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2005年11月15日(火)
『新世紀へようこそ』池澤夏樹

『新世紀へようこそ』光文社 池澤夏樹
『われわれは2001年の9月11日から真の21世紀にはいりました。』という言葉で、9月24日から始まった、MLの連載をまとめたものである。

現在持っている情報で判断する。(情報源は一般読者と同じ、テレビ、新聞、インターネット)MLという特性から日々いろんなメールが入ってくるが、それも本の中に取りいれ、一冊の記録とする。(対立的な意見も取り上げる。訂正すべきはして、反論すべきは反論する。)常に弱いものの立場にたつ。(どういう立場で事実を見るか、それがはっきりしていないと、そもそも溢れかえる情報の中で溺れてしまうだろう)その結果どういう本が出来るか、2001.11.6段階で、アフガン戦争に対するスタンス・根拠は、今でも充分通用するだろう。(アメリカと日本等同盟国はやがて歴史の審判から違法の審判が下される可能性があるが、最も情報のない一市民の意見のほうが歴史を見通す力があったということになるのだろう)かって、ベトナム戦争のときもそのようなことがあった。

新世紀に入って、アメリカに対する反対意見は一瞬にして世界を巡るようになった。池澤夏樹の意見に対してパリから、アメリカ、イスラエル、カンボジア、タンザニアから次ぎの日には意見が入ってくる。アメリカの兵器の性能も向上したし、ゲリラ作戦に対する戦術も向上して、ベトナムの徹を踏まないようにあらゆる対策は練られもしたが、平和運動もこの30年間で向上している。そういうことも考えさせる一冊であった。

池澤夏樹の名前は最近どこかで見かけたなあ、と思っていたのだが、(「星の王子様」訳者であることは当然)やっと思い出した。私の今年のナンバーワン映画「エレニの旅」の字幕翻訳者だったのだ。ひとつの台詞が二重にも三重もの意味を要求する難しい翻訳、世界への理解と、歴史への理解、なかなか素敵な仕事であった。

本文とは関係ないが、

私がこの9.11のニュースに接したのは偶然にも上海ぶらぶら旅の途中であった。夜、ホテルで中国のテレビ番組を見ていると隣の外国人の部屋がいやに騒がしい。NHKBSを見ると、なるほどとんでもないことが起きている。朝、中国のニュースを見ると、なにも報道していない。(市民新聞は二日後に一面で扱っていた)私は急いでいたので早朝そのままホテルを出た。それなりに波乱万丈の旅を終えて、二日後上海空港を旅立った。セキュリティーチェックなんていいかげんそのものであった。ところが、日本に戻ってくると、『よく帰ってこれたわね』という状態だった。日本人は世界中の空港で厳戒態勢が敷かれたのだと思ったらしい。中国では何の騒ぎにもなっていなかったのに、日本ではまさに世界が変わっていたのだ。

確かに「世界」は変わった。それは認めよう。『アメリカが支配する世界』(パックスアメリカーナ)は新たな段階に入った。よって、アメリカの多大な影響を受けている(支配されている)日本も世界が一変していたのである。しかし中国ではなにも変わらない。あい変わらず、アフガンの石油パイプの利権を巡り、アメリカと経済戦争を起こしている。私の目は池澤のように国際的ではないが、9.11に関しては偶然にも国際的複眼を持つことに成功している。
(05.10.29)



2005年11月14日(月)
羊の宇宙

だんだんストックがなくなってきたぞ〜

羊の宇宙
夢枕 獏, たむら しげる
文芸春秋社

天山の山の中で放牧しいるカザフ族の少年と、100歳をとうに越えている天才物理学者の愉しい問答。

たむらしげるの『シンプル』だけど『宇宙の広がり』を感じさせる絵と、夢枕獏の短編がコラボレーションした異色の絵本である。

「その光というものなんだけどさ、
 もっと速いものを僕は知っているよ」
少年は眼を光らせて言った。
「なんだいそれは?」
「ぼくのお父さん」
「えっ?」
「正確に言うなら、
 お父さんがお父さんになった時かな」

