| 2003年11月18日(火) |
■双龍出海(12)/居捕り・考 |
■開祖が初めて拳法なる技法に接した場面。カッパブックスを読むと、小柄な陳老師に掛けられた逆技であり、固めであり、蹴飛ばされてノビたと述べられた通り、剛柔共々の荒っぽい出会いであった事が分かる。
興味深いことは、最初の逆技が“居捕り”だったことである。もっとも日本文化たる正座ではなく、椅子文化であった中国風の居捕りである。いずれにせよ、中国拳法でも居捕り技?が存在していたことが類推される。
さらに同書で、中国大陸から引き揚げの際、居捕りによる開祖の格闘場面も述べられている。
これは、開祖がすでに学んだ中国文化たる拳法を、相当速い段階で日本風にアレンジ=消化できていた証明である。
■一体に開祖が習われた中国拳法は、立ち技系の剛柔技が主であったと考えられる。しかし帰国後、護身というリアリズム、日本という風土に適合する護身術とするならば、(現在より遥かに身近であった生活習慣である)正座からの技法は無視できなかったのであろう。
面白いことに、椅子での居捕りが原点のはずなのに、逆に日本少林寺拳法では未発達になった。それにしても正座の居捕りでは、立ち技系で使える足捌きが使えない。伏虎系は確かに座位だが、正座である技法と根本的に異なる発想であると思う。そのことを日本風と述べた。
少林寺拳法の居捕りは伏虎構えとなるのが基本である。すなわち片足を立てて構える。剛法への配慮もあるのであろう。ちなみに、カッパブックスにある居捕りの格闘では、モデルをされている中野先生は伏虎構えを取られている。ただし、先生は居捕りからの技を膝立ちしないで行う場合がある…。
■少林寺拳法でもっとも非中国的?な技法は上げ抜きである。乃至、居座対居座の技法である(中野先生は膝抜き二種を指導して下さったことがある)。果たして足捌きを伴わない正座からの崩しと、中国拳法の崩しは本質的に同質であろうか…。
いやこれは、単に居捕りに止まらず「丹田=日本武道」を主とする技法と、「気=中国武道」を主とする技法の違いとなるのである。尚、“上げ抜き”も“伏虎構え”も昭和二十七年度版の初期教範に見られる。
私は少林寺拳法には二つの系統というか、本質的に異なるであろう技法が存在していると考えるのである。しかし別の表現をすれば、日中武術の融合が開祖によってなされたと言えるであろう。
さらなる研究が必要である。
【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読む場合は数日後にお願いします。
表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。いずれ、リニューアル?=改訂して行きたいと考えています。★印なんか付けます。
| 2003年11月08日(土) |
■双龍出海(11)/順応型と非順応型・考 |
■「十字小手」と「略十字小手」は、手の触れた時の状態=上げ下げで技に名称が付いている。同じ発想で片手として考えるなら、「切り小手」と「巻き込み小手」も同じである。
ただしこちらは、手の上下で違うジャンル/切り小手系と逆小手系に分かれてしまう。寄り抜きも、内外の捻りによって、送り小手系と押し小手系になる。
■こんなことがあった。映画『少林寺』の撮影で中国に一月ほど滞在した際、彼の地で様々な貴重な体験をした内のひとつである――。
ある日、何が発端であったか、逆技のことでチョット論争になったのだ。野外ロケの最中、私たちも僧侶姿に扮し、出演者や老師方も混じって侃侃諤諤/カンカンガクガクをした。内容は逆小手の握り方というか、掛け方であった。
中国の(当代一流の)武術家達が、それ=逆小手(の握り方?)がおかしいというのだ。当然、私達は手の内側の握りを主張し、彼等も切り小手系である外側の握りを譲らず、言葉の問題もあり、結局うやむやになって終わった。
■…思い出した! 修行シーンの中に逆技を入れようという監督の発案に、では逆小手などはどうだろう、と示したのが発端であった。
彼等の握り方に当方は切り小手の存在を示すと、リー・リンチェン/現在のジェット・リー氏は合気道のような手を上に被せる?捕り方を見せてくれた。さしずめ、略切り小手であろうか…。
