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ATFの戦争映画観戦記
| 【File110】観戦記某重大事件発覚・・・疑惑のShall We タンク!【号外】 |
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2005年05月12日(木)
さて今回は、当初予定していた観戦記を急遽変更して【観戦記号外】を【開演ブザー】も無く、いきなり始めさせていただきます・・・あッそれから携帯電話の電源もそのままで・・・\(゚ロ\)(゚ロ゚)(/ロ゚)/
【観戦記某重大事件・・・重大疑惑発覚!】 半年振りの観戦記更新、そして10万ヒットを達成した充実感と虚脱感の余韻に浸っていたATF・・・さて次の観戦記を、また過去の没記事を応用してチョイチョイと書き上げてしまおうか・・・などとお気楽に過ごしておった訳なのですが、そんなATFのいい加減な手抜き観戦記更新によって、深い闇の奥に封印されようとしていた重大な事実を見逃さない�狄深造鮓�つめる正義の眼��があった!事は一昨日に遡る・・・10万ヒットを達成した事で、ちょっとばかし肩の荷が少し軽くなったATFは、久しぶりに我が観戦記の友邦サイト掲示板の巡回チェックを行っていた・・・そんな中、『我レ、マイヤー少尉発見セリ』等過去幾多の観戦記執筆において、常に大きな貢献していただいた友邦サイト�牋惰渊店�のHP��の管理者である安曇重工様の掲示板を訪問した時の事、掲示板に記された書き込みを拝見しながら・・・そう言えば最近ご無沙汰してるなぁ・・・などと思い、時候の挨拶も予て、久しぶりにメールを贈らせていただいた。そして昨日(正確には今日か)の深夜、受信メールの確認をしたところ、ありがたい事に安曇重工様からの返事が早速届いていた・・・そこには、いつもながら安曇重工様のお人柄が伝わってくる10万ヒットへの温かい祝辞が書かれていた!・・・ところが・・・―(゚∇゚;)→グサッ!!!・・・その後に書かれていた一文が、お気楽なATFを奈落の底に突き落とす事になる・・・とは、一体誰が予想し得たであろう・・・(ってATFしかいねぇ〜ヨ・・・大汗)
【真説・馬鹿戦車の正体!】 安曇重工様のメールに記されていた衝撃的内容とは・・・【以下原文のママ】ただ…少々誤認されたと思われる箇所が“馬鹿戦車”の件で少し…(大汗)。と申しますのも、本車輌のモトとなったのは足廻りから判断して株式会社大原鉄工所が最初に製作した“吹雪号試作車”もしくは“吹雪号2号車”と考えているからなのです。(゚0゚;)エッ?・・・余りのショックにPCの前で暫し呆然と佇むATF。そして安曇重工様からのメールには、お忙しい中、態々加工していただいた画像が添付されていた・・・一体どういう事なんだ・・・(゜。゜)ショック状態から立ち直ったATFは、すかさず安曇重工様から送られた添付画像を開こうとカーソルを当てクリック・・・しないッ!・・・(゚◇゚;)エッ!・・・突然の事に状況が認識出来ないATFであった・・・( ̄□ ̄)))))ガ−ン!・・・PCが固まってる・・・全くなんてこったい・・・こんな時に限って、いつも我がPCは固まってしまうのだ。早く安曇重工様から送られた添付画像をチェックしたいのに・・・逸る気持ちを抑えながら、PCを再起動する・・・のだが、これがまた遅い。おまけにスキャンディスクまで作動して、一層時間がかかる。早く起動しろよッ!とPC本体を小突きたくなるが、そこは精密機器・・・また旋毛を曲げられては堪らないので、じっと我慢なATFであった・・・!暫くして、やっとの事で再起動したPCのメールソフトを起動させ、安曇重工様のメールに添付された画像を確認できた・・・ヽ(≧▽≦)ノこ、これは・・・将に青天の霹靂・・・太平の眠りを醒ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず(何のこっちゃ!)だった・・・。
【真実は闇の奥へ・・・】 将にATFの寝惚けた思考回路を醒ますに充分過ぎる程の安曇重工様からのメール・・・それは�倏麓�戦車のベースとなった車体はKC40型ではなく、それ以前に製作されていた吹雪号型ではないか��と言う衝撃的な内容であった。そ、そんなはずは・・・頭の上から冷水を浴びせられた様な感覚に、暫し呆然としていたATFは、我に返ると安曇重工様からのご指摘を基に再度調査・検証作業に取り掛かった・・・この馬鹿戦車のベースとなった車体探しの発端となったのは、多くのサイトや書籍等で紹介されていた�狄軍禪�かどこかの豪雪地帯で使用されていた民間の雪上車を改造して製作された物��という記述である。それを基にして調べて行った結果、新潟県長岡市に本社を置く、現在では雪上車の国内製作シェアの大部分を占めている�狢膰凝換�所��と言う企業に辿り着いた。そして、その大原鉄工所の自社紹介サイト内に設けられた大原雪上車50周年記念と言うコンテンツに記載された内容を基に、以前書いた観戦記の中で以下の様な推察を組み立てたのだった・・・�倏麓�戦車は、この大原鉄工所が開発した民間用KC40型雪上車、或いは自衛隊用六十式3トン雪上車が民間に払い下げられて使用されていた車両をベースとして、撮影用に改造された車両だと思われる��と・・・。しかし、実はこの記事を執筆した段階では、明瞭なKC40型雪上車の写真を発見出来ていなかった・・・先に紹介した大原雪上車50周年記念のコンテンツの中で動画を確認したのみであった。そこで当時唯一発見出来ていたKC40型雪上車とほぼ同型の改良型で、陸上自衛隊に採用されていた六十式3トン雪上車の平面図を掲載した防衛庁サイトのコンテンツにリンクを貼り、観戦記には�狹称悗箏�架装置、エンジンや操縦機構の配置が良くわかり、改造された�牋υ�八十七号�瓩瞭睇�配置の様子が想像出来る。ビデオを観直して確認し直したが、足廻りの懸架装置や転輪配置も間違いない様だ��などと当てずっぽうの知ったか振りで書き込んでいたのである。しかしその後、時を経てKC40型雪上車の画像を入手出来たのだが、実はその時点で再度馬鹿戦車についての検証を行うつもりだったのだ。しかし検証作業を行う為には、より明瞭な馬鹿戦車の画像を入手する必要がある。だが悲しいかな我がPCには、画像をキャプる機能が無い(現在ではDVDの画像のみ可能となりましたが・・・)・・・その時ATFの頭の中に響いて来たのは、毎度お馴染みのあのフレーズ・・・「きっとあの方ならッ(銀英伝風〜意味不明再び)」・・・そう我が邦友であり優れた画像キャプチャー技術を有する安曇重工様(氏の技術力の高さは前述のHPで確認していただきたい)であった。早速依頼メールを送ったところ、自身がお忙しいにも関わらず快諾していただき、早速画像を加工して送って頂いた・・・それらが前回の観戦記で使用している画像である。しかしあろう事か、折角安曇重工様のお手を煩わしたにも関わらず、ATFは個人的な事情(前々回の観戦記の冒頭に記載)で、長期間観戦記の更新を放置していた為、真実の扉が開かれる事はなかった。そしてやっとの事で馬鹿戦車に再度陽の光りが当った・・・再検証する機会が訪れたのが、今回の10万ヒットに絡んだ久しぶりの観戦記更新だった訳である。
