みのるの「野球日記」
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2002年11月27日(水) 野球にかける気持ち

 今秋の関東大会。浦和学院の試合を全試合見た。
 
 1回戦から決勝までの4試合。ショートとセカンドが、常に欠かさずに行っていた動きがあった。投球後、キャッチャーがピッチャーに返球するボールに対して、ショートとセカンドがピッチャーの後ろへカバーに入る。ランナーがいるときだけではない。塁上にランナーがいないときでも、必ずカバーに動いていた。

 カバーに入るのは、キャッチャーからピッチャーへの返球が暴投となったときに、走者の進塁を防ぐ意味がある。つまり、走者がいないときに、いくらキャッチャーが暴投しても、試合の勝敗には何の影響もないことになる。それでも、浦学の二遊間を守るふたりは、全ての返球に対して、カバーに入っていた。

 都立高校の監督にこの話をした。
「ウチの学校はカバー入らないんだよね。ランナーがいないときはもちろん、ランナーがいるときも入らないんだよ」
 この都立高校は、初戦敗退が当たり前、たまに一勝を挙げるぐらいの実力しか持っていない。監督は、「本当はカバーに入って欲しいんだけど、まだ教えられるレベルまで言っていない」と苦笑いを浮かべていた。
「でもね……」、と興味深い話をしてくれた。
「この学校に来て7年目なんだけど、7年間試合をやってきて、キャッチャーの返球がそれて、ランナーが進塁したことって、一度もないんだよ。本当は、一度でも返球ミスが起きたときに、カバーに入る大事さを教えようと思っているんだよ。でもさ、7年間、一度もないんだから。一度もだよ」

 1年間でどのぐらい見られるプレーなのだろうか。
「1チームで1年に1回あるぐらいですかね」と監督に訊くと、「いや、1年に1回もないと思うよ」と答えが返ってきた。
「だけど、そのわずかな確率のプレーを、ランナーがいなくてもやる浦学というのは、やっぱりすごいと思うよ。7年間起きてなくても、8年目の大事な試合でそのミスがでるかもしれないしね」
 
 イニングが始まる前、守備側のチームは必ずボール回しをする。キャッチャーからの送球を捕ったセカンド(あるいはショート)が、まずはサードに送る。次いでショート、セカンド、ファーストとボールは送られる。このとき外野手は、自分の定位置につき、手持ちぶさたにしていることが多い。
 だが、浦学は違った。サードがショートに送球するときは、センターがその延長線上にカバーに入る。ショートがセカンドに送る場合は、ライトがセカンドの後ろでカバーをしていた。
 ランナーがいないどころか、まだプレーボールもかかっていない状況でのことである。

 都立の監督は言う。
「勝敗に関係がなくても、そこまで徹底できる。野球に対して、自分たちがここまでやっているという気持ちが大事なんだよ。その気持ちが、最後の最後、一点を争う場面で勝敗を分けたりするんじゃないかな」


 先週の日曜日、東林中グラウンドで東林中対修徳中の練習試合を見た。
 修徳中が守りについていたとき、一塁後方へのファールフライが4本ほどあった。ファースト、セカンド、ライトが懸命に追いかけても、届かないファール。ちょうど、3人の中間に落ちるようなファールである。
 3人は届かないと分かっていながら、頭からダイビングキャッチを試みた。試みたといっても、120%捕ることはできないボールである。それでも、一塁後方へファールフライが飛ぶと必ずダイビングをした。

 
 私は浦学も修徳中も、「だから強い」とは思わない。
 でも、野球にかける気持ちは伝わってくる。



2002年11月23日(土) 野球とピアノ

 最新の『野球小僧』に日大・館山投手(20日のドラフト会議でヤクルトから3巡目指名)のインタビューが掲載されている。その中で、ピアノについて語っている。
「3歳のときから小学6年までピアノをやってましたんで……。だから肩が強いって、よく言われるんですよ」
 ピアノと肩の強さについて訊かれると、「インナーマッスルが強くなる。ピアノやってたおかげで、地肩が強いのかな」。館山は3月に右肩を手術しているが、そのときは「リハビリで本気でピアノをやろうと思って、ピアノ教室を探した」と、話している。

 野球選手とピアノといえば、巨人の桑田投手が有名だ。右ひじを手術した後、リハビリの一環として、ピアノを習い始めた。指先の感覚を失わないようにという意味があったと聞く。

