道院長の書きたい放題

2002年07月15日(月) ◆武道先進国の役目!

「書きたい放題/2002年02月15日(金) 勝手史観!」の中で、先進国の規範ということに触れました。

“先進国”という定義はなんでしょう。それに対しては後進国ではなく、“発展途上国”と表現されますが…先進国たる所以は、彼の国を援助して発展を促し、制度など場合によっては文化にも立ち入って善導するということでしょう。

例えば、女性の性差別など、文化に由来するもの。エイズ、伝染病など、貧困に由来するもの。独裁政治、人権の問題など、国家体制によるものなど…。いずれにせよ、経済問題を含め(善導の)範囲は多岐に渡ります。厄介なのはクジラ、犬などの食文化。…してみると、日本、韓国は先進国ではないのですか(?)

■ 一方で、先進国発信の悪影響も深刻な問題です。核保有・核戦争の問題。武器輸出の問題。あるいは、富の独占などの問題です。また、地球温暖化、森林伐採など、発展途上国と先進国が共に関わる問題も深刻です。テロ問題の遠因というより根本は、先進国が引き起こした「自分さえ良ければ!」というエゴイズムの手痛いしっぺ返しと言えます。

皮肉にも、麻薬問題や児童ポルノ問題などは需要者?と供給者?が貧富の関係で強く結び合っています…。

ともかく、先に核を保有しておいて、後の国が持つことまかりならん! あるいは、他国の資源/木で家を建てておきながら、今になったら、木は切るな!うちは切らん!では、たまったものではありません。しかし少しずつですが、矛盾を解決しようとする意志/良心が働きつつあるようにも見受けられます。

■ 前置きが長くなりましたが、先進国と発展途上国の麻薬の問題に匹敵するのが、最近、テレビで放映される格闘技番組ではなかろうかと考えるようになりました。

昨日の「K1戦」。プライド(総合格闘技)側の選手がK1ルール、打撃技のみに挑戦し、一勝一敗の成績で終わりました。面白かったのは「かつてK1の中で、これほどの野獣性を感じさせる選手がいたでしょうか」と選手紹介したことで、失礼ですが…苦笑してしまいました。

ところが、紹介通り、プライドには野獣性剥き出しのとんでもない試合シーンがありました。それは、両方の選手がお互いの首を持ち合って、一歩も引かずに殴り合うものでした。血がほとばしるそれは技? 根性? 両者、どういう精神状態になっているのでしょう…。

■ 昔、テレビの血の色は黒かった…。今はハイビジョンにより、血そのもの! 

K1では今後、膝蹴り無しのルールを検討中ということです。ただし、石井和義氏によれば「“ブラウンカン・スポーツ”(←造語ですか?)として、膝蹴りを禁止にするとクリンチが少なく、パンチが多用されるのでKO決着となり易く、観ていて面白い」(要旨)というのがその理由らしく、残念ながら“膝蹴りは危険!”ということからではないようです…。

フランス・スポーツ省の判断はキックボクシングの膝蹴りは危険という認識です。当然、プライドルールは認められないでしょう。しかし、フランスは柔道が大変盛んで、武道、格闘技が嫌いな民族ではないようです。この点、先進性を感じます。つまり、国家が武道、格闘技に対して見識を持っていることになるのです。

■ 何年か前、「サカキバラ」を名乗る少年による“生首事件”がありました。その際、青少年の暴力を助長するような表現の漫画、テレビアニメ、ドラマの暴力シーンなどが問題にされました。

なのに…それに勝るとも劣らないシーンが茶の間で放映されています。悪いことに放送機器の発達により、リアルな映像、それの保存、インターネットによる手軽な再生などなど。残酷な場面が永遠?に消えることがないのです…。ノド元過ぎればなんとやら…。今、格闘技番組、特に“プライド”は問題があると考えます。

我が国にも飲酒、喫煙は20歳過ぎ。成人映画の判断は表現の自由の問題があるせよ、18歳という基準があります。放送禁止用語もあります。何故、格闘技に対する放送基準がないのでしょう…? 

この感覚に疎いのは、案外、我が国が“武道の国”であることが災いしているからではないでしょうか…。いかにこの番組、乃至この格闘興行が、本来、武道先進国である日本国民に暴力性を植え付けるか…今後、研究機関できちんと調査する必要があるでしょう。 

■ タイの“ムエタイ”は肘打ち、膝蹴り有りという打撃ルールを発信しました。ブラジルの“ヴァーリートゥードゥ”は目、金的、噛む以外なんでも有りの総合ルールを発信しました。しかし両国は貧困層が多く、残念ながら青少年の生活と直結していたからこそ、発達して来たものなのでした。

先進国がその情報をキャッチして増幅しました。今は、豊かな側の人々がそれを行うのが不思議でなりません。元々、先進国は残酷な格闘技を、例えばグローブを発明したり、人間が傷つかないような安全なルールを考案して発信したのです。ちなみに、サンボに締め技が無いのは人を殺すことを連想するからだそうです。

■ 柔道は締め技こそありますが、当身技を取り除きました。発展の段階で、試合で危険な技を禁止して来ました。日本拳法は自衛隊でも取り入れている総合格闘技型ですが、防具で身を守ります。伝統空手(全空連)は面を付けて寸止めします。一部では行っていますが、合気道は対戦試合を放棄しました。

すべて、先人は武術、格闘技の持っている危険性/暴力性を了解していたのです。言ってみれば、武術を知的格闘技に仕上げたのでした。武の精神を保ちながら、大和の精神を養う。これが日本の文化である“武の道”なのです。

今、少林寺拳法も武道先進国の一員たる自覚を持って、さらに私達の“徳”性を、正しく世界に発信し、且つ、世界の武道人を善導して行こうではありませんか! 



