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2005年09月30日(金)
「姑獲鳥の夏」は65点


監督 : 実相寺昭雄

出演 : 堤真一(京極堂)
    永瀬正敏(関口)
    阿部寛(榎木津)
    宮迫博之(木場)
    原田知世(涼子 梗子)
    田中麗奈
    いしだあゆみ

思ったよりよかった。
確かに美術はしょぼい。致命的である。
脚本も冗長な所や説明不足もあることは否定しない。
しかし俳優人ががんばっている。
阿部寛意外は役にはまっていたと思う。
眩暈のするようなカメラワークも、
今回の作品にいたっては意味があった。

本来この作品はミステリーではない。
容疑者の過去が見える榎木津がいる限り。
しかもこの作品にいたってはあまりにも
容疑者と探偵のと関係が密接すぎる。
単純に言うと、
京極堂は容疑者のために出張ったのではない。
関口のためだったのである。
キーマンは関口であるが、
永瀬が思った以上にがんばっていた。

映画オリジナル場面で、
紙芝居のおっちゃんが言う。
「何が真実か分からんじゃないですか。
先の大戦だって、本当だと思っていたことが違うといわれたり……」
というような意味のことを言っていた気がする。
私は先に長いあの原作を読んでいたのだが、
どうしてこの作品が昭和27年の設定になっているのか、
どうして京極堂は科学的な頭脳と
憑きもの落としの能力を同時に持っているのか、
そういう設定の意図がいまひとつ分からなかったのであるが、
今回やっとすっきりした。
戦後のあの頃は
確かに物事の善悪が逆転した時代だった。
だからこそ科学的な思考が必要ではあったのだが、
それだけでは感情的などろどろは解決できない。
憑きもの落としが必要になる所以である。

梗子 涼子の憑きもの落とし以上に
関口の「憑き物」を落とす必要があった。
京極堂は見事であった。

原田知世もなかなかよかった。





2005年09月29日(木)
「亡国のイージス」は50点

まず、私は原作は読んでいないし、これからも読む気がないことを断っておく。だからこの評論は原作から離れて純粋にこの映画について語るつもりだ。

イージスとはギリシャ神話に登場する「ゼウスが娘のアテナにあたえた防具アイギス(イージス)」が語源らしい。つまり最強の盾なのである。事実イージス艦の防御能力のすごさはこの映画の中で何度も言及される。そして米軍より盗んだ核兵器級の爆弾を抱えて東京湾に現れ、政府を脅すわけだ。某国のテロリストの煽動に乗った自衛官の幹部が協力するわけであるが、彼らは最強の武器を持ちながら、「専守防衛」の原則が気に食わないというわけである。「日本は平和ボケしている。亡国のイージスだ。」というわけだ。

原作の意図はどうなのかは知らないが、この映画では監督は「専守防衛、是か非か」という論点は微妙にずらしてつくっている。(如月)「撃たれる前に撃つ。それが鉄則だ。」(千石)「じゃあどうして俺のときには撃たなかったんだ。」ぐっと詰まる如月情報員。防衛論議を個人の話にすりかえて誤魔化してしまった。

そうやって千石伍長を主人公にすえて、話を作ったのは阪本順治らしい。監督はがんばった。さすがに俳優人たちもよくがんばっている。退屈だけはしなかった。しかし、と私は思う。それではなぜ今この時期にイージス艦なのか。話を誤魔化してしまった以上、結局印象に残るのは、ドラマではなく、イージス艦という「本物の兵器」だけなのだ。製作者や監督の意図はどうであれ、これは到底反戦映画にはなりえない。結局、「これだけ優秀な武器を持ちながら宝の持ち腐れだよなあ。」と観た人が思っても決して不思議ではない、という映画になっている。だから改憲へ、とは単純には結びつかないだろうが、それを後押しする映画にはなると思う。結局、設定自体は現状に振り回される映画なのだ。結果好戦映画になっている。防衛庁の勝利だろう。

「いまの日本は危機管理がなっていない。そのことを指摘した映画だ。」と誰かは言うかもしれない。しかし、本当の危機管理はテロリストをおびき寄せない政策だろうと私は思う。ことの発端はあるはずのない最悪の米軍製化学兵器を某国(北朝鮮であることはあまりにも明らか)テロリストが盗んだことにある。しかも、それを消すためにはやはり米国製の強力焼夷弾が必要だという。今回の「危機」の原因は日米安保条約にあることは明らかだ。テロリストをおびき寄せない政策というのは同時に戦争をもおびき寄せない政策でもある。だからヨンファが「見ろ!日本。これが戦争だ。」なんて言わなくてもいいのである。

かって考古学者の佐原真は「人類の歴史300万年を仮に3mとすると、日本の場合最後の3mmで武器や戦争を持った。殺しあうことが人間の本能ではない。戦争は人間がつい最近作り出したものだから必ず捨てることが出来る」といった。人間が盾を持ってたかだか3000年に過ぎない。必ず捨てることが出来る。そういう雄大な映画を、誰か撮ってもらえないかなあ。
Last updated 2005.08.05 09:50:24



2005年09月28日(水)
「皇帝ペンギン」は70点

冒頭だいたい次のような意味のナレーションが入る。「ずーと昔、南極大陸は自然がいっぱいだった。しかしやがてこの大陸は凍りに覆われ、植物や動物は逃げていった。僕たちの祖先はここに残った。」一体いつから彼らは毎年あのような過酷な季節労働、もとい「生活」をしているのだろうか。3億5000万年前の氷で覆われているということは、3億5000万回もこんなことをやってきたというのだろうか。100キロの行進。三ヶ月以上の絶食。250kmのブリザード。半分も孵らないというヒナ。

リュック・ジャケ監督 エミリー・シモン音楽

途中、いらいらする。もっと効率のいいところで卵産んだほうがいいのでは。たとえば海より10kmくらい離れたところで。しかし、しだいと納得する。だってあんなに犠牲者が出ても彼らはじっと耐えているんだ。昔からずっと。それならはこれが最良の道なのに違いない。