 館山の話によれば、日大の三塁手・村田(横浜から自由獲得枠で指名)も中学までピアノをやっていたらしい。村田は高校時代(東福岡)、エースとして甲子園に出場。日大進学後は強肩内野手として活躍した。

 
 私も小学1年から小学4年までピアノを習っていた。でも、小学5年に上がる頃、母親に「ピアノは疲れるから、エレクトーンに替えたい」と頼んだ。願いは聞き入れられ、中学1年までエレクトーンを続けた。

 エレクトーンに替えたのは、ピアノより楽だと思ったからだ。ピアノは小さな音を出すだけなら、軽く叩くだけでも出る。でも、強弱をつけようとすると、かなりの力で鍵盤を叩かないと「強」を出すことができない。
 しかも、弾くときの姿勢も辛い。当時の先生には、「手のひらと鍵盤の間に卵をひとつ置くような気持ちで、鍵盤を叩きなさい」と言われた。私はそれが辛くて、手のひらがすぐに鍵盤に付くぐらいの小さな隙間で、弾こうとしていた。
 エレクトーンは、それが正確が弾き方かは分からないが、鍵盤の上に手を置くだけで十分。楽に音を出すことができる。楽を求めて、私はピアノを止めた。


 もうひとつ。指を動かすことで大脳、特に運動野が刺激されるという。大脳は10歳までに確立されると言われており、小さい頃にやればやるほど良い。積み木をはじめ、もちろんピアノも大脳の刺激には最適である。ボケ予防のために、60歳になりイチからピアノを始めさせる、老人ホームや病院もあると聞く。それだけ、ピアノが運動野にもたらす力は大きい。

 
 野球をやめてから、指導者の話を聞いたり、トレーニング関係の本を読む機会が増えた。現役時代に知っておけば……、と後悔することばかりだ。
 もし、子どもができたら……、まずはピアノをやらせようかなとちょっと真面目に思っている。親バカ?(笑)



2002年11月19日(火) 東農大3部落ち・・・

 東都大学野球2部3部入れ替え戦が13日終了した。3部1位の順天堂大が2部6位の東農大を2勝1敗で下し、00年春以来の2部復帰を決めた。敗れた東農大は創部以来初の3部降格となった。

 今年、夏の甲子園を沸かせた桐光学園・清原尚志が東農大に進学するという話を聞いたのは、9月の中頃だった。東都の1部校のセレクションにも参加していたが、最終的に東農大に決めた。
 正直、東農大と言われてもピンとこなかった。清原は神奈川を制し、甲子園でも2勝を挙げた左腕。6大学や、東都の強豪に行く道も可能だったと思う。それでも、東都2部に所属する東農大を選んだ。

 清原は東林中3年のときにも、自らの意思で進学先を決めている。自宅から徒歩数分のところにあった甲子園の常連・東海大相模か、当時着実に力を付けているとはいえ、まだ甲子園出場のなかった桐光学園。相模から熱心な誘いを受けたにも関わらず、進学先に桐光を選んだ。1学年10人前後と部員が少ないこと、寮生活ではなく自宅から通えることなどが、決断の理由となった。
 清原の父親は「あの子はマイペースで気持ちの優しい子。寮生活や厳しい練習には着いていけないと、自分で感じていたのだと思います」と話す。自分自身の性格と照らし合わせ、最善の決断をした。
 結果、2年の春にはセンバツ甲子園出場。3年の夏にはエースとして神奈川大会を制し、甲子園出場を果たした。決勝の相手は、奇しくも東海大相模だった。

 
 清原が進学する東農大は93年秋以来、1部から遠ざかっている。最近では00年秋に2部で優勝し、入れ替え戦に臨むが、古岡ー阿部率いる中央大に敗れた。その後は、パッとした成績が挙げられず(下記参照)、今回の3部降格に至った。

00春 2位 9勝 2敗 2分 4点 .818 
00秋 1位10勝 4敗 0分 5点 .714 入れ替え戦 中大 0勝2敗
01春 5位 3勝 9敗 1分 1点 .250
01秋 6位 0勝10敗 1分 0点 .000 入れ替え戦 立正大2勝0敗
02春 4位 4勝 7敗 1分 2点 .364
02秋 6位 3勝 9敗 0分 1点 .250 入れ替え戦 順大 1勝2敗