2002年07月11日(木) ◇知的格闘技!

 7日の日曜日、TBS放映『情熱大陸/脅威の頭脳棋士・羽生善治のパリ、チェス決戦』を見ました。たまたま、当日午前中、NHK教育テレビの将棋番組でも、羽生氏の変り種記録を紹介していたのです。NHK杯戦における最大年齢差記録は、「大山(確か65歳だったかな?)対、羽生(18歳)戦」というものでした。

故大山康晴名人は60歳を過ぎてもA級の現役棋士であったという、化け物的な棋士です。一方、羽生氏も、小学生名人になって以来、15歳(中学生)でプロ棋士となり、史上初の7冠王に輝くなどの記録を持つ天才棋士です。ちなみに上の対戦は、羽生氏が勝ち。

■ 将棋は、例えば竜王戦一日制の場合、持ち時間は各自5時間。対局は深夜にまで及ぶ場合があり、それでも千日手などになると、三十分休息の後、指し直しとなるルールです。今回、メジャーリーグのオールスター戦で(選手の健康面を考えて)延長引き分けがありましたが、将棋の場合、100%引き分けがありません。過酷な完全決着方式なのです。

不思議なことに、棋士の中には体力があるようには見受けられない方がいるのです。羽生氏もそうです。将棋でも体力がある方が有利と思います。先程の深夜の再試合などは、明らかに年配棋士にとっては不利ですから…。

またデーターによれば、NHK杯戦のように持ち時間が短く、使い切って一手三十秒になると、「ある種の反射神経が良い若手が有利なのでは…?」と島朗八段がコメントしていた通り、早指し戦では圧倒的に10代、20代棋士の勝率が勝るのだそうです。しかし、特別な条件を除けばそうでもないようです…。

■ 番組中、私が凄いなーと思ったのは、羽生氏が年に一回の貴重な十日間という長期休暇を、趣味であるチェスの世界大会出席の為に費やすことなのです。これには驚きました。

凡人の感覚では、毎日毎日、将棋を指す生活をしていてそんな長期休暇が取れたら、温泉などでのんびり頭を休めたいと思うのです…。しかし羽生さん、フランスの名門チェスクラブ主宰の世界大会に出席して、またまた頭をかきむしっていました。成績は10人中、5位たって…普段チェスの駒なんか握らないでこうですから…凄いです。

伝説のプレーヤと対戦して引き分けに持ち込んだりとか、優勝した選手には勝っても、上位入賞に大事な一戦を12歳の天才少年によって阻まれる、などのドラマがありました。興味深かったのは「将棋は家元制度があったりという伝統文化なんですが、チェスはスポーツなんです」(要約)と表現したことです。ただし、本論では羽生氏の言には触れません…。

確かに、将棋、チェス、あるいは囲碁に代表されるゲームは盤を挟めば年齢、体力、性別などは関係ありません。一緒になって知的格闘を楽しめるのです。その意味ではテレビゲームも同じですが、「ゲームは攻略本があるけれども、囲碁は答えが無い所が面白い!」と、最近の囲碁ブームにコメントを求められたある子供が模範的?な解答をしていました。

私の道場には立派な将棋盤と駒が置いてあります。チェスもあります。少年拳士の中には将棋に興味を示す子供がいて、「先生、練習が終わったら将棋やろう!」とねだってきます。で、飛車角落ち。将棋では二枚落ちと言いますが、「お願いします!」と頭を下げあって対戦します。

■ 憎しみを発生させないで、勝敗を楽しむ。これがスポーツであり、将棋、チェス、カードなどのゲーム/知的格闘技の醍醐味です。ですから、例えば将棋にお金を賭けると一転します。ゲームから“賭け事”になり、優れた徳性が失われます。

羽生氏の今回のチェス大会は当然自費ですし、勝っても賞金など出ません。仕事(同じような将棋?ですが)を離れ、静かに知的格闘技を楽しむ羽生氏の精神的、肉体的タフさに驚嘆しました。

どなたか、チェスしません?




