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2002年02月15日(金)
我々は「自分を愛することを罪悪」と知らないうちに, 教え込まれてこなかったか。 人間のいや生物の「遺伝子にはエゴイズムが書きこめれている」という。 まず自分のエゴイズムをハッキリと認めよう。 そしてそのコントロールをすべきだ。
自己への愛が自己陶酔やエゴイズムと混同され、否定されている。 私たちの大部分が、実は愛を経験していなかったのではないか? 経験してきたのは、実は[報酬]であった。
どこかの「チンドンヤ」のように第三者の容認を目指しているのを、 本当の愛といえるだろうか? 第三者の影を探し続けている「子狐」的偽愛・偏愛を愛と勘違いしていた。
まず自分自身を愛し、魂を育てることが「愛」の第一歩である。 その前に人を愛そうとしたり、人に愛されることを求める。 それはオカシイと考えもしない、世界の大部分がそういう人で満ちている。
別にエゴイズムを勧めているのではない。 他人に対する愛の希求を、まず自分に向けよ!である。 自分の魂に慈愛を与えよ!である。 自分のやりたい事を見つけやることが、魂に慈愛を与えることである。
それを第三者に求めることを「愛」と勘違いしている。 真にやりたいことを、第三者に求めていないか?
第三者にそれがある訳が無いことを解ってない。 新約聖書に「汝を愛するように、隣人を愛せ」という最も象徴的な 真理がある。汝を愛せない人間が隣人を愛することができるのだろうか。 聖書もまず隣人を愛せとか、自分への愛を否定はしていない。 宗教的な文章になってきた。
それを知っている人間は他人のそれも解る。 自己欺瞞が世界に満ちている。 解ってない人間が奇麗事を言う。 他人のアラを探す、無能だからそれしかないのだ。 こういう一生を「無能松の一生」という。
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