++るうの独り言++
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2001年10月30日(火) 教訓

仕事を頼まれた。ボランティアである。
で、自分の持てる技術と能力の範囲内で精一杯やっている、つもり。

が、その最中、私をはるかに上回る技術と能力の持ち主が現れた、らしい。

しかし
依頼人は私に仕事をさせつづけた。
そしてとりあえず仕事が終了した。
依頼人は「ありがとう」と感謝の言葉を与えた。

が、
私の行った結果はまもなく全て破棄された。
“技術と能力の持ち主”がすべてやり直した、らしい。

そして依頼人は私が仕事している最中に、“技術と能力の持ち主”に、
「本当はあなたに頼みたいんだけどね、それだとなんか角が立ちそうでしょ? るうはなんか一生懸命やってはくれてるんだけどね、技術不足でねー、私の要求やセンスに微妙に合わなくて、いまちょっと迷惑だったりしてるんだー。でも最初に頼んじゃったから、しょうがないんだよねー」
と言ったということを、第三者から聞いた。

教訓1)努力がいつも報われるとは限らない。
教訓2)「他人に良かれ」と思っていることはたびたび自己満足に成り果てる。

早い時期にさっさと
「あのさ〜、こうこうこうなんで、“技術と能力の持ち主”さんに頼んでもいい? せっかくここまでやりかけてて悪いんだけどさ〜」
といってくれたほうがどんなにすっきりしたことか!
私も余計な労力と脳みそと無駄な時間を使わずに済んだか!
しかも本音を第三者から聞くことのショックはかなり大きい。

教訓3)一見残酷に見える言葉のほうが、実は優しさ思いやりを含んでいる。
教訓4)他人は本当は感謝してなくても「ありがとう」といえる。




◆昔の今日の記事


2001年10月18日(木) 自信

別の学校だが、同じ小学生をもつお母さんと話す機会があったので、仕事をしながらべちゃべちゃと口を動かしている。
学校がちがうので聞き手に回る私。

「クラスにね、挨拶もきちんとできて、明るいいい子がいるのよ〜」
「ふむふむ」
「男の子なんだけどねえ。そんでその子のお母さんに、聞いたの」
「ほうほう」
「あんないい子に育つにはいったいどういうしつけをしてきたの、って。見習いたいわ〜、って。」
「うんうん」
「そしたらさ、その子のお母さんがいうにはね、『大事なのはね、子供の先回りをして大人がやってしまわないこと。失敗をして得るものがあるんだし。私は極力手をださないの』なんだって! すごいよねえ! やっぱり違うよねー、わたしなんかすぐ口も手もだしちゃうしー」
「うーん」

私は別の意味で「すごいな〜」と思った。
仮に自分が「自分の子を褒められ、今までの子育て方について」聞かれたとき、
その子のお母さんのように、自信を持って「かくあるべし」と堂々と子育て論を話せるか?
否! 断固否! ぶるんぶるんと頭をふろう。

考えてみると自分の子育てにとことん自信を持てる母って別の意味で怖くないか?
他の子供もそうでなければならない、と思ってはいないか?
子どもって親の見てないところで、なにしてっかわかんないもんだぞ(^^ゞ 

「ねえねえ、その子Aくんの弟でしょー?」
「うん、そうそう!」
「その子のお兄ちゃんがうちの子と同じクラスなんだけど、すっごい意地悪なんだよ〜。口が達者で、結局頭はいいんだと思うんだけど、自分の都合のいいように言葉ごまかしたりね! お兄ちゃんの方は挨拶なんか全然しないよ」
「へえええ」
「えーーっ! そうなんだー!」
「兄弟でも全然ちがうのよね〜」

るう「、、その立派な子育ては実は最近始めたんだったりして?」
全「*大笑い*」




◆昔の今日の記事


2001年10月12日(金) 空爆に思う

戦争はたんなる暴力行為でなく、『外交の一手段』なんだということを痛烈に実感。決して感情で戦争はしていない。「冷静な理論と計算」のもとに「理性的」に戦争は行われている。
がきんちょのケンカ感覚で戦争をとらえるのは余りにも無知すぎる。アホまるだしである。*反省*

そして外交の判断基準は“自国の利益”だ。それ以外でもそれ以上でもない、と思った。
この国と仲良くしたほうが得である。この国とは仲良くしないほうが得である。そういった、いうなれば“損得勘定”で国は動く。
日本が戦火にさらされないのは“日本国憲法”があるからではない。こういった損得勘定が他の各国に働くからだろう。
「経済」「技術」「後ろに控えるアメリカ」などなど。
中国や韓国が「戦争責任」をいつまでもしつこく言いつづけるのは、「謝罪」を武器に日本より外交的優位にたとうとするためではないかと思ったりもした。

イギリス、ブレア首相のリーダーシップを褒め称えるむきが多いが
なに、「もともとの責任はイギリスに有り」をよくわかってるだけのことだろう。
「この件に関しては、イギリスがぱきぱき動かないでどこが動くというのだ!」などと私なんぞは思うのであった。




