道院長の書きたい放題

2002年05月16日(木) ◆K1・中量級世界大会観戦

 4月27日に行われた同世界大会/TBS放映は面白かったです。なんですか「ムエタイのヒクソン(?)」と言われるくらいに強い、ガオラン・カウイチット選手(23)・タイ=が出るとのことで期待して見ました。

■ この大会で驚いたことがありました。それは試合前、ヒクソン選手が参加選手8人の戦いぶりのビデオで見て、誰が勝ち名乗りを上げるかを予想したのです。大方の声は、ガオラン選手が優勝するという中、Aブロックは優勝したアルバート・クラウス選手(21)・オランダと、Bブロックからはガオラン選手を差し置いて“手から稲妻を出す男”と恐れられる張選手の名前を上げたのです。その理由として、「この試合は3R制という短期決戦なので、パンチ力が強い選手が有利と思う。特に、(中国散打チャンピオン)張選手は大変危険な選手だ」(要旨)と言い、予言したのでした。

まあ、張選手は一回戦、ガオラン選手に判定で敗れてしまいしたが、そのガオラン選手をクラウス選手は予想通りIR、パンチの連打であっけなくKO。これには驚きました…。解説していた元WBAライト級世界チャンピオンの畑山隆則氏も、「ガオラン選手はアゴがあまり強そうでないので、クラウス選手、行けそうな感じがするんですけれども…」とコメントした直後のあっという間のKO劇でした。

強者は強者を知る…。たいした洞察力と観察力です。敵の得意技とか弱点を見抜けるんですね。だから「百戦(四百戦?)して危うからず!」なのでしょうね…。

■ 後、気が付いたことを述べます。小比類巻選手は一回戦、アンディ・フグの直弟子と言われる選手と対戦し、IR、ボディーへのカウンター左膝蹴りでKOしましたが…崩れ落ちる選手にとどめを刺す如くに突進し、手を着いている選手に蹴りを放ちました。真にフェアーではない不快な行為でした。彼は過去のビデオでも同じシーンがあります。本人曰く「格闘技はスポーツではない!」とのことですが、それとルールの順守ということは別次元の話でしょう。さらに驚いたのは石井和義氏/KIプロモーター・正道会館館長のコメントで、

「とどめを刺す。この気持ちがイイんですよ。本当はダメなんですけれど、やはり相手を殺すつもりで、というのは言葉悪いですけど、本当に行ってますから…」(放送ママ)と肯定する発言があったことです。

少林寺拳法とは明らかに感性が違いますね…。倒された選手にしたって石井氏にしてみれば、同じKI傘下の選手でしょう。駄目押しの、しかも反則の攻撃が無抵抗の選手に入って怪我をしても、心配ではないんですかね。それと、他の選手が真似をしたらどうするのでしょう…。

■ 印象的な場面。2回戦準決勝、クラウス選手VS魔裟斗選手のダウンシーン。肘が浮いた横拳の魔裟斗選手の左ストレートと、肘をしっかり締めたクラウス選手の縦拳の左ストレートとの相打ちでした。肘が浮いた分、相手の入り身を許し、クラウス選手の体がスルリと拳と共に向かいます。魔裟斗選手の拳は虚しく空を切り、対して体重の乗った拳が魔裟斗選手のアゴに炸裂したのでした。

クラウス選手は決勝戦の対戦でも曲と直の突きを巧みに使い分け、ガオラン選手を粉砕しました。後日の談話でガオラン選手、今度はムエタイルールでの再戦を希望していました。

ルールが違えば、その時は勝つでしょうね…。



2002年05月10日(金) ◆示唆に富んだ番組の紹介!

連休中の4月28日、NHKテレビ、『Ride the Waves of Gods/神の波に乗れ 〜ハワイ・伝説の大波に挑む〜』を見ました。とても感動しました。今、この「書きたい放題」で「演武論」を始めましたが、示唆に富んでいると思われたので(掲示板にも書きましたが、記録の意味もあり)、こちらにも紹介しておきます。

■ 20mを超える高さの波というのは想像を絶します。城ヶ島に釣りに行くと、早朝、荒れた海に出くわす事があります。もちろん海が収まるまで釣りなんか出来ませんので、恐々先端に見に行きます。すると、ドドーンという物凄い音と共に砕けた波のシブキが顔に飛んで来ます。まだ薄暗い磯に私一人、なんだかとても恐ろしい。ですが…大自然の脅威の一端を垣間見るようで、感動の気持ちも、湧き上がってきます。

その波など到底及ばない地球最大の(神の)波。7階建てのビルを一気に呑込むといわれ、襲われた者は命を失うことから「ジョーズ!」の異名を持っています。番組は大波に魅せられたビッグ・ウエイバー/大波乗りの男達を紹介して行きます。

