原初

羅列 回帰



―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰

2006年06月13日(火)
落ち込みたいくらいに甘かったんだ。


嗚呼、これが胃痛だったよな。そんな風に感じてしまう思い込み神経性胃炎。
猪突猛進で自分が正義で正義が全てだと突っ走るレッドタイプを見ている時のような
こんな鈍さを久々に感じた。鋭い時もあるけれど、今はじわじわと蔓延していく。
自分自身の痛さに対してなのだから、これ程救いの無いものもない。キャラクタが問題なのならば、
それこそ見るのをやめればいい。一時的にでも持続的にでも。けれど自らの言葉が発端ならば、
逃げ切るなんて事はそうそう出来ないと思い知る。事態は遡り今週末の事。少し早めに帰った土曜日。
前日は予てから家で酒盛りだと脛ハムまで何処からか通販してきて楽しい夜の、筈だった。
それは悪戯心に近かったのかもしれない。ずっと昔から、抱えてきたもやもやの一端。
酔うや酔わざるやの席であれば、ふっと忘れてくれるような、それを期待して云ってみたかった。
状況もそれを推していたのかも知れない。そして言い出してしまったが運の尽き。
否、その場ではひどく笑える冗談として浸透し、その後もただただ話は流れていった。
無論出席者の二人は酔っ払いな訳なので、痛くも痒くも無い自分だけが忘れている可能性も大で。
それでもあまりにも簡単に終わってしまってあっけなく思いながら、こんなもんだと翌日も、
話し相手に変わった節はなく。だからこそやっぱり二人で忘れたのだと、楽観的に。
暫くのメールもまるで同じように当たり前過ぎて、そして過小評価を下していた事を、
私はここに認めなければならない。彼女はそんな事出来ないと思っていた。
到底出来やしないたまだと高を括り、年長者で自分なんかよりずっと長く生きている、彼女を。
土曜日いつもより早くに帰る理由になった人と同じくらい唐突に、彼女は勝手に来るとだけ告げた。
何故そうするのか問うてみても、話がしたいとだけしか文面は語らなかった。とても端的に。
これはおかしな事で、彼女は毎度毎度いらないぐらいの感情表現を用いているのに。
予感のような、知らせのような、勘染みた感覚はそっと背中を這い上がり、胃の中に落ち込んだ。
悶えるようなひっくり返るようなぺしゃんこに潰れたような奇妙な感触がいっぺんに襲ってくる。
どうしてその直感がやってきたのかなんて知れない。だけど、けれど、確かに、込みあがってきた。
肴序でに出した話を、若しかしたら忘れてなんていなくて、その事を話したいんじゃないのか。
微に入り細に入りなんて程丁寧に話した記憶は無いけれど、何より酔っていた上での出来事。
把握し切れなくても無理は無い。彼女に異変が、あったその瞬間を。
出来るだけ人のいない場所で、二人で話したいとまるで恋人の催促。更に煽るように不安は来たる。
だからこそ依怙地になって何の用件だと問い詰めて問い詰めて、ようやく搾り出した回答は
まるで自分の予想とは違っていた。確かに彼女にとっては一大事で、急きようにも納得出来る事。
隠し事が苦手な彼女はやっぱりそうだなと今日も思わせた。少なくとも、その時は。
振り撒く嘘や隠し事の口述は、少しだけ本体を見せてやればいい。或いは本体に見える何かを。
全てをまだ語りたくないのであれば尻尾、触りだけでもいいし、それさえいやだと言うのならば
如何にも真実味を語れと、有頂天によく言っていたのだ。昔々。その昔。
結局一安心して、それでも態勢は崩さずに、突っ慳貪で待つ事暫し、彼女は家に上がってきた。
しかし、部屋には来なかった。開け放たれた扉の前の、冷たく固い床に正座して、畏まり、
空恐ろしい無表情な、少し青白い面持ちで、恐らくは誠心誠意だろう、ごめんなさいと、伝えた。
