天使のながばなし
maki



 この世に生まれる命たち

以前ライブでご一緒したお友達(と言っていいのか)に赤ちゃんが産まれた!
聞いた時、とてもうれしくて幸せな気持ちになった。
今まで誰かが出産して「おめでとう」と何度も言ってきたけど、
こんなふうに感じたことはなかった。
めでたいとは思ったけど、自分が深く幸せを感じることなんてなかった。
尊いものが誕生したんだと実感した。
生まれた天使と生んだ天使に会いたいと思った。
彼女が生んだからなのか、
今の私の感じ方が変わったのかわからないけど、
とにかくあたたかくて神聖な気持ちになった。

女の子で、まだ名前はないとゆう。
そこで仕事の帰り道、勝手に考えて楽しんでみた。
お母さんが生まれ月(?)の名前だから、
生まれた子もそうしてみよう。
六月だから「水無月」。。。
梅雨なのになんで「水が無い月」なんだろう???
まぁいいや。
「水無月」の「水無」をとって「みな」ちゃん。
単純、私って。

「無」って名前に使わないだろうけど、
「無い」って意味じゃなくて、「万物を生み出す源」の「無」。
「水」は生命に必要不可欠なもの。清らかで透明なもの。
美しく流れ続けるもの。

だから「水無」ちゃんは、
万物を生み出す清らかで美しい源なの。
わ〜っいい名前だ。

なんて、勝手に楽しんでるだけですから。
もし、いつか、私に、女の子が生まれたら、
「水無」にしよう。
ただし六月に生まれた場合だけね。

2005年06月28日(火)



 その先と今が出逢うように

物が出来上がるのは、あっとゆう間のようでいて、
その間には密度の濃い思いがつまってる。
タイミングや流れは焦っても変えることは出来ない。
積極的に今に取り組むことが、私の出来ること。

朝起きてジャンベを叩いた。
上手く音にのれない。
不自然なのが自分でも分かる。
結局今日はのれないまま練習終了。

詩集の再校正原稿が手元にある。
最後のページについて書きたいことをさがした。
昨日もさがしたけど見つからず、
今日もう一度頭も心もクリアにして待った。
昼間はまだダメ。

夕方イトコと、前から気になっていた「水晶の癒(ゆ)」に行った。
うちから車で10分くらい。
クリスタルの岩盤浴。
水分補給と休憩を入れながら1時間くらいかけて入る。
さらさらした汗が出るのが特徴で、シャワーで洗い流す必要がない。
実際滝のように汗が出て、しかもベタつかない。
肌もしっとりイイ感じ。
温泉は気持ちいいけど、疲れてしまって、
体にはちょっとつらいのだけど、
この岩盤浴は体も軽くスッキリしてとっても良かった。

岩盤の上に寝転びながら最後のページのことを思っていた。
するとだんだん形が浮かんできた。
いつか詩集を手にとって読んだ人が最後に出逢うページ。
言葉、そのリズム。
その人に広がるその先のこと。
きっとそこにも私の言葉がふと登場する。
それがいつだっていい。何だっていい。
そして私と目の前で出逢うように。

今は今だけでもなく、先は先だけでもない。
まぎれもなく繋がっていて、たどった先のことでもない。
時間の距離はないんだった。
積極的に今に取り組むことが、
同時に先にも(または過去にも)取り組むことか。
そうすれば、おのずと言葉は出てくるのかもしれない。




2005年06月26日(日)



 真っ直ぐのいいこと

今日は久しぶりにアルティの治療を受けて、
エネルギーがガンガン流れるのを感じた。

首の後ろ辺りに小さな針をうった時、
何度か骨盤がくくっと動いた。
後で話を聞いたら、どうやらそこは「概念のツボ」らしい。
意味はわからんです。

途中までエネルギーがひざで止まってて、ひざが痛かった。
抜けてからは指先までビリビリで、
エネルギーが体を結構なスピードで回ってた。

治療が終わって立ち上がってビックリしたのは、重心が変わったこと。
私は立ってるといつも上半身が腰よりも後ろにのっかってしまう。
立ってれば立ってるほど下がってく。
それが楽な体勢でもあった。
でも治療後は上半身が前のほうにきていた。
とゆうかつまり真っ直ぐになってた。