今、こうして双龍出海シリーズ?を書きたい放題していて、この問題は大変興味深い。つまり、中国人武術家達は、力に逆らわない、乃至自然体からの捕り方を主張したのである。『纏糸勁』(てんしけい)ということが影響していたのかもしれない。纏わり付くような捕り方=逆小手?であった…。
■対して、我々日本少林寺拳法は『鈎手の理』を使って攻撃方向を無力化した。その限り、反撃逆技が相手の力に逆らっても問題は無い。しかし実際は、我が方には両用の技が存在/混在?しているのだ。
問題点を述べる。
*鈎手には順応型と非順応型がある。
*それは、抜き、逆技の順応型と非順応型ということになる。
*この点、寄り抜きからの一連の変化構成は極めて順応型の体系である。
*切り小手系の片手の握りに対し順応型の鈎手で対応すれば、逆小手系で捕れると考える。そうでなければ巻き込み小手は成立しない。
*しかし、巻き込み小手には母技たる(順応型の)抜き技がない。教範には両手=諸手の技として載っているが、片手三角抜き?ではニュアンスが異なるであろう。
*巻き小手の握りで、例えば彼我が右中段に構えたとして、右手で相手の手を持って時計回りと反対方向に押し下げたとする。この抜き技と逆技がない。他の例もあるが、これ一例を上げておく。
*中野先生は諸手の「片手投げ切り返し」の際、切り返さない。できないと言われる。したがって、四指を掛けて引き倒すように順応して倒す。以前、山崎先生から諸手押し小手があったと聞いたことがある。これなら順応する。
以上、技術史的にも興味がある。また組織的な検討が必要であろう。
【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読む場合は数日後にお願いします。
表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。いずれ、リニューアル?=改訂して行きたいと考えています。★印なんか付けます。
| 2003年11月05日(水) |
■双龍出海(10)/握り・考 |
■龍王拳、龍華拳、羅漢拳などは相手の握り=接触があって成立する技法である。少林寺拳法は、あたかもそれを待ち受けるが如くの戦法?を有している。
「君等、ちょっと来いなんていわれて、ノコノコついていったらいかんぞ。(腕を誘うように向け)嫌だョと断って、相手がつかんできたら、ギャッと言わせるんだ」(要旨)
開祖はこのような制圧の仕方?を教えて下さったことがある。
■日本人はケンカが始まる際、相手の衣服や胸倉を掴むことがママある。かなり特殊な戦闘様式で、明らかに日本民族の徒手格闘様式は「イザ組まん!」の組み打ち系である。
特殊といったのは、握る=威嚇の段階で相手が謝れば鉾を納める気もあるからである。つまり戦闘前にもう一度、相手の出方を問う、実は和戦両様の民族的ケンカ作法?なのだ。まあ、本来拳士は相手に掴ませてはならないのだが、今はその問題は置く。
■だから、以前「本書きたい放題」で触れた、演武の際、握りに来る相手の手を払った刹那、攻撃する形は、少林寺拳法的ではないのである。この点は再度強調しておく。審判の判断に委ねるべき問題ではない…。
払う→しかし握られる→守る。相手の出方を見る→目打ち、抜き、裏拳、中段突き。場合により抜くだけのこともある→逆技、固めによる対処の修得。このような和戦両様、剛柔一体の体系である。
中野先生曰く、「まず守れる、ということが勇気の元なのである」――。
■さて、握ることに関し気が付いたことを箇条書きにしておく。
*我の片手を握ってみると分かるが、自然な状態では拇指と小指は絶対につかない。これは握りに来た相手の手首を攻める場合、拇指と小指間が弱点であることを示している。
*握る状態は掌屈と背屈がある。掌屈と尺屈は相性が良い動作で、手首を殺す(少林寺用語)形である。腕相撲の相手を倒す時の形状である。
*背屈と橈屈は相性が良い動作で、手首を活かす形である。ウェイトリフティング時、立ってバーベルを持ち上げる時の形状である。
*何を言いたいかというと、手首を攻める場合、力をそのどちらかの方向に向かわせることができれば容易となるのである。実際は複合的である。
