といえる。
 
「話が通じない時、情報を遮断しているもの」を養老孟司が、
「バカの壁」と名づけたが、情報を遮断している小さな固定観念を一つずつ
クリアーしていくことが、経験を芸に昇華していくことになる。
 
自由とは、選択の自由である。
多くの選択肢の中から、一つの選択をしなくてはならない。
これは非常に難しいことである。

そこには決定という自己責任と結果が生まれてきて、その不安に常に付きまとわれる。
そこに哲学が必要になってくる。

教養としての哲学は、取り囲んでいる壁に対して自覚することから始り、
その壁を土台にすること、そして乗り越えるのに必要になる。

話は少し変わるが、
「英語をマスターすることも教養のうちか?」と、問われれば勿論
教養のうちだ。
英語を話せる分、読める分、それだけ自由の枠が広がる。
特に英語は、現在世界の標準語になっているから。

ーーーーーーーー
2004/05/17
1140, 自由についてー1

学生時代より『自由とは何』を考えてきた。
そして自分の自由を優先して生きてきた?
しかし、よく考えてみたら、自由は自分のしたいことをみつけ、それを追及すること
であった。自らの自己実現に対して忠実に生きることであった。
字のとおり「自らに由り、生きること」である。
そして自由な生き方ー周囲の因縁や世間といわれている束縛から解放されている
状態を理想としてきた。

調べてみると、自由には多くの意味やとらえ方があるようだ。
手の自由といっても、しょせんは人間の体の一部としての腕の範囲内の自由でしかない。
といって使い方は自由である。

また自由には、当然の責任がともなってくる。

アイザリア・バーリンは自由を「消極的自由」と「積極的自由」の2つに分類した。
ー「消極的自由」とは「他者からの強制・干渉を受けずに自分のしたいことができるという
意味での自由」であり、
ー「積極的自由は自己が自己を支配している状態」と捉えられる。
例えばカントは、恣意に従うのではなく「理性」に従う状態が自由であると主張している。
また、ハンナ・アレントは政治活動を通じての自己実現こそを自由の本質と看做している。
これは「より高次の自己」を獲得するための手段・条件として捉えられることになる。
このような積極的自由は「個人主義的積極的自由」ととらえられる。

キリスト教世界においては、人間存在の根源的価値を「自由」としている。
ルソーは、その著書「社会契約論」で「人間は自由なものとして生まれた」と述べたが、
「全ての人間が社会において等しく自由である」という事は絶対に不可能である。
かつてホッブズは、各自が己の自由を守る為には「万人の万人に対する闘争」に陥る。と
指摘した。
キリスト教世界において、人間が自由であり続ける為には、戦い続けなければならない。
「自由」という言葉には、英語では2つの単語が存在します。
「Liberty」と
「Freedom」である。
「Liberty」とは「束縛からの自由」を意味し、束縛から逃れる為には、  
 戦わなくてはならない。
一方、「Freedom」は束縛から解放された結果もたらされた自由であり、
「自由な状態」を指します。そして自由な状態が脅かされる時には、やはり戦わなくては
ならない。

哲学者のホッパーは自由を
文化的粉飾から自由になることが大事だとしている。
日本的にいえば、世間の常識に縛られないということだ。

日本は自由という言葉は明治初期まで無かったという。
欧州から入ってきた「Liberty」と「Freedom」を
西周が「自由」と訳した。
それまでの封建社会では自由の意味もまったく無かったのだ。

鈴木大拙は自由に相当する言葉を自然(じねん)と看破した。
自らを然らしむ、自由自在に自分を伸ばす、自分で自分の納得する境地を拓く、
という内容である。

この「自然」の然は、もとは「燃」という説もある。
「人間は燃えているときに仏性をもつ。醒めた人間は悪魔だ」という。
「自由とは道理」という解釈も面白く納得できる。
自由ー自然ー道理と考えると、なるほど納得できる。

「家内の束縛から自由になりたい」と思ったら、
「家内の束縛から自然になりたい」ということになる。
束縛を束縛ではなく、それが自然と考えればよいのか?
束縛に対し、自らを納得させるということになる。
束縛が道理であると諦めるということと考えると、解るような気がする。
まあ、あまりに日本的だが。

「不自由を恐れるなかれ、無意味な自由を恐れよ」
と、この文章を書いていて思いついたが、そのとおりだ!
逆もいえる
「自由を恐れるなかれ、無意味な不自由を恐れよ」
の方が、理にかなっているか。

ーーーーー
2004/05/19
1142, 自由について −2

「自由ほど不自由」ということを感じたことを誰もが経験していると思うが?
これは「自由な自己決定」を迫られる「不自由」ということにある。

自由とは主体的であるということだが、その主体ということが怪しいのだ。
主体的と思いこんでいるだけでしかないことに気がついてないのだ。
その主体も外的要素によって規制されているから矛盾が出てくる。