実はこの夏ずーと私の壁紙は「これ」でした。涼しいかな、と思って。映画は観るつもりなかった。でも観て、これはやはり映画館で観るべき映画だと思った。赤ちゃんの可愛さはテレビでも分かる。でも自然の過酷さは映画館でしか分からない。

彼らの行進する姿が、遠い昔、古代といわれる時代、人間たちが自分たちの住むところを求めて行進している姿に思えた。南極大陸の姿は基本的には何億年も変わっていないのだろう。
Last updated 2005.08.21 01:17:54



2005年09月27日(火)
DVD『スターウオーズ2クローンの攻撃』は65点

思えば突発に出てくる母親の死亡であるが、ここでアナキンは力に対する想いを強めてしまうし、「3」に対する重要な伏線になる。しかしあの惨殺がジェダイにばれていなかったのだとすれば、なぜパルパティーンはそれを知っていたのか、「パルパティーンはアナキンの父親説」のわたしの重要な根拠がここにある。クワイ・ガンジンの声が聞こえたのを今回初めて知った。

又ジェダイの弟子関係では、ヨーダ>ドゥーク>クワイ・ガンジン>オビ・ワン・ケノービ>アナキンとなることに初めて気がついた。「2」でドゥークはアナキンの右腕を切る。しかし次にあったときはドゥークを圧倒した。アナキンは無抵抗のドゥークをシスのそそのかしに従い殺した。これが結局『6』で繰り返される。しかし、ルークはとどめを拒否する。ルークが物語の連鎖を切る役目であったことは確かである。これでパルパティーンの右腕が偽手だったら完璧だったのに。

「2」でクローンの発注もとはパルパティーンであることがほぼはっきりする。そのことにあと一歩で近ずき分からなくなる。「2」はあらゆるエピソードが中途半端。人気が無かったのも肯ける。



2005年09月26日(月)
DVD『スターウオーズ5帝国の逆襲』は70点

「3」まではこの「5」が一番人気が良かった。それも分かる気がする。なぜならこの2作目で、物語を一気に無限にまで広げたからである。単なる英雄物語から運命の物語まで、フォースとはなにか哲学的な物語へ。「6」は想いっきり広げた風呂敷をたたんだだけだから評判が良くなかったのだろう。ベイダーの頭も初めてちらりと出てくる。このときはまだ火山の決闘は頭に無かったのかもしれない。


2005年09月25日(日)
DVD『スターウオーズ4新たなる希望』は70点

わたしの『スターウオーズ』体験は実は『6』より始まる。たぶんそれまでに『4』はテレビかビデオで見ていたはずだ。『5』にいたっては全然見ていない。たぶんその頃はちょうどおとなの映画にはまりかけの頃で、『スターウオーズ』みたいな子供向けハリウッド大作(と思っていた)に拒否感があったのでしょう。それではなぜ『6』を映画館で見たかというと、吾妻ひでおにせよ、あまりにもいろんなところで『スターウオーズ』が引用されていて、教養としてみておかなくてはいけない一本にその頃にはなっていたからではないかと思う。「6」を見た感想は『ふーん。こんなもんか』というようなものであった。

と言うことなので、よく言われる宇宙船が登場してその大きさが次第次第と分かっていくという『歴史的』なショットはこの『4』の始まって数分たったところで出てくるのではあるが、映画館でリアルタイムで見たなら衝撃があって以後フリークにでもなっていたかもしれないが、とりあえず今回はテレビで見たということもあり、そんなに大きさは感じなかった。もう一度見て、ベイダー卿が実はアナキン・スカイウオーカーだったという設定を、このときから考えていたかということは無い可能性のほうが高いような気がした。結局『4』の成功がすべてだったのだ。良くも悪くもこの映画のおかげでCG技術が大幅に向上したのだがら、やはりこれは歴史的大作なのである。

確認したのはオビワンはルークにジェダイの勇士だった人の息子以上のものを期待していたかどうか(救世主的なものを期待していたかどうか)、アナキンの父親のヒントみたいなものがあったかどうかである。答えは二つとも『ノー』である。とりあえずわたしの『これだけで終わらせるつもりだった説』を否定するものはなにも無かった。



2005年09月24日(土)
「フライ,ダディ,フライ 」は80点

終わって周りを見ると、岡田君目当ての若い女の子ばっかり。でもこの作品は男の子こそ観てほしい作品。しかも、中年男性は観てほしい。おっさん、見ろ!
「フライ,ダディ,フライ 」
監督 : 成島出
出演 : 岡田准一(スンシン)
    堤真一  (鈴木一)
    松尾敏伸 (スンシンたちの知恵袋?)
    須藤元気 (石原龍太郎次期首相候補の息子)
    星井七瀬 (鈴木さんの愛娘。)
    愛華みれ  (鈴木さんの愛妻)

夜10時、電車に揺られ疲れて駅に帰ってくると、鈴木さんだけには妻の車の迎えがあった。絵に描いたような円満な家庭で幸せな生活を送っている鈴木一。ところが、ある日、愛娘が殴られて入院した。病院に向かった鈴木に、教頭は表ざたにしないように圧力をかける。加害者の父親が石原龍太郎という見事な名前の次期首相候補でおまけに息子はボクシング高校チャンプ。圧力に屈して何もいえなかった鈴木さん。彼はたまたま出合った高校生たちの提案を受け入れ、石原と決闘するためにトレーニングを始める。

以上が話の「導入部分」である。ここがあまりにも、前時代的なので失敗したかなあ、と思ったのであるが、トレーニングが始まると、そういうのはどうでもよくなって惹きつけられていった。

流す汗がとても気持ちよさそうだ。
よーし明日からこそ、この前挫折した○○を再開するぞ、と、とりあえず思った。

娘の星井七瀬がかわいい。主役の二人もいい味出しているが、(堤真一は本当にうまい)松田敏伸が案外いい味出している。

(05.07.30)