2002年07月08日(月) ◆(続)鬼(技)!を考える

 考えてみれば、鬼のような酷い仕打ちに対して「人でなし!」と言うところに、問題の本質があります。人であって人ではない…。しかし、「佛」も「ひとにあらず」と書きます。同じ人間でも片や仏に、片や鬼となるのです。その境はどこにあるのでしょう…。

■ 山口県で起きた「母子殺人事件」の被害者の夫。善良な市民である彼は、「…司法が裁かないのなら、私がこの手で“殺す”!」と言い切りました。もし、法律が整備されていない時代であったなら、彼は一夜にして本当の鬼となって、地の果てまで犯人を追い続けたでしょうね…。

おりしも、間もなく「スターウォーズ・エピソード2」が上映されます。以前、掲示板でもこの問答を行いましたが、今回、アナキン・スカイウォーカーが何故、暗黒面に落ちたのかが明らかになるといいます。どうなるのでしょう…。

■ 最近、久しぶりに?武道・格闘技関係の本を読みましたら…驚きました。『船木誠勝・リアル護身術』には随所に“噛む”という言葉/反撃技が書かれてあるのです。「そうかなー?」と以前の護身術関係の書を調べましたら…中には金的や目に対する攻撃の記載はありました。けれども、噛むという行為はありませんでした。

また、船木氏の金的や目に対する攻撃内容は、噛むことに劣らず大変厳しいものです。あれでは潰れてしまいます! どちらも…。しかし、これだけ防御の立場である護身術の反撃技が厳しいということは、攻撃技、攻撃者が予想を上回るほどの暴力的な進歩?を遂げたということなのでしょう。

■ 子供の頃、プロレスがありました。元々ボクシングの国から来た格闘ショーなのに、ボクシングを売り物にするレスラーはいなかったと記憶しています。ですから、打撃技である空手(チョップ)の出現は新鮮でした。また、噛み技専門?のブラッシーと力道山の闘いは流血につぐ流血で、お年寄りが心臓麻痺を起こして死亡したとかしないとか…。しかし、プロレスはまだショーと分かって観ていました。

高校生の頃、キックボクシングがテレビに登場しました。極真館がフルコンタクト空手を提唱し、これもマスコミで取り上げられ始めました。いずれも、ボクシングに代わる真剣勝負の打撃試合でした。

過去のない現在はありません。マスメデアの発達に伴い、競技スポーツ、武術、格闘技、アマ、プロ、様々な立場、あるいは国が「強さ」を追求して入り乱れ、それがだんだんと積み重なって、ついには90年代アメリカで行われたアルティメット大会(金的、目、噛む以外なんでもあり)で先祖返りを果たしたのでした。

もっとも、ブラジルではそれ以前から“ヴァーリートゥードゥ”という試合が行われていて、『木村政彦/わが柔道』の文中には、「…グローブをはめず、素手で殴り合うから、眼に二、三発もろに食らったら最後だ。肘打ちで直撃されて眼球が半分とび出し、救急車で病院に運び込まれた例は数え切れないほどあるそうだ。だから、会場の入り口にはいつも救急車が二台、待機していた」(昭和34年頃?)と自身の死闘の話と共に、その実態が語られています。

■ ボクシングが素手の拳闘から安全なグローブファイトになったというのに、ヨーロッパではボクシング自体を禁止にしている国があります。また、フランスでは暴力的であるという理由で、今回、K1パリ大会で“膝蹴り有り”なら公共施設を貸さないという話になったといいます。K1はすでに肘打ちは禁止です。

鬼の世界に通じる道…。

開祖はご法話で、こんなことを言われたことがあります。「私は君達に教えていないことが、まだまだ沢山あるのだよ」(要旨)。それを聞いていた聴講生一同、古い先生方も含め「へー!」と驚いたものです。多分、鬼技があったのでしょう。あの当時での修行ですから、素手、及び武器で人間をどうこうできる技を先生は沢山知っており、その上で人間完成の行に相応しい技とそうでない技を取捨選択されたのです。 

今、武技・武道の価値観の多様さで、少林寺拳法の修行が難しくなっていると考えられます。いっそうの警戒が必要です。我々の在り方に誇りを持って、先生が捨て去った(鬼の)世界がよみがえらない様にしたいものです。



2002年07月05日(金) ◆鬼(技)!を考える

修行中に現れる鬼を退治しましょう!

■「鬼!」というのは恐いという意味で、世間一般では「鬼のような○○!」と使用されます。

“鬼婆”“鬼軍曹”は、人あるいは役に対して付けられる形容です。“鬼のような仕打ち”は読んで字の如く酷い仕打ちのこと、行為を形容します。釣りでは、針に掛けた魚を絶対捕る仕掛けを“鬼仕掛け”といい、将棋では、妙手、名手に対して“鬼手”なる言葉/指し手があります。確かお酒で“鬼殺し”という商標がありましたが、この意味は分かりません…。

面白いのは鬼に“神”がつくことで、これは“鬼神”となり、いままでの意味とは少し異なるようです。戦場では人を殺します…。ですから、戦場でとてつもなく強い武人は敵にとっては鬼ですが、味方にとっては神のように映ります。複雑ですね…。

人間の心の中には鬼が棲むと言います。本当かな…!? 