◆昔の今日の記事


2001年10月09日(火) 存在意義

ひさびさに川田母を見る。
・・・以下個人攻撃の文章。

私もいつまでたってもいい母親になれないが、こやつもちょっとひどいぞ。
そしてこういう母親が「我々を代表する国会議員」なのかと思うとげんなりする、という話をする。

というのも
相変わらず、川田龍平という彼女の息子につく修飾語は
“薬害エイズ患者”
だけなのを知って唖然としたのだ。
息子は20をとっくに過ぎたはずだ。

たしかに
自分のせいではなく、他人に無理やり人生を捻じ曲げられ 将来や健康に不安を抱いてなくてはならないのは気の毒というしかない。
自分の子供がそうなったら、私は何もかも呪うだろう。泣きわめくだろう。

が、考え直せば
今生きとし生ける人間全てが、程度は違うにしても同じ苦しみをもっているのではないのか?
交通事故でおさない子をなくした(殺された)母はいうだろう。
「それでもあなたの息子は生きてるじゃない!」


2度と同じ自分の子のような子供を作らないために行動を起こすのは大事なことだ。だからカミングアウトさせたんだろう。
だが肝心なことを忘れている。
カミングアウトした「自分の息子だけ」が大変な困難にあっているのではないということを。
カミングアウトしたことじたいが凄いことではないとということを。
カミングアウトすることによって、カミングアウトできない日本国中の薬害患者の思いを背負うということを。
しかし自分の息子にはそれを背負えるだけの思いやりや能力やそういったものが(年齢的にも)備わってないということを。
さらにそういった重責を背負わせるためにいろいろな勉強もさせていないということを。

だからいつまでたっても
川田龍平という人間には「薬害エイズ」という修飾語しかつかないのだ。

もっとひどい言い方をすれば彼のアイデンテティーは「薬害エイズ」によって成り立っているともいえる。ということは、今彼から「エイズ」をとったら何もないんじゃないか? そうすると彼は「旧厚生省」や「安部某先生」に感謝せねばならんのではないか?

・・・自分の息子にこんなことを言われたら、わたしゃ屈辱で震えるね。冗談じゃないね。
だからこそ、例えば
エイズではあるけれど、現在、学校の教師であるとか、
同じような病気の人の介護士になるとか、
これこそなんなら厚生労働省に就職したっていいじゃん。中から改革を!ってたらすごいとおもうぞ。

そういうことをさせないで、いったいこれからどうするんだ?
こういった問題と戦う「運動家」にさせる?
・・・社会に生きるいろいろな人々のさまざまな心を実際に思いやれない人間が「運動家」になったって、机上の空論、説得力なんかぜんぜんない。
大昔の「学生運動」と同じレベルじゃないか。

エイズを「葵ご紋の印籠」にしてどうするんだ??
他人に自分の子を差別させてどうするんだ??

・・・彼女が出てきてなんか物を言うたびに、イライラしてならない。




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2001年10月03日(水) 言い過ぎ集

>署名だの、戦争反対だの、それはそれでたしかにそうなんだが、
>どーも今回はそれは論点がずれているような気がしてしょうがない。

先日、こんなことを書いたが
なんでそんな感想をもってしまうのか、自分の心を分析。

---わかった。

今回の運動が
「傷み、悲しみ、悔しさ」そういった人々の心への共感がないところではじまっているような気がしてならないせいだ。

「テロは悪いことだ。でも・・・」
「テロは許せない。しかし・・・」
でもってなにさ、しかしってなんだい。

ものすごい例えになるが、、、。
いま老人ホームで高い敷居にけっつまづいて、お年寄りが転び怪我をしたとする。
と、それを見たある人が
「老人ホームのような施設で、こんな敷居を作っているとはけしからん。ホームの設備に問題がある。施設整備を怠ったホームを訴えよう! 2度とこんなことが起きないように署名をあつめよう!」
と立ち上がったとする。
それは確かに御説ごもっともだ。とっても大事なことではある。
んが、けっつまずいた本人にとっては、そんなことよりまず
「すぐ抱きあげてよ。いたかったね、たいへんだったね、大丈夫?って言ってよ。怪我をしたところを消毒して包帯まいてよ。痛みが引くまでそばにいてよ」じゃないのか?
「訴訟なんて、そんなのけっつまずく前に、事件が起きる前にやってよっ! 事件が起きてからどたばた言い出すなんて、結局あんただって今まで気が付いてなかった、しらんぷりしてたってことなんじゃん!」と。

・・・痛みや悔しさや悲しさといった共感が出来ない人間達に、全人類の平和なんてはたして本当に考えられるんかね? *言い過ぎ*


それからもう一つ。
「アメリカはいままで散々ひどいことしてきたんだから、こういうことされてもしかたないんじゃないの?」
という(もしくはこれに類した)言葉。

私は、いついかなる時でもどんな非常時においても、
「人の命を他人が好き勝手にしてもいい」なんてことは絶対に許されない、と思っている。
しかも国家の責任を個人が負う必要も絶対にない。

さっきの発言をした人々は、実は「報復」を認めてるのだ。
報復はしてはいけないと言いつつ、その心は反対のことを願っているらしい。
「あの国はあんな“ひどいこと”したんだから、報復行為をされてもしかたないんじゃないの?」
「日本は戦争中ひどいことをしたんだから、原爆をおとされてもしかたないんじゃないの?」

歴史という流れの中では「悪」も「正義」もないのがわからないのか?
そう、悪だの正義だのにみえるのはたんなる「主観」である。

大事な問題である。じつに大きな問題である。
感情的な軽軽しい発言だけは慎もう。*言い過ぎ*




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