2003年12月13日(土) 大原裕氏の冥福を祈って

今日は朝から死にまつわる話で始まった。新聞で名古屋での火災による死亡事故のニュースを見たからだ。亡くなったのは1歳・2歳・3歳・4歳とすべて年子の子供で、母親が出掛けたあとに火災があり、子供達が亡くなったそうなのだ。その子供達の名前は皆、ものすごく凝っていて、子供が生まれ、そして名付けた時の真摯な愛情が感じられる。それでも、4人の子供はすべて、一瞬のうちに亡くなってしまったのだ。そのあまりの重さにどうにも胸が痛くなる。
夕方、私の友人から、その友人の友人で、小児癌のために幼い子供を亡くした人の話を聞く。以前から話は聞いていたけど今日はより詳しく話を聞いたのだ。生きていく上ではどうしたって大切なものを失うということは、いやでもある。失ったものと同じものを補うことは出来ないけれど、失った悲しみと同じ重さの喜びがなければ、生きていくことは本当に重過ぎる。まだ会ってはいないその女性に、そんな喜びの時間がいつか訪れることを祈るばかりである。

そうして夜、大原裕氏の訃報を知らせてくれた電話があった。
とは言え、私は実際に大原裕氏に会ったことも、また生のライブを見たこともない。TAKEDAは昔、関西で、内橋和久、芳垣安洋、そして大原裕を含む「ファースト・エディション」のライブに行ったことがあるそうだが・・・。
私は、98年の渋さ知らズのメールス・ジャズフェスティバルのビデオの中にいる大原裕氏の映像を見たことがあるのみで、彼の率いる「大原裕ブラスバンド」も「リブ!ラフ!」も聴いた事がない。
しかし、ちょうど2〜3日前、店で、大原裕、芳垣安洋、船戸博史の「サイツ」のCDを久々にTAKEDAがかけてて、「かっちょええなぁー」なんて言ってた所だったのだ。本当に、私たちが「オオハラユタカ」という名前を口に出して発音したのは1年だか2年ぶりぐらいで、その「サイツ」をやってた芳垣さんは昨日お店に来てくれて、船戸さんも先月はうちでライブをやってくれて、そして大原さんは亡くなってしまった。なんだか変な感じだ・・・。誰かが亡くなる時、というのは、そうやって妙な符号をあちこちにばらまくのかもしれない。

「大原裕」という名前でインターネットで検索をかけてみた。そこにひっかかった様々なライブレポートを読んでみた。そして私は、生で一度、聴きたかったなと寂しい想いがした。
明日また、「サイツ」のCDをかけ、静かに冥福を祈ろうと思います。


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