目の前の「自由」が、ちゃんと何かによって規制されていることを嫌というほど、
思い知らされていることを。

人生経験の中で主体と思ってきたことも、所詮は限定された世界の泳がされてきた
小さな池の魚でしかなかったことを。

主体を「気短」という説がある。
なるほど、面白いドキッとする内容である。
主体的ということは、気短で、その結果として目先の判断で動いているだけという。
なるほど、そうかもしれないところが、身に沁みる。
自由から、何で気短に行きつくのが不思議であるが。

現在の社会の様々な問題の根底の部分に、
「自立した自己」や「自由な主体」などの、幻想が潜んでいるのではないだろうか。
「ゆとり教育」とかいうものが、幻想でしかないことを国は気がつき始めた。
国民レベルは、それが幻想ということを初めから知っていたが。

自由は戦いとるもの、積極的な自己目的を追求する姿勢の中にこそある。
「不自由論」という本がある。
曖昧な自由論を批判している内容である。

風刺漫画を思い出した。
「夫婦が、お互いの首についた紐を握りしめ溜息をついている絵」である。
何とも不自由そうであった。

  ーーーーーー

【-自由について-】

・あまり安価で手に入れたものは軽く扱われる。
自由のように神々しいものが高価でなかったら、実におかしいではないか。
                    −ペイン

・人間の自由を奪ったものは、暴君でも悪法でもなく、社会の習慣である。
                    −J・S・ミル

・痩せた自由は肥えた奴隷にまさる。
                    −イギリスのことわざ

・自由は外的な事実の中にあるものではない。それは人間のうちにあるのであって、
 自由であろうと欲するものが自由なのである。
                    −エルンスト

・自分自身を支配できないものは自由ではない。
                    −マッティアス=クラウディス

・自由に気がついていないときこそ、人間は一番自由なのだ。
                    −ローレンス

・自由は責任を意味する。だから、たいていの人間は自由を恐れる。
                    −バーナード・ショウ

・人間が自由であり得るためには、神があってはならない。
                    ーシェリング

・自由であるとは、自由であるべく呪われていることである。
                    ーサルトル

・真に重大な自由はただ一つです。それは経済的な自由なのです。
                    −モーム

・我に自由を与えよ。そうでなければ死を与えよ。
                    −パトリック・ヘンリー

・自由は新たな宗教であり、われらの時代の宗教である。
                    −ハイネ

・ビロードのクッションの上に大勢で座らされるよりも、
 カボチャの上に座って、カボチャを自分で占領した方がいい。
                    −ヘンリー・ダビット・ソロー

・自由を愛することは他人を愛することだ。力を愛することは自分を愛することだ。
                    ーハズリット

・おお自由よ!汝の名においていかに多くの犯罪がなされたことか。
                    −マダム・ジャンヌ・ローラン

・人は自由を得たのち、いくらかの歳月を経過しなければ自由を用いる方法がわからない。
                    ーマコーレイ

・世界史とは、自由の意識の進歩以外のなにものでもない。
                    −ヘーゲル

・自分の好きなように生きている人間は自由である。
                    ーエピクティタス

・個人の自由も次の点では制限されなければならない。
 すなわち、他の人達に迷惑をかけてはならない。
                    −J・S・ミル

・アダムはリンゴが欲しかったから食べたのではない。禁じられていたから食べたのだ。
                    −マーク・トゥエイン
 ・・・・・・・
 ・・・・・・・
 
2003年11月22日(土)
962, 「わ、金持ち!」

 ‘不景気になるわけである。’
今日からの3連休の時間つぶしの為に?昨日レンタルDVDショップにいって
映画と異種格闘技の試合などを3本、借りてきた。
その時、前の中年の男の人が10本も借りて2500円の支払いをしていた。
今までみているのはセイゼイ3〜4本である。
この話を家内にしたら「わ、金持ち!」であった。
ご飯を食べていて、思わずムセテしまった。

「普段時間の無い人が、この連休に思いきって映画三昧を決め込もうという姿」
を家内に言ったのだが。主婦の視点は全く違うのだ。
しかし、ただ驚いてしまった。
映画館で観れば一本2000円近くとられるが、自宅で見れば10分の1で済む。
そう考えれば十本は贅沢なのかもしれない。
家内曰く「もともとWOWOWなどで見れる映画を、レンタルでDVDも10本も
借りるのは信じられない」という意味で言ったと。
私にしてみれば「居酒屋などの酒代から見れば、数倍も価値がある」
と思うのは当然である。

 こういう時代は、異種の対象との価値が比べられる。
「レンタルDVDや映画館と居酒屋」
「100円ショップとラーメン」
「車とPDP.TV」
「本とDVD」
「旅行と豪華な食事」
等々である。
比較される方にとっては大変な時代である。