2005年09月23日(金)
『妖怪大戦争』は80点

さて、盆休みだ。
仕事のことは忘れて、携帯が鳴らない事を祈りつつ、
一日中涼しいところにいた。

子供だましという説と、
傑作だ、という説が入り乱れている
『妖怪大戦争』をやはりチェックすることにした。

カップルやら、子供連れやら、熟年夫婦やら、
いろんなタイプが見に来ているが、
中年ひとりというのは私だけか(^^;)

愉しめた〜(^^)
神木隆之介君はかわいいし、
大人も楽しめるパンチラサービスはあるし(^^;)
何より妖怪が人間に擦り寄ってはいない、
さすが妖怪の大御所たちが関わっているだけあり、
妖怪に対する愛が感じられた。

以下ネタバレモード。
加藤保憲の目的ならある程度は達したのかもしれない。
あれなら、ほぼ帝都は消滅したのだから。
妖怪たちは『勝った、勝った』『祭りは終わった』
といって帰っていったのだけど、
実際はいったい何十万人の人間たちが死んだのだろうか。
それは見事に省略する。
いろんなところに
おごる人間たちに対する警告がちりばめられていて、
私などは大変面白かった。
曰く
『過去を知らなければ未来はない』
『復讐するのは人間だから、私は人間ほど落ちぶれたくはない』
そして最後の水木しげる御大将の含蓄ある言葉
『戦争は……』

良く分からなかったのは、
加藤はどうして
アギを拒んだのだろう。
台詞がよく聞き取れなかった。
アギとはどういう妖怪なのだろう。

という疑問をあるところで出したら

ちなみに荒俣センセイの設定によるとアギは
1/日本ができたときに移住民だった人たちが
  一つのシステムに組み入れられた時の
  一群の職や技能をもった女性。
  大和の民族ではなく、フリーな存在なので
  妖怪は<仲間じゃないか>と言っていた  
2/アギはもともとは巫女だった
  <鳥刺し>というのは<飛んでいる魂>、
  そんな霊的なパワーがあるので
  大天狗とっつかまえるコトもできた
ということだそうで、、
3/加藤がアギをスカウトしたのでなく、
  アギが加藤を選んだ、、
そうで、
加藤がアギを拒んだのは
「愛するという感情は不純なので
 邪魔である」
だそうです、、

という回答をいただいた。
ありがたいことです。

子供だましだけど、傑作です。
(05.09.24)




2005年09月22日(木)
「アイランド」ぱ60点

クローンものである。それだけであらすじの説明は必要がない。
スカーレット・ヨハンソンの「何も知らない無垢の少女」の顔と「妖艶な女の顔」が
全く同時に同居するという彼女の魅力はこの映画でもはまり役になっていた。案外ア
クションシーンもこなすし、がんばっていました。何よりも、セックスの「セ」の字
も知らなかった彼女がすぐに「キス」の味を覚えてしまうという設定は彼女だからこ
そ実現できたのであろう。なんて柔らかそうな唇でしょ。うーんセクシ〜(^-^)突っ
込みところはいろいろあるのではあるが、許しちゃいましょ。そんなに目くじら立て
るような映画ではない。
(05.08.20)



2005年09月21日(水)
「スター・ウォーズ3/シスの復讐」は80点

なかなか見ごたえのある映画でした。ただし、EP1から6までの5作品をあらかじめ見
ている人にとっては。なぜなら、これ一作だけでは、単にCGをうまく使った冒険活劇
にしか見えないからである。通しで観ると、これはギリシャ古典のような「運命劇」
だったのだと納得するわけです。これは親子三代にわたる「因果の巡る物語」なので
ある。異論があるのを承知で言えば、パルパティーン→アナキン・スカイウォーカー
→ルーク・スカイウォーカーという「隠された父息子関係」の間での「フォースとは
何か」という問答の物語である。だからルークの片腕がなくなったようにアナキンも
片腕をなくす必要があったし、パルパティーンが自分の師を殺したようにアナキン
(ダース・ベイダー)も自分の師を殺す必要があった。それらの「因果」をことごと
く断ち切ったのは、ルークである。ルークがいったい何を断ち切ったのか、それを
じっくり描いたのが、EP1〜3だったというわけだ。「ダークサイドとは何か」力には
力、復讐には復讐、その連鎖を繰り返していくとアナキン(ダース・ベイダー)が生
まれる。

「エピ3」の中のオペラ座でのシーンで、パルパティーンがアナキンに「自分の師で
あるダーク・プレイガスはシスのフォースを極めて生命をも誕生させる術を会得し
た」と言うようなニュアンスのセリフを言っています。これが私の「説」の大きな根
拠でした。外部から「フォース」がある意図でもって入ったのです。つまりシスは師
弟関係でしかフォースを繋げないのだから、いろんなところに「種」を植え付けてい
たのだというのが私の「想像」です。そのとき、「生命誕生」の力も使えたわけで
す。

結局私の好きな映画というのは「物語」なんだと思う。「エレニの旅」も「叙事詩」
という特別な「物語」だったし。
(05.08.20)