■ 並のプロでは乗る事が出来ない大波ジョーズは、世界大会の優勝経験者達が挑みます。しかし彼等トップ・プロにとってもたやすいことではありません。

私が感動した場面を抜書きします。そのジョーズがやって来るハワイ・マウイ島の一月に、ブラジルの企業が大会のスポンサーとなって破格の一千万円の賞金を、一番大きな波に乗った者に与える大会の場面です。

午前6時、波の高さは20mを越え、大会が始まる昼頃には25m!?にも達します。画面からでも鳥肌が立つような大波です。次々に挑む男達。それを丘の上から見守る一団がいます。サーフィンを始めて3年でプロ世界大会を制し、初めてジョーズに乗った男、カリフォルニア出身のデーブ・カラマ・36歳とそのグループです。

【ナレーション】
「…誰が一番大きな波に乗るかで賞金獲得を競う大会には、(デーブ達は)参加したくないという」

【デーブ】
「…みんな、誰が勝ったのかを決めたがるんだろうね…。勝者に賞金を与えたがる人がいれば、誰が負けたかを決める、なんらかのルールを考える事になる。どの波が一番大きかったかを決めるのは意味がないよ…。僕は、ただジョーズに乗りたいだけで、波の大きさを競おうなんて思わない。どんな波でもイイ、その時、来た波に乗るよ!」

【ナレーション】
「…デーブにとって、ジョーズは他人と競争する場所ではない。胸を借りるのは圧倒的な力で立ちはだかる大自然だ!」(カッコ内は要約無し)

■ 一千万円という賞金に魂を動かされない姿勢もカッコイイ! 極めて驚いた彼/デーブの発言でした。同じ様な感性の存在が嬉しかったです…。普通はあの大会をドキュメント風に取材するのでしょうが…さすがNHK!? 目の付け所が違いました。

もし、座禅の大会なんかあったら…やはりナンセンスですよね。座禅の姿が美しいとか、どれだけ長い間、座禅したとかを競うとしたら…問題点が良く判ります。

まあ、少林寺拳法には体育・運動の面がありますから…。しかし競技、特に採点種目は、オリンピックでさえ不正が発生します。少林寺拳法でそれがあるとは言いませんが、演武の採点は本音を言えば、極めて難しいです。

番組の紹介ですから、ここまでにします。



2002年05月06日(月) ◆演武論

 私の演武論を展開したいと思います。

■ 演武の「演」という字が長いこと気になっていました。近年、ある大女優(誰でしたか…思い出せません。岩下志麻さんだったかな…?)が“役”を演じる過程で起きる“憑依”という現象を述べている記事を見て、“演じる”という言葉の深い意味が理解出来ました。得悟したのです。

興味深い話で、例えば、お姫様役の舞台が長く続くと、そのお姫様の人格が自分に乗り移ってしまい、家に帰ってからも威張ったり、わがままな態度になってしまうので困るということでした。ですから舞台が終わって、しばらくは心のリハビリ?をするのだそうです。そう言えば、恋愛をテーマとした映画や舞台で、主役を演じるカップルが結婚したりします。これも、役柄の恋愛感情が実生活の本人達に乗り移る憑依現象のひとつなのでしょう。

このように、演技することが自身の心=意識、無意識に大きな影響を与えることは間違いないようで、したがって、演技、演劇を医療、例えばカウンセリングなどの精神領域に活用しようとする発想は容易に辿りつけたのでしょう。世阿弥になると演劇、芸道論ですか…。

■ 今、手元に1972年に行われた日本武道祭のパンフレットがありますが、各武道団体の全てが、相対形、単独形の「演武」を公開しています。演武は少林寺拳法に限ったものではない事が分かります。ただし、少林寺に関しては単独形は一切行われませんでした。また、試合形を行ったのは…確か剣道だけだったと記憶しています。

演武は総じて神事、儀式、祭典に関わりがあります。我が国の国技である相撲も豊穣の神事に関わりがあり、横綱の土俵入りはその名残と言われています。雲龍型、不知火型と、(単独形)演武と言えましょう。少林寺拳法では正しく入門式、鏡開き式などの儀式、大会などの祭典に“奉納演武”が行われます。

以前、千代の富士が地方巡業で土俵入りすることに関する記事を読みました。「…しめ縄を付けると彼/横綱は神になる。途端に顔付きが厳しくなり、それ以前、観客は気安く触れたが、今度は、酔客が触ろうものなら『触るな!』と怒声が飛んで来る…」(要旨)と言う記事でした。で、土俵入りするのですが、その時、横綱は誰を意識しているのでしょう。正面を見据える目は誰を見ているのでしょう。観客?違うでしょうね…。

■ 演武は様式上、人が集まる場所で行われます。ここのところが演武を判り難くします。演武者は武を演技をしている訳ではないのです。いや…表現が難しい! 

