Rollin' Age

2004年08月26日(木)
 冷蔵庫の中の栄養ドリンク

 学生のころから朝に弱く、それはいまも変わらない。午前9時過ぎには出社しようと思っていた今日は、けっきょくやはり起きられなかった。幸い取材は11時からだったので、10時前まで寝続けてから直行した。朝7時に目覚ましが2個鳴る。それを自分で消しているのだから当然意識はある。だけど、「あかん、起きれん」。体の底から湧き出てくる疲労感。前日は朝の9時から夜の1時まで働いていた。唐突にオロナミンCが欲しくなった。

 叔父の家の冷蔵庫の中には、いつも何本かの栄養ドリンクが入っていた。一緒に暮らしていた祖母が言うには、「気休めとしてでも、必要なんだろうねぇ」。当時俺は、一種の憐れみのような感情を抱いていた。叔父に対してではなく、サラリーマンという人々に対して。だけど今は、たとえ気休めとしてでも、疲れが取れるのならばそういうものが必要と思うようになっている。叔父の家の冷蔵庫の中に栄養ドリンクがある意味が、よーく分かる。

 父は酒に酔うとよく、昔の話をする。「家に帰るともう4時過ぎで、とりあえずビールを1杯やるわけだ。そうするといつの間にか、山手線が走る音が聞こえ始める。それから少し仮眠を取って、また仕事に行ったもんだ」。兵庫県では山手線の音は聞こえない。ただ、太陽が昇り始めたのに気づいた鳥や虫どもの鳴き声だとか、憎くていとおしい新聞がガチャリと音立ててポストに入ってくる音が聞こえるまで起きていることは多々ある。今では、始発の山手線の音を聞く際の気持ちがどんなものなのか、よーく分かる。
  
 叔父のいた状況が、父のいた状況が、実感を持って感じられるようになった今、学生だったころの自分とは変わってしまっていることを思う。電車の中で眠りこけるおっさんや、定食屋で味噌汁すするおっさんたちに、親近感まで抱きつつある。あぁ、自分はサラリーマンに染まりつつあると思うと悲しい。一方で、父親たちと同じ世界に入り込んだというのが、少しおもはゆい。

 今度実家に帰るとき、父とのんびり話してみたいと思っている。



2004年08月22日(日)
 手に余る自由

 一人暮らしが始まった最初の頃は、不安と一緒に楽しさもあった。あー、ここが俺の家だ、自立した生活だ、ってな。ここにテレビ置いて、ここには本棚置いて。そんなふうに家具の配置を考えることすら楽しかった。いつ寝ようがいつ起きようがどんな生活しようが、誰にも口を出されることもなく、気兼ねする必要もなく、これが自由だ、思うように生きるんだ、なんて。

 で、今、家の中を見渡すと、いろんなものが転がってんの。敷きっぱなしの布団、何ヶ月か前の新聞紙、2リットルサイズのお茶のペットボトル、乾燥しきったまな板、オニギリを包装してたビニール、数日前の牛乳がこびり付いたグラス、空っぽになった煙草の箱、ぐしゃぐしゃの少年ジャンプ、レンタルビデオのケース、電池の止まった目覚まし時計、実際、ひでえもんだ。

 定期的に掃除はする。さすがにまずいと思って。ただ、その間隔がだんだんと長くなってきている。いつかもうあきらめて、ゴミの上にゴミを重ねて暮らすようになるんじゃないか、最近そんな嫌な予感もし始めている。

 誰にも口を出されない生活は、素敵なものだと思ってたのに。次第に、誰にも何も言われない生活が、なんて重苦しいことなのかと、気づき始める。いや、もう十分気づいている。どれほど部屋を散らかそうが、真夜中になって家を出てほっつき歩こうが、誰もそれを止めやしない。「もうちょっとしっかりしたほうがいいんじゃないの」なんて台詞、誰かが言ってくれるわけでもない。仕方が無いから自分で自分に言い聞かせる。

 たまに実家から、元気でやってるのかという電話がかかってくる。友人たちも、調子はどうかと、気遣ってくれる。そこで意地張って、「まぁなんとかやってるよ」と、電話の先の相手に応えながら、目の前にはぐちゃぐちゃに散らかった部屋。なんとかやってません。だめだめだ。どうしようもない。