【その名は吹雪号!】 GWを前にして、ATFは焦っていた・・・この分だと大体5月半ば過ぎ頃に10万ヒットを達成するなぁ〜(結局当初の予測より早く10万ヒットは達成された!)これも日頃の観戦武官諸士のお陰なのだから、何か達成記念のイベントとかやりたいなぁ〜って言うか、その前に観戦記更新しなきゃなぁ〜・・・そこで久しぶりの観戦記更新の為のネタを探しながら、PCのハードディスクの中に保存されたままの、過去の観戦記執筆時に字数の関係でボツになった原稿やら、使用されなかった画像やらのチェックを行っていた。その時目に止まったのが、以前安曇重工様に態々加工していだだきながら放置状態だった、あの馬鹿戦車の画像たちである。でも馬鹿戦車の画像紹介だけでは、ちょっと観戦記の内容としては薄いなぁ・・・などと考えていた最中ヽ(゚∀゚ )ノふと思いついたのが、以前の観戦記中で馬鹿戦車が、旧日本軍戦車の特徴の具現化したキャラクターであるとしてイメージ的には旧陸軍の九十四式軽装甲車の様に思えるが、砲塔には小口径砲を搭載し、さらに九十七式中戦車の如くアンテナフレームの様なものが取り付けられているし、車体後部には八十九式中戦車の様な超壕装置っぽいものまで付いている。�牋υ↓瓩覆鵑凸唄峺デ室嵶召量樵阿�付けられていて、よくよく考えてみれば、日本の戦車の特徴を充分具現化・・・まるで絵に描いたような、将に戦車らしい�爛織鵐��瓩覆里�と書いていた事だった・・・そうだ!(o^-')b・・・この記事の比較検証をやっちゃえ〜ッ!思い立ったが吉日・・・早速比較検証作業に必要な旧日本軍戦車の画像をググッて探し出し、比較検証写真の作成を行った。そしてその中の一枚が、既に発見されていたKC40型雪上車の写真による�倏麓�戦車のベース=KC40型雪上車��の実証・・・足廻りの比較写真だった。しかし安曇重工様にご指摘を受けた後の今になって見直してみると、この写真ではKC40型雪上車の足廻り・・・起動輪・転輪・誘導輪・上部転輪の配置、そして懸架装置等の形状が殆んど良く解らない。(´_`;)・・・もしこの時点で、以前の観戦記の中で紹介していた、ほぼ同型の六十式3トン雪上車の平面図を確認出来ていれば、或いは明確な解答が出せていたかもしれない・・・のだが、ご存知の通りリンク先の防衛庁サイトのコンテンツは404・・・消えてしまっており、オマケに我がPCに保存していたはずの肝心な平面図の画像は行方不明(/◇\)・・・こうして明確な確認作業も行わないまま・・・あくまでも�倏麓�戦車のベース=KC40型雪上車��だろうと言う当てずっぽうな推量のままで、前回の観戦記を掲載してしまったのである・・・しかし、その大きな誤りを見逃さずスバリ指摘した人物がいた・・・そう安曇重工様である(;`O´)o・・・氏のメカに精通した目は、その足廻り・・・転輪配置と懸架装置・・・の違いを見逃さなかった! それでは安曇重工様がこれが馬鹿戦車のベースであるとご指摘された大原鉄工所製吹雪号試作型雪上車を見ていただきたい。�狄畧禮罩�は、戦後間もなく当時の新潟県庁幹部から、豪雪に閉ざされる冬期の交通確保の為の雪上車の開発を依頼された、県下唯一の地元資本機械製作メーカーであった大原鉄工所が、当時の上村専務を中心として、進駐軍が使用していたウィーゼル水陸両用車と旧軍戦車の残骸と資料(「戦車工学」)を参考として、更に新潟県からの補助金150万円を得て、全くの零からの開発に着手・・・4ヶ月という短期間の中で、車体や履帯の強度、雪上の接地圧等の思考錯誤を繰り返しながら開発した国産雪上車の第一号で、1951年12月に完成し、当時の岡田新潟県知事によって�狄畧禮罩�と命名された。翌1952年に民間からの受注を受け、量産型の�狄畧禮罍温羲岫�20両が生産されるが、実際に使用してみると駆動装置や転輪が氷結、履帯が破損するトラブルが続出した・・・その後、改良が加えられ実用化されたのが大原鉄工所製吹雪号SM-5型雪上車である。この車体が初の民間実用型の雪上車である。しかしこの車体も耐久性等に問題が残り、その後も研究・開発は続けられた結果、最終的に実用的な車体が完成したのは、開発着手から4年後の1955年になってからであった←---今考え直してみると、この一文が今回の勘違いを引き起こしてしまった感がある。馬鹿戦車のベースとなった雪上車が、新潟県の民間で使用されていた車体であると言う事から、一般に普及した車体・・・即ちKC40型・・・であると思い込んでしまった。KC40型以前の車体・・・吹雪号型は、一般的には普及していない車体と思われるので、馬鹿戦車のベースには成り得ないだろう・・・と。 しかし、安曇重工様からのご指摘を受け再度調査し直した結果、その足廻り・・・転輪配置と懸架装置の型状比較から、間違い無く�倏麓�戦車のベース=吹雪号改良型雪上車��である、と言う結論に達した。ご覧の様に、写真から独特の型状をした懸架装置が見て取れる。そして更に探査を進めた結果、防衛庁サイトのコンテンツから、既に消去されてしまっていた六十式3トン雪上車の平面図を発見出来た事によって、明らかに同型のKC40型雪上車と馬鹿戦車との足廻り・・・転輪配置と懸架装置が異なると言う事も確認出来たのだった! また前回の観戦記で、大原鉄工所製の雪上車について・・・それにしてもKC40型と言い、この五三式と言い、幾ら日本国内での仕様だからって、座席部分がただの幌掛けだってのはチョットなぁ・・・これじゃ流石に寒いでしょ・・・積雪の上を走れるジープ程度の乗り物で、乗員の防寒性なんて殆んど考慮されて無い乗り物って事か・・・?などと安直な疑問を記述したところ、この疑問点についても安曇重工様からご丁寧なる鮮明な写真付きの解説を頂き、これによって陸上自衛隊での雪上車の用法が理解出来、あの幌付きの座席についても充分納得する事が出来ました!\(^◇^)/