*手首を握る状態は順手持ちと逆手持ちがある。相手の腕を得物と見立て、例えば寄り抜き、小手抜き等は順手持ちであり、十字抜き、内切抜きは逆手/サカ手持ちである。
*何を言いたいかというと、鈎手の際、本体梃子(相手は極めて知覚し辛い)を使用するが、その力の方向=拇指と小指間を攻めること、および我の意識する部位が異なることを示している。
*本体梃子により、握られた手にわずかな自由を得、次、梃子の理、車の理、龍体運動などを用い「活かし、殺し」の逆を捕る。倒す。あるいは抜く。
*その際、拇指と小指間を抜く(例えば送り小手)、あるいは拇指を外す(例えば巻き小手)などになるが、主に拇指、二、三指、あるいは拇指を外した他の四指の力は残しておく。手首=腕を不安定のままにしておく為である。
*鉄棒は握るという視点から面白い。握りながら握らない。手は不思議である。腕逆捕りの際、片方の手はそのように握る。尚、段違い平行棒の飛び移る際は拇指以外の四指を曲げて使用している。素早い動きにはそうなのであろう。突き蹴りに対する掛け手は自然とそうなる…。
*意識した場合、掛け手の形状は強い。フリークライミングは四指を主に使用して登る。
*自然な握る力に対し不自然な技は、腕十字と逆小手を関連付けていること。ハンマー投げ様の捻る力に切り小手も同様。つまり技を掛けようとする方向に逆向きの握る力であり、初心者には難しいと思われる。
*逆小手は一本背投げに諸手逆小手。巻き込み小手はハンマー投げの捻る力ではなく、腕を後方から捻る力に対するのが自然である。したがって中野先生は、巻き込み小手は体を開き、握る力に順応するように捕られる。この問題はちょっと複雑なので、後日補足したい。
キリがないので、この辺に止める。
【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読む場合は数日後にお願いします。
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| 2003年10月31日(金) |
■双龍出海(9)/体の龍体運動 |
■体の龍体運動例は、外巻落しが分かりやすい。腕の内外旋と比して、体の内外旋は足捌きが伴って左右回り、乃至転回ということになる。
彼我が左中段で構えている時、相手の前手、すなわち左手の内側に対して右回りで腕に添って回って入る。これが体の水平龍体運動である。
その際、相手の左腕を両手で持って、外旋=逆小手系の捻る操作を我の体側に添って加えると、簡単に外側に倒れる。あっけないほどである。
つまり、体の水平回転に腕の垂直方向回転がまるで歯車のように噛み合って動くからで、法形・外巻落しは非常に機械工学的でさえある。
■外側に体の水平回転を行うのが逆天秤。上下の高低差で生じたのが外巻き天秤。ざっと、こんな具合である。
柔道の一本背負いは腕の逆を捕らないので、水平の体回転が次、垂直体回転となって相手の体を投げる。また合気道では、逆天秤よりさらに転回=背転という体捌きで投げる四方投げ?がある。
少林寺拳法における(柔道の)一本背投げ=上受け背投げの存在を思う時、(合気道の)背転という転回技が無いのが不思議だ。相手の内側に転回する片手投げのみでは、それこそ片手落ち?ではないだろうか…。
■少林寺拳法には不足しているものがある。回転…、転回でも良いが、この入り身法の概念がない。いや厳密にいえば、有るのに無いのである。「気」然り、「丹田」然り、前回、未発達という言葉を使った所以である。
技法に止まらない、この問題にどう直面するか。私たちの創造性/想像性?が問われている…。
| 2003年10月28日(火) |
■双龍出海(8)/龍投げ・考 |
■龍投げという技の存在を思う時、私が考え至った「龍」「龍体」「龍体運動」「双龍出海」などは、あたかも釈迦=開祖の掌/タナゴコロで能書きを垂れる孫悟空の如きものかもしれない…。少し気恥ずかしくなって来たが、騎虎の勢い?で続ける。
この龍投げは、中野先生のいわれる逆小手・雑巾絞りからの連環攻撃である。すなわち内旋=送り小手系の捻りをしていた手が極まって、次、外旋=逆小手系の捻りをしながら、(車の理となって)相手の腕に絡み=転がりながら攻めるからである。