 問題は、これをどうやって解決するかなのだけど。とりあえず、どうすりゃいいのかわかんねえから、放っておいてある。とにかく、スーツとワイシャツだけクリーニングに出し続ければ、生活は回る、シャツもトランクスもシャンプーも石鹸もハンカチもティッシュも靴下もいざとなりゃコンビニで買える。台所使わなくても食事すら外ですませられる。それでとにかく社会人はやってける、最低限のレベルで。そんな風に開き直ってしまったから、進まない。

 とりあえず、今の生活が、どこまで悪化するのか、それとも改善するのか。今はまだとても、先行きが想像できない。ある程度の金と、週二日の休みをもらっておきながら、俺の生活が豊かなものであるかどうか。梅田駅の道端にいるホームレスを見やりながら、俺はこの人たちとなんら変わりない、いや、ずっとひどい「質」の生活を続けていると、そこはかとなく思う。



2004年08月15日(日)
 携帯が、ぶち壊しにした

 「もう起きたか」「まだ寝てるのか」「まだ仕事か」「夕飯食ったのか」「もう帰ったか」寝ちまったのか」「電話ください」「いまなにしてんの」・・・。

 毎日こんなメールが届き、いい加減にしてくれないかと言っているのに止む気配がない。まぁ、数年前からこんな状態が続いているから、いまさら言うことでもないのだけれど、もうちっとなんとかならないものかと思っている。

 着信拒否にしていたこともあるが、そうすると今度はメールの代わりに電話がかかってくるし、電話も拒否してしまえばいいのだけれど、さすがにそれではひどいかなと思ったりもするし。暇なときならば、「いまなにしてんの」といういつものメール、まぁ、相手するか、という気にもなるけれど。

 と、こう書いている午前3時過ぎ。ちょうどまた「起きてるか」というメールが来る。あぁ、なんでそこまで縛られなければならないのかと思うし、そして「携帯」電話が憎い。とりあえず今、電源を切った。やれやれだ。

*****


 携帯電話が広まって、もう何年になるのだろうか。いまや大多数の人が所有するこのアイテムも、しばらく前なら珍しいものだったはずだ。昔のテレビドラマとか見てみるといい。どこにも存在しなかったのだから。

 待ち合わせの時間に会えなかった時の焦りとか、夜中に他人の家に電話をかけざるを得ない際の後ろめたさとかは、現在10代の若者は経験したことがないに違いない。私たちのような20代前半の世代が、テレホンカードを使ったことのある最後の人種になるのではないかと思っている。

 誰もが携帯していて、個人で所有しているからこそ、「夜遅くだから遠慮しようか」とか、「人の目があるから」とか、そういう感覚は薄くなった。おかげさまで時間も節約できるし、気軽に電話できるし、電車の中でも「メールに限ってOK」とまでなった。携帯電話に接することのなかった年齢層の人々は、なぜもっと不満を漏らさないのだろうか。もはやあきらめてしまったのか。

 まぁ、マナーうんぬんはどうでもいいのだ。なによりも携帯がぶち壊しにしたのは、人との間合いなんじゃないかと思う。誰とでも気軽に「つながっていられる」ぶん、一回一回のメールや電話の重みも、すっかり減ってしまったのではないか。関西に暮らしてもそれほど東京との距離を感じないのは、もちろん新幹線でいつでも帰られることもあるが、携帯による部分も大きい。

 「便りの無いのは良い便り」なんてことわざ、もはや昔のことか。

*****


 アメリカに、親友がいる。大学の剣道部で同じ時間を過ごした奴だが、今どこで何をやっているのかは知らない。春先に会ったときは、日本で働くことになるかもと言っていた。何の音沙汰も無い以上、ダメだったんだろう。

 たまに何をやっているのかと思うが、なにぶん海を隔てたとこにいることだし、別段何か連絡を取る理由もない。ただ、この前の別れ際に奴が言ったのは、「剣道やってりゃまた会えるさ」という台詞だった。残念ながら今、あまり竹刀を握ることもないのだけれど、そのうちまた会えるだろうと思っている。そのときアイツは、煙草をふかしながら、「よぉ。元気だったか」と言うに違いない。そしてきっと、酒でも飲みながらお互い積もる話をするだろう。