こうしてまた長い夜が明けました・・・でもATFの身体には、心地よい疲労感が漂っていました。今回は安曇重工様からのご指摘のお陰で、多くの観戦武官諸士に誤った情報を偉そうに伝えていた事をいち早く訂正する事が出来ました。ここに観戦武官諸士に深く陳謝すると共に、安曇重工様に改めて深く感謝の意を表したいと思います!<(_ _)>多謝・・・
【加筆/馬鹿戦車の消息】 2005年6月半ば、偶然から�倏麓�戦車��のその後・・・消息が判明しました!なななんと、あの戦国61式戦車と同じ方が所有されているとの事です!戦国61式戦車は、2003年9月28日(日)にTBS系のドラマスペシャルとして放送された『さとうきび畑の唄』のドラマ内において、その勇姿が公にされる以前から、神奈川県下のスクラップ置き場で目撃された・・・などと言う噂が都市伝説の如く語り継がれていたのですが、実際これは事実で、自動車の整備・解体業を営む有限会社鈴木商店の社長である鈴木氏が所有されて・・・しかも稼動状態で・・・いました。元来映画好きだった鈴木氏は、映画やドラマで使用される車両の手配や修理・整備・解体に携わる内に、それらのコレクションを始めたそうです。そんな鈴木氏が、かの�倏麓�戦車��も所有されていた・・・とは今になって思えば、なる程な話なのですが・・・ともかく�倏麓�戦車��が現存していると解ってうれしい限りであります。�倏麓�戦車�瓠�戦国61式戦車ファンとしては、是非公開していただきたいもでのすが・・・例え有料でも・・・(溜息)。この事は、先頃(2005年6月現在)発売された『戦国自衛隊大全(岩佐陽一編/双葉社刊)』の中で記載されておりました!この本には、戦国61式戦車の製作レポートや製作工程での豊富なカラースチール写真が満載で、将に戦国61式戦車ファンにとっては必携書であります!【2005/06/24加筆】
【オマケの226戦車】 さて馬鹿戦車の車体改造のベースとなった雪上車についての重大誤記訂正については、以上の通りであるが、ここでスペースをお借りして、これまた以前の観戦記にて紹介した映画『2/26』に登場したプロップ戦車・・・通称226戦車について検証した写真があるのでご紹介しよう・・・226戦車比較図・・・以前の観戦記において、226戦車ってモデルは九二式重装甲車じゃないだろうかって断定したんだけど、その根拠を検証したのが、この写真の比較部分である。でも馬鹿戦車についての誤記を訂正したばかりで、今さら偉そうにこの写真を公開しても、こりゃ余り説得力が無いなわなぁ〜と思えて来てしまうのだが、取り合えずご紹介まで・・・それと次に紹介するのは、226戦車についての観戦記執筆当時、観戦武官のお一人から情報を提供して頂いたアームズマガジン誌1989年4月号に掲載されていたと言う226戦車の売り出し広告である。映画のクランクアップ後・・・まだ公開前・・・に、既に売り出されていたのが解る。この広告のお陰かどうかは解らないが、一両は確実に売れている事は間違い無い・・・那須の戦争博物館の車両・・・しかし、この販売価格である150万円と言う値段で本当に売れたかどうかは甚だ疑問が残る・・・。だって残り二両は結局売れなくて、最終的に『2/26』の五社英雄監督が、北海道夕張市の花とシネマのドリームランドに寄贈したくらいだから、広告を出しても暫くは三両とも売れなかったのではないか、と想像される・・・そして何よりも、幾らなんでもあの那須戦争博物館の名物館長さんがアームズマガジン誌なんて読むだろうか・・・って点。えッ誰かが読んで館長さんに教えたんじゃないか・・・って?(;・_・)う〜む・・・どう考えても広告を見てって可能性は、やっぱ低そうだなぁ・・・結局広告だけでは売れずに紆余曲折して、一両だけはなんとか那須戦争博物館の名物館長さんの手に渡り、現在に至っているんじゃないだろうか・・・多分150万円より安い値段で・・・。しかしこの広告に掲載された白黒写真のお陰で、今まで良く解らなかった226戦車の車体後部の形状が明白になった・・・!にしても、車体後面に取り付けられた三個の謎のT字型の物体って何?
今回は当初の予定を変更して急遽【観戦記号外】をお贈りしました!全く持って自身の浅学さに恐縮しております。また誤りを見逃さなかった安曇重工様の鋭い視点にも脱帽であります・・・にしても、毎度観戦記の冒頭で記しております【この書き込みに資料的価値はありません】が、身にしみてひたぶるにうらがなし・・・な今日この頃であります【意味不明】・・・【続く】
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| 【File109】祝10万ヒット達成・・・Shall We タンク!再び【第二弾】 |
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2005年05月10日(火)
我がATFの戦争映画観戦記開設以来約三年半・・・ここ最近の更新遅延にも関わらず、何とか10万ヒットを達成する事が出来ました。これも偏に観戦武官諸士の日頃のご支援の賜物と観戦武官長は目頭を熱くしております!過去多くのHPが消えて行く中、また昨今のブログブームの中にあって、持続性の無い観戦武官長ATFが、この戦争映画観戦記を続けてこられたのも、ネット上で知り合う事の出来た多くの観戦武官・・・戦友の皆さんのお陰です。最近は戦争映画のDVDも数多く発売される様になり、大抵の名作・大作と言われる戦争映画は手軽に観戦出来る様になりました。しかし依然としてDVD化されそうもない作品も数多く、これらの作品の素晴らしさを、多くの戦争映画を愛する戦友たちに知ってもらう為にも、この戦争映画観戦記を今後も続けて行きたいと思っております。観戦武官の皆さん、今後とも更なるご支援の程、よろしくお願いします。それでは今回も早速行ってみましょう・・・日本映画史上に燦然と輝く名作『馬鹿が戦車でやって来る』・・・その出演者の中にあって、ハナ肇演じる主人公サブロウすら、その存在を喰われてしまった名脇役、その名は�狎鐚嵌�十七号��・・・Shall We タンク!・・・【開演ブザー】さて今回もいつもの様に携帯電話の電源はお切り下さい・・・【10万ヒットしても相変らず、この書き込みに資料的価値はありません】
