せきねしんいちの観劇&稽古日記
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昼間、新宿で篠原さんと打ち合わせ。富士見丘小学校の授業について。今度の水曜のことと、卒業公演についての二本立て。 芝居関係の打ち合わせはここしかないね!というかんじのトップスから、食事しましょうということになり、三越の2Fのワイアードカフェ。 夜12時までやってる便利なスペース。夜になるとかなり暗くて、にぎやかになるので(音楽が)打ち合わせには向かないのだけれど、それでも僕は便利にちょくちょく利用している。 食事しながらも、結局は打ち合わせ続行。 今度の授業では、子ども達に書いてもらった「お話」をベースに、ぼくたちが台本化、それをもとに当日、続きを即興で演じてもらおうというもの。 まず、どれを選ぶか。 送ってもらったお話たちは、どれもとってもおもしろい。 短編小説として完璧なものがいくつもあって、このあいだ中学生が文学賞をとったなあと思ったり、舞台ならではのおもしろさをわかって書いたとしか思えないようなものもあって、まんまと泣かされてしまったり。 今日は、2つを選んで、分担を決める。 さあ、どんなふうにアレンジしようか、水曜には、僕が書いた台詞を彼らにしゃべってもらう。楽しみ楽しみ。
gaku-GAY-kaiのフライヤーと台本の準備。洗濯をしそこない、微妙な気分のまま部屋にいる。 今回、イラストを拝借したのは、レインボーアーツのランベルティさん。「3人の歌姫」という作品が、とってもステキで、ぜひとお願いしたら、快く承諾してくれた。 近々HP上にアップできると思うので、もうしばらくお待ち下さい。 とってもイカしてます。
夜、NHKの「休廷女官チャングムの誓い」を見る。今回、地上波ということで全部きっちり見てみようと思い、見始めたら、けっこうはまっている。 今日は、ぱっとしない部署から急遽、重要なポストに連れてこられたチョン・サンガンというおばさんがすばらしい。陰謀渦巻く宮廷で、ただのお飾りのはずだったのが、とんでもなくしっかりと実権を握っていく。そのかっこよさ。 今日のラストでチャングムは子役から、イ・ヨンエにチェンジ。来週からは、さらにどろどろのお話が始まる。このあと、「オンエアバトル」「ER」と土曜の夜は毎週長時間録画。オンエアバトルの微妙なところを早送りしながら、2つのドラマはじっくり見ている。
| 2005年11月04日(金) |
「ロマンチックナイトin写美」 |
東京都写真美術館に出かける。恵比寿のガーデンプレイスはほんとにひさしぶり。クリスマスイルミネーションはまださすがに始まってない。 お目当ては『恋よりどきどき〜コンテンポラリーダンスの感覚〜』という展覧会の一環として行われる、黒沢美香『ロマンチックナイトin写美』。松之木天辺さんが出演している。 いろいろうわさに聞いていた黒沢美香、初体験。堪能いたしました。 ムード歌謡をバックに踊る、もしくは踊らない黒沢美香のカラダが、とってもあいくるしい。幼児体型のような、すっかりおばさんの体型というか、ちってもスレンダーでないカラダが憑かれたように動いているのを見るのはとても楽しい。 選曲ももれなくツボだった。なかでもヒルサロの「二人のムラサキ東京」はすてきだった(後で、検索してタイトルを発見)。 天辺さんはスーツ姿で、SP風、他のスーツ男性3人(うち、1人は堀江進司さん)と、時折相談したり、踊ってみたり。 ダンスの額縁としてのきっちりしいた存在がきれい。 終演後、天辺さん、堀江さんに、一緒になったいっこうさんとご挨拶。 いっこうさんと二人、右も左もわからない恵比寿で、行き当たりバッタリ地下にあった村さ来に。女性客が一人もいない、サラリーマン専用のような飲みやさん。 ひさしぶりにがっつり話し込む。ダンスのこと、芝居のことなどなど。