昨日友達にネパールの「シンギングボール」の話を聞いたんだけど、
アルティにあった。
お寺などで場を清めるために使われる法具。
木の棒などでボールを擦ると、
確かに波動が波紋のように広がってくる。
それが結構すごい。
波打ってなくて静かなんだけど、すごい波動が伝わってくる。
宇宙っぽい。宇宙の音と波紋。
これ欲しいなぁ。。。


歌うときも書くときも何をするときも、
私自身から出そう出そうとすると、エネルギーがすぐ枯渇して、
体は冷えるし、搾り出すものはあっとゆう間になくなる。
やっぱり大きな深い呼吸のようなバランスが大切だ。
去年の夏初めてのオリジナルライブで、
それを自然に感じとって、実行していたのに、
ちょっとの間忘れてしまっていた。
私の中をただ通ってゆく感覚。
治療でバランスが整った感じがするので、
通りやすくなってると思う。
もう一度思い出して、歌ったり書いたりしてみよう。







2005年06月25日(土)



 変化しているとしても

こないだオアシスで歌ったばかりな気がするけど、
もう一週間経っちゃった。

私は変化しているのだろうかな。
自覚があるような、ないような感じでここ一週間はスタートしたけど、
身近な人から言われると、そこで確認をするような感覚になる。
そう言われればそうだ。そう思うとますますそうだ。

でも今の私は思う。
変わったとゆうことに留まらないように。
こだわらないように。
気にし過ぎてそこから動かなくなったりしないように。
また、動き続けなきゃと思うこともないように。
こんなふうに「そうでないように」とゆうことにとらわれないように。
そのこと自体はどちらでもいいから。
本当でも嘘でも、そんなことはどうでもいい。
どうでもいいかとゆうこともどうでもいい。
形にして見てしまう必要はない。

つかみどころのない断片を書くことで手放せる気がする。
今日感じたこと、見つけたこと、出会ったこと、
あの人の学ぶべきところや、わからないこと、
味わったものや共有した時間、
分かろうとするとはまり込んでいく迷路、
くるくる変わる思い、静かな心と声、戻るところ。
今ここから何が必要なのか。

しかし今日は書けば書くほど、自分でも意味不明だな。

だって今日は物事の違う角度に映る「ちょっとイイ」ところを、
もっと見つけるようになりたいと思ったので、
今はちょっと見つけられない気分。



2005年06月24日(金)



 オアシス21

昨日のオアシス21のライブは美しい空間だった。
切り取られた夜空とライトと涼しい空気が相まって、
みんなの歌声と思いまでも増幅してくれたようだった。

リハが急遽出来なくなって、
時間をつぶすためにみんなでゴハン食べてたら、
本番前にとても調子が悪くなってしまって、
声出しもせずにグッタリしてました。
ヒールに履き替えるのをやめて、
ソロの曲歌ったら引っ込もうかとも考えた。
しかし本番になると不思議なもので、
調子が復活どころか、呼吸にのせたように声が出た。
おなかの深いところから声が出ていくようで、
これまでとまた違う自分の声を感じることが出来た。
When jesus washed・・・と歌うと泣きそうになり、
少しだけ声も胸も詰まった。

たった5曲の間にお客さんが次々と立ち止まって聴いてくれて、
そのすべてがいい空間を作っているようだった。
最後の「明日に架ける橋」を歌い終わったあと、
何も言わずに立ち去るのが不自然な気がして、
MCでもないのに聴いていてくれた人達にお礼を言いました。