【馬鹿戦車、再び】 さて今回は、一昨年9月末にUPした『Shall We タンク!』で紹介した『馬鹿が戦車でやって来る(山田洋次監督作品/1964)』に登場する、我らが愛すべき【愛國87号】について、当時掲載字数等の関係で公開出来なかった文章や、その後の調査で判明した事実等を公開させていただく。 まず大月書店刊国民文庫No.840『映画をつくる(山田洋次/著 1978年11月17日初版)』によれば、この映画のプロットは、團伊玖磨氏が口ずさんだ「ある男が、終戦後、戦車隊を除隊したときにタンクを一台盗んで帰り、それを裏の納屋にかくしておいた。ところが村の人たちにたいしてものすごく腹の立つことがおきて、ある日ついにそのタンクに乗ってあばれだす」と言う、ただそれだけの話だったらしい。またあの印象的なラストシーンは、山田洋次監督が以前偶然読んだ童話(タイトル不明)の「田舎の子どもがサーカスの象が見たくて、お金を一生懸命ためて、ようやく町に行ったら、もうサーカスは終わっていてテント小屋もなくなってしまっていて、象の足跡だけが残っていた。その象の足跡をずっと追っていったら、それが海岸の波うちぎわで消えていて、白い汽船が遠くに浮かんでいた」と言った物語がモチーフになっており、この演出技法は、後の寅さんシリーズの中で失恋した寅さんが、映画のラストで突然フラッといなくなり、また旅に出て行くと言う演出に受け継がれているそうだ。 また最近ぴあ��より発売された【山田洋次 作品クロニクル】によれば、あの馬鹿戦車は当時新潟県下の民間で使用されていた雪上車を300万円の経費で購入・改造されたそうである。当時、映画製作の予算が2,500万円だった事からすると、実に映画製作全予算の12%に及ぶ経費が、あの馬鹿戦車に使用された事になる・・・多分主演のハナ肇氏の出演ギャラよりも高かったのではないだろうか。その改造のベースとなった雪上車であるが、以前の観戦記では画像をご紹介する事が出来ず、防衛庁のサイトで発見した同型雪上車の陸自導入時の仕様書と三面図のコンテンツにリンクを貼っていたのだが、現在では防衛庁サイトが内容更新されてリンク出来なくなってしまった。そこで再度ネット上を探索した結果、何とか発見出来たのが、この大原鉄工所製KC40型雪上車である。前部エンジン上のボンネットが丸みを帯びて、何となく愛嬌を帯びたヘッドライトのレイアウト・・・表情から、いかにも民間仕様って感じが伝わって来る。それと改良型の陸上自衛隊に試験採用された大原鉄工所製五三式雪上車・・・ボンネットも角張って何となく軍用車両って感じがして来た・・・それにしてもKC40型と言い、この五三式と言い、幾ら日本国内での仕様だからって、座席部分がただの幌掛けだってのはチョットなぁ・・・これじゃ流石に寒いでしょ・・・積雪の上を走れるジープ程度の乗り物で、乗員の防寒性なんて殆んど考慮されて無い乗り物って事か・・・?
【馬鹿戦車の勇姿】 ところで『馬鹿が戦車でやって来る』に、私ATFはこれだけ入れ込んでいるのだが、未だこの作品を未見の方にとっては(  ̄o ̄)ハァ〜?って感じではなかろうか。そこで、ちょっとだけ馬鹿戦車の勇姿を、ここでご紹介しよう!ついでに、以前の観戦記において、この馬鹿戦車の事を・・・イメージ的には旧陸軍の九十四式軽装甲車の様に思えるが、砲塔には小口径砲を搭載し、さらに九十七式中戦車の如くアンテナフレームの様なものが取り付けられているし、車体後部には八十九式中戦車の様な超壕装置っぽいものまで付いている。�牋υ↓瓩覆鵑凸唄峺デ室嵶召量樵阿�付けられていて、よくよく考えてみれば、日本の戦車の特徴を充分具現化・・・まるで絵に描いたような、将に戦車らしい�爛織鵐��瓩覆里�・・・と紹介しているが、実際どれだけ具現化しているか、その検証も行って見たい。 まずは馬鹿戦車之勇姿��・・・馬鹿戦車の砲塔上でのハナ肇演じる元少年戦車兵サブロウの勇姿である・・・砲塔と上部ハッチが殆んど同じ大きさなのが解る。どうやらサブロウは、少年戦車兵学校でエンジン等の修理技術を身に付けたようで、サブロウの住む家の玄関には�爛肇薀�ター修理��と手書きした看板が掛っているのだが、戦後間もない、こんな貧乏な山村にトラクターなどあるはずもなく、殆んど商売になってない様だ・・・砲塔上に見える手擦り状の物体は無線用の鉢巻式アンテナと思われる・・・馬鹿戦車比較図��・・・同様の物は九七式中戦車(チハ)に取り付けられており有名である。八九式中戦車には車間無線が取り付けられておらず、車間での指揮・連絡を手旗で行う様子が、戦時中に製作された『西住戦車長傳(1940)』の中でも描かれていたが、流石にこれでは戦車の集団指揮運用に不便なので、新型の九七式中戦車には近距離用の車間無線器が取り付けられた。しかし、この鉢巻式アンテナは敵弾等によって破損し易かった為、後には直立式のアンテナへと改修され、他の車種では見られなくなる。 さて次に馬鹿戦車之勇姿��だ・・・馬鹿戦車の側面に書かれた献納兵器を表わす�牋υ■牽鍬瓩諒源�・・・旧字体の�默↓瓩了�が泣かせるぜッ!・・・この番号が表す馬鹿戦車比較図��・・・献納兵器は、大陸での戦火が拡大しつつあった1932年1月10日に、高まる軍国主義の下、軍備予算の負担軽減を目的とした直接戦争協力・国防献金運動が発案され、それによって陸軍機が建造された事から全国的な運動に広まって行ったもので、陸軍では『愛國』海軍では『報國』の文字が使用され、機体や車体に番号と共に表示され、献納団体(者)名も書き込まれた。代表的な献納兵器は航空機や装甲車両だが、高射砲や自動貨車、自動二輪車、無線機まで種類は多岐に渡った。献納兵器製作の為の募金は、全国の自治体や企業、学校等の公共・民間の各団体(京都祇園の舞妓さんたちも戦闘機を献納している)から個人に至るまで広範囲に行われ、当時その献納・命名式は盛大な一大軍事イベントとして、航空機の場合は演技飛行、車両の場合はデモンストレーション行進等が行われた様である。 お次は馬鹿戦車之勇姿��・・・家と田畑の権利を村会議員の市之新さぁに騙し取られた事を怒ったサブロウが、馬鹿戦車で市之新さぁの屋敷へ体当たりを噛ます図である・・・こうやって見ると、馬鹿戦車の主砲は意外と長砲身なのが解る。劇中では主砲を発砲するシーンは無く残念だが、やはりそこまでやってしまうと死傷者続出になりそうだから、やっぱ無理だろうなぁ〜。 馬鹿戦車之勇姿��・・・登場人物と馬鹿戦車の車体の大きさが比較出来るシーンである・・・車体の迷彩塗装が明瞭に解る。