NHK教育の新番組「趣味悠々・パパイヤ鈴木のENJOYダンシング」。 なつかしいディスコダンスをパパイヤ鈴木が教えてくれる。 やっぱり、なかなか濃かった。まあ、予想していたことではあったのだけれど。だって、生徒役が斉藤慶子と川平慈英。慈英の方は、にこにこしながらどこかとっても真剣で、その様子は、今や絶滅しつつあるディスコダンスがしっかり伝承されていく現場ってかんじ。 斉藤慶子は、どういう人選なんだろうと思うけど、教育テレビに引っ張ってこられる女性タレントの微妙さというか、ちょうどよさには、いつも感心する。編み物の広瀬先生にくっついているキャシー中島、萩尾みどりにはじまって、鶴太郎の日本画の田中好子などなど。斉藤慶子は、まあちょうどいいおさまり方かな。 最後に、オヤジダンサーズがさりげなく登場。ひさしぶりに見て、オヤジ度がしっかり上がっているのをチェック。 毎週見て、真剣に勉強してみようかな?と思える、手軽さがいいかんじ。 でも、ディスコダンスなんて、今どき、どこで踊るんだろう?と、ちょっと考えたりもする。
朝、病院に寄って、診察してもらう。微熱が出て、また喉が腫れてきたような気がするので、いちおうということで検査してもらう。 結果は、ダイジョブですよとのこと。このあいだみたいにひどくなったらまたいらっしゃいと言われる。 待合室が老人のたまりばになっているという話をよく聞く。たいした病気でもないのに来てしまうからと。 今日、やっぱり心配で来てしまった僕も、老人たちと同じような心細さを抱えていた。他人事とは思えない。 待合室にいると、病院というもののもつ、しっかりしたシステムに守られているような気がする。 お年寄りは、この守られているというかんじを頼ってくるんだろうなと思ったりした。
午後から、谷岡健彦さんに招かれて、共立女子大の英米文学の特講にうかがう。 イギリス演劇における「ゲイ」の作品に関連して、日本のゲイ演劇、というか、フライングステージの芝居について話をさせてもらう。 大学の授業は初めてではないけれど、女子ばっかりというのは初めて。 「Four Seasons 四季」の映像を見てもらい、作品の解説。そして、僕と演劇の出会いなどを話し、土田英生の「初恋」、そして「メゾン・ド・ヒミコ」の感想など。 フライングステージを見てくれている学生さんもいて、ずいぶん楽に話ができたと思う。 帰りに、谷岡さん、駅で待ち合わせをしてくれた溝口彰子さん、それに授業をきいてくれた学生さん、フライングステージを見てくれていた先生と、一緒に軽く打ち上げ。 芝居の話で、楽しい時間を過ごす。 大学の授業でいつも思うのは、その時々の自分がかつてにくらべてどうなっているのか振り返る、いい機会を与えてもらったということだ。 今回は、溝口さんと久しぶりに話せたこともうれしかった。 そうそう、学生さんたちは、サイトで、僕の台本を予習してくれていて、とても話がしやすかった。この日記も読んでくれているようで、「それ、日記のコートですね」と言われたりもした。ちゃんと話ができなかったけれど、僕はみなさんにとても感謝しています。どうもありがとうございました!
ひさしぶりに髪を切った。実にさっぱりする。もっとも、病み上がりのせいか、急に老け込んだ気になり、どきっとする。昨日見た、「メゾン・ド・ヒミコ」の住人たちがとても身近におもえてくる。 夕方、三枝嬢と打ち合わせ。原稿の相談など。「メゾン・ド・ヒミコ」の感想を話すと、「柴崎コウが主演っていう時点でゲイの映画になるわけない」とあっさり言われる。なるほどねと納得。
| 2005年10月31日(月) |
「メゾン・ド・ヒミコ」 |
宇田くんと待ち合わせして、「Four Seasons 四季」のDVDのダイジェスト版を受け取る。明後日の共立女子大のトーク用に、今回、編集をしてもらった。 その後、「メゾン・ド・ヒミコ」を観る。舞台をご一緒した青山吉良さんに歌澤寅右衛門さん、それにうちの早瀬くんも出ているので、観なくては……と思いながら、なかなか観に行けなかった。こちらも明後日のトークで話すことになりそうなので、ようやくというかんじで映画館へ。 映画の感想は、ひとことでいえば「びっくりした」。あ、おもいつくままに書いてしまうので、ネタバレしまくりになると思うので、まだ観てない人は覚悟して読んでください。 こんなにゲイへのリスペクトがない映画だとは思わなかった。それは、ゲイだけじゃない、老人に対しても同様。 どうしてこんなに柴崎コウばっかりおいしいんだろうと思って観てしまう。