なぜか分からなければ、本書を手にとって……。




2005年11月07日(月)
「ドリームバスター2」宮部みゆき

「ドリームバスター2」宮部みゆき
前の本の続き。異次元世界「テーラ」から時空の穴を抜けて逃げ出した凶悪犯人を追って、ドリームバスターのシェンとマエストロは地球の日本という国の夢の中に降り立つ。

そういう世界観だけで出来上がった物語かと思っていたら、前作のラストで少し変化があった。さあ、それでは「2」ではそこが展開されたり、解決するのかな、と思っていたら……

これはないんではないか(怒)

これはまだ物語が始まってもいないということなのか。
宮部みゆきの作品は最近は特に長く長くなっているが、
この作品の終わりが見えない。
まさか田中某みたいに全10巻ぐらいを考えているのではないでしょうね。
それなら、一年に二作ぐらいのハイスピードで書いてほしい。
これだと一体終わるのに何年かかることやら。

「ブレイブストーリー」はアニメ映画化される。
この作品、もしアニメ化されるのなら、
絶対テレビの連載アニメのほうがよい。
なんだかこの作品はアニメ化を
狙っているような気がしてならない。
Last updated 2005.08.21 23:58:46



2005年11月06日(日)
貫井徳郎「殺人症候群」

貫井徳郎「殺人症候群」
やっと文庫本が出ました。一気に読んだ。
解説子が言っているように、この小説に限っては
第一作「失踪症候群」第二作「誘拐症候群」を読んでから
この三作目に入ったほうがよろしかろうと思う。

設定自体がまるで現代の「仕掛け人」なのであるが、
三作目に至ってはまるで仕掛け人VS仕掛け人。
というエンタメ性と、
最愛の人を殺されたのに、加害者は法の網をくぐりのうのうと生きている。果たして彼らに復讐することは許されないことなのだろうか。
重い問いに対して、安易に倫理的な理屈を持ち出して解決しようとしていない。その普遍的な問い。
いつもながら、視点が次々と変わることによる、「何かある」と思わせる構成。傑作です。長い間待っていた甲斐がありました。

ところで私、この本は三部作で完結したことになっているらしいのですが、
わたしはぜひとも四作目を造ってもらいたいと思います。
なぜなら主要登場人物で、ひとりだけ過去が明らかになっていない人がいるということがひとつ。
失踪、誘拐、殺人、とだんだんと犯罪性が高くなってきたなら、
最後まで行かないといけないでしょう。というのがひとつ。
今回ひとつの罪の根源に迫ったのだとしたら、
次に「敵」として相対するのは
「国家」でしょう。
だとすれば次の題名は決まりです。
「テロ症候群」。
(これだけカタカナというところにいまひとつ自信が持てない。
かといって「天誅症候群」というのもなあ……)
(05.10.29)




2005年11月05日(土)
『ヒトラー最期の12日間』ヨアヒム・フェスト

『ヒトラー最期の12日間』ヨアヒム・フェスト著 鈴木直訳 岩波書店
映画『ヒトラー最期の12日間』にはヒトラーの二つの印象的な台詞がある。幹部が『若者が次々に死んでいます。』と告げられて『それは彼らの義務だろう』と平然と応える。あるいは地上では市民が爆撃で大変なのだと告げられて『私は彼らに涙しない。彼らが(私を)選んだのだ。自業自得だ。」と応えるところである。この映画は歴史にかなり忠実に創られたのだということを聞いている。そうだとするとこの台詞も記録に残っているのだろうか。私はこの本を読むときまずそのことに注目した。

この本の著者は戦後一貫してヒトラーの人物像を追い求めてきた歴史家であり、ドイツのヒトラー像は長い間「悪魔化するか、けなしてまともに扱わないか」だったののに対して『脱悪魔化』を早くから唱えていた。そしてこういう映画で出来るのに60年を要したのである。ドイツでさえ、そうであったのだ。ましてや、ほとんど天皇の実態に対して実証的研究が出来ていない日本の場合(つまりドイツと比べて証言があまりにも少ない)、このような映画が出来る可能性は皆無に近いだろう。

さて、上記二つの台詞に関しては1941年外国人記者にヒトラーはこのようにいっている。『自らの生存のために血を流すだけの』『強さも犠牲的精神も、もはや持ち合わせていないのであれば』ドイツ民族など『滅び抹殺されてしかるべきだ』私はそのようなものに『涙しようとは思わない』