こりゃ南方仕様だろうか・・・プラモデルの日本軍戦車の箱絵で良く描かれている様な迷彩色&デザインである・・・ 馬鹿戦車之勇姿��・・・村唯一のメインストリートを、砂煙りを巻き上げ驀進する馬鹿戦車の正面図だ。この位置から見た馬鹿戦車は結構恰好良いと思うのは私だけだろうか・・・? 馬鹿戦車之勇姿��・・・同じく正面から見た図・・・車体前面に矢鱈と取り付けられた点検用ハッチ?の配置が良く解る図だ・・・無骨な鋲留リベットも堪らなく素晴らしい・・・! そして馬鹿戦車之勇姿��・・・メインストリートを驀進する馬鹿戦車の上空からの俯瞰図・・・上空と言ってもサブロウの弟ヘイロクが登った火の見櫓からの眺めである・・・実際に動く画面で観ると、この馬鹿戦車は意外と高速・・・と言っても20km〜30kmくらいだが・・・で突っ走る。通常の状態でも車体前部がやや浮き上がり気味なのだが、高速で突っ走ると余計に車体前方が浮き上がって見えるのだ・・・でも、この角度からのシルエットは余り恰好良くなく、至って残念ッ! 馬鹿戦車之勇姿��・・・実家の前に停止した、もう堪らない正面からの馬鹿戦車の最高ショット!である・・・実はこの時、弟のヘイロクが火の見櫓から足を踏み外して落下、死亡しており、それを村人達が怖る怖る日本酒の一升瓶を片手にサブロウに知らせに来たシーンである。こうやってじっくり見てみると、車体のベースが雪上車な為か、キャタピラの幅が意外と広い事が良く解る・・・ 馬鹿戦車之勇姿��・・・車体斜め後方よりの馬鹿戦車の勇姿・・・この鉄板(敢えて�狒�甲板�瓩箸聾世い泙擦鵐�)を張り合わせだけって言う様なゴツゴツ感が堪らない!この角度からのシルエットは、九二式重装甲車の車体後部の形状・・・馬鹿戦車比較図��・・・と良く似ているのが解る。また足回り(走行装置・転輪配置)を、ベースとなった大原鉄工所製KC40型雪上車と比較して見る・・・馬鹿戦車比較図��と・・・雪上車はご覧の通り車体前部にエンジンを搭載しているので、このエンジンを改造時に取り外して後部に取り付け直したとは思えない。その事からも、馬鹿戦車は雪上車の車体をそのまま前後逆にして改造していると思われる。と言う事は、雪上車の操縦席は元々車体右側なので、そのまま操縦レバー等を後ろ側にずらして馬鹿戦車の車体左側が操縦席になっているって事も想像される・・・ 馬鹿戦車之勇姿��・・・車体斜め後やや上方よりの馬鹿戦車の勇姿だ・・・消音器と超壕尾体がはっきり解る素晴らしい図・・・実際の日本軍戦車もそうだが、この消音器は殆んど役立たず状態である・・・超壕尾体は、日本軍戦車隊創世期に輸入したフランス製のルノーFT軽戦車や、八九式中戦車に見られる塹壕や土手を乗り越える為の補助装置であるが、余り実用性が無かったのか、八九式中戦車以降の車両では廃止されている・・・馬鹿戦車比較図��・・・実際大陸の戦線で使用されている八九式中戦車の超壕尾体も、本来の用途よりも、ただの荷物置き場と化している写真が良く見られる・・・馬鹿戦車の車体前方の泥受板上に村人役の俳優が乗っているが、以外に細かい部分も頑丈に作られているのが解る・・・因みに土浦の陸自武器学校に展示されている八九式中戦車や三式中戦車等の泥受板は、長年の風雨によって腐食が進んでおり、とても乗れる様な状態ではなかった・・・オイオイ良い子は乗ってはいけません! 馬鹿戦車之勇姿��・・・車体斜め後下方よりの馬鹿戦車の勇姿・・・起動輪(実は雪上車の誘導輪)や上部転輪の形状が鮮明に写っている・・・ただ手前のハチマキの親爺さんの所為で、誘導輪が見えないのが非常に残念。 馬鹿戦車之勇姿��・・・馬鹿戦車によって散々な目に逢った村人達が、郵便屋の発案で対戦車壕(早い話が落とし穴)を掘り、そこに馬鹿戦車を誘い込もうとしたのだが、その策略をサブロウが見破り、怒り心頭に達して田んぼの中で村人たちを追い掛け回すシーンである・・・このアングルから見た馬鹿戦車カッコ良い・・・実はこのアングルは、前回の観戦記で紹介した九四式軽装甲車の車体前部の形状に良く似ている・・・馬鹿戦車比較図��・・・じゃないか、なんて思えたりするのだ! 馬鹿戦車之勇姿��・・・馬鹿戦車の車体前部のアップシーンである・・・自棄にデカイ前照燈と星のマークが目立つ。これって九七式軽装甲車の写真・・・馬鹿戦車比較図��・・・に写った前照燈及び日本陸軍の星形章そのものである。この拘りが堪らんなぁ・・・ 引き続き・・・馬鹿戦車之勇姿��・・・馬鹿戦車の車体前部のアップシーンである・・・意外と前面の被弾径始は良さそう・・・なんて事はないか・・・砲身は見るからに肉厚が薄そうである。前述の様に向かって右側が操縦席だと思われるが、展視孔らしき部分が丸いのは何故だろう?まさかモーターで隙間の開いた装甲板を回転させて外を見る回転式展望窓を取り付けるつもりだったのだろうか・・・なんて事なくて、ただ視認性をアップしているだけだろう・・・向かって左側はやはり前方機銃座かなぁ〜??ちょっと待てよ・・・馬鹿戦車比較図��・・・これってアメリカの軍事博物館に展示されている九五式軽戦車の武装を取り外したところにも何となく似てるじゃん・・・。 馬鹿戦車之勇姿��・・・驀進して来た馬鹿戦車に驚き、慌てて物陰に隠れたヒロインのり子さぁの図である・・・しかし、この病弱のヒロイン(このヒロイン像も後の寅さんシリーズのヒロイン像に受け継がれている)が、後に日本の裏社会を牛耳る大姉御になろうとは、流石のサブロウも想像すら出来なかったに違いない・・・大汗 さて最後の馬鹿戦車之勇姿��は、地主の仁右衛門様の屋敷に突入した馬鹿戦車である・・・突入した衝撃で、車体上に降り積もった埃を両手で叩くサブロウのシーンだが、この叩く音で、如何に鉄板(重ねて言うが装甲板ではない!)が薄いかが実感出来るシーンでもある。アッ操縦席の上に取り付けられたハッチって横開きなんだ! 最後に日活製作の『戦争と人間』第二部ラストシーンに登場する日本軍戦車を見ていただこう・・・馬鹿戦車比較図��・・・こりゃ間違いなく馬鹿戦車でありますな・・・前照燈前の日本陸軍の星形章が無くなり、代わりに車体前面に日の丸が描かれております。おっと砲塔上の鉢巻式無線アンテナも無くなってるじゃん。あれッ向かって左側の泥受板の上に取り付けられた物体って一体何だろう?実際は馬鹿戦車比較図��な風に、エンディングのスタッフロールのテロップが重なってしまってはっきり見えないんですが・・・宣伝用の白黒スチール写真のお陰で明瞭にその姿を見る事が出来ます・・・にしても、この九五式軽戦車もどきって一体何?