若干のコツを加えると様々な技に応用が可能な龍体運動で、良く吟味すれば、袖巻返し、上受け逆手投げ、上受け投げなどは内外旋の表裏一体形である。
ただし龍投げのみ、昭和四十年度版教範から登場する新しい技?である。
■ここら辺り、少林寺拳法の技術史的に大変興味深い。すなわち、昭和三十年度版教範から抜き技の名称が龍王拳となり、龍華拳、羅漢拳、五花拳なども整理され、現在の技術体系が出来上がる。
その際、各種理法も四法/昭和二十七年度版、五法/昭和三十年度版、六法/昭和四十年度版と増えて行くが、今、車の理に着目してみると、本稿の主題「龍投げ」を考える上で興味深いのである。比較したものを以下に記す。最後の部分が重要である…。
「(三つとも内容はほぼ同じ。結びの部分を記すと)…拳法は此の車の理も巧妙に利用して“我が身体手足を廻して、勢力をつけ”、敵の弱点をつくのである」―昭和二十七年度版
「…拳法は此の理も巧妙に応用して用いている」―昭和三十、四十年度版共に同様。
■つまり、「我が身体手足を廻して、勢力をつける」が抜け落ちるのである。これは、指導現場では明らかに腕の内外旋(“龍”“龍体運動”、乃至“車の理”の具体的な概念)が抜け落ちて未発達となり、龍王拳では特に“梃子”が強調されてしまったように思える。
もっとも、指導者方はそれぞれの言葉を使われて、例えば、中野先生の雑巾絞り、あるいは片手寄り抜きでは、「肘を出して指先が肩に付くようにせよ(やってみれば分かるが外旋となる)」ということから推察すると、このような表現=気付き方をされていたのであろう。
――ともあれ、昭和四十年、教範の大幅な改編に伴い、「龍投げ」が忽然と登場する。試みに教範を開いて柔法の技法を眺めてみるとよい。日本的な技法名称が多い中、極めて特異な名称であることが分かるであろう。
■ここいらの経緯は知る由もないが、何かそういうことを自覚された方がいたのではあるまいか。開祖か…、中野先生か…、興味は尽きない。
そんな訳で、私が唱えた双龍出海は全く根拠無しということではないことを、キン斗雲(キンは角と力からなる中国字)の上?からお断わりしておく。
| 2003年10月23日(木) |
■双龍出海(7)/秘伝?下振り子 |
■振り子について双龍出海からの立場で書きたい。通常、拳士が開足中段構えから行う突きを「振り子突き」と呼ぶ。しかし私は、これは単なる身体を捻る突きだと思っている。
少林寺拳法は連撃を多用する為、突き、特に逆突きの後は蹴りを意識した体重移動を行う。したがってその場合、結果、振り身=振り子のようになる。
単なる重心移動の突き、これが振り子突きと混同されているようである。さらにいえば、振り身受けと流水受けが混同されている。しかし今は触れない。
■教範に面白い記述がある。蛇突きについて、「…直線に比して“術化された突き”である」。この表現は他の基本技には無い。私は“術化された”という言葉に大変興味を覚える。
中野先生の小手抜きからの連反攻撃の形。抜きから蟹足しての中段突きが、この“術化された振り子突き”である。
先生曰く、「中段を突く場合は自分の顔が危ない。だから振り身をして、突いた反対側の拳は高めに顔を守るように構える」。
上の突き方は、相当に大きく振り身をされる独特の突きである。ちょっと補足すれば、引き手は高く取るのではなく、肩の脱力があるところに大きく振り身をされるので、結果、引き手が高くなるのである。
■このように振り子突きはすでに術であり、本来、法形・仁王拳に組み入れられるべきであったと考える。尚、振り子突き、振り身に関する教範の記述は以下の項目を参照されたい。
*教範「第五編・基本諸法/第八章・体捌」“振り身の名称と解説”の項。
*教範「第七編・剛法基本技/第三章・突蹴の基本訓練法」“単撃訓練”の項。
*教範「第七編・剛法基本技/第四章・突蹴の基本訓練法」“体捌きによる防技”の項。
■さて、前置きが長くなったが本題である。一般に少林寺拳法の振り身=振り子は上体を主にした体捌きである。乃至、顔を避ける意識で行われる。