役者が「迫真の演技!」と批評/賞賛されることがあります。上述した通り、役になりきるなどという生易しいものではなく、役が憑依するのでしょう。役者の技量が大前提なのは言うまでもありません。

最近、中国の京劇に関するテレビ番組を見ました。「女形」の名優/男優?の紹介と、後継者の育成に苦労している内容でした。その中で、「女性は女性であるが故に女性らしい演技/研究を怠っている」(要旨)という発言を興味深く聞きました。確かに、女形一族には男が女を演じる様々な技が受け継がれていました。

つまり私が述べたいことは、演技とは技を演じる/行うことで、真剣な技を行うからこそ、その過程で男に女が乗り移り、時空を超えて虞美人が目の前の観客に現れるということなのです。もちろん役者個人の努力、例えば歴史書を読んで当時の時代背景を理解するなどの見えない努力も必要です。

役者と武道修行者では技の意味が異なりますが、迫真の技を演じることでなんらかの精神作用が起こる事に、大きな共通点を発見したのでした。(続く)

注:気になりましたので…、「試合形を行ったのは…確か剣道だけだったと記憶しています」をきちんと調べました。プログラムによれば、相撲、合気道、柔剣道、空手道、なぎなた、剣道が「試合」「試合形」(原文ママ)を行っていました。以上、訂正します。02.5.8.



2002年04月25日(木) ◆(続続)乱捕りに関する資料を読んで

書いて行くうちに問題点がはっきりして来ました。

■ 深層心理というものを自覚したことはありません。心理学では言動や行動からそれを推測します。最近の若い人達、カップルの相性テストや性格判断などが大好きのようです。

少年部に入門を希望する父母(多くはお母さん)と電話でお話しすると、時々こう言われます。「…少林寺って守りの武道ですよね?」とか「…お寺と関係があるんですか?」などなどです。解答は省略しますが、世間一般の少林寺拳法に対するイメージ/深層心理?は、武道であるけれども攻撃的な武道ではない、と認知されているようです。

■ しかしこれは近年の事で、少林寺拳法では開祖ご存命の時から、(特に学生拳法界では)二元教義?がまかり通っていたのでした。「…私はカッパブックスなどで“少林寺拳法には勝敗を争う試合というものが無い”と書いてあるのに、学生大会に来ると、乱捕りを見た後援者の方々から『なんだ!? 試合があるではないですか!』と言われて、恥ずかしい思いをする」(要約)と、ある時期から開祖は学生の大会に出席されなくなりました…。私が大学二年生以後は記憶にありません。一年生の頃はどうだったでしょう…。

教範の変遷を眺めますと、開祖の思想が大きく飛躍するのは昭和30年から昭和40年の間(カッパブックスはこの間に刊行)で、ついには40年度版で「不殺不害」から「不殺活人」という哲学の境地に到られました。そして、競技乱捕りが廃止となった翌年の48年度版に「組み演武について」が加筆され、ようやく少林寺拳法は教義の一元化を果たしたのでした。(ここら辺の事情は、また改めて述べます)。

■ さて、話を今に戻して、「武道を学んでいる以上、顔面への当身は避けて通れない」は、“徒手空拳の武道”ということでしょうが全く同感です。それで今回のセーフガードの開発ということになったのでしょう。しかし、

◆ 試合で防具を付けて打ち合えば、所詮は日本拳法?防具空手?の亜流でしかないでしょう。修練方法を提示したのでは不足なのですか…。資料中、試合の評価法を読んでも、攻者、守者に分けてはいますが、攻者の攻撃技を得点にしてしまうと、結局は双方攻撃なのですか? それなら、なおさら上述の通りです。

二元教義の道をまた歩むのですか…。

◆ 具体的な問題にしても前回述べましたように、叩くルールが当て止めという力加減のみでは、精神性が欠如した“新たな問題(実際に行使した場合、相手の傷害・死亡事故)”が浮上して来ます。反撃者/拳士は面を叩いてはいけないのです。不殺活人拳を具現した乱捕り修練法でなければなりません。

◆ 対衝撃性能は何キロでしょう。体重百キロの人の当て止めと、五十キロの人のでは当然、力が違います。したがって、対衝撃性能の具体的な数値を示す必要があります。同時に、その何キロの衝撃例を実際に示すべきです。それにしても…頚部の、いわゆる鞭打ち症を起こす過重は、人によって大きな違いがあります…。

