『愛されていないという不安をもったとき』 先日、喫茶店で、隣のテーブルにカップルが座っていました。女性のほうは、「私のこと本当に好き?」と彼氏にしつこく訊いていました。仲のよいカップルがじゃれ合っているだけなら、「ごちそうさま」と言いたいところですが、彼女の口調は真剣で、まるで彼を責めているようでした。彼女は、たぶん好かれていないだろうという不満をもっているから、尋ねているのでしょう。しかし、わざわざ直接相手に尋ねても意味はありません。
「好き」と答えられても、相手の言葉と態度との違いに不誠実さを感じ、ますます不満を強めるだけです。「嫌い」と言われたら、「なぜ私を好きになってくれないのか」と、相手を責めようというのでしょうか。どちらにしても、もやもやとした不安は解消されないのです。
なぜ不安が消えないのかといえば、自分の心をごまかしているからです。「私のこと好き?」という言葉が出てくるのは、その人自身が相手を愛していない証拠です。自分を尊重してくれない相手に対して、少なからず憎しみを抱いており、相手も困らせてやらなければ気がすまないと考えているのです。相手への尊敬も、幸せを願う気持ちもなく、「私を尊重しない人間は許せない」という利己的な怒りがあるだけです。
相手への尊敬も信頼もないとき、発せられる言葉は質問形式になりがちです。「なぜこうしてくれないの」、「なぜそんなことを言うの」、「あなたはどう思っているの」……。自分がこう言えば相手はどう出るか、という敵対関係でしか相手を見ていないのです。勝つか負けるかの競争ですから、心が安まるときはありません。
好きな異性のタイプを尋ねられて、「誠実な人、ユーモアのある人」などと、相手の人格そのものを見る人もいれば、「私だけを一途に愛してくれる人、私のわがままを許してくれる人」などと、自分をどう扱ってくれるかということにしか考えが及ばない人がいます。後者に当てはまる人は、あまりよい恋愛はできないでしょう。
そういう人にとって、恋愛の目的は、ちっぽけなプライドを満たすことでしかないのです。どんなに理想的な恋人を得ても、関心の的は、恋人の人間性ではなく、「魅力的な恋人をもって、まわりからうらやましがられている自分」にあるのです。
恋人に愛を要求する人は、たとえどれだけ愛されたとしても、一時的な優越感がえられるだけで、心からの幸せは感じられません。相手が無条件で愛してくれたのではなく、自分が要求したからしぶしぶ従ってくれただけなのだということを知っているからです。そして、いつ見捨てられるか、いつ裏切られるかということにびくびく怯えています。要求してえられた愛には、けっして幸福はともなわないのです。
他人に好かれるためのもっともよい方法は、「自分が好かれているか」など気にかけず、「私は、あなたといるととても楽しい」という態度だけを示すことです。このような態度は、わざわざ意識しなくとも、自分の喜びから自然に生まれるはずなのです。
それができないのなら、自分も相手を愛していないということです。「自分だけが気を遣わされて、損をしている」という被害者意識が、「あなたは、なぜ私に気を遣わなくても平気でいられるのか」という怒りに変わるのです。
わざわざ互いの欠点を非難するために付き合っているのだろうか、と思わせるようなカップルがいます。「本当に私のこと好きなの?」と恋人を非難する前にすべきことは、自分は相手を尊重しているのかを見つめ直すことであり、強要しなくとも愛される人間になるよう自分が努力することです。そして何より、それほど不満があるのなら、もっと自分にふさわしい相手を選ぶことです。
相手を立てるということは、自分が我慢するということではありません。人間関係は、シーソーのように一方が上がればもう片方は下がるというものではないのです。人を愛することが自分の喜びであると感じられたとき、「自分はどれだけ愛されているか」などという不安からは解放されるでしょう。
『愛する人に愛される方法』たかたまさひろ
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