ゲイの老人たちは、みんな、柴崎コウの役をおいしくするためにだけいるようだ。 青山吉良さん扮する山崎がダンスホールでかつての知り合いにばったり会って、「やっぱりオカマだったんだ」と罵倒されるのも、柴崎コウがその相手をののしるというおいしいシーンのために用意されてるようにしか思えない。 初めて女装してダンスホールに行くにしては、衣装もメークもナチュラルすぎるんじゃないだろうか。もっともっと装うのがこの場面にはふさわしいだろうに、それじゃ「バレないから」という理由で、そうなってるように思える。 カツラだってかぶればいいし、メークだってバッチリすればいい。ドレスだって、あの場の女王になるようなそんなゴージャスなものでいいはずだ。せっかく男性陣がドレスアップしてるんだもの、彼だって、もっとバッチリ決めていったほうが、自然じゃないだろうか。 でも、この脚本は、そういうおいしい場面をゲイの老人たちにはくれようとしない。絶対に。柴崎コウが「ブス」という設定になってるんだから、ゴージャスな女装をしていても、かつての知り合いにバレルという展開はいくらでもありだと思うのだけれど。 一番残念なのはドラマを成立させるために、いろんな不自然さが無理矢理「あり」になってしまっていることだ。その結果、物語のはしばしが「ちょっと待って、それってどうして?」という印象を与えるものになってしまっている。 脳卒中で倒れたルビイが、縁が切れていた息子夫婦に引き取られる場面。MTFの手術をしているルビイのことを説明しないで引き渡す住人たちに、柴崎コウが「あんたたちのエゴには虫酸が走る」とキレる。 これもどうかと思う。これはもう住人たちの描き方というか設定の問題なのだけれど、いくらなんでもあんまりだ。キレる柴崎コウに圧倒的に分がある。というか、そんなことなんでするんだろうという疑問が残りすぎる。「一か八かに賭けた」というのは、ややお茶目な思いつきだと思っての展開(ゲイっぽい?って思ったのか)なのかもしれないが、この場面では、ゲイの老人たちの間には、お互いに助け合うとか思いやるとかいった関係が全くないということが露呈してしまう。そして、それは、僕には、いくらなんでもありえないことのように思える。というか、あってもいいのだけれど、そこまでしないではいられない彼らの状況が描かれていないので、これもまた柴崎コウをおいしくするための手段としか見えなくなってくる。 この映画についての先入観として考えていたのは、柴崎コウがゲイの老人たちに触れて、「何か変わっていく」話なんだろうなということだ。彼らから受け取る何かポジティブなメッセージ。それは、たとえば、おおざっぱなたとえで言えば、アフリカの大自然にふれた女性が大自然の脅威と闘いながら成長していく、そんな話。でも、そうじゃなかった。 この映画では、ゲイの老人たちの存在や行動は、決してリスペクトされない。同情はされるけど、尊敬はされない。その視点は、柴崎コウのということではなく、この映画がもっているものなのだと思う。登場人物の誰にも肩入れしていないというスタンスだという理屈なのかもしれないが、ドラマの展開は大いに柴崎コウにばかり都合よく動いていることは間違いないだろう。 ゲイの老人たちには、友情も、生きる勇気も見せてくれない。たまにしゃべるのは、叙情的な追憶か、観客を笑わせるための台詞が大半だ。ゲイをどう描くということよりも、老人をどう描くかということに関しても、ちょっとどうかと思った。今時、こんなゲイ像ってどうよと思う前に、こんな老人像ってどうなんだろうと。 途中でどうにもつらくなったので、僕は、柴崎コウの視点で見ることにした。その途端、この映画は一気におもしろくなってくる。すべてが彼女を中心に、彼女の都合良く、彼女においしく展開するのだもの。 これはもうワクワクする、パーフェクトなハーレクインロマンスじゃないだろうか。なぞめいた男性、一応、ゲイってことになってるけど、限りなくグレーゾーンな美しい男に寄せる思い。ゲイの老人たちは、二人の出会いのための凝りに凝った背景、舞台装置だ。ちっとも脅威ではないアフリカの大自然。 彼女の視線を通して見るオダギリジョーの美しさはどうだろう。