加藤のメモ的日記
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2023年09月28日(木) 老いと病に向き合った人たち 森光子(女優)

生きがいの舞台を失って、眠るように逝った(享年92)

森光子さん(2012年没)肺炎 心不全 生きがいの舞台を失って眠るように逝った

森光子さん(2012年没)の前半生は病とのの闘いの日々だった。29歳で肺結核を患い、45歳で乳腺腫瘍のため片方の乳房を摘出。急性肝炎で緊急入院したこともある。そのため人一倍健康に気を使い、大量のサプリメントと漢方薬を常に持ち歩いた。

代表作『放浪記』で長年共演した山本学さん(81歳)が明かす。「最晩年『放浪記』地方公演での森さんはふらついてしまい、舞台上で共演者たちがこっそり後ろから支えないといけなかったほどでした。ところが2000回公演を迎える東京に戻ったら劇的に回復していた。大量に飲んでいた薬をやめたんだと耳にしました。森さんの生活すべては舞台のためにあったといってもいいと思います」

そんな気概を誰よりも理解していたのは、交流のあった医師の・日野原重明さんだった。日野原さんは「人間は意欲、責任感、希望がなくなったらどんどん老いていく。スケジュールは3年先まで埋めておいたほうがいい」と80歳を越えた森さんに「10年日記」をプレゼントした。森さんの最晩年を知る事務所関係者が言う。

「日野原先生の言葉を大切にしていた森さんは、3年先までスケジュールが埋まっていないと不機嫌そうでした。80歳を過ぎても血圧、血糖値、内臓状態など健康診断ではどこも悪いところがない。ですが、年相応に体力の衰えはあるからと、周囲の判断で『放浪記』休止を発表してしまった。あれが生きがいを奪ってしまったのかもしれません」

森さんは死の当日まで病床で他愛ない話をしていたという。ふっと目を閉じてしばらくすると、大女優は92年の生涯を閉じていた。眠るように逝く、とはまさに彼女のためにある言葉だった。


与謝野 肇(享年78)政治家

「人口肛門? 構いませんよ」生活スタイルは絶対に変えなかった

(30余年という長きにわたり、患者としてこの築地に通い続けてきたことになる。通算すれば、外来への通院回数は軽く100回を超えるだろう)

与謝野馨さん(2017年没)の自著「全身がん政治家」で記された「築地」とは、国立がん研究センターのことだ。

39歳で「悪性リンパ腫を発症して以来、与謝野さんの体内では、がんの転移と再発が繰り返された。放射線療法、ホルモン療法、電気メスでの焼灼(しょうしゃく)手術など、与謝野さんの身体は、がん治療のデパートさながらとなった。

2000年に彼の直腸がん手術を執刀した森谷医師(74歳)はこう語る。「直腸がんの手術では、人口肛門になる可能性について必ず手術前にお話しします。何とかして人口肛門だけは避けてほしい訴えてくる患者さんが多い中、与謝野さんは、現実を冷静に受け止めて『その場合は装着して構いません』と話された。

与謝野さんが到達した境地は「がん患者であることに夢中にならない」。がんに囚われて、生活スタイルを変えるようなことは絶対しなかった。与謝野さんは、肺炎により2017年5月21日に75歳で亡くなった。気づけば、最初にがんが見つかってから40年が経っていた。


『週刊現代』7.10


2023年09月25日(月) 三船敏郎 多機能不全 認知症

認知症でも、大きなカンペを見て演じた

名優・三船敏郎さん(‘97年没)が体調を悪くしたのは、71歳で海外映画に出演した後だった。「三船さんはフランス人監督に請われ、イヌイットの部族長を演じました。ですが、アラスカの地での足掛け2年の撮影で体力を激しく消耗し、そこから弱ってしまったのです」(松田道子さん)

蝕まれたのは身体だけではなかった。徐々に物忘れが激しくなり、親しかった人々の顔すら、忘れてしまう日が増えていった。ある時、ずっと別居を続けてきた妻・幸子さんと20年ぶりに再会したが、その顔を認識できなかったという。だが、それでもなお変わらないこともあった。

若いころからの几帳面な性格、そして意図せずとも醸し出される唯一無二の風格だ「三船さんは気遣いの人で、認知症になってからも、人に迷惑をかけないよう、身の回りのことは自分で行っていました」映画界は三船さんの深く年輪の刻まれた風貌、たたずまいを必要とし、三船さんもそれに応えようとした。