■「卍/まんじ」を、表と裏に分けるから分からなくなります。…と思います。つまり、少林寺では道場などで(意識で認識するため)便宜上、正面に二つに飾るから分かれてしまうのです。人間の理性の、実はそこが落とし穴ではないでしょうか…。

仮に卍がそのように左に回っているとして、それをお互いが向かい合って見詰め合うとしましょう。私の側から見る卍と、反対側の人から見る卍は違いますね。向こうからは逆回り、つまり“同一の物”が裏卍に見える訳です。

私はそういう非判別的な相反する世界を心の問題も含め、「卍/まんじの世界」と表現します。

■ 戦争と平和は卍の世界の時間差的な変形です。共産主義世界と資本主義世界という相異なる世界の存在は、空間的な卍の世界の変形です。

門下生を指導していると、彼等の出来ない技の動作に私の技が出来るヒントがあることを経験します。ひとつの卍の世界の自覚です。また、武道、武技は人造りの手段ではありますが、用い方により凶器となります。残念ながら、武道の卍の世界です…。

■ 善悪を縦の線とか横の線では表現できません。拳士が「卍(の世界)」を胸に着ける意義は、(従来の意味に加え)人間の生命が続く限り、善性を発動しなければならないことを表現しているのです。表卍を善の世界としてここに止まり、武道人として行ってはならない“人と鬼との境界”があることを認識する為に着けるのです。

少林寺拳法の鬼技は「シャクルこと!」「挫くこと!」「折ること!」―以上は柔法で、利かない相手についつい仕掛けたくなります。

剛法では「打ち砕くこと!」「流血させること!」。特に乱捕りでは、「壊しを意識した肘受け」「壊しを意識した膝受け」「ノックアウト!」「激昂すること」―以上は拳士の心を喪失した行為です。

卍を胸に着ける資格がありません…!





2002年07月01日(月) ◆受け、技有り!ワールドカップから

 熱狂のうちに、昨日30日、サッカー・ワールドカップが終了しました。この歴史的なイベントの最終舞台が横浜であったことは、ハマッ子の一人としてまことに感慨深いです。本大会については色々と述べられていますが、私は少林寺の拳士として、「守り」という視点から述べてみたいと思います。

■ 決勝におけるブラジルとドイツの攻防は本当に見応えがありました。ブラジルは“攻撃のサッカー”と喧伝されていましたが、あにはからんや、他チームとの対戦でハットトリックを達成したドイツの選手は、ブラジルの守りを「固かった!」と評しました。

攻防一体と言います。特に、サッカーのような団体競技は守りが固いと攻撃に専念できます。結果、攻撃力が増します。“守りのチーム”と言われたドイツも、カーン選手の存在によって予選リーグでは8点も奪った試合がありました。

カーン選手の、両手を広げてガニ股で前進する防御スタイルを真似すると、少年拳士達は「先生、怪しい!」と大喜び?します。「少林寺拳法と同じなんだよ」と説明すると、「…???」返事が返ってきます。

彼の防御構えは股下がガラ空きです。しかし“気”で押されるのか、その構えで前に出てこられると、相手は吸い込まれるように作られた隙にシュートしてしまいす。多分、シュート直前の選手からすると、あの姿は数倍の大きさとなって目の前に立ちはだかるのでしょう。前半のロナウド選手は明らかに気圧されていました。

■「書きたい放題/2001年11月07日(水) 布陣法/構えについて! 」の中で、「一字構えは中段の攻撃、主に回蹴りに強い構えです。ですから、中野先生は仁王拳においてやや前屈、上段を誘うが如くの構えをとります。」と書きました。実はこれは、「気の先」といわれる“気構え”があって成立するもので、通常拳士が行うような単に待つ、誘う構え/守りではないのです。

剣道では、気で押していって相手が堪え切れずに打ってくるところを打つと言います。以前、日本空手協会の大会をテレビで見ました。こちらの大会は全空連のように面を付けず、素面で試合します。もちろん寸止めですが、拳サポーターは無し。真剣勝負の匂いが漂います。解説者はしきりに「気で詰めて行く!」と言い、確かに堪え切れずに打って出てしまう選手に対して、「対の先」「後の先(受け手を伴う)」の返し技を決めていました。

もっとも、海外の大会では文化の違い?でしょうか、気のせめぎ合いという妙味が理解されないようで、ピョンピョンと外人選手にフットワークで間合いを外されていましたが…。

ともかく、股下に対してシュートを放つことは前述の話と同様、カーン選手にとっては思う壺で、一瞬に閉じてブロックしてしまいます。まさに、彼にとっては必勝のパターンです。つまり一番守り易いのです。どうです! 少林寺拳法と呼吸が同じですね!

■ 個人的に守りについては、『七人の侍/黒澤明監督』の中で、志村喬、扮する老武士が、「城をただ守るだけではダメだ。一箇所、隙を作り、そこに敵を誘い込んで攻めるのだ!」(要約)というセリフが印象深いです。で、野武士が襲って来ると作戦通り柵を開き、誘い入れて闘います。あの老武士の、「一騎、通ーすぞー!」という声と、村人とノブセリの泥臭い戦闘シーンが記憶に残っています…。

さて、今回の大会では2対0でブラジルが勝ちましたが、ロナウド選手とカーン選手に関しては、私はカーン選手の守りが勝ったと思います。攻撃点のみが得点されるからで、もし防御点が加点されたら、(確か5回シュートしたから)3対2でカーン選手の勝ちでしょう。他にも野球でいう、「一点に匹敵する守り/受け、技有り」が随所にあったからです。

できれば、ロナウドとカーンが一対一になって、あの股下を“抜けるや否や!?”という真の盾と矛の激突を観たかったですね!



