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2004年02月09日(月)
条件と原因とは同義語である。 職業は人間の性格まで決定をしてしまう。 先日書いた「わたしは悪い不動産屋」の中で、「不動産業者は瑕疵を 探してしまう癖が人間性までも出てしまう」と書いた。 その時に以前から書いてみようと思っていた「職業性格形成論」をまとめて みたくなり、早速書いている。
・サラリーマンに嫁いだ姉をみていて驚いたのが、ミスに対して異常に 神経をつかっていることである。 対象のプラスではなく、マイナスのミスだけ眼がいってしまう性格に 変ってしまったのだ。 組織人だった旦那の影響である。 ・母がそうである。いつも話が1・5倍から2倍に膨らむ。 すぐ上の姉にいわせると、値入れを1・5から2倍にするのが原因だという。 そのシビアな指摘に驚いた。 ・代議士ならサシズメ数十倍のハッタリが性格になってしまう。 それと虚言癖だ。 ・作家も虚言癖の傾向になるか、観察眼で物事をみる性癖になる。 ・警官は、全て犯罪捜査の視点でみてしまうようだ。 警官という職業自体、必要悪の部分がある。国家内の法律遵守の 暴力装置だからだ。 ・先生は、常に教えたくて仕方がないとか、生徒を比較するように社会も 比較順序をつけてしまうという。 ・私の仕事は装置産業、一度投資をすると15年〜20年はどうしようもない。 あとは社会情勢次第。そうすると、マクロ的な世界や社会に興味を 持ってしまう。 面白いものである。 そう考えてみると、誰もが自分で思いあたるだろう。
サンマというタレントをみると、普段生活があのままという。 常に話しまくっているかパフォーマンスをしてないと不安になるといっていた。 TVタレントや俳優は、私生活のすべてが演技の勉強になっている。 そして演技と実生活が混同してしまうという。
そこまでいかないとプロとはいえないのだろうが。 職業は生きていく上で重要な位置を占めているものだ。 但し、何事も例外の人はいる。
当たり前のことだが、泥棒や犯罪も職業にすべきで無い。 人間性まで泥棒になってしまうからだ。 いや、泥棒の性格の奴がなってしまうのだ。 中・高校の時、粋がって他人の小物を盗みまわっていた人がいた。 泥棒にはならなかったが、結果は似たような人生を過ごしていた? これは「三つ子の魂 百までも」か。
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2003年02月09日(日) 676, ぶざまな人生ー4(読書日記)
ー偽善論
この偽善論がなかなか面白い。 偽善主義者を、もともと偽善者ではないと切り捨てている。 偽善者以前ということだ。 善を隠れ蓑にしながら、相手を実害を与え、自分は実利を取ろうとする奴だ。 「不幸の事件を逆手に使い、自分はあたかも最大の同情者のように振る舞い、 実利を得ようという輩」だ。 これは汚い欺瞞者であり、詐欺者である。 身辺に幾らでもいる?!
不可避的な偽善には、少なくとも善がある。 真実の善など本当にあるのか。 どこでどうやって見分ける事が出来るのか。 偽善をなせ。それを、あるかないかわからない真善に次ぐ、次善となせ。 一生偽善をなせば、それが真善である。 偽善でいいと思う、「偽善」でしかなしえない「善」がこの世の中にある。 私は「偽善」を憎むほど、善を成すものでない。
ー以上が著者の言わんとするところだ。 「真善などあろうか?それなら偽善を次善としてなせ!」とは思い切った事を いう。所詮、善悪とは個人、社会、宗教が創りあげた価値観でしかない。 その基準が、どれほどの価値があるものか? 偽善いや善悪という言葉そのものが怪しいのだ。
「人を殺すのは悪でないというのか?」 もちろん悪いが、戦争で相手国の非戦闘員を殺してしまったとして、 それもどこまで悪と言えるだろか?全てが状況だ。 その為に初めて旧約聖書が善悪の基準を創った。
孟子の性善説と荀子の性悪説があるが、これも何を基準に善悪といっている のだろうか。あくまで両面を言っているだけだ。 それなら、手っ取り早い「偽善とやらから、世間体のいう善と思える奴を、 仮面を被って次善と割り切る」という著者の論法も肯ける。 偽悪の方がまだましと思っていたが、偽善も必要か?
偽悪の背後にあるのは善ではない? 偽善の背後は悪じゃない? 次善論じゃないか?
よっしゃ、早速褒める訓練本でも買ってきて、カミサンや居酒屋やスナックの ママから褒めてみようか?下心がないのだから偽善と違うか? 褒めるのは偽善でなく、義務か!
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2002年02月09日(土) 326,イルカのような人
イルカはどんな状況でも楽しみを見つけ遊ぶという。 私の身辺にイルカのような人がいる。
「今日如何して一日を楽しむか」それしか頭に無い。 オリンピックといえば、一月前からそれを楽しみに待っている。 始まれば夜半でも寝ずに見る。 ウインブルドンのテニスが始まれば、これも然り。
毎日のTVも当然いくつか楽しみの番組がある。 一日が楽しむ為にフルに使われるのだ。 昼は誰か友達と安くて美味しいランチを探し食べている。
その為か顔までがイルカのようになってしまっている。 笑い顔なのである。 必ず笑いのネタを何処からか見つけてきている。
働くことは大嫌い! 遊びならどんなハードな事でも平気、 仕事は少しやると顔がはれ寝込んでしまう。
2〜3人のグループで常に群れているところが、 更にイルカに似ているところだ。 そういう人は今でいう癒しを周囲に与える。 それが唯一のの社会的貢献だ。
こういう人は西欧系の人では当たり前のタイプかもしれない。 我々の年代の日本ではすくないが、若い人ではいくらでもいるのだろう。
社会学で人間には二タイプに分けられるという。 仕事タイプの人と、遊びタイプの人とに。 難しくいうと 「仕事タイプをホモ・ハーベン」 「遊び人タイプをホモ・ルーベン」 という。
いるかのような人は「遊びタイプ」の典型である。 これで一生終えるだろう。 母親がこれに劣らず、一生を楽しんでいる。 家系からきているから間違いない。
人生とは、このような人には幾らでも楽しみを与える。 反対の人には、いくらでも苦しみを与えるものである。 何か法則があるのだろう。
この視点でみると私はシャチというところ? いや、オットセイか!
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2月09日 1969年
昨夜も一昨夜もショックが続く。 留年をして、もう一度やり直そうかと言う気持ちが出る。 といって今更躊躇するのはオカシイのではないか。 高木も留年という。 客観的に耐えられないとしても、一応卒論を書き終えたことは間違いない。 いろいろあって動揺をしているのは解っているが。 真面目に考えすぎである。 気持ちがボロボロなだけだ。 もっと冷静にならなくてはなるまい。
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