2005年09月20日(火)
二回目の鑑賞「エレニの旅」は90点


今年初めて二回目の鑑賞である。
写真は冒頭のシーン。冒頭から、魅せる。彼らはロシア・オデッサからの難民だ。ひとつの共同体の今日までの顛末が「台詞」で語られる。後ろに河、そして前にも河が流れている。過去から未来へ。現世から死の世界へ。時代の暴力の塊として、この河はさまざまに意味を変える。アンゲロプロスの映画以外ではそこまでの象徴性は持つことはできない。しかし、彼の映画にいたっては、ひとつのシーンの美しさがそれを可能にしている。しかも、もっとも大切なドラマはシーンの中では語られない。ドラマは台詞によって語られるか、あるいは背景で説明されるだけか。この物語にドラマを入れようとすると当然入れなければいけないシーンはいくつかある。難民が国境を越えたところ。15歳のアレクシスが13歳のエレニとはじめて結ばれたところ、結婚式場でエレニがアレクシスとともに逃げようと決意するところ。等々……。それを入れないことでどういうことが起きるのか。一人の女性が運命と戦い傷つき倒れるドラマを見るのではなく、一つの叙事詩を見るのである。そのとき、河は河ではなく、雨は雨でなく、白い布も、汽車も、洪水も、双子の子供も、共同体の長である父親も、人民戦線も、三回に渡る血の色(羊の血、白い布につく血痕、別れの赤い糸)も、エレニという一人の女性も、さまざまな意味を持って何度も何度も歌い継がれる存在に変化してしまう。それは決して時代を描くということではない。自分にとっての「何か」を映像として自分の中に取り込むということだ。

ひとつの世界観を作ってしまった「ロード・オブ・ザ・リング」というような作り方もあれば、このような形で世界をつくってしまうこともできるのだ。「ユリシーズの瞳」のときはまだわたしのほうの準備が足りなかった。「永遠と一日」のときは時代が後方に追いやられていためか、その広がりがよくわからなかった。今回初めて彼の作品で衝撃を受けた。

一回目の鑑賞のとき一つ私は勘違いをしていた。訂正してお詫びします。「霧はまったくでない」のではない。霧はいつも出ていた。ニューオデッサで、白布の丘で、アメリカにつながっているという海で。息子が死んだ海で。しかし、今回は目の前がまったく見えなくなるような霧が出ていなかっただけなのだ。その代わり雨が降る。涙のように。そして霧の日はむしろこの時代にあっては「晴れ間の日」だったのである。
Last updated 2005.07.27 01:20:54



2005年09月19日(月)
「エレニの旅」は90点

監督 : テオ・アンゲロプロス

出演 : アレクサンドラ・アイディニ
ニコス・プルサニディス
ヨルゴス・アルメニス
ヴァシリス・コロヴォス
エヴァ・コタマニドゥ
ミハリス・ヤナトス
トゥーラ・スタトプロウ

アンゲロプロスの映画では約束事であった「霧」は全く出てこない。その代わり、執拗に「雨」が降り注ぐ。あるいは雨の結果である「川」が湖のように村にそして戦場に横たわっている。霧はいつも未来を不透明にするが、物理的な力はない。しかし、雨は違う。それは時には洪水になりひとつの村を水没させたりするのである。それは運命?それは時代?それは物理的な暴力である。圧倒的な力が歴史の中にうずもれる個人の一人ひとりに襲い掛かる。ギリシャの1919年からおそらく1950年頃まで。難民、戦争、人民戦線、内戦、息つく暇もないほど、時代の雨に翻弄される一人の女性を描く。しかし女性に雨雲の全体は見えない。だからわれわれに見せるのは目の前の雨粒だけだ。

雨の間には晴間もあるだろう。私たちの晴れ間とは違い恐ろしく短いように思えるが。逃げだした二人を温かく迎える、ジプシーに似たフリーの音楽仲間、そして主旋律になるアレクシスの作曲した悲しく優しい調べ、晴間になるとすぐに出てくる目の醒めるような白いシーツの群れ(最後は血に染まる)、この映画では音楽だけが、晴間だった。

何回か彼の作品を観て、今回ほどワンシーンワンカットの妙味を堪能したことはない。二つの村を忠実に再現させたのはCGを使いたくなかった監督のエゴからではない。果てしない平原、やがて一つ一つをレンガで積み上げた質素な家からなる10数件ばかしの小さな村の全体像が写り、馬や羊などの生活の風景が写り、村の全体をなめるように写したあと川から着いたばかしの女性にズームしていくと、力なく死んだようなか弱い少女が抱き着替えられて村一番大きい屋敷に運ばれていく。全体から個人へそして全体へとカメラつまり監督の視線は常にそのように移動していく。それはまるでシャガールの絵の様だ。恋人を正面に大きく描くけど、常に背景には彼が住んでいた村や人々の世界が描かれている。駅のすぐ傍の工場地帯の村ではレンガ積みの家さえ珍しい、雨のもれるトタン屋根に木造の家、それらの世界が個人の悲しみにやがてシフトしていく。CGなどでは表わせる世界ではない。

ひとつのシーンは突然切り替わる。ギリシャの歴史に詳しかったら、ギリシャの古典に詳しかったら、もっとこの作品の「詩篇」の意味が分かったのかもしれないが、しかし、それは次の楽しみに取っておけということなのだろう。
updated 2005.07.10



2005年09月18日(日)
「大統領の理髪師」は80点


監督 : イム・チャンサン

出演 : ソン・ガンホ
ムン・ソリ
リュ・スンス
イ・ジェウン
チョ・ヨンジン
ソン・ビョンホ
パク・ヨンス

この息子はどうやら私と同年代らしい。この息子が27歳になるまで、韓国という国は独裁政権の国でとても怖い国だということが宣伝されていた。なるほど下痢しただけで「マルクス病」だとレッテルを貼られて、拷問にあったりしたのだから、怖いことは怖いのであるが、庶民はそれほどびくびくしながら生きてきたわけではなく、大統領の髪を刈っても別段庶民の暮らしをそのまましていたのである。

朴正熙という大統領はあまり独裁者でひどい人物には描かれていない。その一方で、朴大統領暗殺後のどたばたで大統領になった全斗煥に対しては辛らつである。これはもしかしたら韓国庶民の偽らざる感情なのかもしれない。

