Leaflets of the Rikyu Rat
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2006年12月21日(木) 左目 隠れてた

 年下と付き合うことになった。
 友人には「啓介が年下の髭なしと付き合うだなんてイチローが野球やめてトリマーになると言うくらいインパクトがある」という
 ようなことをメールで言われる。イチローのトリマーは意外に似合うかも分からないが、僕に年下の髭なしが似合うかはまだ良く分からない。
 別の知り合いからは「条例違反なんじゃないか」と言われる。
 僕の作った六法辞書なんてほとんど誰も読まないだろうと、
 但し、年下髭なしも可。こっそり但し書きを書き足してもばれないだろうと思った。ばればれだった。そこだけインクの色が違った。
 自分で作った法律だったのに、
 気付いたら自分がその抜け穴に迷い込んでいたようだ。
 勝手に落とし穴に堕ちてしまったらしい。
 グレーゾーン恋愛。十九歳の子だから違反ではありません。
 
 自分の趣味が少し良く分からなくなりもしたのだけれど、
 それでもその子と一緒にいると嬉しいから良いのだと思う。しあわせだと思えればなんでも良いのだと思う。

 彼は若い。若くて一生懸命で先を見ていて
 けれどもまだ定まっていないところがあって そういうところを支えてあげたいと思ってしまうし手助けしてあげたいと思ってしまう。
 時折ひどく頼りなく、時折ひどく眩しい。
 自分自身と向き合おうとする姿勢が好ましく思えて
 以前の僕と重なるような気がしないでもない
 そのせいか 手を引いてあげたくなる。
 歩くのは彼自身だ。彼が道を踏み外さないように見守ってあげたいし、路頭で迷い込んでしまったらこっそりとヒントをあげたい。
 けどそうやって僕がするアドバイスは僕の作った解答への道に過ぎないから、できれば彼に自分自身の頭で答えを見つけて欲しいとも思う。
 僕が気付かなかった新しい答えを見つけて僕を驚かして欲しいとも思う。

 僕は彼のためになんだってしてあげたくなっていて、少し危ない。
 早く仕事をしてお金を稼いでいろんなところへ連れ回してやりたいし、
 自分がうまいと思ったものを食わせてやりたいと思ってしまう。 
 それは年上のひとと付き合っていたときには湧かなかった情で、
 自分もしっかりしなければいけないのだと思う。そう思わされる。嬉しい。
 
 無償で何かをしようと言う気持ちは驕りだから。

 僕と付き合っていたすべての年上のひとびとは
 こんな思いで僕のことを見守ってくれていたのだろうか。
 応援していてくれていたのだろうか。
 真偽など分からないけれど
 そう思うと彼らには感謝しなければならないと感じた。 

 この世界に無償なんて存在しないから。


2006年12月19日(火) 安川奈緒「MELOPHOBIA」

 近頃安川さんのフレーズを引用して日記を書くことが多かったせいか、毎日間断なく何人かの方が「安川奈緒」と言うキーワードで飛んでこられます。最近少しずつ増えては来ましたが、ちょっと前までは彼女の名前で検索をかけても一桁しかヒットしないと言う状況で、あれだけ素晴らしい詩を書く方がこれほど周知されていないと言うのも珍しいと思います。しかも折角彼女の詩を読んで彼女のことをもっと知りたいと思ったひとも、ネットからは全くと言って良いほど彼女の情報を得られない状況です。
 と言う訳で、今日は日記はひとまず置いといて、安川さんの詩が大好きなにんげんのうちのひとりとして、(残念ながら僕も彼女に対する情報はほとんど持っていませんが、)彼女の詩に対する僕の感想を書いて行きたいと思います。そして彼女の名前で検索をかけてくる数人の方と感覚を共有できたら嬉しい。
 「あたなはわたしを知らない わたしはあなたを知らない しかし別に見知らぬままでも心中はひかりかがやいて」いければ、すごく嬉しい。