74歳だった1994年には、ハワイの日系人の苛烈な生き様を描いた映画『ピクチャープライド』に活動弁士の役で出演する。「数分の出番ながら、三船さんは1週間前に現地に入ると、ホテルと大きなカンペを作り、史郎さんとともに懸命にセリフを覚えたのです」三船さんは人に頼るのことを嫌い、生涯、付き人もマネージャーもつけなかった。しかし、老いてくるとどうしても周囲の手を借りざるを得ない。

年々、体力は低下し、体の各所にも強い痛みが出て、家族のケアを受けるようになった。1995年には、自力での食事すらできなくなり、病院に入院、多機能不全も重なり、医師からは「もう長くない」と言われたが三船さんはそこから5年も生きた。若き日の精悍な印象と違わない強靭な生命力が、三船さんの肉体には宿っていた。

『週刊現代』7.10


2023年09月11日(月) ケーシー高峰 享年85

死ぬとわかっていたから、最期の病気のことは口にしなかった

「ケーシー高峰は、いつも周囲の人を笑わせようとし続けました。舞台に立てば会場は爆笑の連続。どんな偉い芸人でも師匠のあとに出るのを嫌がったものです」ケーシー高峰さん(2019年没)のことを後輩芸人「おぼん・おぼん」のおぼんさん(72歳)はこう懐かしむ。ケーシーさんの医事漫談ネタには、自分の病も入っている。2005年には舌がんで舌の3分の1を切除する。

「師匠は喋れないのにパジャマ姿で病院を抜け出し会場にやってきた。僕は師匠のネタが好きで覚えていましたから『ケーシー高峰とカルーセル麻紀の診療所』をやる師匠の横で、代わりに喋ってコントをしました。回復してからは、すかさずがんネタも舞台にかけた。師匠にとっては老いも病もネタのうち。でも肺気腫だけは、ネタにしているのを見たことはありませんでした」

死因となった肺気腫を発症したのは、死後1年前の2018年だった。「肺気腫を病んだ頃、沖縄でのNHKラジオの公開録画ご一緒したのが最後になりました。師匠は一歩一歩の足取りが重く、空港ロビーから機内までたどり着くのにもぜえぜえと苦し気に喘ぐ。それでも弱音は吐きません。辛いんじゃないかと少しでも思われたら、周りの人が笑えなくなってしまう。だから一切、弱音を吐かなかった

医者一家に生まれ、一度は医者の道を志したケーシーさんには、この病で自分が死ぬことになるとわかっていたはずだ。そして舞台に上がると漫談をやりきった。あまりの壮絶さに舞台袖でおばんさんは落涙したという。「肺気腫は、末期になれば排泄するだけでも息が苦しい病気です。真綿で首を絞められるような状態で漫談をやりきったというのは信じられない」(ホームオン・クリニック野田病院長)

最期まで人を笑わせた爆笑王が、空の上で「グラッチョ」と言ってニヤニヤする姿が目に浮かぶ。


『週刊現代』7.10


2023年09月10日(日) 老人ホームから会合に通い、腰痛でも車いすを拒否した兼高かおる

31年続いた紀行番組「兼高かおる世界の旅」で名高い兼高かおるさん(2019年没)は、還暦を過ぎてもかくしゃくとしていた。共に「日本ツーリズム協会」を」立ち上げた同協会副会長の高梨洋一郎さん(80歳)が明かす。「何歳になっても兼高さんの情熱は世界を旅することに向けられていました。徹頭徹尾、旅行ジャーナリストであることを貫いた人でした。

しかし彼女は歳を重ねるうち持病の腰痛悪化に悩ませられるようになる。「亡くなる3〜4年前のことです。彼女は空港の乗り換え時に腰痛で動けなくなってしまいました。『車椅子を借りますか?』と聞くと、結構です、と言う。人々に『兼高かおるも車いすに乗るようになったか』と思われなかったのでしょう。

生涯独身だった兼高さんは人に迷惑はかけたくない、という意識が強く、2016年には自らの意思で高齢者用施設に移りました老人ホームに移っても、そこから会長も務めた日本旅行作家協会の会合に出席した。最晩年、兼高さんは子供相手のトークショウに出席し、質問を受けた。