2002年06月22日(土) ◆清々/「可能性の種子たち」から

 茨城高萩道院長・作山吉永先生が、(財)日本武道館発行の「月刊武道」に、題名「可能性の種子たち」を2001年11月号より2年間に渡り執筆されています。間もなく7月号が発売されると思います。以下にその一部を紹介しますので、皆さん是非、本文も読んで下さい。

 尚、下記の内容は、私の「演武論」にも深く関わって来ると考えます。また、私達の目指す世界を非常に良く表現されています。全てを紹介できず残念です。

■『…中野先生と三崎先生の演武は、一つ一つの動作が一幅の禅画を見るようであった。技そのものの鮮やかさは言うに及ばず、技に入る前と後の、間が本当に見事であった。中野先生が半歩踏み込むと三崎先生は応じて半歩退く。三崎先生が鋭く入ると中野先生は体を開いて卍に構える。一転して激しく打ち、受け、相手の身体を宙に舞わせ、再びぴたりと構える。鋭い眼光のまま、あたかも両者は瞑想をしているかのようであった。二人の間にピンと張った緊張の糸が、一瞬もたわむことなく続いた。…中野、三崎両先生の演武は、これ以後行われていない。しかしこの演武は私の心の奥深いところに技芸の理想像として定着し、少林寺拳法のみならず、他の様々な芸術を見る目の物差しになった。』〜第4回2月号〜

(筆者注:以上は1972年11月、武道館で行われた第一回日本武道祭における両先生の演武に対するものです)。


■『…少林寺拳法の演武の素晴らしさは、実はその組成過程にある。

 少林寺拳法の演武は、自由組演武を主とする。例えれば、演武者は、作曲をして演奏をするシンガー・ソングライターのようなものである。まず、法形や基本技を実際に掛け合いながら組み合わせ、一つ一つのパートを作っていく。そして大体、五つないし七つほどのパートで全体を構成する。全体の流れにも注意を払い、単調にならずに、そうかと言って大向こう受けを狙うような、芝居じみたものにもしない。理想的には陰陽、剛柔相まって、それぞれの要素が互いに高め合うような構成でありたい。この過程を演武組成というが、机上で技を組み合わせても良いものになることは余りない。実際に技を行いながら構成する事が大事である。勿論あれこれ考えながら作るのではあるが、実際にやっているうちに身体が自然に動いていくことも多いのである。

 身体が自然に動くということは、日頃の稽古で身についた動きが出て来ることであるのと同時に、心の深いところで、自分はこのように動きたいのだと、要求しているようなところもある。つまり潜在意識が働きだしていると考えられる。そうだとすれば、個人の潜在意識の領域にどのような情報がインプットされているかが問題となる。センスの良し悪しはその辺に起因するようだが、今はそれに触れない。

 組成ができれば、次は修練である。パートを一つの単位として修練していくのだが、ここは苦しいところである。繰り返し修練して技を確実なものにしていく過程である。身体が覚えるまでやらねばならない。演武を行う者の頑張りどころだ。

 しかし何と言っても大事なのは、演武全体を通しての稽古にある。通し稽古を繰り返すことで、相手のリズムや間の取り方の微妙な感覚を感じ取ることができようになる。やがて相手の心まで感じ取れるようになる。攻撃の間合いを詰めながら相手の心の安定や揺らめきを読み取れる。攻撃を待ちながら、いつ仕掛けて来るのかが分かる。次第に互いの呼吸が一つになる。深い信頼が生まれ、不安感が消える。こういう状態になってくると、演武をすることが楽しくなって来る。これは偏に、繰り返しのなせる技である。繰り返しの稽古によって、身体運動は半ば無意識化され、意識と無意識が同時に働き出すことになる。すると、精神活動全体が活性化し、拡大するのである。このような稽古は錬磨稽古とでも言うべきであろうか。この錬磨稽古こそが演武の、いや、少林寺拳法の命と言っても良いだろう。開祖は言っている。「五体がめまぐるしく動くその中で、考えているようで考えていない、考えていないようで考えている。そのような状態こそが極致なのだ。組演武の中にこそ、般若心経の、あの境地があるのだ」。

 さて、大会での演武である。

 大会での結果のことは、ほとんど考えなかった。もう他との比較はどうでも良かった。本部という肩書きも、さして気に掛からなかった。ただ自分たちの演武を稽古通りにやるだけだ、と思っていた。一ヶ月前の全日本学生大会の時に先生方から頂いた批評を基に、技を工夫して稽古したが、前回のときよりも大きな演武になったと思う。そして何より、心の平静を保つことができたことが、私にとって密かな喜びであった。

