samahani
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2001年12月05日(水) 国旗と誇りと

私が自分のことを日本人だなあと思うのは、炊きたての白いご飯と温かい味噌汁を口にして「あぁ、おいしい、なんて幸せ」と感じるときである。好物の紀州の梅干があれば言うことはない。

けれど、最近、私は自分を日本人だなあと感じる新たな現象にしばしば出くわすようになった。アメリカの国旗やステッカーをつけた車を、路上で何台も見かけるときだ。多くのアメリカ人は、9月11日を境に、急に愛国者になってしまった。車に小さなアメリカの国旗をつけて、ヒラヒラとはためかせて走るのが、まるで流行りであるかのようだ。そんな時、ミーハーの私が思うのはその流行りを、私も真似したいということ。でもここで私は、旗ゆえにハタと困る(なんちて)。アメリカの国旗じゃイヤだから、やっぱり日本の国旗をつけて走りたい。でもこれってやっぱしマズイよね。アメリカ人にも白い目で見られ、日本人にも変な人って思われるに違いない。けれど、アメリカの旗をヒラヒラさせて走る気はしない。こんな時、私はやっぱり日本人なのだなあと思う。

アメリカでは、9月11日以前から、いろいろな場所で国旗が掲げられ大切にされている。カウンティー内の公立学校では、毎朝、子どもたちは、授業の始まる前に、国旗に向かい胸に手を当て「pledge」(誓い)をする。プレッジは「私はアメリカの国旗に向かい忠誠を誓う・・」で始まる。また、野球や他のスポーツでも、試合の前に観客は同じようなことをする。帽子を取って起立し、胸に手を当て、国旗に向かって、国歌を聴く。そうやってアメリカ人は、ことあるごとに自分がアメリカ人であることを再認識する作業をしている。
私は、そういう光景を見て、ちょっぴり羨ましいなあと思う。彼らが、「自分がアメリカ人であることを誇りに思う」という意思表示をしているように感じられるからだ。

私は決して右翼な人ではないが、どうして日本では国旗がこんなふうに大切にされることがないのか、と考える時、ちょっと寂しい気持ちになる。国旗がないがしろにされ疎まれることが、私たち日本人にもあってしかるべき「自分たちが日本人であることを誇りに思う気持ち」を否定しているように感じられるのだ。日の丸は戦争という悲劇の歴史を背負わされてしまったけれど、本来、国旗は全く違う意味で存在していて、そしてそれは今でもそうあるべきものだと思う。

そうならざるを得なかったことが残念だ。


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