 先日、彼女の第一詩集「MELOPHOBIA」が発売されました。これを手に入れるのがまず大変だった。(以下その経緯をずらずらと書くので読むのが面倒なひとは次の段落まで飛ばしてください。)この詩集の発売について僕が情報を得たのは遅ればせながら12月13日で、この日は遠足の前で興奮して眠れない子のように僕も寝付けなかった。(彼女の詩集を読み終わった今も興奮しているけれど。)14日朝、大急ぎで紀伊国屋まで行ったけれども在庫無し。店頭の在庫検索で在庫が無ければ「×」と出るはずなのですが著者名を入れても「該当する(中略)はありません」と引っかかりもせず。とぼとぼと家に帰って検索。amazon、楽天、e-hon他全滅。引っかかりもしない。発行元のはずの思潮社はこのご時世にサイトも無い。今月号には詩人年鑑により詩人の住所まで詳らかに掲載されてしまっているし、詩人さんが一般的で無いのはいいにせよ、それを編集する出版社もどこまでアナクロなんだ。ととぼとぼと寝る。15日夕、バイト先の小さな本屋のPCから時間が空いたときにダメ元で検索するとe-honに引っかかる。11月発売と載ってある。3日〜3週間で出荷。どんだけ幅が広いんだ…と思いつつ、その本の存在を確かめることができ歓喜。続いてamazonを確認すると12月20日発売で予約受付中とある。まだ発売していないのだろうかと混乱する。どこかで注文して取り寄せようかとも思ったが、僕が働いているのは小さな本屋なので取り寄せに時間がかかるため、翌日もう一度紀伊国屋梅田本店へ予約に赴くことにする。16日朝、紀伊国屋で予約する前に念のため詩集のコーナーを覗くと、まるでずっと前からそこにあったかのように一冊だけ棚に収められていた。試しに店内にある在庫検索の機械で「安川奈緒」と入れてみたら今度はきちんと「○」が出た。狐につままれたような気分になりながら家に帰って読み、爆発した。興奮で。

 本書は現代詩手帖に投稿していた作品群を、二つの長編詩で挟んだような格好になっています。まず目次だけで格好良い。

 目次(本当は縦書き)

 玄関先の攻防  7

 women under the influence
   96.9.12 Friday sunny  18
   夏至を恨む  22
   週末のおでかけ  25
   ボンボン ボンボン スイート  29
   戦時下の生活  32
   今夜、すべてのメニューを  36
   背中を見てみろ バカと書いてある  41
   神代辰巳のナンバースリー  43
   マッケンジーのピンク  45
   ANTIFLOWER  48
   MELOPHOBIA  52

 太陽黒点を抱擁する「ヘイ、そこのイカロス」
   鬱病デートコース  56
   耐えられない川  60
   雨粒万歳  64
   サンドペーパーに描かれた自画像  68

 《妻》、《夫》、《愛人X》そして《包帯》  73

 あとがき  96

 最初に書いておくと、僕は詩を書きもしないし、ちょこちょことは読むけれど詳しい訳でもないし、評論できるほど知識がある訳でもない。だから単純な感想になる。正直に言うと、最後の「《妻》、《夫》、《愛人X》そして《包帯》」は長大過ぎて僕には理解しきれないところもあった。(なので、これから何十回も読んで行きたい。)詩手帖投稿時代の作品「STREAM」が「耐えられない川」と改題され四編に拡張された(或いは四編の中に「耐えられない川」が組み込まれた)「太陽黒点を抱擁する「ヘイ、そこのイカロス」」も面白いとは思うけれど、「・」の並ぶ画面を見ていると紙面がゲシュタルト崩壊を起こしているような錯覚を受けてしまう。従って僕が読みやすくかつ感動したのは「玄関先の攻防」とかつての投稿作品群「women under the influence」。特に後者は一抹の感慨を得ながら読んだ。しかし、読みながら違和感を感じた。微妙に推敲が為されていたためだ。たとえば最もそれが顕著に表れているのが「マッケンジー、ピンク」。「マッケンジーのピンク」と改題されていることからもその変化が分かる。

 旧

  集中力がとだえてあなたが見知らぬ人に
  なることを もしくはあなたが見知らぬ
  人になるまえに集中力がとだえることを
  どのように書けばいいのか

  グリーンのマッケンジー
  マッケンジー、グリーン

 これが以下のように変わっている。 

 新

  集中力が途絶えてあなたが見知らぬ人になることを もしくはあなたが見知らぬ人になる
  まえに集中力が途絶えることをどのように書けばいいのか グリーン映画のスターマッケ
  ンジー

 他にも

 旧

  「ほんとうにこわい ほんとう」

 新

  「本当の恐怖に接するための資格について」

 旧

   金はある この手のなかに ただ ねがう
   のはこの手が どこかで 知らない都市で
   わたしからはなれて 暮らしていることそ
   して まだ見ていない映画はあなたの 身
   体のなかにある

 新

   金はある この手のなかに ただ 願うのはこの手が どこかで 知らない都市で胴体か
   ら離れて 暮らしていることそして もう一度見たい映画はあなたの胃袋のなかにある