この映画は79年で終わる。しかし、実はこのあと8年が激動なのではあるが、理髪師を辞めた以上はここで止まるしかなかったのだろう。つくづくガンホの笑顔は素晴らしい。

しかし、韓国の人たちの歴史の描き方の成熟していること。「ペパーミントキャンデー」にしても「殺人の追憶」にしても「ブラザーフッド」にしてもちゃんと自分の血肉にしてから、庶民の視点で、そしてちゃんと時代を見据えて映像にしている。日本の映画でこれが出来ているのはあるだろうか。山本薩夫に若干あった気がするが、庶民の視点に徹底しているのはなかった。チャン・イーモウの「活きる」にしても時代観が素晴らしい。日本人の歴史観について、いろいろ中国・韓国から言われるのも、全然根拠のないことではない。
(05.07.10)



2005年09月17日(土)
「トニー滝谷 」は65点


なんだか本格的な話に入る前に終わってしまった。非常にあっけない。最後まで、何の内容もない、という風に私には思える。
市川準は短いショットを重ねて作品を作る。それ自体ははまったときにはいいのだが、(私の気に入っているのは『病院で死ぬということ』))この作品のように登場人物に何の共感もわかなかった場合は悲惨だ。
しかも1時間10分の作品なので特にそうなのである。宮沢りえはすばらしいが、露出が少ない。
(05.07.10)



2005年09月16日(金)
「バットマン ビギンズ」は80点



監督 : クリストファー・ノーラン
出演 : クリスチャン・ベール
リーアム・ニーソン
モーガン・フリーマン
ゲイリー・オールドマン
マイケル・ケイン
渡辺謙

両親を殺され、復讐心に燃える男が、やがて社会正義に目覚めるまでを描く、エンターテイメント作品。真っ当な映画である。

おそらくクリスチャン・ベールとリーアム・ニーソンの差は紙一重なんだろうと思う。と、同時にその差はとてつもなく大きい。ベールにあってニーソンになかったのは何か。それはあの父親の存在であり、執事マイケル・ケインの存在なのだろう。この映画、脇役がなかなかいい味を出している。

恋人との関係も最後なんかは「スパイダーマン1」を髣髴させるが、内容的にはまるっきり正反対のことをいっている。私なんかは今回のほうが正論だと思うのではあるが。

癖のある俳優を使っているので、いつ彼が悪役になるのか、いつ彼が善役になるのか、どきどきしながら観たのではあるが、それも配役の計算のうちなんだろうか。ちょっとずるい。
(05.06.30)





2005年09月14日(水)
「マラソン」は80点

監督・脚本 : チョン・ユンチョル

出演 : チョ・スンウ
キム・ミスク
ソン・チョンウク
ペク・ソンヒョン
アン・ネサン

こういう映画にありがちな、自閉症の主人公がどえらいことをしでかすという映画ではない。では周りがすごいのかというと、どう見ても普通の、もしかしたらそれ以下の親だったり教師だったりする。

しかし、なかなかいいのである。それでも、人間というものは、自閉症の子であれ、親であれ、教師であれ、時々ものすごく輝くことがあるのだ、ということを教えてくれる映画だ。

自閉症の子(といっても20歳だけどね。彼の演技は素晴らしいの一言。)に話をする場面が多いので、勢い、基本的な会話や単語が飛び交う。韓国語聞き取りにはぴったりの映画かも。DVDは買いですね。

お母さん役のキム・ミスクはどの映画に出ていたのだろう。「おかあさん」を見事に演じている。

韓国ではマラソンを「マラトン」と読む。正確にはマr・ア・トンの言葉を縮めるとマラトンになるわけだが、マrは「馬」という意味もあるから、主人公がシマウマ好きなのは、よく出来た作り話なのだろう。この作品事実を基にしているといいながら、よく「作って」いる。自閉症の親と子供の関係というのは、世界初の映画ではないだろうか。
(05.07.08記入)




2005年09月13日(火)
Yさんへの手紙

以下の手紙は、某場所に私が投稿した「04年の映画ベスト23」(05.02.1〜2の日記に載せています)に対するはじめて長文の感想が送られてきたので、それに答えたものです。
Yさんの了承は得ていないのですが、匿名で書けば、それほど問題もなかろうと思い、此処に載せます。映画に対する私の態度表明文章になっています。


Y様、このたびは私の拙文に長い感想を書いてくださり、ありがとうございました。本来はもっと早くお返事をすべきだったのですが、こんなにも遅くなって申し訳ありません。
いろいろとご指摘ありがとうございました。

「各作品の点数を教えてほしい。」ということですが、私の点数のつけ方は、見た直後、70点、75点、80点、85点、90点という風につけていきます。ただ、直後の点数が、しばらく自分の中で熟成してくるとあがったり下がったりするのです。ただ、不思議と80点の合格ラインだけは、しばらく経ってもそれをまたいで評価が変わることはありません。よって、点数は同点があまりにも多いし、書いた時点の評価ということで、変動もあるので書いていないのです。(95点以上の評価はめったにないし、去年もありませんでした。)

「文章上、文法上、ふさわしくない表記がある」とのことです。申し訳ありません。自分なりに読み返してはいるのですが、やはりあるんですね。気をつけたいと思います。
P.19「言わずもがななのである」→「言わずもがなのことなのである」
P14「私の合格作品」P19「父親の何度も聞いた話」→「私の選んだ合格作品」「父親から何度も聞いた話」訂正したいと思います。

「いま、会いにゆきます」で、「そこで一首」の文意が分からない。短歌でごまかしているという意見でした。しかも短歌の内容は、「伏線を見事に活かしている」と評しているわりには、内容に踏み込むものであったと書いていらっしゃいます。そうか、やはり分かりにくかったですか。いや、内容に踏み込むとネタバレになるのですが、踏み込まないと感動を伝えれないと思ったので「突然」挿入したのです。短歌はそれほど重要なネタバレにはなっていないと思うのですが。でも読み返してみて、良く分からない文章ではありましたね。この手の映画は「あっと驚く展開」が命なので、「まあ、騙されたと思ってみてください」というしかないのかな。

