
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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| 2008年06月22日(日) ■ |
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| 多分また明日って、笑いたいから。 |
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これもまた人は、さみしさと呼ぶのだろうか。いや、違うな。って最近そんな事ばかり繰り返している。 想像するのは体験が無いからで、否定するのも体験が無いからだ。 想像の段階では、その名称が妥当だと思うんです。状況証拠から適切なのは間違いないだろうに、あくまで状況証拠に過ぎないから、断定すべき点が何も無い。 否定の段階では、いやいやいやいやそれはない、なんて感情的では一切無く、ただ淡々と、響きに酔い痴れて当てはめるのはどうかと思うと、あくまでも冷静に。
どうなんだろう。昔はそれが当たり前だった。寧ろそうでない時の方が驚きで、そして大抵は息詰まった。自分達がというよりある誰かがで、その誰かに対して又ある誰かが空気を凍らせるから、どうしてこの二人が鉢合わせする現場にいなくちゃならないんだろうなんて被害者気分で身を竦めたものだ。 どちらも単体ならばまだ付き合い易いのに、混ぜるな危険、合わさると精神及び現実にて被害拡大しか訪れないから、さみしさなんて介入する暇が無い。
それでもこれまで他から得た情報を換算するに、その状況は充分さみしさに値するもので、逼迫したものがない現状も、やっぱりさみしいに値するのだろうけど、ここに年齢の壁がやって来る。 正直感情に年齢なんて関係はないとも思うが、その状況が過去ならばさみしいと呼べて、現在ならさみしくないと定義するのも結局自身の考え方にしか由来しないのだけれど、今頃ならばもっと外の広いものに目を向けて然るべきで、寧ろいるいないにすら気が付かない、というのも極端な話、しかし現実だ。 絶対空間だった頃はだから絶対なのでどうしようもなく、でも今は自分で自由に選択出来る訳だから、質と量が違うっていうのかな。
昔にさみしいと感じなかったから今もさみしくないというのは詭弁で、でも多分、それを味わってみたいから、やたらとこれさみしいんじゃないさみしいって言うんじゃないって焚き付けているだけ、なんだろうなぁ。 すきにすればいい。どちらにも束縛の権限なんてない。共にいても娯楽にしか興じないのなら必要としている訳じゃなくて、それでも互い優先すべきものがないからなぁなぁにやって来ただけで、どちらかに必要なものが出来れば等閑になるのは当然で、だけどもう一方にこれまでと違ったファクターが生まれていないのなら、少し置いてけぼり食らった感じ。 時を止めたいなんて御大層じゃなく、やっぱりすきにすればいいって本音が大半を占める。その上で、漠然と、嗚呼そもそも高くはなかったのだろうが優先順位が下がったのだろうな、ひしひし身に感じれば、さみしくない事も無い。と思うんですが。 駄目だな。やっぱり、これってさみしいのかもって、思っていたいだけだ。そんな邪推している時点で、さみしさな訳が無い。ふむ。七面倒臭っ!
でも、可能性が完全に潰えた訳でもない。得にはならないのに、というより損にしかならないのに、合算しなくたって思い出せる特典は少なく何に付けてもマイナスにしか割り込まないのに、違和感込みとはいえ熟考している時点で、それは、そう、呼べないだろうか。 嗚呼、これが思春期の複雑さってやつね! お前、やっぱ満喫したいだけだろ。
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