| 2006年10月17日(火) |
『福岡〜中学生の自殺事件』からの考察 |
●あの「ガキみたいな教員」はどうでもいい。
むしろ、真に糾弾されるべき人でしょ。
教師を目指す私としては、連日報道されているニュースを見ても、どうも『学校』を「全面的に咎める」ことは出来ない。 発端となったあの教員はもちろん論外だが。
いじめを把握していながら、町教委に報告していなかったことは、確かに問題ではある思う。 発言が二転三転するのも、心象としてはよろしくない。
ただ、マスコミも、校長の言葉尻だけをとらえて誇張して報道していないだろうか?
あのような事件が起こった場合、校長としてはひたすら謝り続けるしかないと私は思う。 あの中学校を去ったあとでも、一生言われ続けるのだろうから。 「自殺者を出したことのある校長」と。
そう考えると、校長も監督不行届として加害者ではあるが、そういう意味では被害者にもなりえるような・・・。
その辺をマスコミはどのくらい理解しているのか疑問に思う。 言葉の暴力だと騒ぎ立てておきながら、自分たちはどうなんだと問うてみれば「報道の自由だ」と言い張る。 それってどうなのさ?
報道することに罪はない。 あったことは、きちんと事実として知るべきであると思うからだ。
ただ、過度に騒ぐのはどうだろうか。 あのような不幸な事件が起こったとき、ある部分だけを過大に取り上げて、そこを異様なまでに取り上げる。 そんなニュース番組は、もはやニュース番組と言えない気がする。 どう考えても『視聴率狙い』だとしか思えない。(これも一種の偏見か?:汗) 両者の立場から意見が言える専門家を呼んだことがあるのだろうか? そりゃ、報道は弱者(もしくは被害者)のためにあるべきものだろうから、若干そちらに傾くのは当たり前だろう。
●話を変えて・・・
亡くなった中学生に関しては、本当につらい日々だったに違いない。 周りの大人は見て見ぬふりをしているようなものだし、あの教員がまず先頭に立っていじめていたのだから、逃げ場がない。 それでも学校には行っていたのである。 いつか変わるかも知れない。 いつかこんな日々に終わりが来る。 そう信じて行っていたのかも知れない。
それをあの教員は裏切った。 そのことについては、徹底的に糾弾されるべきだと思う。
・・・彼にとって学校とはいじめられる場所でしかなかったのだろうか。
もしそうならこんなに悲しいことはない。 つーか、そうじゃなかったら、自殺なんて一番悲しい手段を選ぶはずもない。
学校とは本来、そんなことのためにある場所ではないと私は思う。
・・・彼の冥福を祈る。
●教師に求められるもの(今までの経験と知識から)
教員採用試験を受けたとき、集団討論で 「我が県に求められる教師の資質とはいったい何だと思いますか。 あなたの意見を、今までの経験を踏まえて述べてください」 というお題が出た。
�〇�童を無条件で愛すること。真心を持って接すること。 �⊆�業する力。教材研究を日々惜しまない努力。 �9發ぅ灰潺絅縫院璽轡腑麈塾�
の3つに落ち着いたのだが、個人的にはもう一つ「人権問題(いじめや性差、身分差別など)に敏感であること」を一番最初に加えたい。 これを最初に出したら、隣の人の『子どもを愛する』という言葉につられて、�,琉娶�としてまとまった。 子どもを愛することが出来なければ、教師になるのは難しいと思う(だって、基本は子どもを相手にする職業だから)
そんな中、一人の人からこんな意見が出た。
「でも、私はそんなことは出来ない。 教員だって人間なんだから、全ての子どもを同じようには見ることは出来ない。 大人だって合う人間と合わない人間がいるように、子どもの中にも好きな子どもや嫌いな子どもだっているはずだ。 皆さんの言っていることは綺麗ごとにしか聞こえないし、クラスの中に嫌いな子どもだって出てくるでしょう? そういうときはどうするんですか?」
一瞬、呆気にとられた。