『自業自得だ』といったのは宣伝相ゲッペルスである。1945年4月21日。彼の部下であるハンス・フリッチ部長はいう。『国民が示してきた忠誠、信念、献身的態度は無視してはなりません。』ゲッペルスは怒りながらいう。『われわれはドイツ国民に無理強いをしてきたわけではない。同じように私はいかなる人間に対しても、自分の部下になるように無理強いした覚えはない。国民が自分のほうからわれわれに委任したのだ。…つまりは自業自得ということだ。』しかしこの言葉は上記ヒトラーの言葉と合わせるとほとんど同じ考え方だったといっていいだろう。『彼らの義務だろう』といったのは映画的創作だったのかもしれない。しかしどこかでそういってもおかしくはない。そういう狂気があの地下壕では沈殿していた。

ヒムラーもゲーリングもゲッペルスはもちろんのこと、このヒトラーに対して盲目的服従をしていく。歴史上の人間の科学的研究はまだこれから行われていくのだろう。
(05.10.18)



2005年11月04日(金)
『川辺の風景』朴泰遠 著 

『川辺の風景』朴泰遠 著 牧瀬暁子訳 作品社
清渓川(チョンゲチョン)の川辺で生活する1930年代のソウル下町庶民の風俗小説である。本の表紙の写真を見て、ソウル郊外の田舎町の物語だと思ったら大間違いである。実際はソウルの街の中心部、現在でいうと鐘閣駅の南側の人々の生活を描く。そこにその頃下水も洗濯の川も兼ねた生活用水があった。母子世帯の母親、田舎から薬局店に住みこみで働く少年、散髪屋で使い走りをしながら街を観察する少年、妾を囲う街の有力者、飲み屋の女中、かどわかされて出てきた寡婦、全部で50章、主人公を時々換えながら淡々と描く。

名もなき貧しい庶民の小説で、こういう構成の小説として私は藤沢周平の『本所しぐれ町物語』を思い浮かべた。しかしこの小説は藤沢文学とは実は対極にあるといっていい。藤沢文学が庶民の身体に寄り添うように哀切を描く『濡れた』文学だとしたら、朴泰遠のこれは庶民を客観的にドキュメンタリーのように突き放して描く『枯れた』文学なのだ。それが朝鮮文学の特徴なのかどうかは私は知らない。エピソードの中には嫁ぎ先で不幸になっていく娘を想う母親の話等、描きようによってはいくらでも泣かせることが出来ようものなのに、ここに出で来る庶民は打算的で、常に金と地位のことが頭から離れず、成功を夢見てはいるが、一方情に厚い人々で、私は正直あまり共感を持つことが出来なかった。しかし、これこそが賭け根なしの30年代ソウル下町の韓国の庶民なのだと著者はいいたいのだろう。それだけに民俗的な記録のように忠実に生活実態を写しているのは、読んでいてよく分かった。

訳がいいのかどうか分からないが、文体は現代文学とほとんど変わらない。ただ、読み進めるのには当時の時代風俗に精通してないと難しい。ただ、この本には実に30ページに渡る詳細な『註』が付いていて、この注自体がちょっとした戦前ソウル下町事典の様相を示していて面白い。

註釈や解説文の充実といい、朝鮮文学の入門編としては、なかなかいいテキストではあると思う。玉に瑕は少し高いことであろうか。

今年10月いったん蓋をされて道路になっていた清渓川が整備されてまたソウルの街中を流れる『自然の川』としてデビューを飾っている。この本を読むと、おそらく誰もがこの川辺の風景を歩きたくなるだろうと思う。当時の地図も付いているので、現在の地図と比べるのも愉しいだろう。おそらく今では当時をしのぶ店構えはは見るものもないだろうが、新名所の河辺を散策して洗濯風景を想像するのもよいだろう。鐘閣駅前の和信商百貨店(現在の鐘路タワーあたり)やYMCAから鐘路5街へ歩いて、今も残る団成社の映画館へ足を伸ばし、田舎から出てきたチャンス少年が次第と街の少年に変わっていった様をしのぶのもいい。昔歓楽街だった貫鉄洞の辺りを歩いて、ミン主事が妾のもとに通っていた日々を想像するのも楽しかろうと思う。
(05.10.15)