 来春の東都3部は、東農大、大正大、芝浦工大、成蹊大、上智大、学習院大の6チームで構成される。優勝を争うライバルとなりそうなのは、今秋2位に入った大正大か。その他のチームは……(学内では野球部があることすら知る人が少なかった、私の母校も含まれています)。

 まずは3部で優勝し、2部昇格を願う。そして、8年ぶりの1部復帰へ。清原の投げる姿を見に、来春は東都3部の試合に足を運ぶ機会が増えそうだ。

(ちなみに、東都3部で使われる主な球場はどこなのでしょうか…? 東農大グラウンドになるのでしょうか? 東都3部に詳しい方教えてください。。) 



2002年11月09日(土) 秋関(2) 再び甲子園のマウンドへ 〜浦和学院・鈴木寛隆〜

 関東大会の準決勝終了後、報道陣に囲まれた浦和学院・森監督は決勝戦の先発について訊かれると、
「須永(2年)しかいないでしょう。須永に疲れがあった場合は、今日投げた1年の今成かな。いずれにしろ、どちらかです。鈴木(2年)は……、ないですね。今日も調子悪かったからね。鈴木だけはないですよ」

 今年のセンバツまで、浦和学院にはふたりのエースがいた。甲子園で活躍した須永と、昨秋の関東大会決勝で13三振を奪った鈴木。ともに、130km後半のストレートと、鋭く落ちるカーブを武器にする本格派左腕である。
 ふたりの継投で、センバツはベスト8まで進んだ。だが、鈴木の登板はセンバツ以降、徐々に減っていった。夏の県大会の登板はわずかに5イニング。甲子園では、一度もマウンドを踏むことはなかった。


 準決勝。鈴木は4対2とリードした5回裏から登板し、2イニングを投げ、3点を失った。味方が3点を取り、逆転だけは免れた。
 7回裏からは、ライトでスタメン出場していた須永が、鈴木のあとを継いだ。応援席からは、エースの登板に大きな拍手が起こった。須永は3イニングを無失点に抑え、チームを決勝へ導いた。
 
 試合後、取材を受ける森監督のわずか5mほど先で、鈴木は勝ったチームの投手とは思えない沈んだ表情でストレッチをしていた。
「夏の甲子園が終わってから、監督に『腕を下げて投げてみろ』と言われて、試してはいるんですが……、まだ、自分で納得できていないんです。監督は腰の使い方がサイドに向いているとは言うんですが……。自分は、前と同じように上から投げたいんです。スピードに対して、こだわりを持っているから……。今はMAX134kmなんですが、上から投げてたときは138km出てたんで。速い球、投げたいんです」

 翌日の決勝戦。場内アナウンスは、先発に須永の名を告げた。須永は8回を投げ、14奪三振の好投を見せ、起用に応えた。終盤、横浜高校に3点を奪われ、敗れはしたが、来春のセンバツ出場を確定的とした。鈴木は、ブルペンで一度もキャッチボールすることもなく、9イニングをベンチで過ごした。
 
 表彰式が終わると、十人ほどの報道陣に囲まれる須永を横目に、鈴木は自分の荷物を片付け、バスに乗り込む準備をしていた。
「甲子園……。元のフォーム、上から投げるフォームで甲子園のマウンドに立ちたいです。冬に走り込んで、身体作りをして、もっともっと速い球を投げられるようにしたい。背番号1もまだあきらめていません」



2002年11月03日(日) 引退 〜東京大学・大滝則和〜

 出場4試合。0打数0安打。試合に出たのは代走と守備だけ。打席数ゼロのため、打率は「――」。記録に残っていない。
 これが、東京大学野球部・大滝則和の4年間の通算成績である。
 
 10月28日、東大は明大に1−6で敗れ、2002秋季リーグの全日程を終えた。同時に4年生12人の引退が決まった。そのひとりである大滝は、試合終了の瞬間、一塁コーチャーズボックスに立っていた。

 大滝の定位置が一塁コーチとなったのは、4年の春から。「守ることも打つこともないから」という理由で、大滝はそこに立ち続けた。
 今年の春の開幕戦。一塁コーチをしている大滝を初めて見た。ベンチから、とぼとぼと歩いてコーチャーズボックスに向かうこと、ほとんど大声を出さないことが、印象に残っている。
 しかし、28日の明大戦では、一塁ベンチからダッシュで、一塁コーチャーズボックスまで向かう大滝の姿があった。そして、ネット裏で見ていた私にも聞こえるほどの大きな声で打者に指示を与えていた。大滝の大声を、そのとき初めて聞いた。