いつもはステージ側で歌っているメンバーが、
お客さんとして聴いていてくれたのだけど、
感激して泣くから、私も他のメンバーももらい泣き。
感激しただけじゃなく、
しっかりと今後の課題を見て(聴いて)、みんなに伝えてくれた。

今回のイベント出演は大きな変化をもたらすものになったかもしれない。


2005年06月18日(土)



 私が感謝で埋まる時まであと少し

どんなにつらかったことだって、
何でもなかったことだって、
嫌だったことだって、
悲しかったことだって切なかったことだって、
良かったと思えることは幸せだ。

私とゆう存在を私自身で汚したり、踏みつけにしたり、
貶めたりしない結果になっていることは、
そうなるしかなかったことなのだろうけど。
そしてそれは同時に、周りの誰もにそうしたことになっているし、
人どころか目には見えない幾多の大切なことにすら当てはまる。

私はすべてを守ることになった。
抱え守るのではなく、
背を向けてがむしゃらに向こうへ行ってしまわなかった。
もう気づくところに来ていたんだろうと思う。
気づけたことは決まっていたとしても、
それはそれは感謝したくなる。

だから私の中の感謝は増え続ける。
そのうち隙間なく埋まる時がくるだろう。

2005年06月16日(木)



 私のその続き

先日のアクティべ−ションで胸の水晶を外しました。
外す時、聞かれました。
古い概念や今までの考えなどを取り戻そうとしたりするとツラくなるけど、
それでもいい?と。
ここまで来て、尻込みしてる場合でもないので、
外してもらいました。
そして、物事に対する考え方や感じ方が変わる、
今まで周りの反応や先入観などでハートが拒否していたことも、
受け入れるようになると言われました。

昨日、今日と特別なことをするつもりもなく、
自分を観察していました。
昨日のお昼くらいまでは、
何も変わらない気がするけど。。。と思っていたけど、
お昼を過ぎた頃から、何となく違うような。。。
でも昨日色々話聞いたからなぁなどとも思っていました。

仕事している時にまた変化を感じました。
いつもより言葉がすらすら出てきて、慌てたりすることもない。
落ち着いているけど、言葉数は多いからか、
ある生徒さんに「先生なんか。。。なんか。。。今日違いますね」と言われた。
テンションが高いように見えたみたい。

その夜、今までに思ったことがないようなことを思った気がしました。
今までとは逆のこと。
だから私は少しとまどったまま、やたら眠くて眠くて寝ました。
明日起きたら、消えているかもと思いながら。

そして今日の朝。
その感覚は消えていなくて、さらに近づいてきたようでした。
ドラマの端や目に入ってきたものから、
分かることや気づくことがあって、何度か泣きました。
でも本当に悲しいことではない。

アカペラレッスンのあと、
仲間たちにAngel lightの話をしていた時も、何かが違う。
別の2つの感覚が混在しているのに、
私はやたらと落ち着いて、考えることもなく、
やはり言葉は出てくるようだった。

まだものすごくハッキリしたわけではないです。
まだとまどいが少しいるので。


2005年06月15日(水)



 Angel Light

今日は「Angel Light」とゆうところへ行ってきました。
アルティの旬といえば、この「Angel Light」
「それどこなの?」「東京だよ」とゆう会話で、
興味はあるけど遠いしお金かかるし行かないだろうと決め込んでいたのに、
ある日詳しく話を聞いていたら、
あれよあれよとゆう間に予約を入れていた私でした。
いまだになんで行ったんだろうと思うくらいだけど、
ただ必要だった。それだけなんだろう。

DNAリーディングと、
DNAアクティベーションとゆうのを受けてきました。

説明ちょっと長いのですが、興味ある人読んでみてね。

*DNAリーディングは・・・
 DNAに刻まれている情報をリーディングします。
 魂の色や種類、使命、契約、パートナーシップについてなど、
 自分自身についてあらゆる情報が
 DNAリーディングにより読むことができます。