◆ 「書きたい放題/2001.11.8」で述べている様に、「…少林寺拳法の剛法、特に対蹴りの技法は“受け技有り”のようなんですね。(中野)先生の(頭の)中では…。確かに、足を掛け手で取ったり、流して倒したりすると、金的を蹴ったり、倒した後、蹴ったり叩く形となり、悲惨な戦い方になる恐れがあります。受けられたら痛い、中段攻防の法形は痛くて正解だったのです。ウーン、良く考えられていますね! でも、修練する時は、気を付けましょうね。」カッコ内は今回加筆。

少林寺拳法の法形に沿った攻防の技を真剣にすると、足を傷付けやすいのです。中野流?の中段返し、半転身蹴り、払い受け蹴り、十字受け蹴りなど、蹴りに対する受けは極めて攻撃的な受けです。フェイス・ガードに匹敵する足・肘のプロテクターを開発して下さい。

◆ それとも、新たな法形/掛け手、流し受け攻防の法形を創作しますか?

◆ スポーツ・チャンバラという新しいスポーツが脚光を浴びています。たまたま本部が横浜にあり、発想に感心しています。少林寺でも徹底的に痛くない、安全なスタイルで、とことん殴り合う方法も一方です。しかしそれは、まさしくスポーツですね…。

■「行」について、少林寺拳法では「苦行」ではなく「養行」という言葉で表現されます。これは、誰にでも楽しく出来る修行方法という意味です。したがって昇段試験において、「乱捕り」に年齢制限があることが問題点を象徴しています。つまり、誰にでも出来ない科目/修行方法であることの証明となるからです。二元教義なのです。

一見、学生の問題であるようですが、乱捕りの問題に限らず、財団法人の拳士、宗教法人の拳士などという区別はありません。事実、私は道院長でありながら学生支部の監督であり、彼等を教育していかなければなりません。最近も、新入学した拳士が大学に支部を作るのだと言っています。

地域、人種、世代、性別、職種を超え、あらゆる拳士が共に修行している少林寺拳法。もっと広い視点からの論議を望みます。

開祖は教範中に、「新しい」という言葉を随所で使用されています。しかしこれは、武技としての新しさではありません。開祖没後、何をもって「新しい道」と表現されたのかを、拳士の叡智を集めて深く掘り下げようではありませんか。



2002年04月22日(月) ◆(続)乱捕りに関する資料を読んで

続きです。

■ きわめて驚いた記述(目を丸くした!)は、11ページ中にある“フェイスガードを使う前に”で述べられている以下の文章です。

「武道を学んでいる以上、顔面への当身は避けて通れない。そして、武道を志す以上、顔面に当身をしてみたいという気持ちがあるのもまた自然なこと。でも(当たり前の話だが)、顔面への当身は危険極まりない。ちょっとでも間違うとたいへんな事故につながりかねない。」(以下省略)。

いかがですか? 私はふたつの疑問が湧いて来ます。

■ ひとつは、「…武道を志す以上、顔面に当身をしてみたいという気持ちがあるのもまた自然なこと」と、私の心?まで勝手に決めつけていることです。

この文章を書いた方はずいぶんと攻撃的(良く言えば積極的?)な性格なのでしょう…。それとも部外者/業者の方ですか? 旧乱捕り経験者としても、当時、そのような気持ちは持っていませんでした。上段の当身…それは練習しました。しかし現在でもそうですが、人の顔を叩きたいとは一度も思ったことはありません。多分、多くの拳士は同じ思いでしょう。

深層心理の中で、剣道を習ったら人を切りたい気持ちになるのですか? 弓道を習ったら動物を射たい気持ちになるのですか? 射撃の訓練をしたら人を撃ちたい気持ちになるのですか? 違いますよねー。性善説、性悪説、白紙説に例えると、武道修行/修業者は性悪説に立ってしまうのでしょうか。恐い事を言います…。

■ 顔を叩いてみたいという気持ちをスポーツとして発散させるのがボクシングで、これは一つの選択肢です。一方、その気持ちを克服する為にさらに厳しい修業を積み重ねるのが寸止め派・伝統空手です。また、日本拳法では防具を着用して上段を含めて打ち合うことで積極的な性格を造るとしています。これも選択肢です。ユニークなのは、フルコンタクトと上段寸止めを組み合せる流派もあります。

対して少林寺拳法では、入門時(武道を志したその日)から上段の当身は極力避ける。あるいは三日月、目打ちに止めるように指導されます。私の道院ではそうしています。

武道を習う人の殆どの動機は、「自分の身を守れるようになりたい」からで、少林寺拳法でも「強くなりたい」という入門の動機の意味は、ケンカに強くなりたいと思う人はまれで、実は護身なのです。もしケンカに強くなりたいのなら、昨今の潮流では馬乗りになって人を叩く格闘術を習うでしょう。なにか…心の出発点が違うようです。

■ 二つ目。「でも(当たり前の話だが)、顔面への当身は危険極まりない。ちょっとでも間違うとたいへんな事故につながりかねない」と安全に配慮しています。これは結構なことです。しかし、この大変な事故とは相手の拳士のようであり、拳技/上段突きを行使される側の安全は考慮されていないようです。

練習相手への安全の考慮は、乱捕りに限らず当然です。そして、叩いた(相手への)結果も同様に考慮されなければなりません。これが欠落していませんか…?