 春から秋。大滝が変わったのはなぜか。明大戦終了後、ロッカールームの前で話しを聞いた。
「春はできなかったんじゃなくて、やろうとしなかったんだと思います。どこかで、何でコイツが試合に出て、自分は出られないんだと思うときもありましたから。でも、もう今はないんです。良く言えば、吹っ切れた。悪く言えば、あきらめたんでしょうね」
 秋になり、一塁コーチャーというポジションに全力投球する気持ちが、ようやく整った。
 
 大滝が東大野球部に入った動機は「高校のときの先輩が、野球部でプレーしていたから」。出身高校は東京・筑波大付属。東東京大会で初戦負けが当たり前のチームである。大滝が高校3年の夏も、目黒学院に初戦で敗れた。そんなチームの選手が、大学でも野球を続けられる。しかも、神宮でプレーできる。「先輩を見ていて、東大に入れば、頑張れば野球ができるんだなと思いました」

 頑張れば野球ができる……、でも、大滝は最終学年で一度も試合に出場することはなかった。けれども、「4年間は、それでも満足しています」と話す。「確かに、4年間で出場が4試合しかなかったのは、正直、少ないなぁと思います。でも、やるだけのことはやったという気持ちはありますから」

 大滝は現在、法学部に籍を置いており、将来は検察官を目指している。
 4年間も野球をやっていて、司法試験に影響が出ないのかと訊いてみると、
「知識は野球を辞めてからでも詰め込むことができますけど、野球から得ること、身体で体験することは、今じゃないとできないですから。4試合にしか出られなかったのは悔しいけど、4年間で得た経験は大きいです」と笑顔を浮かべた。



2002年11月02日(土) 秋関(1) 新球カットボール 〜桐蔭学園・平野貴志〜

 秋季関東大会が2日、神奈川県で開幕した。保土ヶ谷球場では7年ぶりのセンバツを目指す桐蔭学園(神奈川2)が作新学院(栃木1)と対戦し、3−2で競り勝ち、2回戦進出を決めた。背番号1を背負う「リリーフエース」平野の好投が光った。

 平野は県大会6試合中5試合でマウンドに上がったが、そのうちの4試合が2番手としての登板だった。先発は背番号3を着ける1年生の渡邊。それを中盤から平野が引き継ぐパターンが、県大会終盤から出来上がっていた。

 今日もまた同じだった。

 1−1の同点で迎えた3回裏、作新は県大会で6割以上の打率をマークした1番岡崎が先発・渡邊のストレートを振り抜き、右中間を深々と破る三塁打で出塁。無死三塁、絶好のチャンスを迎えた。渡邊は次ぐ2番吉田をピッチャーゴロに打ち取り、1死三塁に。
 3番は県大会でチームトップの打点12を稼いだ右打ちの大澤。渡邊は得意のスライダーを2球続け、カウント1−1。3球目に注目しようとすると、ここで三塁側の桐蔭ベンチが動いた。平野が小走りでマウンドに向かってきた。同点の3回裏、1死三塁、カウント1−1という場面での投手交代だった。

「県大会の決勝でもありましたから、特に問題はありませんでした。監督にいつ『行け!』と言われても良いように準備はしています」

 10月5日、保土ヶ谷球場で行われた横浜高校との決勝でも似たような場面があった。0−0で迎えた5回表1死三塁、カウント2−2で渡邊から平野にスイッチ。平野は2者連続三振に打ち取り、ピンチを凌いだ。

 大澤に対して、平野は得意球であるスライダーを多投した。カウント2−3となったあとも、スライダーで仕留めようとした。「自分では良いボールだと思ったんですけど」と平野が試合後に振り返るほど、右打者の外角低めへ逃げる最高のスライダーだった。だが、大澤は体を泳がされながらも、左手一本でボールを拾い、ショート頭上を越える勝ち越しのタイムリーを放った。平野は打球の方向を悔しそうに振り返っていた。

 直後の4回表、桐蔭が北村のレフトオーバー三塁打で同点に追い付くと、6回表には先発した渡邊がタイムリー二塁打で3−2と勝ち越した。

 平野は味方が同点に追い付いた4回から6回まで作新打線を無安打、5三振と抑え込んだ。出したランナーは死球のひとりだけ。得意のスライダーが冴え渡った。
 だが、7回表、先頭の代打箕輪を空振りの三振にとったあと、8番杉山に真ん中ストレートをライトフェンス手前まで運ばれる三塁打を打たれる。
 