 旧

   「看板を立てて あなたの値段をつけて」

 新

   「看板を立てて あなたの値段をつけて なるべく安く勉強して」


 筆者に変化が出たならば作品に変化が出るのは当然のことであって、読者の作品に対する好き嫌いはあるにしても、僕は基本的に書き手の変化を見守りそして受け入れて行きたいと思う性格だ。ただ、僕が彼女の投稿時代の作品を何度も何度も読み直していたためなのかもしれないけれど、「リズムが悪くなってしまったのではないか」と、そう感じた。それがすごく残念だった。のだけれども、あとがきを読んで納得できた気がした。以下、あとがき最後の一段落。

   中学、高校、大学と朝から晩までテレビばかり観ていた。それ以外何もなかった。
  明石家さんまの輝く歯を見つめながら、「空耳アワー」のタモリのサングラスの向こ
  うにある目を想像しながら、音楽と詩は無関係だと思った。紙面から囁きかけてくる
  ような詩は下劣だと思った。音楽的快楽から身を引き剥がした詩以外は信じられない
  と、いつでも甘くなろうとするナルシスティックなリズムを殺した詩以外は信じられ
  ないと思った。音韻論とかそういう難しいこととはまた別の次元で、詩の内なる敵は
  何よりもまず音楽なのではないかと思った。だからMELOPHOBIA(音楽恐怖
  症)、有言実行できていたらとてもうれしい。この世は音楽を愛しすぎている。

 うーん、格好良いあとがきだなあ…という感想は置いておき、彼女の詩のリズムが「改変」(改悪?改良?)されていたのにもひどく納得した。
 「ボンボン ボンボン スイート」は題名から既にリズムを醸し出しているような気もしするけど…と言う意地の悪い突っ込みは置いといて、それでも僕は彼女の詩のリズムともつかないリズムが大好きなので、複雑な心境でもある。
 
 かつて現代詩手帖の選評を受け持っていた武田氏が、彼女の詩(「STREAM」、詩集では「耐えられない川」へと改題)についてこう書いていた。

  「安川の作品にはいつも社会派叙事詩的なところがあって、これにもそういうと
   ころがある。映画で言うとゴダールが映像を否定して言葉を前に出すという逆
   説的な方法を映画作家だとすると、安川さんは逆に言葉を隠して映像を出すと
   いう画面になっていると思うんです。こちらが見たいものを見せてくれないで、
   見たくもなかったものに見たい欲望を起こさせるような、意表をつく喚起力を
   感じました。」

 正に的確なコメントだと思う。しかし本当に言葉は隠されているのか。むしろ溢れていると言っても過言では無いような気もする。隠されるが故にその言葉の端々から映像が溢れ僕らの視覚を刺激する。そしてその詩に彼女の思考や思想が入っている。その詩にはいつも失望があり困惑があり現実への不満があり、しかし希求がある。その希求がひかりかがやいている。それが僕の胸を打つ。たった100行足らずの詩が。これでもかと。


  「私は誰とでも寝ますよ」
  「僕も誰とでも寝ますよ」
  「ライバルですね」
 
  泣くな 泣くようなテレビじゃない 今日は不用意に原爆と口に出してもいい 自分のせ
  いで誰かが自殺すると思ってみてもいい 間違いの手旗信号にうっとり見とれていた敗残
  兵たち 窓は縛るためにある そして今からとても楽しみ インポテンツ・トゥルバドゥー
  ルの夜 (「玄関先の攻防」より)

 たとえば現実に期待しなければわざわざ「私は誰とでも寝る」などと言う必要は無い。泣く必要も無い。現実を突き放しながらも懸命に引き寄せようとしている様子はとても切実で胸に迫る。
 彼女は1983年生まれの大阪市在住らしい。(「MELOPHOBIA」の帯より)
 僕は1984年生まれで、同じ土地にこんなすごいひとがいるのだと考えるだけで僕も頑張れるような気がした。
 96ページ、2100円の詩集「MELOPHOBIA」。
 一見高く感じるかもしれないけれど、間違いなく値段以上のものが詰まっている。自信を持ってオススメします。

 最後に。

 旧

   表現の正確さに 若さが 根絶やしにされてしまう

 新

   表現の正確さだけが 若さを花開かせる

 この作者の変化が、僕はなぜだかとても嬉しかった。


2006年12月11日(月) 看板を立てて あなたの値段をつけて

なんだってできる 気がする

僕が高校生の頃、僕は何もできなかった。
何をすれば良いのかも分からなかったし、
どうすれば良いかも分からなかった。そして誰も教えてくれなかった。
だから僕は自分自身がすごくちっぽけに思えたし、自分自身の価値なんて無いと思っていた。
価値の測り方なんて知らなかったし、誰も教えてくれなかった。勿論
そういうのは 教わるようなものでもない。

