ライフ・ストーリー

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2009年11月04日(水) lagom

きのうは文化の日でした。

いつもなら美術館や博物館に出かけることが多い祭日ですが、きのうは水族館に出かけてきました。
といっても、目的は写真を撮ることでしたので文化的な行為の一環ではあります。

水族館っていいですね〜。
もともと川や湖なのどの水のあるところ、それにプールや海などの水の中が大好きということもあって、なんだか定期的に水族館にも足を運んでいるような気がします。意識してはいなかったんですが、そういうことって人がここちよく生きていくためには、案外大切なことなのかもしれません。

水族館で美しい魚たちを見つめて、イルカやアシカのショーを観て、最後に海の夕景と満月をながめて帰る。ほんの半日でしたが、ちょうどいい秋の娯楽時間でした。


スウェーデン語にlagom(ラーゴゥム)という言葉があって、それは「程よくちょうどいい量」というような意味で使うそうです。英語のenough(= じゅうぶんな、足りる)とちょっと似ているんですが、lagomは「自分にとって程よくちょうどいい」ときに使う言葉です。

仕事や休暇、家事や勉強(自分磨きを含む)、娯楽や睡眠、そして愛や友情、そのすべてを含めた人生が自分にとって程よくちょうどいい量であるとき、人は"しあわせ"だと感じるのかもしれないですね。

どうかあなたの人生が、"lagom"なもので充ちていますように・・・。


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2007年08月30日(木) 夢をみる

 明け方、夢を見た。

 実際には、どんな内容かハッキリとは思い出せないので、たぶん見たのだと思う。・・・というのは、起きた瞬間から、甘くて切ない空気のような感覚が身体全体をつつんでいたからだ。

 このなつかしい、甘やかな感じは、「恋」だと思った。誰かに恋をしている夢を見ていたのだ、と。しかし、夢の中の「恋」の相手は誰だったのかまったく思い出せない。

 残り香のようにほのかにまとわりついている甘い感覚から、なんとか相手をつきとめようと努力してみたが、皆目わからない。ただ、こんなになつかしいのだから、学生時代の、それも高校生の頃の同級生か(その頃わたしには一学年下に好きな男の子がいたが、彼ではなかった)、もしくは、まだ現世では邂逅していない、前世かなにかで恋をした相手だったのかも知れない。

 甘やかな感じはお昼過ぎまでつづいた。

 アイスコーヒーを淹れて、何杯か飲んだところでその感覚はほとんど消えてしまった。

 消えてしまうと、ふだんどおりの生活はしごく現実的でどこか淋しくもある。「そうそう、恋に堕ちるって、あんな感じだよなー」と、消えてしまった甘い感覚をもう一度取り戻して、反芻してみたい気持ちになった。

 夢を見た原因は、ここのところ立て続けに読んだ何冊かの恋愛小説だったのかも知れない。ふだん女流作家の小説を読むことが多いわたしが、最近読んだのは男性作家の小説だった。女流小説ほどの細かい心理描写はないものの、男性が書いた女性を主人公にしたそれらの小説は、わたしにとってかなり新鮮で、刺激的だったのだ(ものすごい純愛小説だったのだけど)。

 うーん、潜在意識にまで流れ込むような、そんな秀逸な本だったのか。たしかに有名な文学賞を受賞した作家の本ではあったのだが・・・。

 その小説の著者は、小学校時代の同級生と同姓同名だった。

 

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2007年02月06日(火) 浅春賦

 春のようにあたたかな日です。

 きものの着付け教室で知り合った友人たちと、ひとあし早い春のランチに出かけてきました。春色の代表ともいえる菜の花のミドリの彩りが、トマトのソースに映えて美しい春のパスタと、デザートの朝摘みイチゴのタルトの甘酸っぱい味に大満足でした。

 ちょうど着付けの教室に通っていた頃に書いて、一冊の本の中に収められたエッセイをなつかしく想い出しました。

 草稿をここに登録しておきます。

 
- * -


 「感謝の気持ちを忘れない」
 

 日本の伝統的な衣料であるきものの帯の織元を訪ねたことがあります。金糸や銀糸を使って美しい錦に織りあげた帯は、美術館に飾られていてもおかしくないような芸術品そのものでした。

 一本の帯ができるまでには絹糸の染色、「整経」とよばれる必要な経(たて)糸の本数を正しくそろえて長さ・張力を整える作業、帯の図案の製作、図案をもとにした意匠図・紋紙の作製、製織など、何十という工程があることをこのとき知りました。

 呉服店で溜め息まじりに見つめていた美しい帯ができあがるまでには、たくさんの人の手がかけられていたのです。きものにする反物も、帯に負けないくらい手をかけて作られたものなのでしょう。

 それ以来、母から譲り受けた古い帯やきものを大切に思う気持ちは、より一層強くなりました。古き良きものを譲り受けるのはそれだけでもうれしいことですし、大切に着てくれた母には感謝していました。ただ、いままでは帯やきものがそこに存在することを当然のように思っていたのです。

 織元を訪ねたことで、一本の帯を作り上げるための仕事をしてくれたすべての人々に感謝するという気持ちが生まれました。作り手がいるからこそ、それを手にするわたしたちは、美しいものに触れるしあわせを味わうことができるのです。

 精神面でもわたしたちは同じように多くの人々に支えられています。パートナーや友人、家族など周りにいる人々が与えてくれるやさしい言葉や気遣いは、呼吸に空気が不可欠なように、生きていく上でなくてはならないものです。多くの人々に支えられて、わたしたちは生かされています。「いつもと同じ」毎日がおくれることは決して当然ではないのです。

 周囲のことがすべて当然なことに思えてくると、大切なものを見失ってしまいます。大切なものを見失わないためには、いつも感謝の気持ちをわすれないこと。

「ありがとう」という感謝の気持ちを素直に伝えれば、相手はしあわせな気持ちになります。しあわせはまたその人の感謝を生みます。

 こうやって感謝の連鎖がつづいていけば、いつかは地球全体がしあわせになることも夢ではないかもしれません。



    /『LOHASのすすめ』(アンドリュース・プレス刊)の草稿です。
  
   
 
     *このエッセイは無断で転写・複製することを禁止されています。
      

     

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夏音 |MAILMy追加