 3−2、たった1点のリードながら、平野の投球内容からして、桐蔭に勝ちムードがあった。それが、この三塁打で一気に消えたように思えた。

 1死三塁。作新ベンチは9番大島に代えて、右打ちの代打古澤を告げた。平野はスライダーを連投し、カウント2−2と追い込む。勝負球……、キャッチャーの中村は外に構える。が、平野が投じたボールはキャッチャーの意に反し、古澤の背中へ向かっていった。追い込みながらも、今日ふたつめの死球となった。

 場面は1死一、三塁に変わった。

「もっともマークしていた」と土屋監督が話す1番岡崎を打席に迎えた。監督は背番号15を着けた木村を伝令に走らせた。この試合、最初で最後の伝令だった。

 あの場面がヤマだった、と監督は振り返る。
「『逃げたら、絶対にダメだ! 逃げたら、悔いが残るから、インコースをどんどん突いていけ!』とバッテリーに告げました。ちょっと、バッテリーが弱気になっていましたから」

 左打者の岡崎に対し、平野は攻めた。左バッターがもっとも苦手とする膝元へスライダーを落とした。カウント2−2から、空振り三振を奪った。

 2死一、三塁。2番吉田が打席に入った。左打ちの吉田に対して、攻め方は岡崎と同じ。スライダーを軸にカウントをとり、ストレートは高めに投げさせる。目線を高めに持っていかせ、最後は内側のスライダーで空を切らせる。計算通りのピッチングで、2者連続三振。
 最大のピンチを切り抜けた平野は、8回9回を3人ずつで片付けた。最後の打者をセカンドゴロに打ち取ると、右手で拳を作り、小さくガッツポーズを見せた。

 
 得意のスライダーが冴え渡った……、と思っていたが、試合後の平野の口からは思いもよらない言葉が出てきた。

「今日はカットボールが良かったです。スライダーよりもカットボールを多く投げました」

 ん? 変化球はスライダーだけだと思っていたので、「カットボール」という言葉が出てきたときは驚いた。訊けば、7回のピンチで2者連続三振を奪ったのもカットボールだという。「夏が終わってから土屋監督に教えてもらい、秋の大会から投げ始めた」と話す。監督は、「あのカットボールは、この秋ではなかなか打てないと思う。特にバントは分かっていてもやりづらいんじゃないかな」。

 8回と9回に監督の言葉を裏付ける場面があった。8回は無死一塁、送りバントを試みる作新の4番佐藤に対し、カットボールを続け、3球ともにファールで3バント失敗。9回にも無死一塁で、作新は送りバントを試みる。カットボールを2球ファールし、3球目はバットにすら当たらず三振。飛び出した一塁走者を、キャッチャー中村が刺した。アウトひとつが残りながらも、勝利が決まった瞬間だった。


 平野は桐蔭学園の付属である桐蔭学園中の出身である。エースとして活躍し、中3の夏横浜スタジアムで行われた『全日本少年軟式野球大会』で優勝を果たしている。「中学生レベルでは打てない」とも言われた、上手から投げ込む切れ味鋭いスライダーが武器だった。高校に入ってから、スライダーのキレがさらに増し、そこにカットボールが加わった。

 そして、さらにもうひとつ、変わった点がある。

 今年の6月頃から、中学時代からの上手投げをやめ、腕を下げるようにした。スリークォーターといえばいいか。初めてみたとき、昨年まで駒大で活躍していた桐蔭OBの川岸強(現トヨタ自動車)とだぶった。
「春先から調子が上がらなくて、監督に腕を下げて見ろ、といわれました。最初は正直抵抗ありましたね。でも、実際に投げてみて、すごくしっくりと来たので、これでやってみようと思いました」
 ストレートのMAXを訊くと、
「今は139kmです。上から投げていたときは、136kmだったんです」と笑った。普通は上から投げた方が速い球が投げられるが、平野の場合は違ったようだ。それだけ、スリークォーターが合っていたのだろう。
 
 次戦は、強打の4番松本率いる浦和学院と対戦する。「もっともマークするのは松本選手」と話す平野が、押さえ込むことができるか。注目の対決となりそうだ。



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