「映画はあくまで娯楽であり、虚構であると私は思っています。中途半端な芸術性や社会性は不要のものと思っております。要するに面白いことが最も大切なことではなかろうかと感じています。」とYさんは書かれていました。この文章は別に私の評論を批判したわけではなく、Yさんの持論なのだと思うので、私がそのことについて、間違っているというつもりは全然ないのですが、Yさんの意見は私の想いとは違っており、「意見の違いは実は最も大事なところ」という私の持論の通り、両者の意見の違いの中に実は「映画の魅力」が隠されているのではないかと思うので、少し展開させていただきたいと思います。

映画は巨大な映像産業です。よってまずは「面白いことが最も大切」だと言われるYさんの意見には一理あると思います。そうでないと商売として成立しないからです。「面白い」という意味の中には「可笑しい。スカッとする。」という以外に「知的に興奮する。勉強になる。」という意味もおそらく含まれているのだろうと思います。しかし、それ以外に私は「芸術性」も「社会性」も必要だろうと思っています。そして素晴らしい作品というのは、たいてい「娯楽」であり、「芸術性」も「社会性」ももっているのではないでしょうか。

Yさんは「ゴジラファイナルウォーズ」が最も好きだと書いていました。あれに「芸術性」があるかどうかは置いておくとして、私は「娯楽性」と同時に「社会性」ももっていると思っています。しかもかなり鋭い形で。そうでないと、ゴジラがこうまで長い間人・社会に影響を与え続けてきた理由が分かりません。Yさんはなぜゴジラを観て「胸はわくわく身体は震え、私自身もゴジラになって一緒に吠え」るのでしょうか。そのことに「意味」を見つけるのは間違っているのでしょうか。その「意味」が私の言うように、「戦後の繁栄は実はとんでもない虚妄の上に建っているのではないかという漠然たる想いを私たちはみんな持っているのではないか。だからゴジラが国会議事堂を壊し、東京ツインタワーを壊し、福岡ドームを壊し、各地域の原発を壊していくことで私たちは「癒し」を得ているのではないか。ゴジラは破壊神です。逆説的ではあるが、日本の高度成長が生んだ神であったと私は思う。」という意味かどうなのか、Yさんの「ゴジラは私自身だ」というゴジラ像とは違うみたいですが、ここでは議論するのはやめましょう。面白い議論になると思いますが。長くなるので。

映画はどんな低予算映画であろうと、観客を要する限りは、「娯楽性」を要求するでしょうが、同時に作り手の「思い」がこもらなければ、どんなに予算をかけても「いい作品」にならないというのは、Yさんも納得していただけると思います。その「思い」が社会に影響を与えるとき、「社会性」をもったということになり、個々人の思想や人生に影響を与えたとき、「芸術性」をもったというような言い方も出来るのではないでしょうか。

私は「いい作品」にであいたいのです。そういう作品にであったとき、そのことの「意味」を自分なりの言葉で書いて、ある程度納得したいし、出来ることなら、ほかの人にも読んでもらって、「そうだね」とか「違うよ」とか「意見」を聞きたいのです。

そういう意味でほかにも映画評そのものに対する意見があれば嬉しかったのですが。

いやいや、ちょっとくどくなりすぎました。

またいろいろとご意見ください。それでは。
(05.04.30)



2005年09月12日(月)
マニフェストを読む(憲法編その三)

すみません。ずいぶんご無沙汰しました。
ちょっといろんなところで少しずつ忙しくなって、
まとめて更新も出来ません。
今日かいら一応再開させてください。
ただし、「歴史的な自民党大勝」に気落ちして
この投稿本来はリンク張るべきところですが、
めんどくさいので張りません。

ああ、あと10年、私の生活は持つのでしょうか。
日本は持つのでしょうか。
「スターウォーズEP2」でアミダラ姫は言います。
「自由は死んだ。万雷の拍手の中で。」あるいは「ヒトラー最期の12日間」でヒトラーは言います。
「彼らが私を選んだのだ。自業自得だ。」

あっそれでは本題です。

せっかく各党のマニフェストを読んできたのだから、新しい党の憲法政策も読まないと片手落ちだろう。

ということで、
国民新党
見たらわかるように憲法については何も書いていません。
ものすごい簡単な公約ですね。
まあ、郵政問題意外は自民党と同じ政策だと思っていいのでしょう。

新党日本
これも同様です。

でも田中康夫は何か違うのではないかといろいろ探しました。
こういうのがありました。
「新党日本」代表と信州・長野県知事の兼務に関する知事会見(2005年8月23日)

その中でこういっていました。

最初の高島さんのご質問で憲法に関してということであります。私は昨日のテレビでも申し上げましたが小泉さんが命をかけるといっていた拉致被害者の問題に関して一日千秋の思いで待たれているご高齢の方々に対して命をかけるといった問題今どうなっているのか、そうして、常任理事国の問題も果たしてどこへ行ってしまったのかそもそも政権与党が憲法改正試案をお示しになりながら残念ながら主たる争点にもなさっていないということです。今行うことはやはり郵政民営化というもののあり方が羊頭狗肉、空洞化しているということを、あるいは同様の空洞化がないのか、そして日本という国は果たしてどこの国なのか、私のような考えのものが日本を他の国になってしまって良いものなのかと思う。ということは大きな問題でこうした観点から正にこのことこそは皆さんがここで投票に行って憲法の問題もこの後に議論されていくことだと思います。昨日の毎日新聞の中でなぜか長野県で配布される段には載っていませんでしたがネット上および昨日の夕刊に載っているのでですね、

要は
憲法のことなど問題ではないってことです。
自民党が憲法問題を争点からずらしていると批判するなら、
少しでも自らの憲法問題の見解を述べるべきです。
まあ、そんなことは全然気にしていないのでしょう。





2005年09月03日(土)
マニフェストを読む(憲法編その二)