上策の拳技と下策の拳技の違いを、開祖は良く学生拳士に説かれていました。「乱捕りの様に相手の顔を叩いて、鼻血は出るわ、服は破れるわで、もうワヤや! こんな殴り方をしたらいくら相手が悪かったとしても、君等の方が捕まってしまうことがあるのだよ」(要約)。

それくらいで済めば良いのですが…叩いた相手が死ぬ事があります。実はこれを心配しています…。相手が死ぬということは、現在の日本では自分が死ぬことと同じだからです。

■ 昔の友人(少林寺拳法三段)の話をしましょう。彼は小柄でしたが気が強い人で、上達と共に?ケンカを良くしていました。その性格を社会人になってからも引きずっていた様で、ある時、会社の慰安旅行で酔って別のグループといさかいになり、一人を殴ってしまったそうです。

ところが深夜、ドアを叩く音で目を覚ますと、そのグループの人達が立っていて「お宅に殴られた者が目を開けないから来てくれ!」と告げられたと言います。付いて行った部屋にはケンカ相手が横たわっていて…幸い事故にはならずに済みましたが、「俺は…あの時ほど肝が冷えたことは後にも先にもなかった…」としみじみと述懐し、その後、プッツリとケンカをやめてしまいした…。

武道を教育する場合、不慮の事故はこの問題も大変なのです。ですから、無意識のことを考えると、少林寺の乱捕りは上段は止めるで良いと思います。(続く)



2002年04月19日(金) ◆運用法(乱捕り)に関する資料を読んで!

久しぶりにアップしました。かなり重大な問題です。

■ 先月、本山合宿に行って来た学生が乱捕りの指導要領のコピーを持って来てくれました。全部で16ページ、かな? 表紙がありません…?

中身を拝見しました。言葉になりません…というより、私の考えと大きな隔たりを感じてしまいました。これを論じる前に素朴な疑問として、何故この文章が先に学生に渡ってしまうのでしょう。監督、指導者へ事前に配布されてしかるべきと考えます。そうしたら、ここの表現、あそこの疑問と、より良い意見が吸収されたでしょうに…。

■ さて、本文の始めのページに、演武についてこう記されています。「少林寺拳法のすべての要素を取り入れ、相手と共に上達を楽しむ『自他共楽』の精神を学ぶプロセス」と…。

そうでしょうか? 私は「(演武は)少林寺拳法の精神を具現したもの」と考えます。演武を、乱捕りの指導要領の冊子中でこんなに簡単に規定してもらいたくありません。なにより、演武の指導要領/研究をこそ、先に作成すべきでしょう。

ご承知の通り、『自己確立』『自他共楽』『理想郷建設』は少林寺拳法の掲げる三大スローガンです。この目標を、少林寺型の人格を通じて達成しようとするのが開祖の目指されたもの/金剛禅であり、つまり、個人格の理想像と組織の目指す理想は不可分の関係なのです。もし、それに乱捕りが大きく貢献するなら、開祖は教範中に4ページにもわたっての警鐘は書かれなかったでしょう…。

本文からは、法形・演武が主行という位置付けが感じられません。もっとも、現在では「基本→法形→乱捕り→演武」という位置付けですから…こうなるのでしょう。

■ 対ロシア外交における基本政策/四島返還論に、いつのまにか二島先行返還論が浮上し、それがロシア側から二島返還で決着になりかねない事態を引き起こしています。S代議士は論外として、国家を思うもうひとつの政策であったせよ、二元外交はしてはならないのです。それでも基本を変えるなら、全国民の意志を反映させることに、どなたも異論はないでしょう。

法形・演武を主行とする修行形態/人格完成の行はどの武道にも見られないもので、乱捕りに偏重しかねない「基本、法形、乱捕り、演武」という修練論は、我々拳士に大きく関わる重要な政策変更であると強調しておきます。(続く)