不可解な設定は、より余計、彼をミステリアスに魅力的にしていく。 ダンスホールで踊ったあと、キスをされる。どうして? 観客としてもわけがわからない。でもいいの。柴崎コウも「どうして?」って思ってるから。 そのあと、ベッドに誘われる。ここにおよんで「どうして?」という疑問は、なんでこんなにノンケのベッドシーンばかり見せられるんだろうというバカバカしさに変わり、さすがにちょっと引いてしまう。でも、ハーレクインロマンスだから、ベッドシーンは不可欠なんだとあきらめる。 それでも、最後に、ヒミコが死んだ後、柴崎コウが彼女の会社の社長(西島秀俊)と寝たと聞いたオダギリジョーが「うらやましかった。お前じゃなくて、あいつが」と言うのを聞き、つぎに、疎遠になった柴崎コウを、住人たちが呼び戻すという落ちを観たときには、ついにあきれた。よくこんなに都合のいい展開ばかりを選んだものだと。 出演者は、みんなとってもいい芝居をしている。さんざん柴崎コウの悪口(?)ばかり書いてきたけど、彼女もとってもいい。オダギリジョーも、複雑な、ほとんどというか、僕にとってはやっぱり、ありえないと思える人物を、瞬間瞬間を誠実に生きることで成立させている。住人たちも、みんなみごとな存在感と演技だ。だからこそ、際だってしまう、視点の「身勝手さ」だと思った。 ここまで書いてきたのも、この映画をある種の「ゲイ映画」だと思って観たからこその失望なのだということはわかっている。これは、ゲイが登場するけど、ゲイを描こうとはしていない映画なんだと思う。活き活きとした人物は登場するけど、俳優さんたちは素晴らしい演技をしているけど、映画は彼らを描こうとはしてない。 それでも、大好きな場面はいくつもある。いやがらせをしていた中学生が、オダギリジョーに恋をしてしまい、友人たちに別れを告げて、メゾン・ド・ヒミコにやってくる場面。彼が、山崎と一緒におはぎをつくる場面。その時々の彼の視線の先にいるオダギリジョー。柴崎コウがいない場面は、彼女をおいしくしようとする作為が直接は成立しないので、画面は急にのびやかになったような気がした。それは、見ている僕がほっとしたせいなのかもしれないけど。 僕が観たかったのは、やってきた中学生の視点から語られるメゾン・ド・ヒミコの物語だったんだなと思った。予告編で上映された台湾映画「僕の恋、彼の秘密」はどんな映画なんだろう。「メゾン・ド・ヒミコ」にはないものばかりでできているそんなゲイの映画のように思えて、早く見たくなった。 最後に、ずっと触れなかった田中眠が演じるヒミコについて。彼の存在感はすばらしいものだけれど、この役としてはどうなんだろう。彼が、ゲイバーで一世を風靡したというのがよくわからない。壁に貼られた写真の中の彼が、これっぽっちも今の姿と変わってないのはどうしてだろう? 今は、病気で死にそうだからあの風貌ってことなんだとばかり思ってたんだけど。ついでに言うと、写真の片隅に映ってるルビイの今のまんまさ加減にもびっくりした。そうした理由はあるんだろうけど、もっとどうにかならなかったんだろうか。 ゲイコミュニティに協力を求めたという話をきいている。そのうえで、いろいろ意見を聞いたけれど、やっぱり自分たちのやりたいことをやったと監督は語っている。だったら、協力なんか求めなきゃいいのにと正直思う。そうまでして、描きたかったものは一体なんなんだろう。 この映画を楽しむ秘訣は、柴崎コウの視点で初めから見ること。初めから、それが何の疑いもなくできてしまう人にとっては、これはとってもいい映画だと思えるんだろう。でも、ゲイや老人に自分の気持ちを重ねてしまえる人にとっては「エゴに虫酸がはしる」映画になるかもしれない。 ここまでずっと「観客」としての立場から思ったことをずいぶん勝手に言わせてもらったが、ひるがえって「作り手」としての立場で考えると、気持ちは複雑だ。僕も、お話の都合だけで、人物を描くことをしてなかっただろうかと。 こんなにいろいろ考えさせられた映画はひさしぶりだ。自分を映す鏡として、この作品は、とてもいい機会をくれた。感謝だ。
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