マニフェストを読む(憲法編その二)
さて、野党の憲法政策を検証してみる。

民主党
《2005年衆議院選挙マニュフェスト 政策各論》
1.憲法
日本では今、時々の政府の都合によって憲法が恣意的に解釈され運用されるという、いわば「憲法の空洞化」がすすんでいます。このままでは、憲法に対する国民の信頼感はますます損なわれてしまいます。民主党はこの状況を克服し、国家権力の恣意的解釈を許さず、立憲主義を基本に据えた、より確かな憲法の姿を追求していきます。
民主党は、過去ではなく、未来に向かって創造的な議論を推し進め、日本国憲法が高く掲げる「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つの基本原則をさらに深化・発展させます。
憲法の姿を決定する権限を最終的に有しているのは、政党でも議会でもなく、国民です。民主党は、自らの「憲法提言」を国民に示すと同時に、その提言を基として、国民との対話を精力的に推し進めていきます。憲法改革のための提案が現実となるためには、まず衆参各院において国会議員の3 分の2以上の合意を達成し、その上で国民多数の賛同を得なければなりません。民主党は、国会におけるコンセンサスづくりにも、真摯に努力していきます。
「日本国の象徴」にふさわしい開かれた皇室を実現するため、皇室典範を改正し、女性の皇位継承を可能とします。

民主党の憲法政策については過去において一度検討した。
この政策では、自民党同様何も具体的には語られていないが、しっかり「九条はかえるということ」「改憲条項は緩和する」という点で自民党と意見を一致することがわかっている。違うのは「国連主導のときのみ武力行使を認める」という一点である。つまり湾岸戦争のように、アメリカがその時々の力関係で国連を思うままに動かせるときには、日本の自衛隊は海外で武力行使をするということである。国連をあまりにも神聖視していないか。国連憲章は「集団的自衛権」を認めているのである。ただこのマニフェストでは、6月23日に出された民主党の政策なんてまるで無かったような書き方である。その点はほかの政党もそうなのだが、ここは特に不誠実なものを感じる。また、そこでは改憲手続きに関しては「各議院の3分の2以上の賛成があれば、国民投票を経ずとも憲法改正を可能とする」とはっきり言っているのだが、そういうことは選挙後のことになるのだろうか。

日本共産党《総選挙にあたっての訴えと7つの重点公約》 (05年8月11日発表)
【2】日本を「戦争する国」にしないために――憲法をまもりぬきます
 8月はじめに発表された自民党の改憲案は、9条にねらいを定め、「自衛軍」を書き込むとともに、その任務に「国際社会の平和」を明記しました。民主党も、国連決議があれば海外での武力行使は可能だとして、その立場を改憲案に盛り込むとしています。公明党も「加憲」の名で改憲の流れに公然と合流しました。
 いま改憲派が共通してもとめているのは、憲法9条、なかでも「戦力不保持」と「交戦権否認」を規定した9条2項を改変し、「自衛軍の保持」を明記することです。この方向で憲法が改定されれば、自衛隊の現状を憲法で「追認」するだけにとどまらない重大なものとなります。
 自民党政府は、憲法9条に違反して自衛隊をつくり増強してきました。しかし、「戦力不保持」と「交戦権否認」という規定が「歯止め」になって、「海外での武力行使はできない」という建前までは崩せませんでした。9条2項を改変し、「自衛軍」を明記することは、この「歯止め」をとり払い、日本を「海外で戦争をする国」に変質させることになります。それは「戦争放棄」を規定した9条1項をふくめた9条全体を放棄することです。憲法9条をなげすてることは、アジアと世界にたいする不戦の誓い、国際公約を破り捨てることであり、日本の国際的信頼のはかりしれない失墜となるでしょう。
 憲法を改悪し、日本を「戦争をする国」にしようとする動きの根本に、アメリカの先制攻撃の戦争に日本を参加させようという「日米同盟」の危険な変質があります。アメリカに追随して、無法なイラク戦争を支持し、自衛隊の派兵で加担した小泉内閣の“アメリカいいなり”は世界でもきわだっています。日米安保条約の枠組みさえこえた、地球規模の「日米同盟」への侵略的な大変質がすすめられています。世界的な米軍再編の動きのなかで、米軍と自衛隊の一体化が推進され、基地の共同使用の拡大がはかられています。沖縄をはじめ日本全土の基地は、地球規模の出撃・補給拠点としていっそう強化されようとしています。自衛隊の本来任務に「国際活動」を位置づけ、「海外派兵隊」への本格的な変質をはかる自衛隊法改悪のたくらみも、アメリカの戦争には世界のどこであれ無条件に協力する仕組みをつくろうとするものです。
――憲法をまもりぬきます。憲法改悪に反対するすべての人々と力をあわせます。

共産党のこの見解はは与党としての政策を述べたものではなく、野党としての主張を述べたものである。私は憲法に関して言えば、それでいいと思う。私はいまのところ、憲法は一字一句たりとも変える必要がないと思っている。その意味で、この見解は各政党がマニフェストの中で隠している憲法政策について適格な批判をしているし、その狙いについても、アメリカとのかかわりに言及し、もっともグローバルな視点で書かれてあると思う。欠点は少々長いということだろう。
また、「一字一句変えない」事は決して後ろ向きではないと私は考えている。むしろ前向きである。今まででさえ、憲法は暮らしの中で活かされていなかったのだから、今回の改憲論議の中で、「変えない」ということを国民が選んだのだとしたら、そのとき戦後初めて「憲法が暮らしに活きる」展望が開けることを意味するだろう。そのときもう政府は憲法から逃げるわけには行かなくなるだろう。
今度の選挙、憲法を論点にすべし!と私が考える根拠はここにある。

社会民主党《社民党総選挙政策2005》いかす!「平和憲法」――政治の基本は平和憲法
1.憲法の理念を現実にいかします
 日本国憲法の理念を具体化するための法整備を進めます。「平和的生存権」を実効的に保障するための「平和基本法」や、国是である非核三原則を法制化するための「非核基本法」を制定します。憲法改悪につながる国民投票法案には反対です。