「次の旅ではどこに行きたいですか?」しばらく考えた後、彼女はこう答えている。「そうね天国かしら」2019年1月5日、すぅっと細るように兼高さんは旅立った。行先はもちろん天国だっただろう。


『週刊現代』7.10


2023年09月08日(金) 死刑囚に初の再審無罪請求

昨年12月5日、免田さんが亡くなった。95歳だった。”免田事件”としてその名前は歴史に残っている。1948年12月30日、熊本県で起こった事件だ。祈祷師夫婦殺害され、夫婦の娘らが重傷を負う。現金が奪われた、強盗殺人だ
逮捕された免田さんが取り調べで拷問と脅迫加えられ、自白を強いられた。後に公判で無罪を主張した。アリバイがあり、証人もいると……

しかし検察に覆される。地裁で死刑判決が下され、1951年に最高裁が上告棄却を言い渡し、死刑が確定した。しかし、免田さんの戦いはここから始まる。5次にわたる再審請求が其の都度破棄された。6回目の請求が高裁判断で認められ、遂に再審開始。アリバイの明確な証拠が提示される。1983年7月16日、熊本地裁八代支部は無罪判決を下して、免田さんは釈放された。

検察側は控訴を断念、無罪が確定する。事件から実に34年6か月が経過していた。死刑囚の再審無罪判決は我が国で初のこと。これは歴史の大きな転換点だともいえる。もし免田さんの死刑が執行されていたら?考えただけ、ゾッとする。取り返しがつかない。死刑制度に賛否あろうが免田さんの事件を踏まえ、その取り返しのつかなさを考慮すべきだ。

我が国では検察が起訴した場合、99.9%の有罪率だともいわれる。取り調べの手法が問題視され、免罪で泣き寝入りのケースもあるのではないか。すでに死刑が執行されていて、実は無罪だった、ということがあったとしたら?無実の人間を殺したのは国家であり、国家を構成する我々一人一人がすなわち殺人犯ということになるだろう。

大塚公子著『奇形執行人の苦悩』という本がある。死刑を執行する刑務官を取材したノンフィクションだ。彼らは我々国民の代理として人を殺している。裁判員制度が始まって12年を経た。死刑執行人の苦悩を思えば、公選制で国民死刑執行人制度を導入するという考えもあるかもしれない。自分の手で死刑が執行できる、という者だけが、真に死刑制度を肯定できるのではないか。


『週刊現代』7.10


2023年09月06日(水) パソコンの調子が悪いが、時間をかけたら直った

パソコンの立ち上がりが遅いので、エーサーの電話した。1分10円だが、10分ぐらい話していたら直った。

立ち上がりが遅くなった。今度、同じような症状が出たら、しばらく放っておけば直るだろう。
毎日、パソコンを使わないといいかん。

60秒(1分が10円とのこと)30分ぐらいかかったので300円ということだ。

電話番号は、0570-01-6868          (9月22日)


2023年09月05日(火) 悲観主義で幸せになる方法

うまくいかないのが当たり前
そう考えればすべてうまくいく

失敗の味わい深さを知る
人生はままならない。うまくいくことや成功なんて、長い間生きていたとしても、数えるほどしか経験できない。だがそれでもいいではないか、一ツ橋ビジネススクール教授の橋本健氏(58歳)が語る。

「皆さんが薄々感じているように、世の中は決して甘くありません。もっと言えば、うまくいくことなんてこの世に一つも存在しないのです。だからといって人生に絶望しろというわけではありません。あらゆることに『うまくいかないだろうな』と考えていれば、ダメもとで何事にも気負わず取り組めるようになり、たまの成功を大いに喜ぶことができるようになるのです。こう考えることを僕は『絶対悲観主義』と名付けています」

成功より失敗の仕方に慣れておくほうが人生はうまくいく。橋本氏のこの考えが紹介された著書『絶対悲観主義』が今話題となっている。橋本氏が続ける。「趣味と仕事は違いますよね。趣味は徹頭徹尾自分のためにやることで、自分が楽しければそれでいい。一方の仕事は『誰かのためにすること』です。イーロン・マスクさんでさえ、お客にテスラの車を無理やり買わせることはできません。仕事である以上、絶対に自分の思い通りにはならないと僕は割り切っています。