 競技を終え、私たち(筆者注:真鍋・作山組み)は最優秀賞を受賞した。表彰後に最優秀演武披露が行われた。満場が注視する中、開祖の眼前で、私たちは再び演武を行った。心、気、力が一致し、演武に没入する事ができた。技を終えて合掌し合った時、私たちは互いの充実を感じた。

 会場から溢れる拍手を背にしてアリーナを出たところで、父と母、そして兄弟たちに会った。母は目を赤くしていた。家族の嬉しそうな顔を見て、何よりも嬉しかった。』〜第8回6月号〜

(筆者注:以上は1974年12月1日、日本武道館で開催されることになった少林寺拳法初の国際大会である世界連合結成記念大会のものです)。



2002年06月20日(木) ◆頑張れ!武道人!

 NHK/地球に乾杯「精霊の森のレスラーたち」 を観て、武道の在り方を考えました。

■ アフリカ/コートジボワールの少数民族に伝わるこのレスリング試合。レスラー達は、ただただ個人と村の名誉の為にのみ闘うといいます。リングは乾いたアフリカの大地。素朴な力比べといったら、失礼ですか…。

この番組を観て印象深かったことを述べます。試合を開始する前、レフリーが競技者に、「殴るなよ!」と注意する場面です。この言葉に、何故か非常に平和的なものを感じました。なるほど、人間が暴力を「暴力!」と認識するのは、打撃/殴る、蹴ることなのだと再認識しました…。

古代のレスリング/パンクラチオンですか…は、打撃、投げ、締め、逆技有りという、殺伐とした殺し合いに近いものであったようです。さすがに、人間の善性が発動されたのでしょう。流血を避けるルールが考案、確立され、おおよそ現在のルールとなったのです。すなわち、投げたら勝ち、背中を着けたら勝ちなどというものです。

世界各地に相撲、レスリングに類する種目は多々有りますが、このルールは打撃技無しと共に共通の様です。ですから日本のプロ相撲(アマチュア相撲はこの限りではない)は、張り手、ケタ繰り、頭突き、カチ上げ有りと、かなり特殊な過激な様式と言えましょう。これを除けば、組技、投げ技系は非常に暴力性を排除した格闘様式と言えます。

この少数民族のレスリングルールによって対抗試合をしても、選手同士の怪我や流血はまず考えられません。かといって熱気が無いわけではありません。掲示板にも書きましたが、「憎しみなき熱狂!」というものがあります。

■ この平和的な格闘技はシステムも変わっていて、敗れた選手に再戦のチャンスがありません。このルールも非常に興味深かったです。つまり、勝者を三人?とすることが可能だからです。

どういうことかと言うと、仮にAがBに負ける。再戦をしてAが勝てば、際限がない戦いが続くことになります。しかし、新たにBを倒したCに勝てば、ジャンケンの「グー」「チョキ」「パー」となって敗者無し、三人の名誉が守れることになるのです。

面白いシステムですね。極めて平和的な志向の民族と考えられます。

■ 現在の地球の状況を眺めるまでもなく、世界の到る所で戦争や紛争が絶えません。個人間に置き換えても闘争/ケンカは絶えず、また、先祖返り?でもあるまいし、古代レスリングを再現したような流血の格闘技が存在し、それを多くの若者が観戦して楽しみます。

本来の闘争本能は個の存在維持の為に付与されたもので、その為に防衛本能、攻撃本能が備わっていると考えます。本能である以上、否定はできません。しかし、人間/武道人の理性はそれにどう関わるのでしょう。

現在の地球の状態はちょっと病的/暴力的な感じがします。ペタス選手の骨折事故の為に購入した『格闘技通信』に、気が重くなる編集後記が書いてありました。

■「オランダの格闘技雑誌をみていたら“読者が選ぶベストファイター”みたいな企画があった。…ホーストやシュルト、アーツらもベスト10には入っていたが、それより、あの“喧嘩屋”が上なのだ。つまりオランダのファンは、技術より、いかに激しい試合をみせるかに、価値を置いてるってこと…技術を語るのは大切だが、そういう価値観も持ち続けたい。(S)」

私が掲示板に書いた通り、「英国のフーリガンも悪名高いですが、オランダのフーリガンは相当危険らしい…! オランダは格闘王国と言われるくらい格闘技が盛んだそうですが、フーリガンの暴力性となにか関連があるのでしょうか…?」(投稿日: 6月11日(火)12時23分30秒)

なにか符号していますね…。また、オピニオンリーダーたるマスコミの編集者の姿勢がこうでは、推して知るべしです…。この先、ワールドカップがどこかの国で開催された時、武道本家の「日本人のフーリガンは危ない!」なんてことにならないよう、切に祈っています。

頑張れ! 武道人!



