
戯 言ノ源
―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰
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| 2007年12月26日(水) ■ |
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| 今更、だってなんて今更。 |
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なんだかもう、本当に、どうしてこんなに心が狭いのだろうと。 誰かや何かと比べてではなく、両手どころか片手伸ばしただけで端に届くような狭量さに絶望しそうだ。
極端な話をするなら、共通の話題を持って仲良くなった人が別の、自分が知らない何かに熱くなっているのがいやだな、とか。 いやだなと言うとまた誇張し過ぎているんですが、熱を上げているその話に入れない寂しさが、遠ざかるように、横たわる距離に、感じるとか。
同じ好みがあるなら違う好みがあるのは当然で、触れ合う部分だけが全ての筈はなくて、その人独自の世界が当たり前にあり、その中でたまたま通じるものがあった奇跡を喜びこそすれ、自分が届かない、ただそれだけを理由に、自分にだってあるであろうその世界を苦しみに感じる。 日記やら何やらで憚る事無く伝える趣味の領域の一体どれだけを、一体どれだけの人が、わかると思っているんだろう自分は。 否、全部を知っている事なんて、百歩譲ってあったとしても全部を同じく愛でるなんて、そう有り得ない話。 だったらば、仮に自分の話題に須く反応する事の出来る人がいたとして、その人の話す事も全て理解出来るものだったとして、それで何が楽しいのだろう? 否、勿論楽しい。何故ならあくまで、酷似している趣味かもしれないが別人と銘打っているからだ。すきのベクトルにも違いがあったり、度合いとか趣向とか、話しながらも新たな発見がある。 何もかもに賛同し、どれもこれも同じ意見を持ち寄るなら、やがて会話は破綻するのじゃないだろうか。 そうだよね、とか相槌のみが埋め尽くして、互いのツボを刺激したり再熱を高めてくれるかもしれないけれど、それもとてもいい事だけれど、それだけだったら、鏡に向かって喋っていれば充分だ。
とまぁ、それでも偶然にそんな存在があるならば素晴らしい事だとも思います。何かのきっかけで交流を持てたならそれもだから、一つの奇跡。 でも奇跡なのだからそうそう沢山ある訳ではなくて、周りに入る人が全てそうなったら感覚が麻痺していく。 つまり別の世界を持っている事を認識していて、そういう人でも、それともだからこそ、何か一つでもコミュニケーション出来るのだと理解っている。 理解っていても、その同じくした何かを持った人がずっとずっと自分には入れない領分の事を語っていたら段々と疎遠になるとか、なんて自己中心的なんだ。介入の努力もしなければ、疎遠になる事を悪いと思っているのもまた甚だしく傲慢であり。
莫迦だなぁ。思うのだけれど。 独占欲とか、そんなものにも値しない、きっと幼過ぎる性質。
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