いつだったか、たぶん四年前か五年前、僕は日記に書いた。こんなこと
“もし僕を二時間五千円くらいで買ってくれるひとがいたら 僕は売るだろう。”
実際にはいろんな危険が伴うわけで
そんなリスクを考慮すれば僕がそう簡単に自分自身を売るはずもなく
ただ便宜的な記述だった それでも
純粋に僕を欲しいを思うひとがいると仮定したならば
僕は喜んでそのひとに僕を売るだろうと
僕もまた純粋に考えていた。それは
需要と供給の曲線のようにぴたりと一致して均衡を取るように
僕には思われた。ひどく投げ遣りな供給曲線だった。

大学に入って
いろいろなひとと付き合って
ゲイバーでバイトして
また別のひとと付き合って
様々なひとと出会って
何よりも衝撃を受けたのはお金の価値の 低さ だった。
尤もそれは僕がお金を非常に大切なものだと考えていたからだ。
そんなものを崇拝していたがために過ぎなかったのだと、少し後になって知った。

悔しい
そんなものを欲しがっていた僕は
「毟り取ってしまえばいい」
ブランド品を買うために身体を売る女に願う。
ふんだくってしまえばいい金を
需要と供給の一致で支払われた対価を
中身の無いブランドに替え
溺れればいい。
僕もまた溺れていたのだ。悔しい。
無ければ無いで困る。
悔しいけれど仕方の無いこともある。

「あるに超したことはないよね」
そう、あって困るものではない
自分のために使えばよい
大切なひとのために 使えばよい

僕は傲慢ですか 或いはそうかもしれない
むしろ僕は傲慢でありたい。批判されても痛痒を 微塵も感じない程に。
なんだってできる気がする。今なら僕は僕にうんと高値を付ける。
買えるもんなら買ってみろ。
尻尾を振って、忠犬の振り。

(題名は安川奈緒「マッケンジー、ピンク」より引用)


2006年12月06日(水) 入居者募集中、うさぎ小屋(築22年)

 僕はいま誰とも付き合っていないという意味でひとりで、そういう意味で
気を遣わなければいけない相手はいない。自分がすることは自分で決めなけ
ればいけないし(と書いてこれは誰かと付き合っていたとしても同じことだ
と思った)、したいことは何でもできる。むしろ、やるべきことさえきちん
とやったならば、したいことを探し出してでもしなければならないのだと思
う。そして何かを自分のものにしたい。

 僕は僕自身と僕が興味を持てるものにしか意欲が湧かない性格で、それは
とても極端なきらいがある。そしてその興味が持てるものですら限定されて
いる。ただし限定されているが故に貪欲に、全てを知ろうと思う。把握しき
れないものには愛着も湧かないのだ。
 僕。僕の友達。恋人。僕の世界は僕の周囲にいる人々だけで回る。遠くの
国で戦争が始まろうが、誰かが死のうが、直接的に僕へと結びつかない限り
僕はほとんど気にも留めないだろう。それは誰かの死であって僕の死ではな
い。

  今この瞬間にも世界のどこかで誰かが死んでる
  でもそんなの私達にとっては無意味な命
  身内の命と天秤にかければ他人の命なんて価値はないわ
                       (小路啓之「イハーブの生活」より)

 僕が興味を持てるものは全て僕に結びつく。具体的に。本を読むのは視野
の広い考え方を身につけるためというより、僕のこころを代弁してくれてい
るものに共感するためにあるのだろうと思う。そのためには時代背景などの
部分で僕と一致していることが基本的に求められるために僕は現代小説ばか
りを読む。現代詩も少しだけ読む。文化的な土壌や風土が一致していること
が求められるために海外小説はほとんど読まない。経済学部に入ろうと思っ
たのは僕の身の回りがどのように作用しているのかを把握していたかったか
らだし、会計士になろうと思ったのは将来僕が所属するであろう企業だとか
法人だとかの成り立ちについて十全に理解しておきたかったからだ。

