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嫌いな食べ物「キュウリ」


2006年02月05日(日)

最近は、何も書けない。

あーしたこーした、という話では無いところが。

肋骨の下から鳩尾のあたりまで、確かに何かあるものは、ある。大抵こういうときはとてつもなく何か、吐き出したいことがあって、ところが今の私はそれを手掴みで掴んで他人に「ほら、私だ」と言って見せることが出来なく、なった。
指は確かにその場所の上に在る。その場をなぞって、動きに合わせて指先を動かしてゆくことも出来る。けれども私の指と私とを挟む何物かが其処には在って、其れを私は皮膚、と今は言う。
皮膚を掻いても私は未だ掴めない。血は出ても、其の血は血であって、私が掴もうとしている私の血では無い。唯痛いだけで、其れは単なる皮膚の痛みでしか無い。

時折、そうして不安になる、私は何処に居るんだ、と。私というものがこの入物だったときから、もう幾つも年を取って、私というものはこの入物の中の奥深くに仕舞い込まれてしまった。(今は)

そうしてこの指も私の指かと言えば、そうでも無い。この文章が私の物かと言えば、それもそうでも無い。

私の中に潜む私をなぞる指先が象った物質で、この、一行を書くのに、なぞった指先の行き先を思い出し乍書くものだから、異常に時間が掛かってそれゆえに、もうそこに私という香りすらしない、ものになっている。のだと思う。

入物が中身を失ったら最後、ハコとしか思わないが、私は多分、ハコになるんじゃないか、中身が無くなるんじゃないか、まさかもう無いのでは無いか、中身の無いこのハコは何処へ捨てれば良いのだ、…と、もう只管に中身の存在有無についてだけ、視線と目を向けている。
…ところが思うのは、実際は私そのものが、考えず、見もせず、触りもせず、此処に居ることで私が在る、ということを、私は(というよりも、今は寧ろ、私という入物が)求めて居るのじゃないかということ。


ああ、そうか、多分、私は此処に居て此処に無い、という感覚に近いのかも知れない。



物凄い、「     」だ。



この言葉が思いつかない。
私が在ったら見つかっているはずだった、と思う。


さくま