突然の行動その一連に疑問を返せばあの酒の席の事、たった一つの話題を未だ引き摺り、
三日三晩寝ないで熟考、誰に話せる話題でも無く顔も知らず口頭だけのお付き合いの、
そんな場所に電話してしか相談出来なかった一人ぼっち。途端に表情は崩れだして、
今にも泣き喚きそうにくしゃり顰めた顔は、余分な肉で皮が突っ張っているのに酷くしわくちゃだった。
そんな息子に育ててごめんなさいと、居もしない兄を共に責めて、俯いていた。
見事に予感的中したのも束の間、毒づく胸中矛先は自分だった。浅はか、浅慮、爪が甘い。
寧ろそんな話題を振っておきながら普通である事自体がおかしかったのだ。
喋った当の本人が全く忘れて気にしないくらい、話題を忘れたそんな態度を取れている事自体が
彼女にとっては難しいのに。激しい起伏では無いけれど、信じ易い人、騙され易い、人だから。
だが、一つ言っておきたいのはこの話に関して、何一つ私に落ち度がない事だ。
ともすれば被害者、いや、全くの被害者、語る事に対して何も躊躇いはなかった。
事件があった。兄が加害者で、妹たる自分が被害者。恐らくは、軽く口になんて出来ない概要。
恥も悲しみも辛さも痛みも哀れみも歩み寄りも羞恥心も無ければ、彼を愛して庇ってもいない。
そんな自分がこれまで数年以上黙っていたのは、言っても利点が無い事、何も得しない事、
そして精神的に弱い母君様が、どうせこうなるだろうと見越しての事だったのに。
大丈夫だ、なんて思い込みもあった。もう時は充分に過ぎているし、自分に傷なんて一つと無い。
何より自らが常識からとっ外れている事を都合よく忘れ、当事者がこうなのだから他人なんて
もっともっとどうでもよかろうと。読みが甘かった。甘過ぎたのだ。あまりにも。
得意技は嘘と演技。塗り固めている日常でさえそう。その持ち技で自然な笑顔と、話術を装備。
リアクションが見たくてずっと楽しみにしていた、嘘だよと、告げると顔はまた奇妙になった。
涙が頬を伝いこそしないがもう殆ど泣いている顔に驚きが混じって、痛みが少しだけ薄れた。
その調子だと、如何にもいつも通りでしょう? 姿勢全てが語っているようにフランクに。
徐々に日本語を理解してもっと驚きがやってくると、同時に血の気も顔に蘇る。
ほれそこだと畳み掛けるように椅子に腰掛け、後一週間は様子を見たかったと、
高々二、三日でネタばらしさせられる羽目になるとは思いもしなかったとすっかり興味を失ったふり、
笑っていいともの指摘でもすれば、これまで相当思い詰めていたのだろう、
すぐには切り替えが上手くいかずにぐにゃぐにゃと何某かを呟いていたが、やがて、
縋るように本当かと何度も問い掛け、ここまで弱るとはちょっと良心が痛んだと、
付け加えれば最適だったけれどそんなものがあるとは真面目にちょっと思えずに、飲み込んだ。
振り返ればああ言えばよかった、こうすればもっと上手くいったと微妙な点数の振る舞い。
その後予定通りに昼飯の外出。しかし、幾許か彼女の心は明るさと、混乱に振り回されていた。
唆すように野次るように嗾けるように追い討ちを掛けて道中ずっとふざけ回っても、
それが地であると認識出来る程人に広く自分はそうと知られている。自信があった。
と言っても元々馬鹿みたいな軽い気持ちから招いてしまった自分に対して、
そこまでの自信も何も無かったけれど。何処を訪ねても禁煙ばかり、諦めて腹ごしらえ、
一服を求めてファーストフード店にでも入る頃には、兄を打ん殴りたかった気持ちをどうしてくれる、
そんなジョークを言える程度にまで、尤も本音ではあったが発言出来る自体が、
回復したと見えた彼女は、しかしこの三日間の前歴がある為注意深く観察し話を誘った。
或いは振った。甘く見てはいけない、確かに。その結果が、この露呈なのだから。
だがあまりに信じ易くあまりに騙され易いと言う前述通り振り回される性質の彼女は、