 こうして書くと僕は酷くエゴイスティックであるように見える。確かにエ
ゴイスティックではあるけれど、少しだけ弁解すると、僕は僕だけを大事に
するのではない。僕にとって大事なもの、大事だと思っている人々を本当に
大切に思う。長く長く大切に思い続ける。それらはたぶん僕にとってかけが
えのないものになる。たとえば僕は流行は嫌いだ。それは流行というものが
一時的でしかないからだ。愛着が持てないのだ。もしくは僕が愛着を持った
としても、彼らはひとりでに去って行ってしまうものなのだ。また僕は自然
に興味が持てない。それは僕の力が及ばないものだからだ。僕がどんなにて
るてる坊主に願いをかけても雨は降るし、風は吹く。僕と自然との間にコミ
ュニケーションは無いのだ。それはただ綺麗なものであり、美しいものであ
り、あるときには穏やかで、また厳しくもある。けれどコミュニケーション
は無い。それはそこにただ在るものなのだ。

 僕が行動するのは僕の城を築くためなのだと思う。城には住むひとがいな
ければならない。誰かを呼びたい。訪ねてきて欲しい。ひとりで住むのはさ
みしい。だけど僕のそれはまだうさぎ小屋くらいの大きさで、とてもじゃな
いけれどひとを呼べるようなたいした代物でもない。でも実を言うと、別に
僕は城なんて大それたものにはあまり興味が無い。一緒に住んでくれるひと
さえいればうざぎ小屋でも我慢できるし、その小屋を大切にすると思う。少し
欲を言えば、ふたりで一軒家を建てて穏やかに暮らしたい。そのためだった
ら35年ローンだって一生懸命返すだろう。それが僕だ。


2006年12月03日(日) 生きた男の一部分

感情は時間と共に風化しその間にまた別の感情が芽生える。或いは変遷する。

殺意は慈愛へ
憎しみは懐古へ
理性は感情へ

それが良いことなのか悪いことなのかは判らない。
けれど己の変化を認めれば良いと思う。思う。
理性は感情へ変わりまた別の理性が僕を秩序立てる。
そのようにして僕は更新され続ける。
僕の中のどうしようもない部分
僕の中のこうしたいという希望
僕の中のそうする理性
僕の中の感情
全てが混沌としていて全てが僕の中にあるのに
僕が手にとるのはそのときいちばん近くにあるものとなる
それが良いことなのか悪いことなのかは判らない。
もう少し遠くまで手を伸ばしてみてもいいかもしれない

ジャンクションは切り替わる
ある日あるコミュニケーションをとったその日から
突然に
それはとても楽しいことだ。
人間の本質はコミュニケーションの中にこそ存在するのだと実感する
コミュニケーションによって自己は確立する
と僕は考えるから僕は揺らぎ続ける
それはとても楽しいことだ。

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  ねーねーねーねー、あたしだれかにいいふらしたい。Kがあたしとおさけ
 のんでくれたんだよ、それでこうしてるといいひとだなあっておもうって
 いってくれたんだよ。やりたくってやりたくってあたしのことひっぱりま
 わしたんだよ。ひろみとしたいっていったんだよ。キスしてくれたべろん
 べろんのキス。それでもって、あたしはちっとももとにもどりたいってお
 もわなかったんだよ。Kはやさしかったよ、ずっとむかしのKみたいだっ
 たよ、やさしくてりりしいKにあたしきのうあったんだよ、Kはあたしを
 だきしめつつしゃせいしたんだよ、ねーねー、セイエキがグリセリンでで
 きてたらどーなるとおもう? ってたちあがったKにあたしいったんだ。
 わらって。ねー、セイエキがグリセリン。
  え?
  セイエキがね、グリセリン。浣腸しちゃうよね。ぜんぶ出るよね。

 (伊藤比呂美<青梅>「虚構です」より)
 (題名は伊藤比呂美「生きた男の一部分」より)


2006年12月01日(金) しかしそれでも心中はひかりかがやいて

深夜は加速する。
机に向かいじっと一点を見つめているその瞬間にも、夜はどこへ向かうのか、一層深まって行く。明日の朝など来ないかのように。
来なければいいのに、と思う。
朝なんて、来なければいいのに。
ひたすらこの夜の中に身を任せていたいと思う。
しかしそれでも朝は来るし、その朝は清々しいだろう。
朝が来ると僕は床に就く。
暗闇がとけてなくなってしまう前に。
だからその清々しさを僕は長いこと知らない。
皆が寝静まった夜、どこか遠くで聞こえる気がする喧騒、自動車の滑走する音、救急車のサイレン。
夜だからこそ感じられるそれを求めて、
どこかで感じられる息吹を求めて、
僕は生活する。夜に。
冬に。

 あなたはわたしを知らない わたしはあなたを知らない
 しかし べつに見知らぬままでも心中はひかりかがやいて(安川奈緒「マッケンジー、ピンク」より)


 / My追加
いつも投票ありがとうございました。(12/15)

加持 啓介 | MAIL

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