2002年06月17日(月) ◆(続)極真・ペタス選手の骨折事故

 引き続き、ペタス選手の骨折事故について述べたいと思います。

■ ヤフーの掲示板/格闘技に入り、タイトル・KIの中に「ニコラス!!脛!!」のトピが立ててあります。そこで今回の事故のスロー再生が見られます。どうも…凄まじいですね。

http://members.tripod.co.jp/fukifiki/archive/k-1-2_stereo_1200kbps_20020602.avi

気になりまして、さらに雑誌、「格闘技通信7・8」を購入し、私なりに検証してみます。尚、このトピには、もう1件の脛骨骨折事故の映像もあります。

2件共、右のローキック攻撃に対して、左膝を合わせた瞬間に折れています。しかし、構えと受けた部位は異なります。別件のものは左対構えの左膝受け。今回のはちょっと特殊のようで、攻者は左、守者は右の開き構えから、まるで膝蹴りをするかのような、受けというよりは攻撃でした。

2R1分ですから…かなり、狙っていたフシがあります。その点、対構えでの事故は、結果…タイミング良く折れたという感じです。

■ プロ野球を観戦していると外人選手が三振し、悔しがって、バットを膝でいとも簡単に「ボキッ!」と折る場面を目にします。全くあれと同じです。今回は…。つまり、グリップに近い細い部分を大腿骨頭の一番骨量がある部位にあてがって、瞬発力を加えたのとです。その際、バットを持つ手は広くして梃子を働かせます。

自分の膝ではイヤ?なので、バット二本で実験したら分かると思います。片方のバットの中ほどを手に持ち、もう片方の太い部分を逆にして持ち、グリップ部近くと太い部位をぶつけ合ったとしたら…分かるでしょう!?

写真で見ると、ペタス選手の右下段回し蹴りに対して、相手選手はちょっと左足を引いて力を貯め、さらに速く、膝頭を低く下腿骨頭部に当たらないようにしてぶつけています。単に膝を上げるだけだと腓骨頭や膝関節部をやられるのでしょう。

■ 相手/セルゲイ・グール選手のコメントです。

Q:避けようとしたのではなく、自分から膝を出したのですか?

A:はい。ビデオにも映っていると思いますけど、イグナショフ選手のトレーナーであるアンドレイ・グリジン(チヌックジム)に教わりました。(原文ママ)

私が疑問でならないのは、極真会館はあれほど試合経験を蓄積しているのに、なぜペタス選手がこうも簡単に、危険な合わせ技を決められてしまったのかという点です。過去に事例が無ければ別ですが…そうでもないようですし…盲点だったのでしょうか…?

最近でも、前回のK1でホースト選手、アーツ選手共に中足骨を骨折しています。ようするに誰でも、骨量の多い部位/特に肘、膝に骨量が少ない部位を当てれば折れるということですね。

■ 他山の石としましょう。少林寺拳法では(剛法の)受けの失敗で腕を骨折した事例/有段者を2件知っています。

以前、武専の指導に行っていた時、ある拳士が右手にギブスをしていました。「どうしたのですか?」と尋ねたら、法形“払い受け段突き”の際、受けがまずくて折りましたという件。

もう1件は法形“下段返し飛びニ連蹴り”を受けた際、上段の蹴りで右受け手を折った件。どちらも尺骨の手首寄りだと思います。蹴りに対しての受けは、特に尺骨、及び手指を骨折しやすいので充分に注意が必要です。

受けられて折る場合、打撃系徒手格闘技/少林寺拳法では足指、甲の骨が多いでしょう。かくいう私も、左足の二指を骨折したことがあります。その頃は若かった?ので、割り箸にセロテープをはって固定していたら治ってしまいました…。

昔、拳士同士でボクシングをしていてボディフックを肘受けされ、「グチュ!」と音がして、親指を複雑骨折した件も聞いています。

最近、恐いと思うのは“蹴り天一”で、逆突き、逆回し蹴りを受ける際、あまりに危険な受けをしている場合があるのでヒヤヒヤしています。上腕骨を骨折しなければ良いがと心配です。あの法形は二段科目から外すべきと考えます…。



2002年06月13日(木) ◆極真・ペタス選手の骨折事故

この事故が起きたK1の試合は、道院長研修会へ出張の為、見逃してしまいした。ところが、「ヤフー」の格闘技トピに画像があったので見ることが出来ました。いやー、悲惨な事故でしたね…。

■ アンディ・フグ選手が極真空手の世界大会で、外国人選手として初めて決勝に駒を進め、2位に輝いた大会はもうずいぶん前の事です。「強くて、上手い選手だなー!」と感心して見ていました。準決勝でしたか、相手日本人選手の執拗な下段蹴りを、彼は、狙われた足を上げながら柳に風の如く、見事に受け流しました。

しかし、今回ペタス選手の相手の受けは、足を鋭角的にきっちりと曲げ、蹴りを迎え撃つかのような動きを見せました。アンディ選手の受けを“柔”と表現するなら、今回はまさしく“剛”の受けで、受け潰したのでした。ペタス選手、一日も早く回復すると良いですね…。