何も自分に厳しいわけではありません。僕は他人には割と甘いタイプだと思いますが、自分にはもっと甘いタイプです。成功しなければいけないという呪縛から自分を解放しているのです。橋本氏は仕事でうまくいかないことがあったら、駐車場に戻り「そうは問屋がおろさないか…」と呟いている。こう口に出してみると、失敗にも味わい深さがあり、むしろ失敗を楽しめるのだという。

絶対悲観主義の思想を実践することで、晴れ晴れとした気持ちで毎日を送ることができている人は橋本氏だけではない。特に苦難に襲われた時にこそ、絶対悲観主義の考えは真価を発揮する。キリンビールで副社長を務めた田村潤氏(72歳)が振り返る。

「キリンビールに入社後、私は本社の営業企画部長代理にまで昇進しました。しかし、上司の命令に従わなかったことで、1995年、45歳の時に左遷を言いわたれたのです」田村氏に告げられたのは、当時の全国の営業所の中で売り上げが最低クラスだった高知支店の支店長という辞令だった。本社の花形ポストから「お荷物」と揶揄されていた支店への移動は、田村氏を動揺させた。

「自分が意識しないようにしていても、『田村はこれで終わった』という周囲からの声が耳に入ってきます。実際に、



週刊現代
11.12 P142


2023年09月03日(日) 統合失調症の一族

心の闇に次々と襲われ、暴力と虐待に蝕まれたある家族の歴史を描く。

人は配られたカードを拒否することはできなのだろうか。生物学的特性はある程度宿命なのかもしれない。だが、人間らしく生きるためには、また別の選択肢も用意されている。アメリカコロラド州のギャルヴィン家12人の子供のうち6人が統合失調症を発症した。本書は家族を見つめる末娘メアリーの視点を中心とした病の歴史を記録したノンフィクションである。

筆者の卓越した取材力と構成力で描かれる一家に起きた出来事は、衝撃的である。殺人、性的虐待、児童虐待……。行き詰まり感を増幅させるのは、同じことが何度も繰り替えされることだ。メアリー自身も繰り返し様々な暴力を受け、暴れる兄をぐるぐる巻きにして火あぶりにする計画をしたこともあった。

家族の歩みは、統合失調症について研究者が長年論争を続けていた。「遺伝」か「環境」かを問う旅と交錯する。かっては統合失調を誘発する責任は母親にあると捉えられていた。ギャルヴィン家の母親はその視線に苦しみ、葛藤はさらに子供を追い詰めた。

しかしその説は覆される。背景には科学や医学が発展すると共に、病に関する遺伝子があるはずだと探索した研究者たちの姿があった。一家の血液サンプルは、遺伝研究の発展に大きな意味を果たしてきた。だが、一家の名前が世に出されることはなかったし、当人は自分たちが研究の要になっていたとは露ほども知らなかったという。

最も心を揺さぶられたのは、隠されていた一家の悲劇を、明るい場所に引っぱり出し、家族で共有していく道筋だ。メアリーは恥ずかしさから長年秘密にしていた一家の経験が、実はほかの人々の人生を良いものに変えうる物語になるかもしれないと思い至るところに希望を感じる。

本書を精神疾患の研究の歴史を描いた本だと思うのは早計だ。それらを通奏低音としながらも、主旋律は愛情を求め、居場所を探し運命に立ち向かい、自らの人生を肯定しようと格闘した家族の物語である。

『週刊現代』11.12







2023年09月02日(土) 老いと病に向き合った人たち

最期の最後まで、自分の命と徹底的に対峙する人もいる

人間ドッグで心臓病が判明  堺屋太一

「命を燃やし尽くす道を選ぶ」
最期の最後まで、自分の命と徹底的に対峙する人もいる。2019年2月に亡くなった作家で、元経済企画庁長官の堺屋さんもその一人だ。妻で洋画家の池口千歴子さん(78歳)が語る。

「主人は亡くなる一年前、定期的に受けている人間ドッグで心臓に異常が見つかりました。そこの先生がより精密な検査を受けたほうがいいというので、港区にある心臓血管研究所付属病院に検査入院したのです。その結果、軽度の心臓病が判明しました。

