泥沼
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2004年07月16日(金) 男は死ななきゃ治らない

じゃあ女は死ななくても治るのかな?

ここおもしろい。
でも私ブログって苦手。
見てると頭がボーとしてきて閉じちゃう。
ひとまとまりの情報じゃなくて、情報の切れはしがコラージュされてるでしょ。
なんかすごい、不安感がある。落ち着かない。

インターネット中毒



レポートおわんねいよーオゥオゥ。

「自己決定権の尊重」と「ケアの関わり」についてガン告知を題材としながら論じなさい
人生半分も生きてねえのにンなこと論じられるかってのー。
でもやるしかないすね…。ネタにもなんねーや。
だ・である調って押し付けがましくてえらそうで嫌いなんだよねー。
ていうかこういうのって自信なくても自信あるように書かなきゃいかんくてむず痒い。

私達は、いつ死ぬとも知れない人間である。もしかしたら明日死ぬかもしれない。それはガンの患者でも、健康な人間でも同じ事だ。命とは、そういうもの。
しかし私達は、普段はそれを忘れてしまっている。いつも自分の死を意識している人間は、健康な者の中では稀だろう。
だからそれが一転して、健康だった者が末期ガンなどの命を縮める病気にかかった時、彼あるいは彼女は忘れていた死と、思わぬ早さで直面させられてしまう。
そして、予想していなかった早さに戸惑い、混乱するのだろう。
既に死を感じながら生きてきた人。たとえば高齢者や、体の弱い人、病弱な人は、日頃から覚悟をしていることが多いため、そのような場面にあっても冷静でいられることが多い。しかしそれは準備の問題だ。
授業でも取り扱ったように、どんな人も環境さえ整い時間さえ十分与えられれば、死を受け入れ、さらに希望を見出す事が出来ると、私も信じている。

告知をするかしないかについて。
患者は、残された時間をどう生きるか、自分で決めなければいけない。無駄かもしれないがそれでも治療に立ち向かうか、残された時間を苦しみを和らげながら過ごすか。
どうするのが一番正しいかは、決めることができない問題だと思う。だからこそ本人の意思が何より重要だ。そのためにはあなたは治らないかもしれない、死ぬかもしれないという、告知をしなければならないのだ。それなしには患者が自己決定する事が出来ないからだ。

告知をしないでくれという患者は自己決定から逃げているのだろうか。
告知をしない、という選択も、ひとつの自己決定のあり方だろう。だがその場合は家族にも告知はされないべきではないだろうか。家族だけが知り患者自身は知らない。そこには情報の不平等がある。本人は知らず家族は知っているという情報の格差が、患者と家族の間に溝をつくってしまうかもしれない。やはり、本人が一番情報を知っておくべきだと思う。
医師は事実を知っている。でも情報を隠す必要は無いと思う。知りたくないといっている情報を無理やり提供しなくてよい、という事だ。
もちろん、医師がはっきりした事を言わずとも、患者や家族はいつしか事実を感じ取るだろう。でも、それはそれでひとつの認知の方法だと思う。

また、患者が事前に告知をしてくれと事前に言ってある場合もあるだろう。しかし、それなら気軽に告知できるものだろうか。そう簡単ではない。人は大概、自分は死なないと思っている。そう思っている者に限って、気軽に告知してくれ、と言えるのではないだろうか。想像していることと、実際に起こるということはまったく違うものである。

 患者が望んだからと告知が行われる際、告知をする側に責任は無いか。
たしかに、どんな言葉で告知をしても事実は変わらない。
しかし「あなたはあと3ヶ月の命ですができるだけ苦しくないようにがんばります。」と言われたら、一体どうして希望を持つことができるだろう。
たとえばそのような不用意な告知が、希望を持って生きられるはずの時間を、絶望して死を待つだけの時間に変えてしまうのだ。
もちろん、時とケアによって乗り越える事は可能だろう。しかし患者にとって一番貴重な、希望を持って生きる「時間」を、悩み、恐れ、苦しみの時間によって縮める事はとても恐るべきことである。

 告知は難しい。どのような言葉で告知すれば良いのか、医師あるいは家族は苦しむだろう。だが、その姿勢こそが必要なのではないだろうか。どのような言葉で告知するかよりもむしろ、その姿勢が欠落している事の方が問題なのではないだろうか。
自分が苦しむのが嫌なために告知をしない事、不十分にする事も、恐ろしい。


 全ての患者に告知をするべきか。老人も子供も、働き盛りの大人にも、同じように告知をし、自己決定を迫るべきなのか。自己決定ができない人間もいるのではないか。そのような不安もある。しかし年が若くても、年をとっていても生命の本質は変わらないと思う。自己決定が出来るか、決定した後充実した生活を送れるか。それは、どれだけ周りが支える事ができるかにかかっていると思う。

どうして自分だけが死ぬのか、みんなずるい、どうして助けてくれないのか、もっと生きたい。そんな呪いの言葉をかけられる事もあるに違いない。あるいは、それすらもせず、何も言わず抜け殻のようになってしまうかもしれない。それを見るのは辛いことだろう。
しかしその辛さを、患者の苦しみとして共に痛みを感じる事。
それこそが意味のあることではないのだろうか、本当のケアではないだろうか。

 ケアとは「共に生きる」ことだ。私はそう思う。
患者の痛みを自分のように痛く感じること。患者の生と死に向かい合うということは自分の生と死に向かい合うという事でもある。自分が生きたいように、患者にも生きてほしいと願うこと。それはけっして、上から見下す立場の者には出来ない事だ。
医師はもちろん、家族にすら難しい事でもある。たとえ血の繋がった家族でも他人は他人である。それぞれの生活、仕事があり、患者に心も体も時間も、全てをかける事など出来ないと思うだろう。
だが私は、そうするべきであると、そうであってほしいと思う。
また、そうでありたかった。後悔と共に強く願わずにはいられない。
日常生活も、何にも代えがたい尊い時間なのは確かだ。
しかし、人の心に希望を取り戻すこと、命を最後まで輝かせる事。
それは本当に取り返しがつかないかけがえの無い時間だと思う。

 そのためには、ケアをする側にも協力と支えが必要なのは言うまでもない。
患者とずっと二人きり向かい合っていたのでは、ケアする側も参ってしまう。家族はもちろん医師といえど、未熟な不完全な人間である事には変わりない。その人間一人でどうにかできる事ならば、患者だって一人で何とかできるだろう。医師と家族、そしてその周りの人間、あるいは患者同士のケア。そういう人のつながりこそが必要とされているのだ。

死とは、一度受け入れたからといってその後ずっと冷静でいられるものではない。
忘れては思い出し、不安になり、そして苦しみ、自分がこの瞬間生きていることを発見し喜ぶ。それの繰り返しである。それの問題からはそれこそ死ぬまで開放されない。
ただし誤解してはいけないのは、命と死の問題は、病によって死が近いと診断された者だけのものではないという事だ。

人は一人では希望を見つけられない。
自分の命と他の命のつながりを感じた時、自分が生きているように他人も生きている、みんな生きている。それを感じた時、本当の心の安らぎを得ることができるのだと思う。自分は一人ではない。それが、病に立ち向かう人にとってどれほど心強い事かわかるだろうか。ケアする側か、ケアされる側かという境界線は、無い。
常に自分の事として考える事。これこそが人間が直面している様々な命の問題の、どれに対しても重要な事なのだと私は思う。


もういいたいこと意味不明だし文章構成最悪だわな。
いいんだいいんだ出せばいいんだ。


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