対して、顔を避ける為に下体を意識する。乃至、下体を主にした振り身=振り子が存在する。秘伝?下振り子(“逆振り子”ともいいたい)である。これは膝と、特に股関節のリキミを抜いて実現する。
我左中段に構えている時、上段突きを左方に避ける場合は左膝(右股関節もある)で、右方に避ける場合は左股関節(右膝もある)を意識して下体を振る。すると上体を意識するより行い易い。
問題は股関節を基点とした場合、上体振り子とは重心が逆になるので蹴りが出ないことである。しかし、受けにはこの方=下振り子が適している場合がある。
■中野先生の“白蓮拳燕返し”の膝使いは独特であるが、素早い突きに上体を意識していてはこの膝の形は出来ない。下振り子を伴って出来ることに、やっと気が付いた。
また“上受け突き”の足の抜きが、上体の振り子を意識するのに比して、股関節の下振り子を意識した方が容易である。流水受けに併用すると体が容易に抜ける。さらに、柔法に併用すると技の威力が益す。この際は独特な使い方となる…。
双龍出海は肩のリキミを抜く。それは股関節にも通じる。肩と股関節は相関するからである。少林寺の拳士で肩に力が入り過ぎる人は、フラフープ?を行えば良いかもしれない…。
| 2003年10月17日(金) |
■双龍出海(6)/開祖と中野先生の目打ち |
■以前、本「書きたい放題/2001年11月06日(火) 技法論・中野先生の目打ち! 」の中で、先生の目打ちについて触れた。そして以下のように追記した。
「…さらに、中野先生はやや手首をローリングするようにされました。これは実際に見ればなんてことはありませんが、文字で表現となると難しいです。多分、中指が一番長いからだと思います」
今回、「双龍出海」を書きたい放題していて、この謎?が解けたようである。
■手首のローリングの意味は、目打ちをする際、腕を外旋(=逆小手系の捻り)させる動作だったのだ。脱力はするが手首は折り曲げず、微量に外旋を効かしながら、結果やや尺屈(尺骨側に曲げる意)になりながら打つのである。
この打ち方は非常に有効である。我の胸、袖を掴まれた際、頭突きや突きを防いで手掌を相手の顔面に向ける防御動作から一気に打ちやすい。しかも、かなり近距離からの目打ちが可能である。
考えてみれば、寄り抜きからの目打ちがやり易いのはこの為だったのだ。すなわち、寄り抜きの際は腕を一端内旋(寄る動作に含まれる)しながら、次外旋して抜くので、すでに目打ちの態勢なのである。
■こんなことがあった。大学3年生の頃だった。夏の指導者講習会を受講していたある日、開祖法話を先生の目の前で聞いていると、何かのお話から「誰か前に出て来い」となった。先生は私の顔を覗き込みながらそう言われたので、気がついたら壇上に上っていた。
そして太いが柔らかい先生の右手を左手で順に握ると、鈎手をされた刹那、抜きと同時に一気に私の道衣を打たれた。「バシッ!」という鋭い音が第一講堂中に響き渡り、受講生全員の目が丸くなったのが分かった。
この時の目打ちがそうだったのであろう。その意味で、相手の顔面に掌を向ける動作=内旋はバックモーションとなり、より威力が増すのである。
(余談を許されたい。先生は黒いレースの支那服を着られ、下は短い道衣姿であった。ある人がたまたまこのシーンを写真に撮影していて、後年、私に送って下さった。初めて先生の手に直に触れることが出来、感激と緊張の面持ちの若き日の私が写っている。書いていて、懐かしくて涙が込上げて来た…)
■「言うまでもなく、白蓮拳千鳥返、内旋→外旋の関節運動が相関する」と「双龍出海(1)/序章 」で述べているのは、単に相関だけではなく、受け手が次の力を蓄えることになり、“後の先”の重要な術理となる。したがって、腕の内外旋を含む“龍体運動”はもっと研究されるべきであろう。
少林寺拳法の突きは直突きとはいうものの、それは逆突きの上段、中段突き、他数種のみである。試みに突き、打ち手を大雑把に分類すると、
内旋系:上段順突き、上、横鈎突き。下方からの掌拳打ち。手刀切り。バラ手金的打ち。肘打ち。下げ振り打ち等など。掌底打ちは両用あろう。
外旋系:目打ち。裏拳打ち。上方からの掌拳打ち。後ろ肘当て。下方からの振り打ち。上段への手刀打ち(頭部を打つ際、内旋して打つ場合もあろうが実際的ではない。手刀は松風、三合を打つのである。なお、手刀打ちは特殊に行う場合がある。一端、内旋し、仁王構えから外旋して打つのである。空手の突きを正反対にしたといったら分かりやすい)等など。