如何でしたか・・・今回のかくも素晴らしき馬鹿戦車のお話は?『馬鹿が戦車でやって来る』の一刻も早いDVD化を望む次第であります。さて��Shall We タンク!�瓩覆�話のネタはまだまだ尽きませんよ・・・なんと新作ネタも取り揃えております!・・・【戦車は続く〜よ、ど〜こまでも・・・!】 ※作成協力感謝:安曇重工様
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| 【File108】観戦記10万ヒット目前・・・Shall We タンク!再び【第一弾】 |
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2005年05月08日(日)
いや〜昨年11月以来、随分ご無沙汰の観戦記であります。言い訳がましいですが、昨年来より私的に色々あって観戦記を書く意欲が中々涌いてこなかったのであります。実際のところ、観戦記を書く為のネタは色々頭に浮かんで来ていたのでありますが・・・しかしなんて言ったら良いか・・・強いて言えば、過去の観戦記では、結構勢いで書き上げてしまっていた場合が多々あったのですが、ここ最近は、その勢い乗る機会に中々恵まれなかった、とでも言ったら良いのでしょうか。まぁそんな訳で、ここんとこ観戦記の更新を随分ご無沙汰してしまった訳です。ところで最近ご縁があって、印刷物誌上において戦争映画の紹介記事を執筆掲載する機会に恵まれました。皆さんよくご存知の通り、昨年から発売開始されたドイツ週間ニュースDVDブック誌上でも、現在戦争映画の紹介記事を連載させていただいております。こちらは字数約八百文字・・・普段文章を書き慣れていないと原稿用紙二枚分と言っても結構書き辛いものですが、私にとっては観戦日誌(現在更新休止中)で、いつも千文字程度は書いておりましたので、執筆の依頼を受けた時点では「楽勝じゃん!」なんて安直な気持ちで引き受けてしまいました・・・しかしコレが予想に反して結構大変・・・観戦日誌や観戦記は、自分の思い通りに字数や内容を決める事が出来、好き勝手に文章を書けるのですが、予め決められたテーマと字数、表現、締切期日と言う縛りの中で文章を書き、それによって収入を得る、と言う事の大変さを今さらながら思い知らされた訳です。読み手に対し、如何に少ない文字数と明確な表現によって、的確に主旨が伝えられるか・・・まぁ最近は、なんとか少しずつ慣れては来ましたが・・・。そんな折に某有名模型専門誌上での戦争映画紹介コーナーへの記事の執筆を、臨時で引き受ける事となりました。こちらの記事の文字数は約三千一百文字・・・ドイツ週間ニュースDVDブックの連載記事に比べると文字数は約四倍、これなら楽勝じゃ・・・てな具合で、またしてもお気楽に引き受けてしまいました。しかし案の定、今回も執筆上の制約がズッシリと重く圧し掛かかり、苦労する事になります。この某有名模型専門雑誌のコーナーの記事は、文章も構成が�〆酩覆料或兇蠕睫澄↓∈酩覆旅啅據↓�作品の見どころ、という三段階から成り立っています。私は執筆を始める段階で、文字数の配分を�〆酩覆料或兇蠕睫世鉢�作品の見どころで千百文字程度、�∈酩覆旅啅擇覇鸚虔源�程度と決めて取り掛かりました。�´�については、予め紹介する作品を選定する段階で、頭の中で大まかな文章が既に組み上がっていました。そんな訳で難無く大まかな文章が書き上がったのですが、�∈酩覆旅啅擇砲弔い討蓮∈酩覆離好函璽蝓爾鬚Δ躋个┐里泙渊颪�込む訳には行きません。そこで実際に対象作品をビデオで再生しながら、並行してストーリーの主要な流れを文章化してキーボードで打ち込んで行く、という手法を取りました。私にとっては、これはそれ程苦な作業ではありません。過去仕事の中で会議の速記議事録を作成した経験が多々ありましたので、その経験を生かす事が出来ました。しかし実際作品のストーリーを荒筋にして打ち込んでみたところ、なんと出来上がった文章だけで軽く五千文字を越えてしまっていたのです。さてここからが大変です。出来上がった荒筋から、三千文字以上も間引かなければなりません。とりあえずストーリーの流れに左程重要とは思われない箇所を削って行き、或いは表現を書き換えて字数を減らし、小一時間程(これでも結構疲れました)費やして、一回目の添削を終了させました。これで大分減っただろう!と、意気揚揚文字数を計測・・・がぁ〜ん、あれほど苦労したのに、減らせたのはたった五百文字程度・・・これを後5回も繰り返さなきゃならないのかぁ・・・しかし単純に5回で済むほど、世の中甘くありません・・・後になればなる程に、一回の添削作業で削れる文字数が減るのは目に見えています。結局その後連続で2回添削作業を試み、最終的に削減出来たのは、合計千文字程度に過ぎませんでした・・・疲労極めて大。その日は、それ以上添削作業に取り組む元気もなく、翌日に持ち越し、更に翌日に・・・結局目標の三千文字を削除するのに計5日も費やす事になります・・・なんと殆んど全部書き直したも同然でした。この後、紆余曲折を経て出来上がったのが、現在発売中の雑誌に掲載されている記事でります。おっと雑誌への記事掲載の裏話を書くつもりじゃなかった・・・閑話休題・・・そんな訳(?)で、観戦記は、書きたい内容を、書きたい様に、書きたい時に好き勝手に執筆していたのですが、雑誌への記事掲載という様々な制約に縛られた執筆作業との、なんと言うかギャップによる一種のスランプ状態に陥ってしまった・・・と言うのが、観戦記が更新出来なかった原因ではないか、と今では思えております・・・しかし、これは決して雑誌掲載記事の執筆が私にとってマイナスになったと言う訳ではなく、寧ろその反対であった事は間違いありません!さて、そんな状況下、PC内に保存されていた、過去の観戦記執筆時に集めた資料や画像を整理していた所、字数の関係で掲載・発表出来なかった多数の文章や画像が発見されました。コレをそのまま闇に葬るのは忍びない・・・そんな訳で、観戦記復活のプロローグとして、ここに新たに公開させて頂きます・・・気がつけば十萬接続も目前!名作「Shall We Dance?」もハリウッドでリメイクされた事ですし・・・と言う訳で、またもやお久しぶりの【開演ブザー】です。通例通り携帯電話の電源はお切り下さい・・・【相変らず、この書き込みに資料的価値はありません・・・あッ因みにここまでの文字数は約二千三百七十文字・・・ヘ(´o`)ヘ】