この人は何を言っているんだろうと。 「だだをこねる子どもじゃないんだから」と言いたくなったが、ここはぐっと堪えて「コミュニケーション能力が必要だ」という意見へと他のメンバーと一緒に少しずつもっていった。
世の中に出れば色んな人がいる。 色んな考えを持つ人がいる。 子どもにだって色んな子供がいるはずだ。 そんなの当たり前のことだし、実際私も、どんな人とでも快く接する力はまだまだ足りない。
100%、相手の世界に浸ることなど、人が出来るはずもない。 でないと、自分も向こうも苦しいのである。 100%相手の側に行くことは、100%自分の側にも相手が居るということだから。 誰だってプライベートな空間は残しておきたいだろう。隣同士の垣根なんかいい例だ。 境界線はあるが、完璧に遮断しているわけじゃなく、それを挟んでおしゃべりしたり・・・和やかな感じ。
だから、境界線を調整してつきあえばいいのじゃないかなと思う。 現段階ではその調整がまだ下手くそなところもあるので、そこは色んな人と接しながら身につけていく必要がある。
子どもに対しては、それ+「自分は『教える』立場」という意識が必要なのではないだろうか。 けして権力を笠に着ることなく、怒るのではなく叱ること。 感情を吐露するのではなく諭すこと。 自分が「先生」と言われているからと言っていい気になってちゃダメだなと思う。
ある雑誌で読んだが、「試験を通っても『教員』にはなれるが『教師』にはほど遠い」そうだ。 「教員免許はあっても、教師免許はない」という言葉が特に印象に残っている。 その雑誌では員と師の意味を辞書で調べていた。 てなわけで、私も辞書で調べた。
◎員とは・・・ →人や物の数。 →(名詞に付き、接尾語的に用いる)ある組織に加わっている人、組織の中で何かの役や係を持つ人の意を表す。「銀行―」「評議―」「係―」
◎師とは・・・ →技術・技芸などを表す語に付いて、その技術の専門家であることを表す。
ということらしい。 組織の一員としてただそこにいるだけのように働くのと、自分は専門家なんだという責任を持って働くのでは確かに重みがちがう。 教『師』になれるよう、日々精進しなくては・・・と思った。
●実習をして思ったこと まず第一に、小学生も中学生も高校生も可愛かったなぁ・・・。 そして面白かった。
中1の男子が、給食の味噌ラーメンに、おもむろにに牛乳入れて 生徒「せんせー、見て!!豚骨ラーメン!!」 とか言ってさ。 千 「えぇぇぇぇっ!!何してんの!?(驚)・・・おいしいの、それ?!」 生徒「うまいですよー。なんか、まろやか」 この発言に牛乳を入れ始める男子数人。 それを見て「ありえねー」と叫ぶ女子全員。そして私は 千 「おいしいんならいいんだけどさ。その代わり、残さないでね?勿体ないから(爽やかな笑み)」 生徒「大丈夫、食えるし!!(ガッツポーズ)」 結局彼は、全部残さずに、満面の笑みで完食。(牛乳と汁の配分が丁度よかったとか言ってた) 個人的には、「残しても仕方ないかな。ま、そうなったら食べ物の大切さについて切々と語ろう」と思っていたが、「うまい」と言いながら食べまくっていた(笑)
今回の小学校実習でも、おとなしい子やら元気な子やら、ちょいとカチンと来る子もいたけれど、でも、やっぱり子どもって可愛いもんだなと思った。 何か、怒ってても可愛いんだよなぁ・・・
これってホントに教師に求められるものの基本中の基本じゃないかなと。
これだけ私は日々もらっているのだから、その分『倍返し』のつもりで一所懸命出来ればな、と思った。
●最後に・・・ 理想を語るのは容易い。 でも理想がなければどうにもならないと思う。
物理にも予想を立てて計算するときに使う『理想気体』ってあるしね!(関係ないじゃん)
・・・・・・。 まあ、冗談はおいといて。
理想があると進みやすいのかなと思う。
高すぎる理想よりも、分相応の理想かなと。 今の自分が出来そうなことよりすこし上を理想とする。 言い換えれば目標。
それを忘れちゃいけないし、今の自分で満足してしまえばどっかで驕りが出るだろうし・・・
ビシッと出来るように心掛けたい。
|