多分、なんだか、一見、どうやら、突拍子も無さ過ぎる冗談に胸を痛めた昼と夜で
すぐには傷を治せないけれど、それが贋物であると信じては、くれたのではと希望的観測。
甘かったのだ。本当に、甘かったのだと思う。自分的にも、四十路にでもなったら面白い話として
語ってみようかと思っていた事なのに、何故あの日あの夜突然に、気紛れが働いてしまったのだろう。
これも重ねて云いますが、決して私に非は無いのです。序でに庇い立てする義理も無い。
それでも余計な災いを呼び込まない事以外に敢て言わないでいる理由があるのだとしたらば
それによって大きく変わるものがこわかった。明らかな同情や憐れみを寄せられる事がいやだった。
彼に対してそして自分に対して見る目も態度も大幅に変わってゆくだろうし、
その亀裂がしこりが生み出した不協和音を生涯背負っていく羽目になんてなりたくはなかった。
今もそう、自身が思っていたよりも重大性を持っていた事に対する侮りもあれば、
悟らせない程穏やかに動揺と混乱を繰り返した彼女に対する敬服、見直しもあれば、
同じように、十字架なんて恰好付けてみた言い方をすれば、重い荷物を持ちたくは無かった。
何処までも自分本位で事を進み考えるのには我ながら恐れ入るといったところ。
呵責も罪悪感も苛めも愛情も何一つ無かったけれどその代わりにせめて、
今度機会があったら死の床に伏せる事確定した上で、嘘さえもが嘘だったと、伝えてあげようか。
取り繕いの中で、いらない発見一つ見つけ。彼女を落ち着かせる為の嘘は、先述にある、
常日頃から振り撒いている、人を信じさせる嘘に通じるものがあった。一握りの本当を混ぜた嘘。
逆にこの合いの手が入る事で、話はより確実に現実の出来事に近付いていた。
問題が問題なだけに加害者側の彼にももう一個の片親にもこの話題が彼女から漏れる事は
これこそ有りえない、の堂々トップスリーにランクインだ。冗談に濁してしまったところが一位じゃない。
性格的にもそれは無いだろうけれど、兄上様がその話題を母君様の口から触れられた時、
どういった対応をするのだろうか。それとも忘れているだろうか。まさか。けれど、多少の大袈裟に、
怖気づいてそこまではしなかったと自らの為墓穴を彫る事になるのかもしれない。末恐ろしや。
今になって思うのは、当時、というより少し時過ぎさりし後の事、それを話してみたい相手がいた。
時代を鑑みなくとも十二分に、その事を毛程も気にかけない時点で異常さは自認していたけれど、
なんとなく彼女にならば打ち明けてみたいと思った。どういった反応を示すのだろう。赤の他人は。
身近にいる分狂ってしまうだろう母君様には何十年黙っているのだろうし、父君様に話しても
面白みは期待出来なさそうだと、であれば一つの予行演習として、それとも、友達になりたかった。
当事者としての心構えは無くとも、周囲の反応ぐらい簡単に読める。その上で秘密を共有すると言う
幼稚な連帯感を持ちたかった。結局ずるずる流れてそれを話す機会は無かったけれど、
それでよかったのか、それとも先に彼女の答えを知っていれば母君様にうっかり口を滑らすはめに
ならなくてすんだのかと、不毛な質問の行き先は、自分の愚かさに胃が沈む今日には着けない。
誰を責めても誰を思ってもいない。まだまだ甘いなぁ。本当に、甘いなぁ、と。
他罰的になりたくなくて、常に溜め込む不満は自分の至らなさに。思いだけは、叶わないけれど。
そんな訳で絶頂ブルーな時期に入ってもいますが、似たような冗談を浴びせ続ければ
いつの日かどれが始まりだったかなんて忘れるくらいに薄れる事を願う。
取り敢えず、いつか話したいと言っていた話は無期延期の方向でお願いします。>私信


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