各自、確認されたい。
| 2003年10月11日(土) |
■双龍出海(5)/中野先生の「雑巾絞り」 |
■少林寺拳法を中野益臣先生から習った拳士なら誰でも、逆小手の指導の度に言われた、「雑巾絞り」なるお言葉は記憶に残っているだろう。
これは例えば、逆を取った我の右手を相手の右大拳頭と外手首の間にできた僅かなスペースに、「車の理」を用いながら下方に突きこむように内旋(=送り小手系の捻り)させる動作である。
■その際、掛け手した左手は右手と協調しながら一端、外旋(=逆小手系の捻り)しながら引き、刹那、わずかに内旋に返しながら基準線となり、左右協調して右方に押し込んで倒す。これが「雑巾絞り」の意である。
この押し込む動作は極めて面白く、左右の手を内外旋に使った自然の結果必要なのである。つまり腕を伸ばしながら内旋すれば身体の内方に寄り、腕を曲げて外旋すれば肘が内方に寄るので(この場合は引いているので肘は後方に行く)、押し込む動作で調整=倒しているのである。
以上は上体を主にした場合であり、下体を主にすると異なるが今は触れない。
■「龍体」という概念を提唱したい。少林寺拳法では身体を捻る動作が極めて多い。実際、逆小手でも足、膝、股関節、腰=胴部をそう使う。
しかし初心者はなかなか下体には意識が行きにくいので、まず指、手首、肘、腕、肩という部位から、意識による身体の使い方、特に捻りを習わせる為に龍系諸技がある、と考える。
するとどうなるかと言うと、捻る為には中心の軸が要るために、身体の中心を意識するようになる。もちろん、かなりな修行年月を必要とするが、やがて無意識からの中心より発する力となるのであろう…。
試みに、腕を内外旋(専門的には回内、回外という)するにはどこを中心として意識するかというと、今の段階?では人差し指である…。
■片手龍王拳を“抜く”という視点で見れば、少々無理にすれば誰にでも抜ける。場合によれば、空いている片方の手で打って抜いても良い。剛法の法形も然りである。
少林寺拳法の各種法形は護身というリアリズムもさることながら、自身の身体を練磨体に仕上げる手段なのである。私はこの練磨体を「龍体」と呼ぶことにする。
身体の中心に辿り着くことと、信念の確立は同一であろう。信念とは心の中心に定まるものだ。少林寺拳法=活人拳を通じてここに行きたい。
話しが中野先生の逆小手に戻って、先生の指導方法は極めてその感が強い。練磨体に仕上げる手段という視点抜きで、先生の技法は語れまい…。
| 2003年10月01日(水) |
■双龍出海(4)/鎖鎌! |
■私は学生時代から日本武道館に出入りしていた関係で、現代武道や古武道の大会を当時から良く目にしていた。
その後、道院長になって古武道を多少研究した際、一度、古武道祭の演武を徹底的にビデオに収めてやろうと思い立ち、当時(詳しい日時は失念。湾岸戦争以前である)、少林寺拳法東京事務所に勤務していたJさんに頼み込んだ。甲斐あって、関係者ということでアリーナのベストアングルで撮影できた。
■様々な古武道の演武を改めてファインダー越しに見て、大変参考になった。この時、鎖鎌の演武を見たことが双龍出海に強く影響している。
私がどこに共鳴したかというと、相手の攻撃武器を攻撃、ないし無力化する発想にであった。遠間から積極的に相手の刀を狙って攻撃=絡め取る。もちろん隙があれば容赦なく分銅が頭を狙う。接近戦の技法もあった…。
まあ、実際は鎌で止めを刺すのであるから、型としては殺伐なものである。しかし私にとって、非常に具体的なメッセージ/ヒントを与えてくれたのは確かであった。
■思考は次のように展開された。現在も進行形である。例えば、攻撃は迎撃という概念に変わった。
◇相手の拳足攻撃に対する攻撃=絡め取りは有効である→それなら、片手よりは両手の方がより確実性がある(少年期の二刀流の影響もあったのだろう)→鎖鎌のように巻き付くにはどうしたら良いか…?(白蓮八陣の件に気付いたのは、この頃と思う…)。
◇絡め取った後の倒し、固めはどうする…?
