「なでしこジャパン」の宮間選手が雑誌のインタビューに次のように答えていた。「ドイツやアメリカに勝ったからといって、120分で勝ったのは本当の勝ちではない。90分で勝ってこそ意味がある」。凄い理想の高さだ。彼女は今回の勝利では満足していない。理想が高い人はどこまでいっても達成感を味わうことはないというが、彼女は今も積極的な自己否定をしている。その謙虚さが素晴らしい。
なでしこジャパンの優勝で改めて気づいたこと。大会前、私は「メダルを狙う」という彼女たちに「できるはずがない」と先入観で見ていた。特に地元のドイツに勝てるはずがないと思った。また、「かわいい子がいない」とサッカーの本質から離れた見方をし、その先入観で彼女たちを観ていた。今、男子では到底成しえない歴史的偉業を遂げた彼女たちを見て、自分のものの見方の陳腐さを恥ずかしく思う。
なでしこジャパンがアメリカに勝って世界一になった。オリンピックなどを振り返っても、団体競技で米国との決勝戦で勝った記憶が私にはほとんどない。多くの競技で米国は常に倒すべき相手だが、決戦の相手はいつも米国でなかったような気がする。経済的にも肉体的にも世界一恵まれた米国に挑むことはいつも難しい。選手をモデルのように称える米国に勝った精神力の尊さを改めて感じた。
なでしこジャパンが決勝に臨む。この偉業に川渕三郎さんが「なでしこジャパン」とネーミングしたことを懐かしく語っていた。海外メディアからも「なでしことはどういう意味だ?」との問いが多いという。ネーミングは記号であり、象徴だが、なんと絶妙な名づけだと関心する。本来の意味は「日本人女性への賛辞。特に古来美徳とされた、清楚で凛とし、慎ましやかで、一歩引いて男性を立て、男性に尽くす甲斐甲斐しい女性像を指す」らしい。これがなければ「女サムライ」などと呼ぶしかなかったのだろう。
W杯で決勝に挑む「なでしこジャパン」の選手。今日の日を夢見てサッカーをしてきたわけではあるまい。純粋に好きだからサッカーを追った。女子ゆえに「やりたくてもやれない環境」だらけだったはず。グラウンドも更衣室もなかっただろう。「女の子が…」と世間の目も厳しかっただろいう。それを選手も選手の両親も、指導者も諦めなかった。幸せを追っているうちに成功は後からついてきた。
某社で管理職研修を行う。冒頭で「組織運営の問題解決のために…」「組織内の関係性を良くするために…」と本セミナーの目的を述べたところ、いきなり受講生から質問が飛んできた。「組織運営の組織とはどの範囲か?」「関係性とはどことどこの関係性なのか」。同社は大企業に珍しく他部門連携を重視している会社。それゆえの質問だが、他の受講生にとっても最初に目線あわせかできて大変良い質問だった。
震災直後、放射能汚染はないと主張してきた日本政府。この隠蔽体質は、肉牛農家の夢を奪ってしまった。もし、きちんと放射能のことを報道していれば、汚染された稲藁が出荷されることはなかっただろう。また、それを食べた肉牛が出荷されることもなく、全面的に出荷停止という事態にもならなかったはずだ。気の毒なのは、肉牛農家だ。この問題に誰も責任をとらない日本は本当にどうかしている。
映画「大鹿村騒動記」を観た。JALの機内誌に監督のコメントが紹介されていて私は公開前から注目していた。が、原田芳雄さの遺作となったことでも注目され、会場は満席。歌舞伎で町がひとつになる物語で、その絆には認知症患者や性同一障害の人や駆け落ちして戻ってきた人などを抱合する優しさがある。その価値はリニアが通ることの何倍も大きい。絆とは「一緒にやること」だと教えてくれる素敵な映画だった。
長野のあるクライアントは自社商品の魅力を「寸劇化」し、お客の前で演じている。そのシナリオを観たが実に面白く、よくできている。これを観たお客様はさぞかしこの商品に共感し、利用してみようという気になるという。寸劇は商品の魅力を伝えるのではなく、商品開発のベースとなった「コンセプト」を伝え、共感を得る手段として有効。本質をわかっていてそれを伝えたい人にしか作れない。
長野県各地を回りながら同県内に複数拠点を持つクライアントの営業マンを現場指導する。早朝車で移動するのだが、その光景の美しさに息をのむ。信州を愛してやまない人、信州に移り住む人にはこの光景がたまらないのだろう。長野で指導していると長野の人は「ごまかさない」「素直」「ふんばり、やりきる」意識が他県より強いと思う。その気質もこの雄大な自然の中で育まれたものなのだろう。