今後はこのビデオテープを参考に各選手、各流派、研究すると思います。かなり危険になりますね、ローキックは…。もっとも過去にも、この様な事故例はあったのだそうです。

■ 何回か前のコーネル合宿に行った際、Wさん/アメリカ人という拳士がいました。非常にがっしりとした体躯の持ち主で、しかし気持ちは優しい人でした。

「Wは、我々が一人でやっと持ち上げる荷物を、2個両手にヒョイと持って、トントントンと二階に駆け上がってしまうんです!」…。

日本人拳士達が笑い(呆れ?)ながら、さらに驚くべきことを話しました。Wさんと内受け突きの練習をしていたら、受けられた人が腕を折ってしまったのだそうです。イヤハヤ…世の中には恐ろしい人がいます…。

■ そう言えば…中野先生の金的膝受け波返しも、膝頭で相手の足を打つ如くに受けられます。非常に厳しい受けです。まあ、相手を骨折させてしまうのはなんですが…殴り、蹴り掛かるなどという凶暴なことを仕掛けられた場合、その瞬間、「痛ッテー!」とばかりに戦意を挫いてしまうのは、結果、相手を傷つけないことになります…。

天地拳第1の鈎突きを払い受けして蹴りにしても、本来の払い受けは、肘を張り出さないで真横に拳を狙います。そうすると相手は親指を挫かれます。もっとも練習では絶対不可で、相手をいたわりながら肘を張り出して、不自然?に手首あたりを受けます。

少林寺拳法の受けは剛的なものと柔的なものがありますが…剛柔一体、及び活人拳の奥は深そうですね!



2002年06月10日(月) ◇マイク・タイソン考

マイク・タイソンを語ることは、人生における“師の存在の大切さ”を知ることになると思います。

■ 本日の新聞でマイク・タイソンが世界タイトルマッチに失敗したことを知りました。タイソンは今年で35歳、まもなく36歳になるといいます。報知新聞の記事が印象深いですので紹介します。

『時代の移り変わり、厳しい現実をタイソンも迎える時が来た。…反則を封印、クリーンファイトで王者に立ち向かった。ゴングと同時に攻撃をしかけ初回は上々の立ち上がり。しかし、2回に早くもスタミナ切れの兆候が見え始めた。その後は王者のパンチを浴び続ける展開に完敗を認めた。「ルイスは本当に強かった。誰も私に(王座挑戦の)チャンスを与えようとしなかった。チャンスを与えてくれたルイスに本当に感謝したい」罵(ば)声を飛ばし、乱闘まで引き起こしたライバルとリング上で抱き合った。そして相手の実力を認め、主役の座を譲り渡した。…「あんたは素晴らしいボクサーだ。チャンスを与えてくれてありがとう」。試合後のタイソンは潔く敗戦を認め、1月の会見でルイスの足にかみついた非礼をわび、敬意を表した。勝利者インタビューを受けるルイスを穏やかな表情で見つめる姿は、衰えさえ感じさせた。』

■ アメリカでとてつもなく強いヘビー級のボクサーがいる!という情報は確か16〜7年前頃…写真誌「フォーカス」で目にしたのが始まりです。その後、映像でも見かける様になり、これは凄い!と驚いたものです。

「俺のボクシング人生で、あの若造が鼻っ柱に見舞ったパンチほど強烈なやつはない」というような事をある対戦者が言っていました。パンチをフォーメーション化しているとか、ウォーターサンドバッグを打っているとか、数々の話が漏れ伝わって来ました。

タイソンは彼の恩師であるカス・ダマトに見出されてボクシングの才能を開花させました。

ダマト氏の実力は今朝の読売新聞によれば、「2人(タイソンとルイス)の初めての出会いは1983年。アマチュアの少年ボクサーは3日間スパーリングを繰り返した。別れ際に当時タイソンのトレーナーだった名伯楽、故カス・ダマト氏は『いつの日か2人はタイトルをかけて戦うだろう』と言い残した。」という逸話があるくらい凄いそうです。

タイソンは彼を深く敬愛していたのでしょう。当時の彼のグローブの親指の辺りは破れていたと言いますが、「お前は(180cmでも)小さいので、ディフェンスをしっかり覚えなければやって行けないよ」というアドバイスをしっかり守り、グローブをチンから放さないように噛んでいた為だといわれています。

■ タイソンの人生が狂って行くのは彼/ダマト氏を失って以後で、元々のタイソンはハト好きな少年であったという一面の持ち主でもありました。

90年、日本武道館でのジェームス・ダグラス戦に10R・KO負けをきしてタイトル失い、転落の軌跡が始まります。それでもまだ、復帰戦では開始ゴングと共に十字架を切るタイソンの姿があったのです…。

一試合のファイトマネーが、今回でも20億円を越えるお金が手に入る世界。ボクシングしか知らない二十才そこそこの若者に、金の亡者共が群がりました。彼の転落を全く彼自身のせいにするのは、ちょっと酷なような気もします。

ダマト氏が逝った時、タイソンはどんなに悲しみ、絶望したことでしょう。もし、伝記映画が出来るとすれば…あの復帰戦で十字架を切るシーンに、「オヤジさん!俺に力をくれ!」と言わせます。私が監督なら…! 

もう一度観たいですね、タイソンの試合は…。


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あつみ [MAIL]