2005年11月03日(木)
『韓国のデジタルデモクラシー』玄武岩 

『韓国のデジタルデモクラシー』玄武岩 集英社新書
韓国のノ・ムヒョン政権の実現の原動力になったインターネットの実際とはいったいどういうものなのだろうか。今回の衆議院選挙でも話題になったが、もし公職選挙法が改正されたら、日本でもその可能性があるのだろうか。そういう問題意識でこの本を紐解いた。

著者は韓国出身の東大助手。1969年生まれだから現在34歳。典型的な2030世代(現代の20〜30代。02年大統領選の中心世代。キム・デジュン大統領を実現させた世代とは様変わりている。)である。初めての著書だそうで、少し詰め込みすぎて、韓国の公職選挙法の実態も分からないし、日本でよく見られる『荒し』に対する対応の仕方もよく分からなかった。今ひとつイメージが沸かなかったのではあるが、いくつか受けた刺激をもとに、日本の『デジタルデモクラシー』について、展望、とはいえないまでも感想を述べたい。

背景としては民主化運動と大新聞社との歴史的な対立構造がある。60〜80年代パク政権時代に朝鮮日報、中央日報、東亜日報<朝中東>の権力癒着は構造化し、さらに新聞自体が権力化する。それに対抗して「ハンギョレ新聞」なども創刊されるが、力としては弱かった。そして最初選挙運動監視者運動などの成果で多くの市民言論団体が登場する。これらの運動が発展して常勤記者と市民記者でつくるインターネット新聞「オーマイニュース」http://www.ohmynews.com/「プレシアン」などが生まれる。

私は今ひとつその実態が分からなかったが、その日本版の「JANJAN」というサイトがあることを知り、訪れてみた。日本版はおとなしい。まだ市民記者が少ないので暗中模索の状態なのであろう。「オーマイニュース」は現在35000人の市民記者、60人の常勤記者で1日200本の記事をアップしいる。そのうち150本は市民記者によるものだという。

候補者の公式HPも大統領選では先にはじめたノ・ムヒョンに圧倒的に有利であった。HP「ノハウ」だけでなく『ノムヒョン放送局』『ノムヒョンラジオ』などのインターネット放送も積極的に活用する。(現在大統領のHPは青瓦台のHPに統合されているらしい)もちろん掲示板は公開されているから、誹謗中傷も入ってくる。それに対しては閲覧数の高いものを「ベストビュー」として別途管理したという。選ばれるのは鋭い情勢分析の場合もあるが、多くは一般の人の感性豊かな体験談らしい。また、オンライン上では誹謗をかわす論拠や相手候補の失策が即時に伝播出来るというメリットもある。たとえばハンナラ党が賛助演説員として投入した「普通の受験生のオモニ」が、実は議員の補佐官であったことは、インターネットを通じてまたたくまに広まったらしい。いずれも自発的な『ネティズン(ネット市民)』の層の広がりと歴史的に鍛えられた成熟度を示すエピソードだ。

もちろんオンラインに全てを託したわけではないらしい。しかし、オンラインではないと出来ないこともあった。象徴的なのは大統領選投票前日に候補一本化によりいったん引き下がった有力候補が突如ノムヒョンに対する支持を撤回するするという事件が起きた。そのとき支持者が書きこんだ掲示板の文章が『オーマイニュース』や公式ホームページにすぐさま流れ、するべきことが示される。『ニュース』の訪問者数はその日延べ623万人に上ったという。支持者は電話やメールでもう一度知人に指示を訴える。結果はいうまでも無い。

著者は「ただインターネットという武器を先取りして積極的に活用したことだけでない。水平的で分権的なネットワークは、自発的な参加と議論の場を保障する双方向性と内容の真実性によって成り立つものである。」と書く。確かにいくつかの事実はそういうことを証明するのだろうが、韓国のこれからもその方向で行けるのか、日本はその条件があるのか、私には今だ分からないことだらけだ。例えば日本の場合、単にビュー数が多いという情報が流れただけで、その「真実性」は検証されずに世論が形成されないか不安である。韓国ではその可能性はなかったのだろうか。ただ、日本の『デジタルデモクラシー』の可能性については、公職選挙法の改正を待つ以前に課題はやまほどあることだけは分かった。