 スナックのつまらない店より、レンタルのDVD10数本の方が
ズット面白いに決まっている。

・・・・・
・・・・・

 588, 服装は着る言葉です
- 2002年11月22日(金)

本屋をのぞいていたら[[服装は着る言葉です」とある服装評論家
の文章が印象深かった。そこに更に他の評論家が
「似合うということと、高い、新しい、華やか、流行とは無関係です」
と書いてあった。
「どう着るかは人生をどう生きるかの自己表示である」
というと、少しオーバーになる。

服と服装は違うという。
服はあくまでパーツである。その組み合わせが服装という。
それもTPOSの場に合わせるので
自己表示そのものといってオーバーではない。
ファッション店はそうすると情報産業そのものになる。
「こういう組み合わせやパーツありますよ。
うちの店のこれで自分を表現したらどうですか」という情報業だ。

真っ赤な胸の開いた服ならさしずめ
「私はさかりがついているメス」と自己表示している?
あのメスサルの尻の赤い状態である?

若いうちから服装にもっと気を使うべきだ。
中年のきんきらのオバサンを見ていると、この人は若い時に
そういう気を使ってないことの自己証明である。

大学に入った時に一番ショックだったのが服装であった。
都会育ちの友人のセンスのよさにコンプレックスを持った。
一枚の開襟のシャツを何気なく着ているが、センスが違うのだ。

中学や高校時は制服でカジュアルを着るチャンスは全くなし。
急に華やかな世界に投げ込まれても、即席で身に付くものではない。
言葉と服装に本当に苦労するのが当時の地方出の悩みであった。
今はTVやマスコミで均質化されているが。

その為に、鈴屋や鈴丹という地方出の為の女性のファッションチェーン店
があった。今は鈴屋は潰れ、鈴丹は消滅直前だ。

・・・・・
・・・・・

[235] 糸井重里のインタネット的
- 2001年11月22日(木)

 彼の著書の「インターネット的」が面白かった。
買おうとしていたところ、たまたま図書館にあったのを
借りてきて読んだ。買うほどでないが読む価値が充分あった。

 まとめてみると、
インターネットのキーワードが4つあるという
1、[リンク]ージョイント的のつながりとは違うという。
  ジョイントは‘問いに対する答え’のように交互の繋がりをいうが、
  リンクは問いに対していろいろな答えがある、それを有機的に
  つながっていくことが可能なのがリンクという。
  それぞれのホームページのお気に入りのコナーから、
  新しいページに行き、 そこからまた新しいページにリンクしていける。
  これがまず一番の特性。
2、[シエア]ーおすそ分け、情報の無条件の提供である。
  そうでなくては誰も見てくれない。自分の利益を考えることは大事だが、
  それを無条件に公開して与える。
3、[フラット]ーたいらー公平無名性に情報をやりとりすることが大事で、
  そこには肩書きも、立場も意味がなさない。
4、[グローバル]ー民族や国の枠を超える、世界的な視点になってくる。

 リンク、シェア、フラット、グローバルの4っがキーワードだ。

 自分でこういうホームページをつくって、何のためと自分で自問自答する
ことがある。自分の経験・体験・知識・考えを知らせる事と、
問い掛けることである。
ーー

 毎日目に見えない何人に向って,語りかけを実際しているように書く。
それには虚飾をすて本音で書かないと、すぐ看る方も書くほうも飽きてしまう。
本音で書き続けると、本音の中にある虚飾に気づくことがある。

 今までの日記(ノートに書いていた日記)より、深くなっていく部分と、
やはり観られている為に本音をカモフラージュしている部分が出てくる。

 また内容のイイカゲンさは排除しなくてはならない。
その為集中を自分に課せることが必要になる、これが最大の収穫だ。

ーーーーーーーー
ーーーーーーーー

ある時間の断片
      11月22日(金)  1968年

・8時起床
 今日は人事管理に出席。
 ゼミの同期の外山君と食事。
 彼は新潟の三条市の同郷だ。おとなしく誠実な男だ。
 彼と行きつけの喫茶店の‘ウイーン’に行く。
 田島のグループがいる。
 彼らと口泡を飛ばして話し合う。
 奥野君も来る、彼は先日突然部屋に訪ねてきた男だ。

・13時にゼミに参加。
 ゼミの先輩で社会人になっている人が二人がきて、社会人になった
 実感を語る。
 その後マクレガー「企業の人間的側面」という本の内容について、
 読後感を各自発表する。
 15時に終了。その後、16時まで明日のゼミのOB会のネームのバッジつくりをする。
・帰寮後、大妻大の宮本さんから電話で昨日の件で
 1人いい人を紹介するという。かなりの美人だとか。
 冗談だったのに、まあいいや、なるようになるだろう。
・その後、市川さんと飲みにいく。
 夜半の2時に就寝する。

 < 過去  INDEX  未来 >


horii86 [HOMEPAGE]