◇連撃にはどうする…?
◇拳足を引かれたらどうする…?
◇修得する、させるにはどうする…?
等等。補足すると、元々少林寺には五花拳がある。だから両手の方がより確実とは、一挙に両手同時に捕ることを意味する。もちろん、当て身を入れてからもする。
■日本の古武道=鎖鎌におけるこの発想は、世界の武術に余り例のない特殊なものではなかろうか。本体攻撃がなければ、現在の戦略ミサイル防衛構想に通じると思える…。
であるから、もし相手からの拳足攻撃を受けても、双龍出海で迎撃すれば本体攻撃を避けることが出来得る。
相手を打ち負かすのではなく、愛撫統一を目指す少林寺拳法の理念と合致できるのである。
| 2003年09月30日(火) |
■双龍出海(3)/一円二直の法則? |
■“円と直線と曲線”について、特に円について私も思うことを述べたい。
さて、試みに目の高さにウチワを持ってもらいたい。あるいはイメージでもよい。手に持って正面に向けると、当たり前であるが目の前には(便宜上)丸いウチワ=円が見える。しかし、横から見ている人には丸ではなく、一本の線に見えるだろう。
■では横の人にウチワを見せると、今度は自分の前が線になる。上ないし下の人に見せる為に水平にしても、丸と線の関係は同様である。これが球体であればどこから見ても丸なのだが、円ということであれば、水平と垂直は線になるのである。円に見えるのは、正面一方向のみとなる。
つまり円は、一つの円、二つの直線としてしか認識されず、見誤り易い。これが人体の円運動におけるひとつの性質である。
ちょっと簡単なことを考えてもらいたい。他に円の性質を変えるにはどうしたら良いであろうか。
■――答えは体の向きを変えるのである。先ほどの例は、ウチワを横に向けたので相手は円と認識できた。今度は正面を向いていた自分が横を向けば=体を捻れば、同じように相手は線に見えたものがウチワ=円と分かる。お辞儀をすれば、下から線に見えたものが丸と分かるが、ちょっと苦しい体勢である。あくまで例としてもらいたい…。
双龍出海では迎撃に際し、関節運動の性質と共に、体の転換により円=龍の性質を変えることを用いる。
■少林寺拳法でも、内受けや下受けは前方に発する力の方向なので、開身という体捌きを用いて正面の直線運動を側面の円・曲線運動に変える。対構えによる逆突きからの内受け突きが分かり易い。(ほぼ)正面の直線運動のままで用いる受けは、拳受けである。
正面の円・曲線運動である内半月受けには、振り身が整合性がある。もちろん、どちらの体捌きでも内受けや内半月受けはできるが…要は、意識の用い方に拠るのである。そして用法に合わせ、無意識に最善の方法を選択するような練磨が必要である。
■人体には両腕があるので、円と直線と曲線はさらに複雑になる。簡単な例から上げれば、水泳のクロールと背泳は同質で交互の円運動である。平泳ぎとバタフライは同質で同時円運動である。
内受け突きを再び例に取ると、受けを(仮に)正面の直線運動とすれば、同質、交互、異形の円運動である。上受け突きが分かり易いであろう。
仁王受けは、異質、(ほぼ)同時、異形の円運動である。キリがないので以上の例に止める…。
■双龍出海の双円運動は、十字受け形、仁王・半月受け形、同時受け形、他数種に拠って成り立つことを申し述べておく。
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