【一枚の戦争画】 まずは一枚の絵を見ていただこう!【九四式軽装甲車奮戦之図】今から数十年前の事、まだ私が小学生だった頃・・・当時、私が通信購読していた少年向け歴史ムック誌「わたしたちの歴史/昭和時代� �の見開き部分に掲載されていた一枚の戦争画・・・怒涛の如く押し寄せる中国軍の攻撃を、キャタピラを破壊され立ち往生しながらも、旋回砲塔の車載機銃と操縦席からの拳銃によって、必死に防戦する豆(小型)戦車・・・当時はまだ、この豆戦車が�犇綮夕扱攸�甲車��という名称の車両だとは知る由もなかった・・・の勇姿。迫り来る中国兵(蒋介石国民党か共産八路軍かは不明・・・)に対し、満身創痍になりながら果敢に応射・防戦する、この豆戦車の勇姿を手に汗握りながら、そして何よりも、この豆戦車とその乗員の戦車兵は、その後どうなったのかとドキドキ想像しながら、幼な心に何度も何度も繰り返し眺めていた覚えがある。その後歳月は過ぎ、この戦争画を掲載した歴史ムック誌は失われ、成長するにつけ、この戦争画の事も忘却の彼方へと忘れ去られていたが、その反面ミリタリーに関する興味は増大して現在に至り、さらにインターネットの世界に足を踏み入れ『戦争映画観戦記』の執筆を始め、お陰で様々なミリタリーに関する知識の量も増大して行った。そして一昨年の事、観戦記執筆に絡んで『馬鹿が戦車でやって来る』関連の資料を調べている最中、全くの偶然ながら、再びこの戦争画に巡り逢う事が出来た・・・改めてこの戦争画を見てみると、様々な興味深い点が観察出来る・・・爆発直後で、まだ噴煙も治まっていない・・・車体上には爆発で巻き上げられた土砂が積もっている。画面中央では、今将に撃たれた中国軍兵士の手から離れたモーゼルミリタリー(木製ストック付)が宙を舞い、巨匠ペキンパーの�狎鐐茲里呂蕕錣伸�をも彷彿させる光景が展開されている・・・中国軍兵士の持つ小銃はモーゼルだろうか?これらの中国軍兵士は、一様に装備が良い・・・と言う事は蒋介石の国民党軍だろうか、しかし共産党の八路軍側も一部部隊は良装備だったはずだ・・・倒れた兵士の背中に背負われた青龍刀がいかにも中国兵らしい・・・そしてこの豆戦車のキャタピラは一体どの様にして破壊されたのであろうか・・・対戦車地雷なのか・・・地雷なら、こんな小型の車体は一発で吹き飛ばされているのではないか?画面中央下にドイツ式柄付手榴弾(ポテトマッシャー型)を今にも投げようと構える中国軍兵士がいるが、ひょっとしたら手榴弾でやられたのか・・・九四式軽装甲車のキャタピラくらいなら手榴弾の爆発でも破壊出来そうだ・・・しかし画面左下に描かれている吹き飛ばされたキャタピラと転輪からすると、こりゃ相当の爆発力だったのではないか・・・少し撓んだエンジン点検用ハッチが、この軽装甲車の装甲の薄さを如実に表わしている・・・なんて事が見て取れる・・・果たして一体・・・その後色々と調査した結果、この戦争画のモデルとなった出来事は、1939年の南昌攻略戦における、ある軍国美談のエピソードが基になっていると言う事が解った・・・ 【以下概略】森田部隊(連隊・大隊等の詳細不明)が南昌前面魏家営の山腹斜面に張り巡らされた塹壕と鉄条網の中国軍陣地に対し攻撃を開始した時、味方砲兵の掩護射撃下、松本軽装甲車隊(師団捜索隊と思われる)所属の九四式軽装甲車(車長/川村伍長、操縦/中村一等兵)が、歩兵の先頭を切って敵陣に突入・・・雨の如く降る敵弾を物ともせず、鉄条網を踏み潰し敵塹壕へと肉薄して行った・・・次の瞬間、九四式軽装甲車の直下で爆発(原因は地雷)が起こり、車体は2mも跳ね上げられ地上に叩き付けられた・・・後方の日本軍歩兵たちが固唾を飲む中、塹壕から進み出た中国兵たちが九四式軽装甲車を取り囲もうとした瞬間、突如旋回砲塔の機銃がダダダダッと射撃を開始・・・油断していた中国兵たちはバタバタと撃ち倒された・・・時を移さず日本軍歩兵は突撃を敢行し、中国兵を撃退し、併せて敵陣地を奪取した・・・占領後、戦友たちが満身創痍の九四式軽装甲車に駆け寄り、車内を見ると乗員は全身血達磨となって倒れていたが、その手はしっかりと機銃の銃把を握りしめていた・・・というものである。 この美談が実際にあった事柄がどうかははっきりしない・・・軍国美談の幾つかは過度な脚色によって創作されている・・・が、この話を読む限りでは、幼少時の疑問であった乗員たちの生死は、結局最悪の事態となっていた事は、数十年を経て知る事が出来た。しかしまぁこの一枚の戦争画が、私の軍オタ人生の出発点となった事だけは間違いないと思われる・・・。
【だって九四式軽装甲車が好きなんだもん!】 軍オタやモデラーに「一番好きな戦車は?」と尋ねた場合、その答えとして返ってくるのは「ティーガー戦車」「パンター戦車」「M4シャーマン戦車」「T34戦車」ってのが一般的な答えであろう。日本軍戦車のファンもいらっしゃるが、やはり「九七式中戦車」「九五式軽戦車」って答えが一般的ではないだろうか・・・しかし今の私の場合は胸を張って『九四式軽装甲車』って答える。こんなブリキの豆戦車のどこがいいの?って聞かれても、即答に困るが、とにかく良い物は良いのである。元来私は「ティーガー戦車」や「M4シャーマン戦車」等のMBTよりは自走砲や突撃砲が好き、戦艦や空母、巡洋艦よりも小艦艇が好き、戦闘機よりも爆撃機や偵察機が好き・・・と言った、ちょっと天邪鬼な気が多分にあったが、この�犇綮夕扱攸�甲車�瓩噺世μ松里覆�ら装甲車ではなく、戦車とも言えない一種中途半端な存在ながら、欧州ではケーニヒスティーガーやスターリンなんていう化け物みたいな超重戦車が激闘を繰り広げている最中にも、たった7.7mm機銃一丁だけの、しかも中国軍の小銃弾すら場合によっては貫通する薄い装甲の兵器が、第一線の主力装甲車両として活躍していたってのが、堪らなく好きなのである。