 これはまぁ特殊なケースだとしても、別に毎日毎日連絡を取る必要は無いだろうと思う。「じゃあ週末くらいは」とか、「どれくらいの頻度ならいいんだ」とか言うけれど、それはもう、どうか自分で察してくれないか、と言いたい。



2004年08月06日(金)
 あらいざらいぶちまけてしまおう

 そろそろ夜が明けてきた午前4時半。なんだって俺はこんな時間に郵便ポストに手紙を投函し、コンビニで水道料金の支払いをしているのか。もういいや、あらいざらいぶちまけてしまおう。社会人にもなって、俺はまだこんな日記を書くのかという後悔とともに。

 大学時代の恩師と祖母へ手紙を出した。出そう出そうと思いながら、いつまでたっても後回しにしていた。恩師に宛てた手紙は、実は二ヶ月ほど前に書き上げていて、封筒に封までしていたのだけれど、「あぁ切手がねえや」ということでやる気なくなって放置していた。今日一度封を開けて、手紙に記した日付を確認すると「6月13日」。あぁ、ダメだ、使いもんにならねえよ。クシャクシャに丸めて捨てた。そしてまた新しく、二か月分の空白を埋めた。

 祖母は月に2回のペースをきっちり守って手紙をくれる。そのたび返事を書かなきゃと思うのに、また明日、また明日、とうとう三ヶ月近く経った。えいや!と、先ほど思い立って、恩師への手紙とともに書ききった。それはもう、遠隔からのSOSとでも呼べばいいのか。近況をつらつらと書き記しただけのものが、「孫はいったい大丈夫なのか」と思い起こさせるような内容になっていたかもしれない。まぁ、もう投函しちまったから確認のしようもない。

 世の中には二種類の人間がいる。宿題をギリギリまで溜めちまう奴と、余裕を持って終わらせる奴。俺は間違いなく、前者だ。五ヶ月前から財布に穴が開いている。一日に一回は小銭がすり抜けて落ちる。週末になるたび買いに行こうと思うのに、今もまだ穴が開いている。小銭が落ちる。

 大丈夫なのかというと、大丈夫じゃないだろう。目に見えない部分で、どうしようもなくダメな生活を続けている。「今週中にやっておいてね」という課題が終わらず、溜まっていく。抱えてる原稿が多くなって身動きが取れなくなる。身動きが取れなくなって、とにかくやっつけ仕事になる。毎日が億劫になっていく。口が裂けても、「今日は昼過ぎまで寝てました」なんて言えない。溜まっている仕事があるのに、だからこそ億劫で仕方がなかったりする。

 けっきょく。夕方になって先輩に五時間ほどつきっきりで指導してもらい、
当面の課題をやり過ごす。そんなんが全国の皆様の自宅に届くと思うと、なんかもうやり切れない。あとまだ何本も何本も、抱えている仕事があるのだけれど。だから明日も明後日も、職場に行ってなんとかケリをつけねばならないのだけど、なんで俺はこんな時間まで起きている?

 別に好きで後回しにしているわけでもない。緊迫感や真剣さが足りないんだと言われたら、返す言葉もない、その通りだ。だけどもう、身の丈を超えた量の、質の仕事が次から次へと降ってくる中で、俺はどうやって生き抜いていけばいいのか、成長すればいいのか、正直途方に暮れている。気がつけば笑い話になっていることを少し期待しつつ、そんな楽観的でよいのか。

 その日やれることがその日のうちにすませて初めて「明日は明日の風が吹く」と言える。だけど俺は、学生だったころから、すっきりと眠りに落ちたことは無い。「今日は十分頑張った」なんて思えた日はない。いつもどこかで「明日があるさ」と思っている。明日やればいいさ、と。そんな気質が、今になって、大きく生活に、仕事に響きだした。そろそろ誤魔化しがきかない、馬脚をあらわし始めている。寝るのが怖い。だから今、起きている。