敗れた保守政党は反撃をする。インターネットを含むあらゆるメディアを使って。しかし2004年の大統領弾劾決議後の総選挙で再び敗れるのである。韓国は1年後がどうなるか分からない状態が今だ続いている。ただしその激動の中で、昔血を流して戦っていた若者が、今は子供をつれて集会に参加するようになり、韓国の『政治参加』民主主義の成熟度は後戻りできないほど高まっているように感じられる。

著者は韓国と日本の市民社会が連帯する可能性はあるという。「ナショナリズムの動力が推進してきた韓国の『一国民主主義』は、外に向かって開かれた市民的民主主義へ脱皮することを、今こそ求められている」「それに比べて、日本の市民運動は、国家の政策を左右するような闘争力や組織力はなくても日常生活に密着した生活政治の発現という傾向性を持っている。」変な褒められ方をしたものではあるが、確かにそれは日本の国民性の欠点でもあり美点でもある。そこに日韓の市民運動の交流の必要性を、私も切に感じる。映画の製作、共通教科書の作成、いくつかの萌芽はすでに出てはいるのだ。市民運動でどうして出来ないことがあろうか。




2005年11月02日(水)
総動員の時代

総動員の時代―私たちはこうして戦争に呑みこまれた
岡山・十五年戦争資料センター編
−: 317 p ; サイズ(cm):
出版社: 吉備人出版 ; ISBN: 4860691024 ; (2005/07)


一般的に、映画や漫画や小説の世界で、勤労動員、朝鮮人の強制労働、満州への満蒙開拓青少年義勇軍、物資の動員などはその背景の中でよく扱われているが、実際『誰がどこでなぜどのように何を』動員されたのかという歴史的科学的な検証は充分にされたとはいい難い。東京を中心とした研究は多いかもしれない。しかし地方において実態はどうであったか、おそらくほとんど書物が出ていないのではないだろうか。
この本は全国でも珍しい地方在住の学者や高校教員たちが15年戦争の歴史を研究している「岡山・十五年戦争資料センター」が出した初の本格的な単行本である。会報は98年以降毎年出していたらしいが、この本は『総動員』に関してはその集大成に当たる。思うに資料的価値は高いと思う。面白いのは『精神の動員』として民話の中の『動員』まで載せていることであろう。岡山民俗学会会長の立石氏の『木の召集』『猫の供出』『カラスも戦争に』『カラスが弔いに』は読み物としても面白い。
(05.09.24)



2005年11月01日(火)
『対話の回路』(その二)

『対話の回路』(その二)(新曜社)
他の対談についての感想もメモ的に書いておきたい。

網野善彦との対談は、この対談が終わった直後に網野氏が危篤状態に陥るという意味で氏の最後の仕事になり、貴重なものになっている。しかし網野氏の言葉からはまだまだ仕事への意欲が消えていないのである。「しかしあの本で主張したかったのは、現実には『無縁』の世界に年齢階悌の秩序があったり「公界」も都市共同体になっているのですが、むしろ国家や天皇をこえる人間の結びつき方がそこに見えているのではないかということです。」「…そういう東の秩序(天皇の権威は薄いが領主制的秩序)と西の秩序(民衆自治と天皇の連合)の両方をまるごとひっくり返さないと天皇の問題は克服できないというのが私の目指すところといってよいでしょう。…だんだんそれが見えてきているような感じはしています。」うーむ、『無縁・公界・楽』と『日本論の視座』等一連の作品を読んでみたくなったぞ。

小熊英二の仕事のし方もある程度分かってきた。
彼の力は『読書力』なのである。村上龍との対談を準備するためにまずは20冊読んでみたらしい。その上で対談する木が出て初めて臨んでいる。そうすると最初は村上から対談依頼があったにもかかわらず、内容はすっかり村上龍の小切の分析という形になってしまった。村上も相当突っ込んだ質問にきちんと応えている。それはすなわち小熊の読みこみが深いからに他ならない。

小熊は村上から『小説家になりたいと思ったことはなかったのですか』と聞かれる。『(世界を揺るがすような言葉を)私は創れないから歴史的な資料から力のある言葉を探して書くしかないんだと思います。」 その気持ちよく分かる。けれども才能がいることも分かる。
(05.09.25)