原初

羅列 回帰



―― 連ねた意味も、持てない小鳥。
氷室火 生来
回帰

2006年04月23日(日)
判り易いぐらいの作り笑顔で笑ってあげる。


例えば、一+一が何故二であるのか、考えるのが好き。人に問うのが好き。
何故一をにと呼ばずいちと呼ぶのか、その次の数字をにと定義したのか、
いつ誰がそれを言い出しそれを基盤にしようと何処が始めに賞賛したのか、
一+一が三と現すそれが正しい事が、国が、数多いのならばあってもいいと。
それが、私という人である。世間に対し若干反抗的な面を持ちつつ、それを面白がりながらも、
その論を変えようとは思わず、機会があるのなら学者にだって聞いてみたいという好奇心。
例えば、何故一+一を二と呼ぶのかいちいち考える事が頭に無い。
そう定められたのだからそうなのであり、誰がとか何処がとかそれは問題ではなく、
今現在がそれで進み、当たり前に受け入れられた、始めからの摂理。
田んぼの田と言う答えはユニークだと笑えても、三の可能性は見い出さない人。
それが、父君様という人である。言葉が若干冷たいのは、所詮他人が他人を綴るから。
世界にそうある事を覚え、知識としてこれまで生きてきた当たり前を、謳歌してきた彼にとって。
覆そうなんて大層な考えも持たずただ意味も無く言うのが腹立たしいと。そう告げられた。
初めから交わる場所にいないのが世の常ですが、確かな相違点を決定付けられた時。
何故私は、腹立たしいという彼が腹立たしいのかを、理解する事が出来なかった。
人を理解するなんて烏滸がましく、無論理解と言ったところで、ただの勘違いでしかないのだ。
つまりこれは、自分が腹立たしいと思った理由を突き止めたくて、思考の世界に落ちたのだろう。

一つの提示された答えに縛られたくない。何かが総てなのだと考えたくない。
固定観念はその誰かにとってだけであり、他の総てにまで本当にそれだけなのだと?
そういう思想を持っているという事はきっと、自分以外の誰かが自分とは違う考えを述べた時、何故
その結論に到達したのかを知りたいと思う事。何を知り、何を見、何を聞いて、出したものなのかと。
或いはそれも、人を理解する為の歩み寄りに思えるのかもしれない。譲歩に使える、手段ではある。
全くそんな崇高なものでは無く、寧ろ意地汚さの行動とも思える事ですが。
誰かが思うその何かの、少しでも答えに到達した時、私にも得るものがあるかもしれない。
結局あくまで、私とは相容れないものだったとしても、一理あるとさえ思えなくとも、
他の誰かがそれを口にした時、若しかしたらこの考えが、その人にもあるのかもしれないと、
次の理解の時の、ヒントか邪魔立てになるからだ。後者の場合は、消去法にも。
それはそれ、といった別枠を用意して、そのような考えもこの世界にはあるのだと、
そして私のような考えも世界にはあるのだと、又一つ世界を知る事が出来る。
間違っているかもしれない。あやふやかもしれない。ただの勘違いに過ぎないのかもしれない。
しかし、何かに感化されたりしないでそのまま私の理論が変わる事が無くとも、
触発されたり考えたり、どうしてそうなったのかを尋ねてみた結果に私の理論が変わったとしても、
齎される答えの行く末なんて、考えずに終われば理解らない事。数多くの知らない答えに過ぎない。
それは大きな事かも知れず、若しかしたらつまらない事かもしれない。損、勿体無い?

書いてみても纏まらないのは珍しいと思いつつ、人生のテーマなんて大げさなものじゃないけれど、
それだけ私の中では大きな一つ、という事なのかしら。考える事は、多分すきです。
理解したいなんて崇高なもので無く、知的好奇心なんて素晴らしい? ものでもないけれど、
ただ私が私を満たしたい為に、私は私以外の考えを知りたいと、思う訳なんです。
それはあくまで私個人の、私の為だけの行動でしか無く、勿論自覚しておきながら
いつか誰かに何かの影響を与えるのだとしても、やっぱり私は私の為だけにそれを行ないたい。
と、ここまでは私の展開です。言わば中身とも、言える一面。だから私私が多いんだな(笑)。
数十年生きてきた父君様にとって、又そうでない人だったとしても、自分が今までそうだと
信じて生きてきたものを軽々否定されるのは、気に食わないのかもしれない。
否定で無くたって、肯定する事が当たり前の事さえいぶかしむ、その態度が。
それを愛する私にとって、始めからそれを嫌う彼とは、かなりの差があるものなのだと。
しかしこれまでの長ったらしい話を考えるに、何故彼がそう到るのか、それを考える事も
また一つの欲求としてするのではなかろうか。勿論、してみましたとも。
してみた上で彼と会話し、やがて口論に変わる時もあれど、それも望んでしている事。
ただ、私の個人的な欲求の為に腹を立たされる父君様はかなりお気の毒であり、
人を不快にするだけならばいっそ会話をしない、なんて端的な思いがもしかあったとすれば
初対面の人と中々会話の弾まない、人見知りに関与するのかと疑いつつ、
その彼に腹を立てる私は、ではなんなのだろうかと問いたくなる。
好きでやっている事だろう? そうなると判っていてやっている、事なのだろう?
自分の事が一番判らないとよくいうけれど、それを知る為にこうしたコミュニケーションの取り方と
なるのならば、もう少しぐらい、判りたいものだなんてまたそこにも、腹が立つ。
ダブルで腹が立つので早急に出したい答えを仮決定すると、頑固だから、ではないだろうか。
大概私も、柔軟に見えて、見せて、思いたくて、頑固だったりもしつつ、彼も、又。
当たり前を揺るがす事が考えられず、大した重みも無く口にする事が許せず、
そうと決めて世界が成り立っているのに疑問を持つ事が信じられず。
私はそういった考え方に疑念を示し、自分の為の理解という思考を始めたとしても、
私を否定するその理論を、正統に受け止める事が出来ないのかもしれない。
ガキの反抗のように思え、ガキの抵抗にしか思えなくとも。
そういった考えもあるのだと別枠に、置く事が出来ないまま、考え足りないと燻っては、
けれど自分を否定するそれを理解しようなんて許容がそれ程大きくなくて、
未熟過ぎる、そういう事なのか。果たして人が未熟で無い、時があったのかは知らないけれど。
つまりあれだ、愚痴愚痴まるで父君様を悪者に仕立てそうな気持ちを必死かなんか知らないけれど
堪えてまで二日に渡り、出した結論括弧仮括弧閉じるは、私まだ生卵でしたーv と。
そういう事なのか。なんて恥ずかしいんだコイツ!(笑) 馬鹿めー。馬鹿めー。レアレアめー。
正解としても無理矢理だったとしても、せめてもの答えがそこにあれば、今はまだ、救われる。


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