社民党は共産党と並んで、「護憲」を一貫して追求しており、政策自体には賛成である。ただし、欠点は改憲運動の狙いにメスが入っていないところだ。(参考「社民党総合政策ガイド」)だからだろうか、小さい所帯なのに中身が非常にぐらぐらしている。社民党の副党首だった人が民主党から立候補する話、横光副党首が社民離党へ、大分3区で民主公認の方向というニュースはがっかりとすると同時に、護憲への決意を疑うものではある。
(05.08.26)








2005年09月02日(金)
マニフェストを読む(憲法編その一)

マニフェストを読む(憲法編その一)
小泉首相は「この選挙は正真正銘マニフェストを戦わせる初めての選挙だ」と息巻いているらしい。その言やよし。じゃあじっくり読ませてもらいましょ。とはいっても、郵政やら、年金やらはあまり得意ではない。まずは「憲法」について調べてみた。そしてまずは与党から。

自由民主党《自民党からの120の約束》(リンクしています)

「新憲法制定」に向けて具体的に動きます。
024.新憲法制定への取り組みを本格化
17年11月15日までに自民党憲法草案を策定し、公表する。新憲法制定のための「日本国憲法改正国民投票法案」及び「国会法の一部改正案」の早期制定を目指す。
自民党の憲法政策については、すでに8月3日の日記で述べてある。憲法草案は一次案は出来ているのに、ここには書かない。そこで書いていることは9条を変え、アメリカの言いなりに自衛隊を海外で武力行使をさせ、なおかつ憲法を変えやすくさせて、いつでも更なる改憲を出来るようにする、という代物だから、具体的には書けないのであろう。ただし、異様に具体的なのは「11月15日」と期日を書いているということ。アメリカからせっつかれているということもあるが、結党50周年までになんとしてでも形にしたいという彼らの焦りがある。どちらにせよ、到底容認できるものではない。

公明党《公明党マニフェスト2005》 (05年8月16日発表)(リンクしています)

 当面する重要政治課題
3、憲法改正問題について
現憲法に新たな条文を付け加える「加憲」(*)の立場で具体的追加項目を検討
公明党は、現憲法を高く評価し、「国民主権主義」「恒久平和主義」「基本的人権の保障」の憲法3原則を堅持します。その上で時代の進展とともに提起されている環境権やプライバシー権などを新たに付け加える「加憲」という立場をとっています。憲法第9条については、第1項、第2項を堅持した上で、自衛隊の存在や国際貢献等について、「加憲」の論議の対象として慎重に検討していきます。*現行憲法は維持しつつ、そこに新しい条文を書き加え、補強していく「加憲」という方式

まるで妖怪ぬらりひょんみたいなマニフェストではある。「慎重に検討」という言い方でもうこれは何も言っていないのに等しいのだが、9条をたとえそのままにしたとしても、「自衛隊」という言葉が3項に入った時点で、それは自民党の案と同じ意味を持つのだということを見事にごまかしているのだとしか私には思えない。到底容認できない。

次回は野党のほうを。




2005年09月01日(木)
民主党「憲法提言中間報告」を読む


以前自民党の憲法草案を読んだので、
今度は6月23日に発表された民主党の「憲法提言中間報告」(リンクしています)を読んでみる。

7月1日に憲法会議の川村俊夫さんの話を聞いたとき、「自民党も民主党もゆれている。自民党は3月に出すといっていた憲法要綱が7月にずれ込むし、民主党は一番大事な「安全保障」の部門で意見が二つに割れている。」といっていた。しかしそれだから「安全」だというわけではなく、アメリカの圧力の下粛々と日程はこなすだろうと、とも言っていた。ともかく財界も、自民・民主・公明も二つのことを狙っている。「ひとつは、9条2項の改定。戦争放棄をなくし、自衛隊を軍隊にする。もうひとつは96条。憲法を改正する方法です。ここをいじれば、後はどうでも変えることができる。」自民党も財界もそのとおりのことを言っているなあ、とは思っていましたが、今回読んでみて民主党も見事にそこは意見の一致があるみたいです。

9条については
第1は、憲法の中に、国連の集団安全保障活動を明確に位置づける。
第2は、国連憲章上の「制約された自衛権」について明記する。
第3に、「武力の行使」については最大限抑制的であることを宣言し、書き入れる。 

自民党との違いは「国連主導の武力行使のみ認める」ということであり、ほかは結局同じことです。かえって自主独立を強調することによって今より更なる軍拡路線に突き進む恐れがあります。しかし思い出してほしい。イラク戦争こそ、あまりにも無法性ゆえ国連は「うん」といわなかったけど、湾岸戦争はアメリカ主導によって国連の名のもとに行われました。ボスニア紛争も同じです。アメリカはそのときの情勢や力関係で国連を利用したり無視したりしただけなのです。二つの戦争はいろんな悲劇を起こしてまだ歴史的な評価は定まっていません。この改憲では情勢しだいでは「やはりアメリカの言うなりに日本が戦争に巻き込まれるでしょう。」

改正手続きについては
「硬性憲法の実質を維持しつつも、より柔軟な改正を可能とするために、_改正事項によっては、各議院の3分の2以上の賛成があれば、国民投票を経ずとも憲法改正を可能とする」といっています。あからさまです。

今の状況でこれを許せば、後はずるずると憲法改正し放題になるでしょう。小選挙区制によって、弱小政党が次期政権党になる可能性は非常に小さくなりました。国民があっと間違いに気がついたからといって次の選挙で大逆転できるような状況ではないのです。

環境権やら何やらは単なる飾りです。10年以内に彼らの意見はころころ変わるでしょう。

本当は今は民主党は「憲法行脚」をして、「世論を喚起する」活動をしているはずでした。しかし、選挙のせいで一時期止まっています。これをずーと止まらすか、一ヶ月だけの話にするかは、これからの国民の判断に任されています。