とはいえすぐに手術する必要はないとのことで、自宅で経過観察となりました。その時は胸をなでおろしました。ですが今思えば、その頃からおしゃべりだった主人の口数はだんだんと減っていったのです。異変を来す前の堺屋さんは、ライフワークでも、ある博覧会プロデュースの仕事にも精力的に打ち込んでいた。2018年8月には堺屋さんと仕事場を全面改造した美術館「美術愛仕館」で「堺屋太一監修
万国博覧会展」を開催し、2025年に予定される大阪万博の誘致、準備にも尽力していた。

そんな堺屋さんは2018年の秋ごろからしきりに体の不調を訴えるようになる。日常生活の中でも、折に触れ「あぁ、足が痛い。膝も痛い。歩くのが辛い」とこぼすようになった。そして翌年1月7日、突然自宅で倒れてしまったのだ。堺屋さんは病院に運ばれすぐに手術を受けるも、次第に衰弱していき、緊急入院からわずか1か月後、多臓器不全により死去した。

今になって振り返れば、堺屋さんは最期を悟っていた節があったという。通産省に在職中だった1975年に『油断!』を上梓して以降、休む間もなく執筆してきたg、死の直前はそれまで以上に原稿に撃ち込むようになったのだ。

「主人は朝7時や8時まで徹夜で執筆することは珍しくなかったのですが、倒れる直前は10時を回っても部屋に籠り、原稿を書き続けていました。本当に鬼気迫る勢いです。心配のあまり「お願いだから、もう休んでください」と頼んでも聞いてはくれなかった。それが原因で口論になったこともあります。主人からしたら、書き残したいこと、伝えたいことがまだあった。だからこそ、命を燃やし尽くす道を選んだのでしょう」

自分がどこまでやれるのか。残された時間をすべてつぎ込み、自らの本懐をまっとうする。死に至る病を前に、堺屋さんは最後まで闘い続けた。


『週刊現代』7.10 


2023年09月01日(金) 老いと病に向き合った人たち

梅原猛 

がん 肺炎 享年93

「死に方に哲学があらわれる」3度のがんでも愚痴は言わないと決めた

生と死を見つめ続けた哲学者らしい最期だった。梅原猛さんが京都の自宅で息を引き取ったのは、2019年だった。息子で京都芸術大学名誉教授の梅原賢一郎さん(68歳)が語る。「父の体調に変化が訪れたのは、2017年12月29日でした。夜中にトイレに行った際に、転倒してしまったようなのです。朝、母が気が付いた時にはベッドへ戻り、うつ伏せになった悶絶していました。すぐに救急車を呼び受診したところ、腰椎の骨折だと診断されました」

年の瀬というタイミングも悪かった病院が平常時のような診療体制を取っておらず、精密な検査を受けられない。結局、手術を受けるまで10日間も空いてしまった。その間に、体力が一気に低下してしまったのだ。年明けの手術は成功したが、骨折により梅原さんは寝たきりの生活となった。高齢になるほど、一度寝たきりになると、体中の筋力が劇的にしてしまう。それは喉の嚥下機能も例外ではない。

転倒事故を起こしてからの梅原さんは、あっという間に固形物を食べられなくなった。梅原さんはチューブを食道に通して流動食から栄養を摂っていたが、衰弱は進む一方だった。そして2019年1月12日、肺炎を悪化させて亡くなった。93歳と長寿だった梅原さんだが、病との戦いは30年以上に及ぶ。60歳で大腸がん、72歳で胃がん、82歳で前立腺がんと実に3回もがんに侵されている。

度重なるがんとの闘病に、晩年の転倒による体力の低下から起きた肺炎、老いと向き合うにつれ、梅原さんはある境地にたどり着いた。

「父は、死に抗う姿勢を一切見せませんでした。ことさら『死』とは何か、口に出すこともなかった。愚痴を言わず、弱音も吐かない。私たちに高尚なお説教を垂れることも、もっともらしい遺訓を残すこともしませんでした。きっと父は、死に方にこそテル学者としての生きざまがあらわれると信じていたのでしょう。ただただ静かに死に向き合い、デクレッシェンドするように最期を迎えました。灯が自然に消えていくような死に方です。母は父が死んだとき、『まるで花が咲いたみたいに逝っちゃったね』とぽつりと漏らしました。長く一緒に過ごした母でさえ、深く納得できる最期だったのだと思います」

生きることはつまり死ぬことと同義だ、そんな信念を胸に秘めた梅原さんだからこその、大往生だった。


『週刊現代』7.10


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