 高校時代にメロディ付きで作った歌詞がある。

 情けないほどみじめに暮らしてさ
 自分自身に怒りをためこめて
 なにもかんもがうまくいかなくてさ
 すべて投げやり明日の俺まかせ

 三つ子の魂百までと言うけれど、あぁ、俺はなんも変わっちゃいない。これまでのやり方が立ち行かないのなら、変えればいいのだけれど、それをどうやるか。一番現実的なのは、とっとと今の環境に慣れること。ただ、時間任せにするだけでよいのか。いったい今、俺に何ができるのか。

 上の歌詞には、こっぱずかしい続きがある。

 燃えるココロはいつも
 他人の手前 上辺だけ
 違うとはっきり誰かに言えるなら
 今 ここで 見せてみろよ

 だってさ。どうすべきかなんて、とうの昔から分かってる。とにかくもがいてもがいてぶち当たっていけば、どうにかなるもんだ。ただ、もがくだけのエネルギーが無いと思われる場合、いったいどうすればいいのか。打開策の見出せない現実の前に、つぶれて、ひしゃげて、卑屈に生きればいいのか。

 明け方の憂鬱な時間の中で、書くものも憂鬱になっている。実際は「なんとかなるもんだ」と思ってる。その気持ちと、「なんとかしなきゃ」という思いを、どれだけ都合よくバランスとっていけるか。結局は、そこに尽きる。



2004年08月02日(月)
 二十四回目の誕生日

 今日が誕生日で、だからといって何が変わるというのか。
 
 そんな醒めた気持ちでいながら、けっこう周りに言いふらしたこともあって、職場では「おめでとう」と言ってもらったりして嬉しがっている自分がいる。24になったからといって、何が変わるというのか。帰り道のタクシーで、隣に座ってた女の子が、「でも、24年前にオギャアって言って生まれたってことですよ。すごいじゃないですか」なんて言う。こいつ、おもしろい奴だなぁなんて思いながら、家に帰り、なんとなく日記を書いている。

 正直、家族の誕生日すらウロ覚えの俺は、まして友人らの誕生日なんて、右手一本の指の数の分も覚えていやしない。そんな俺に、律儀にお祝いを言ってくれた君たちには、心から、ありがとうと思う。自分を生んでくれた両親に対しては、まだ、感謝の気持ちとかは起きない。ただ、祖母に対しては、葉書の一通くらい送ろうかと思う。「有難さ」というものは、近ければ近いほど実感できないものなのだろか。とにかく俺は、24になりました。

 ふと思い立って、中島みゆきの「誕生」をBGMにかけてみる。なんだ、俺って意外と感傷的じゃないかと思いつつ、実際聞いてみても何の感慨も湧かない。この世に生まれたことのすばらしさをいくら壮大に歌い上げられようとも、聞いてるこちらに感受性がないのだから仕方がない。自分にガキでもいるのならともかく、「生まれてくれて Welcome」なんてセリフ、きっと口が裂けても出てきやしない。誕生日、おめでとう。そう、おめでとう。

 唐突に、二十四歳という意味を考えてみる。二十四年、生きてきました。1980年に生まれ、2004年まで、生きてきました。それだけの時間、確かに俺は存在してきました。そこまで思い至って初めて、しみじみと、あぁ、こりゃあすげぇことだなと気づく。大過なく、守られて、世話んなって、とにかくここまで俺は生きてきました、と。「二十四年前にオギャアって言って生まれたってこと」をすごいと思うべきなのは、周囲よりもむしろ自分じゃないか。

 「おめでとう」よりも先に、「ありがとう」が来ることが、真実なんじゃないか。今日が誕生日で、だからといって何が変わるというのか。別に何も変わりゃしない。ただ、今まで生きてきたことの有難さを、噛み締めるための日なんだろう。二十歳を超えてからの誕生日の意味は、そんなもんだと思う。

 「誕生日なんだから何か書け」と言われ、眠気と偏った栄養にやられている頭で考えてると、なにやら小難しい話になっている。「おめでとう」と言われ、「いや、なんか悲しいんよ」とか、つれない返事を返すのではなくて、素直に「ありがとう」って、言えればいいのに。この天邪鬼は。


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