2002年03月26日(火) ◇七転八起の負け方

 昨今の政治スキャンダルから、負けることを考えてみました

■ 私は五冊プラス復刻版一冊の教範を持っています。その中に、「九転十起」という開祖の直筆を頂けた一冊があります。これは、私が増徳道院で修行していた頃、多分、皆勤賞を出すほどの拳法バカぶりに、二代目道院長となった広木一隆先生が呆れて、ついつい(?)「渥美君これ上げるよ!」と下さったものです。その教範に、当時、道院に通われていた元東大少林寺拳法部監督/OBの滝田清臣先生が「管長のサインを貰ってきて上げる!」という事になって、今、手元にあります。

さて、先生のこの「九転十起」という言葉はご法話でも話されています。「…九という数字は一番最後という意味であり、十はそれが元に戻ることを表している。私は七転八起どころではない、もっと多くの失敗をしたが、不屈の精神で戻る/克服して来たのだよ!」(要旨)。確か…このお言葉は、黒板に書きながらご法話されたと思います…。

■ 「死なない(生きてる)限り負けではない!」「負けたと思わない限り負けではない!」と、開祖は勝つことよりも負けない精神を強調されました。ですから、この「書きたい放題」の中で石田三成のことを、

『石田三成は、非常に生/生き延びるのことに執着しました。これも史書を読んで、古今の英雄たりといえども何度も死地に追いやられ、でも、危機一髪ギリギリのところ、生を諦めないで生き抜いて勝ちを得た故事を学んでいたからでしょう。三成は結果こそ得られませんでしたが、死ぬまで負けを認めなかった態度は、少林寺の拳士魂と通じるものがありますか…。』と書いたのです。2001.11.15

■ しかし、昨今の政治スキャンダルを見ていますと「(案外)負けっぷりも大事かな…」などと思ってしまいます。

日本歴史の英雄の中で、負けっぷりが良いのは誰でしょう? 私は信長を推します。「是非に及ばず!」と言い放ち(叫んだのか、静かに言い放ったのか興味があります)、奮戦後、自害しますが、骨一片も残さずに歴史の舞台から消え去ったのは見事です。光秀の緻密さを良く知っていた信長は、敵を知った瞬間、「これは…逃れる術がない!」と死を悟ったのでしょう。

将棋で面白い話があります。「これまで!」と投了し、ではと検討の段になったら自分の方に勝ちがあり、それはそれは悔しがったという実話です。

■ どうも…負けについての諸説を紹介し過ぎて(?)混乱している帰来があります。勝敗はあざなえる縄の如しと表現できますか…。時間という尺度で勝敗を論じたら、訳が判らなくなります。武家社会では、平氏と源氏の政権が入れ替わるのだという説が信じられていたと言いますから…。

掲示板にも書きましたが、起き上がり小法師としてのダルマは、倒れる形が良いから起き上がれるのです。「殺される!」などという例は例外として、人生一般的な負けでは、次に通じる負け方を心得ておいた方が良いようです。

これなら開祖の教えと相反しませんね!



2002年03月25日(月) ◆審判講習会場での質問!

 昨日は神奈川県内の審判講習会がありまして、演武審査の件で以下の質問をしました。

■ 「四段の部、演武の構成2番目は、片手を握りに来る相手の手を払い様に突き蹴りの連攻を行い、再度の握りに守法を成し、切り抜き以下の演武を行っています。しかし、私達は握りに来る相手の手を払い様に攻撃するのは、宗門の行としての拳技として相応しくないと指導されました…。したがって、もし審判員がこの演武を採点する場合、これを是とするか非とするかで採点が異なってしまうことになります。ですから、この件について、統一した見解が必要なのではないでしょうか」(要旨)。

という趣旨の質問です。演武における「表現」という項目は、本来、「少林寺拳法の精神に則った技法を演武しているや否や」を採点するものと考えます。私は『演武の手引き』において表現と言う言葉を多用していますが、本意はそこにあります。

■ 何年かに渡って神奈川の審判講習会で質問をして来ました。

◇ 乱捕りのビデオ講習を見て、「相手を床に投げつけていますが、これは極めて危険な技であり、一般的な乱捕り修練、昇段試験で行うべきでないでしょう! 今後の役員講習会などで討議して頂きたいです」(要旨)

◇ 少年演武のビデオ講習を見て、「帯びがやたらに長いのはあまりに見苦しいので、出場する道院長なりが気をつけるべきです! 今後の役員講習会などで討議して頂きたいです」(要旨)

◇ (おととし同じく)四段演武のビデオ講習を見て、

「半月首投げで投げた後、固めを用いず顔面部に下段直突きをしています。これは、頭部が床に挟まれているので相手を殺傷しかねない危険な当身です。別の演武でも、刈り足からの足刀で後頭部を蹴っていますが、同じく危険な技です。これらは減点の対象にならないのでしょうか?