【九四式軽装甲車とは・・・】 第一次大戦後の世界的不況と軍事削減の風潮の中で、安価な経済性面を重視した小型装甲車両が各国において開発された。その代表的な車両が英国製のカーデン・ロイド機関銃運搬車である。日本陸軍もカーデン・ロイドMk.6型を輸入、実用試験を行い、1932年に陸軍技術本部において装軌式小型牽引車・・・弾薬を積載した装甲全装軌式貨物車を牽引して前線への弾薬補充を行い、自衛用に車体全体に装甲を施し、旋回砲塔に機銃を装備した・・・の開発が開始され、1933年に東京瓦斯電気工業において試作車が完成・・・『TK(小室哲・・・じゃなく小型牽引の略)車』という略称が付けられた。その後、実用試験を経て北満州において実地試験が行われ、1934年に制式採用となる。当初仮採用時には「九四式装甲牽引車」という名称だったが、制式採用時に『九四式軽装甲車』と変更された。なおトレーラー型全装軌式貨物車は、同じく東京瓦斯電気工業において製作され1934年に「九四式四分ノ三屯積全装軌式被牽引車」として採用された・・・しかし九四式軽装甲車は、本来の敵砲撃下での弾薬補給という任務には殆んど使用されなかった為、生産台数は少数であった。九四式軽装甲車自体は、1935年から1940年までの間に約850両が生産された。実戦での使用結果を基に、1936年からは誘導輪を大型化し接地面を下げ、履帯接地長を増加(約80cm)させ接地圧を低下させ、不整地走行性能等機動性の向上させた改良が施された・・・この改良型は改修九四式軽装甲車と呼ばれ、高速走行時の安定性や走行時射撃性が向上した。また一部車両は、武装を九四式37mm戦車砲に換装し攻撃力の向上が図られた。1935年から部隊配属が開始され、1937年中頃には戦車中隊内の一個小隊は九四式軽装甲車装備の小隊編成となった。また独立軽装甲車中隊も数多く編成され、1937年の日華事変勃発時には計七個独立軽装甲車中隊が派遣された。同年10月の南京攻略戦時には、戦車第五連隊の他に二個独立軽装甲車中隊が参加したが、中国軍対戦車砲の待ち伏せ攻撃により一度に四両を失うなど大きな損害を出した。しかしその機動性を有効に活用して常に第一線を歩兵と共に進撃し南京攻略の立役者となった。翌1938年の広東攻略戦時には、三個独立軽装甲車中隊が参加、有効な機甲戦力として活躍した。1937年12月迄には、独立軽装甲車中隊の編成は十三個にも及んだ。1939年後半になると、これら独立軽装甲車中隊は徐々に戦車連隊へと改編され、九四式軽装甲車は第一線装備から外されるが、歩兵師団所属の騎兵部隊が捜索隊(機械化捜索連隊)に編成替えされるに伴い、軽装甲車中隊が加えられた。各歩兵師団では、師団固有の唯一の機甲戦力として、捜索や連絡任務用の豆戦車として重宝された。その様子は戦時中の1942年、実際に中支駐留の歩兵師団を動員して撮影された田口哲監督作品【将軍と参謀と兵】の中で良く描かれている。太平洋戦線では1939年頃から、後継車両である九七式軽装甲車が優先して配備され始めるが、中国軍が有効な機甲戦力を有しなかった中支戦線では、装備改編が後回しとなった為、終戦時まで重宝されていた。 【攻撃力】砲塔は旋回ハンドルではなく、車長が機関銃ごと旋回出来る軽量な物であった。初期には十一年式軽機ベースの九一式車載6.5mm軽機が搭載されていたが、ご存知の通りこの軽機関銃の給弾機構は複雑でジャミング等の故障が多く、また口径が6.5mmと威力も弱かった為、後に有名なチェコ製ZB-26型7.92mm軽機関銃を参考にした九七式車載7.7mm重機関銃へと改良され搭載された。それまでの九一式車載軽機には銃身に保護装甲ジャケットが無く破損が多かった為に、九七式車載重機には銃身部に保護装甲ジャケットが取り付けられ、また照準眼鏡には射手の眼を発射時の反動から守る為のゴム製クッションが取り付けらた。さらに九七式車載重機は、取り外して車外での戦闘も可能だった。しかし九四式軽装甲車での搭載弾数は1,980発・・・30発弾倉66個・・・しかなく、また30発箱型弾倉式給弾の為、射撃の持続性が弱く制圧射撃には向かなかった。 【防御力】九四式軽装甲車の装甲は8mm〜12mmしかなく、12.7mm口径弾なら約600mから正面・側面・後面・砲塔のほぼ全体を貫徹され、7.7mm口径徹甲弾ですら後部乗降口扉を約300mで貫徹出来た。さらに実戦においては中国軍の小銃弾の直撃によって砲塔側面装甲を貫徹され、乗員が負傷した例もあると言う。 【機動力】中支戦線において日本軍の進撃を最も効果的に妨害したのが悪路とクリーク(水路)と言われているが、全装備重量が約3.5屯の九四式軽装甲車は即席の架橋によって簡単に渡河する事が出来、重量のある八九式中戦車や貨物自動車の様に歩兵の進撃に遅れる事は無かった。装備されたエンジンはドイツ製を国産化した35馬力直列四気筒空冷ガソリン式エンジンで、操縦席の直ぐ横に配置されており、車内からでも修理・調整が可能だった。ただ出力は「大人三人に押さえつけられたら動けない」と言われた程で、出力不足の感が大であったが、整地路面上では最高速度40kmを発揮出来た。初期型ではキャタピラの接地面長が短く超壕・超堤能力が低かったが、改修型でも結局この点は解決出来なかったと言われている。キャタピラは外側ガイド方式と言う、他の日本軍戦車には見られない機構が採用されていた。その為、急旋回や信地旋回をするとキャタピラが外れ易かったそうだ。試験性能上での戦闘行動距離は200kmだったが、燃料補給の乏しい北支戦線の実戦部隊では、燃料混合比率の調整等によってカタログ値の倍以上の400〜500kmは稼動させた例も報告されている。 【その他】九四式軽装甲車は、南京傀儡政権(国民党の有力者だったが1940年3月に重慶を脱出して来た汪兆銘に樹立させた傀儡政権)軍や、同盟関係にあったタイ王国陸軍へ供給・配備されていた。また太平洋戦線でも一部配備されていたが、当時の日本軍主力戦車だった九七式中戦車改ですら歯が立たなかった米軍のM4シャーマン戦車に太刀打ち出来るはずもなかった・・・。
と言う訳で【Shall We タンク!再び】第一弾は如何だったでしょうか・・・九四式軽装甲車って将に一家に一台の軽自動車的お手軽戦車なんですよねぇ、全く・・・さて、まだまだボツ文章・画像はたっぷり残っておりますので・・・頑張ってUPしなきゃ・・・アッ10万ヒット記念バナー作んなきゃ【続く〜ッ(カボスうさぎ風)】
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