samahani
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2002年09月06日(金) 夏の思い出 3 「ふきげんのわけ」

この夏、ひとりでブラブラと新宿を歩いていたら、ティッシュを配っているおねえさんをみかけた。もらおうと思って近づいていくと、わたしなど、目に入っていないかのように 微妙に避けて、無視されてしまった。 むむっ! 

しばらく観察してみると、おねえさんは人を見て、選ばれし民に、その貴重なる洟紙小袋をお渡しになっていらっしゃるようであった。 若き「おのこ」のみ、おねえさんとお近づきになれるのだ。

俄然興味津々になったわたくしは、いったいそれが何処の、何の目的の洟紙小袋であるのか知りたくなった。

ちょいと、そこの道ゆく、わかいおにいさん、わたくしに協力してはいただけませぬかの?と、このさい容姿は悪くても(←ここ大事ネ)、目的(ティッシュをゲット)が達成されればよいのだからと、近くを通りかかったおにいさんに 声を掛けようとした そのとき・・・・、












むっきぃー! そいつったら にこりともせず 大袈裟にわたしをよけて、逃げていきやがった。 

なんだよ! わたしが、ナンパしたとでも思ったのかよ! んなわけないだろ! ムカツク野郎だ! だいだいどうしてわたしがおまえなんかっ ・・(以下略)・・ 

・・・と、ひとしきり憤慨したあとで あっ!そうだった、ここは日本なのだと、わたしはしばし呆然とし、はっと我に返ったのであった。





都会の雑踏を行く人たちは、まるで障害物競走でもしているかのように、上手に人の波を避けながら人ごみの中を泳いでゆく。

ふきげんな顔のまま、まっすぐ前だけを見て、足早に去っていく。

あなたは何をそんなに急いでいるのか。





日本人は、既に知り合いの他人には優しくするが、全く知らない他人には冷たいといわれている。すれ違っただけの通りすがりの人でさえ、目が合えば、にこっと微笑みかけてくれる、ここ(DC)での環境に慣れてしまったわたしには、それはまさに東京砂漠だった。ましてや、ここで「すみません」と話し掛けて無視されるなんてことは皆無だ。

それを、「ゆとり」だとか「余裕」だとかいう言葉で言い表すならば、日本の、特に都会に住んでいる一部の人たちには、大きくそれが欠けている。電車の中で、不機嫌 極まりない“しかめっ面”をしてふんぞり返っているおじさんを見ることがある。彼は、自分がどれだけ周囲に不幸を撒き散らしているのか、全く気付いていない。気付こうともしない。


わたしから、逃げるように去って行ったあのおにいさんも、わたしのことを宗教の勧誘かなにかのように思って関わりたくなかったのだろうが、どうしてひとこと「結構です」と言って、にこっと笑えるくらいの余裕がないのだろうか。そのほうがよっぽどスマートだと思うけど。


考えること、自分で判断することを放棄しているから、こうなるのだろうか。危ない人に関わりたくないのは、どこの国の人でも同じ。むしろ、アメリカの方が怖い人が多いだろう。 けれど、この人は大丈夫だというのは見れば分かるはず。誰も彼もが、口もきかずに避けて通らなければならない人であるはずがない。ギスギスした関わりしかない都会の砂漠、それを“ひとりずつ”が作っていることに気付いて欲しい。

あなたの「ふきげんのわけ」は、わたしには知る由もないのだから。






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