また、特に少年拳士の教育という立場から、相手が参ったという意志表示をしているのに、なお止めを刺すような当身の処理は(法形といえども)検討の余地があると思われます。是非、今後の役員講習会などで討議して頂きたいです」(要旨)…などなどです。 

■ あの時/おととしの講習会では、「質問の意味が良く判りません!」と講師に却下? されてしまいました。しかし昨年、千葉で拳士の殺人事件が起こってみますと、私の質問/心配事はあながち見当外れではなかったようで、総裁・宗由貴さんに直ちにメールをしました。すなわち、「事件を起こした拳士がどのような拳技を修行してきたのか、どのような拳技の影響を受けて育って来たのかを調査する必要があります。さらに、少林寺拳法の拳技をもう一度見直す必要があるのではないでしょうか。私も審判講習会で度々発言して来ましたが、本山にこのような一道院長の意見が届いていますでしょうか?」(要旨)という旨をお伝えしました。

思想と技法の整合性が大切なのです。私は、現在の大会様式は賛成ではありません。それでも演武を正しい形/活人拳として行わせるならば、まだ救いようがあります。しかし、少林寺拳法の在り方を逸脱した殺人拳?が演武されるのであれば、もはや、大会は私達の環境を破壊していると言わざるを得ません。

今回の質問は講師の先生が本部に報告するということですので、是非、討議・研究して頂きたいものです。

追伸:講習最後の質問で、「…武専に来られる講師の先生で、道着が見苦しい/やたら長い先生がいます。名前は言いませんが…本山で注意して頂きたい!」という質問/要望がありました。



2002年03月16日(土) ◆(続)拳の握り方!

 前回の続きですが補足します。

■ 空手の拳の握り方には「1」と「2」があり、少林寺の拳は根元から曲げる意味で、「2」と同種の握り方と述べました。あるいは別の握り方があるかもしれませんが、今は触れません…。

私にとって、改訂版で「2」を掲載しなかったことが非常に興味深いので、著書から全文を紹介して論をつなげます。

「小指・薬指・中指の三指を折り曲げ、示指で中指を斜めに押さえ、その上を拇指でしっかりしめつけて握りこむ。この握り方は30年前普通に使われた方法であったが、示指と中指はよくしまるが小指がゆるみがちになるのと、少し握りにくいという理由で、いつの間にかこの方法をとる者が少なくなってしまった。しかし、慣れれば別に握りにくいということはない。握り方としては1.2のどちらでもよい」―『新空手道教程(普及版)/中山正敏著』

■ 30年前とは、これは戦前を指すのでしょう。空手というと一般に、試合場での組み手、あるいは瓦の試割りをイメージしますが、思うに本来の空手には、逆技や細かい手技がはるかに在ったのではと想像されます。体系としては少林寺拳法に近かった(剛柔一体という意味で)と考えます。その証拠が「2」なのであり、それが消えていったということは、空手の技が、良く言えば剛法が先鋭化した。悪く言えば、柔法の退化であったと述べたかったのです。

この原因は、空手の競技化にあると考えます。試合に重点を置けば、勝つ事を目標にして試合用の技を研究、練習するようになります。例えば、掴みが反則になれば…拳の用法だって変わってしまうでしょう。

同じことは柔道でも起こりました。試合が盛んに行われるようになると、立ち技が全盛となり、寝技は汚いということでおざなりになった時期があったと、何かの本に書いてありました。

■ 昔/29年前以前、少林寺拳法でも胴とグローブを付けて顔面直接打撃制の試合を行っていた当時。例えば両グローブを相手の顔の前に出して視野を塞ぎ、蹴りを決める。胴を高い位置に付け、両手をそれに合わせて守る構えを取る。甚だしきは、引き分け要員?の存在で、団体戦でポイントをリードした時はこれが得意な選手を出す。つまり、打たれ強い者が攻撃を徹底的にガードして、引き分けに持ち込んで勝つ。などなどの戦法・作戦が考案?されました。構えにしても、演武用と、乱捕り用の胴を守る二種類がありました…。

私も大学拳法部3年生時、全日本学生大会の(最後となった)団体乱捕り戦に大将で出場した経験があります。試合では負けませんでしたが…結果はベスト8まででした。しかし、試合用の技は、確かに研究していました。当時の様子は、また改めて述べたいと思います。

■ 学生時代の拳の握り方がどうであったかは不明ですが、多分、グローブ着用に合わせていたのでしょう。むしろ、述べたいことは、拳の握り方に象徴される様に、競技試合がその武道の技の形態や修練の形態、さらには在り方さえ変えてしまう事実/危険性を述べたいのです。

今回、本部が開発した防具で試合を行うと、この問題が懸念されます。面が平面状であれば、会報3月号、40ページの右隅の写真にあるように、将来、少林寺の拳は横拳?となり、骨折、損傷を厭わない拳に変質してしまうでしょう。もし縦拳で(三日月ではなく)面部を突こうとすれば、不自然に尺骨側に曲げなければなりません…。

■ 蹴りでは、硬い胴と柔らかい人体とでは相当の違いがあります。硬い物を蹴れば足首を最初から立てて蹴り始めます。蹴る寸前まで力を抜き、素早い股上げと引き足という身体操作が出来なくなります。例えば小手投げ時、蹴り足と投げにつなげる足捌きは、胴を着けてしまうと、感覚が異なってしまいましょう。まあ、当時のグラスファイバー胴と比較して現在の材質は柔らかいですが、それでも人間であれだけ硬い筋肉の人はそういません…。

中国拳法では、人体を水の塊とイメージすると何かの本に書いてありました。いみじくも、マイク・タイソンはウォーター・サンドバッグを突いていると、これまた何かの本で読んだことがあります。

金的にしても、あれだけ前に?出ていると、安易にそこを蹴ることになります。金的蹴りは生殖傷害を起こす非常に危険な技であり、兵器に喩えれば、核兵器に相当しましょう…。拳士は無闇に蹴るものではありません。

以上、拳の握り方という本題から少しズレた感がありますが、私の述べたかったことが伝わりましたでしょうか…?



2002年03月13日(水) ◆拳の握り方!

拳の握り方を考えてみました…。

■ 空手の経験者は、(全てとは言いませんが)独特な拳の握り方をするのに気が付きました。新入門に「正拳を作ってみなさい」というと、中には第2〜5指の第1関節からギュッと、甲をやや反らし気味に曲げて拳を作る人がいます。まず空手の経験者とみなします。つまり、熊手状の形を一端作り、次に根元から曲げるのです。これは、堅い物をイメージして突いていたからではないでしょうか? あるいは、左右の手の役割が分化していて、片方は拳、片方は手刀となっていて、一端、拳を握ると容易に解かなかったのではと推察されます。

対して少林寺拳法は、一気に根元から曲げ握ります。違いのニュアンスが伝わりますか? 剛柔一体に使用する場合、時に拳、時に手刀、時に掛け手と、瞬時に手の形状を変化させます。目打ち、中段の段突き。(襟十字などの)目打ち、掛け手などなど。まるでアーミー・ナイフの様で、正拳はあくまでその一部だからです。

■ ところで、手の第1指と第5指は対立筋になっており、片方を伸ばせば、片方は曲がる。あるいは五指を張る際、1指と5指を張るほど良いという関係にあります。したがって、少林寺と空手の手刀の形状は、実はどちらも自然な身体操作で、強く張ったり伸ばしたりすれば、より作り易いのです。

初心者を見ていると、蹴る時など、拳を作っているようで親指が立っているケースがありますよね…。コヒーカップを、小指を立てて飲んでいる人を見かけますよね…。若い女の子などは「イヤラシイ!」と言いますが、これ、対立筋だからです。私などは、意識して小指を立てないように飲みます…。ですから、手刀より正拳を作る方が、より学習的な動作といえましょう。

『わが柔道/木村政彦著』中に、相手の道着を握る力を強くしたい為に空手の巻藁を突くクダリがありますが、非常に面白いです。対立筋のこと。拳の握りは後天的な学習動作であることが判ります。

■ ジャンケンをする時の握りだと思うのです。少林寺拳法拳の拳の握り方は…。根拠があります。「カッパブック/秘伝少林寺拳法」の中に各種、拳の図が載っています。ちなみに初版の教範以外に「拳の図」はありません。そこには、人差し指の第2関節を伸ばし親指を重ねている拳がありますが、この拳は、一端、熊手状の握りをする方法では絶対に作れません。ただし、ゆっくりやれば出来ます…。これが出てくるので、少林寺拳法の拳の握り方が了解されます。

話はここから面白くなってきます。『新空手道教程(普及版)/中山正敏著』の中にも、人差し指を伸ばす拳が「拳の握り方2」として述べられています。実は今、判りましたが、冒頭の握り方は「拳の握り方1」なのでした。

ところが、最近の同書/改訂版にはどうした訳か「2」がありません…。私の持っている本もかなり古いのですが、発行年月日がどこにも書いてありません。何年前からそうなったのかは、詳しく調べませんでした。いずれにせよ、身体操作的に正反対の握り方でしたから、統一したのでしょうか…? 「1」は握る強さはあっても、素早さにおいては「2」が勝ると思います。

「空手は豪壮。少林寺拳法は飛燕の如く」と開祖は喩えられましたが、正拳の握り方にもそんな違いがありますね。

拳の握り方は重要なので、また述べたいと思います。


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あつみ [MAIL]