*DNAアクティベーションとは・・・
 DNAアクティベーションとは、
 3000年前のキングソロモンの時代からその血統を受け継ぐ
 正当なミステリースクールのみで伝えられてきた秘伝です。
 当時の神官や巫女・預言者達は
 このDNAアクティベーションで活性化され、
 自らの能力を高めていきました。
 その秘教のメソットは、
 ”NO MORE SECRET”の時代である今日、
 誰でも受けられるようになりました。
 ホワイトブラザー/シスターフットのメンバーであり
 キングソロモンの血統を継ぐミステリースクールにて
 資質と技術を認められたティーチャーのみが
 このDNAアクティベーションを施せます。
 DNAの24本のストランドの内22本を活性化するのが
 DNAアクティベーションです。

 これはとても特別なプロセスへと私たちを導きます。
 一人一人の可能性を開きスピリチュアルな繋がりをより強めます。
 高次な意識光へ満ちた体へと自らが誘われるのが実感できるでしょう。
 例えばより高い気づき・内側にある深遠なる知性・
 あなた自身の中心にいる事・静かなる自己・
 あなたは新しい時代のエネルギーにふさわしい体へと
 穏やかに変容していくのです。
 また、スピリチュアルな目覚め・
 サイキック能力の開花にとても有効です。
 その他あらゆる種類のスピリチュアルなワークのプロセスを
 あなたがしっかりと獲得していくのをサポートします。
 これはほんとうに奇蹟的なプロセスであり、
 あなたにすばらしい変容をもたらす事でしょう。

 ◎バランスラインの調整
 ◎ネガティブクリスタルの除去
 ◎キャップリムーバル+トーニング
 ◎DNAアクティベーションその他


・・・だそうです。
これによると、
私はどうやら「天使」で、志願して奉仕しに来たそうです。

魂の色は「インディゴ」。
自由奔放で新しい文化と社会を吹き込んで、
才能を見つけ現実化するんだそうです。

チャネリング・サイキック能力と、
上の情報を下ろして言葉や音にして伝える能力、
それを通して人々に伝え導く能力を持ってきたそうです。
神との契約も同じようなことでした。
芸術を通して新しいものを見せることで人々に気づきを与えること。

周りのいろんな人との関係も聞きました。
うなずけるものもあったし、
今の時点では意外なものもありました。
どれも理解はできることでした。

魂の色が「インディゴ」の人(?)は、
1人のソウルメイトとしか契約してこないそうです。
何人もいる人もいるそうですが。
そして、私はまだソウルメイトと出逢っていないそうです。
そうなんだ。。。
これは少々ショックでもありましたが。

私は今まだやっと準備段階でこれから始まるところ。
精神的に本当に自立して、自分を癒して、自信を取り戻した時、
情報が流れ込んできて、人間関係も変わっていくのだそう。

自分のハートをもっともっと癒していくことが、
私のキーポイントでした。
そうすれば、私の契約でもある
「言葉と音で人々に気づきを与えること」が、
自然に流れて広がっていくのだそうです。


こうしていろんなことを聞いて、
体験して、エネルギーを感じることは、
目に見えてものすごく驚いたり、
その瞬間考えが変わったりすることではない。
でもその小さな確認や感覚が、
根底の大きな変化であることを、
これから徐々に気づいていくことだと分かる。

今日は本当に行ってよかった。
また何かひとつクリアになった感覚です。

2005年06月13日(月)



 心をあたためるもの

梅雨入りを前に身体が重い。
湿気が押し寄せてきてるのが分かる。
久しぶりにゆっくりした一週間だった。
ダラッとしたとも言えるけど。


一時期私を苦しめていたものが、
今は私の心をあたためる。
人が大切にしているものの話をしている時、
とても優しい空気が流れる。
愛おしくて、両の手の平を丸めて大事に包んでいるみたい。
また、空を自由に飛び回る尾の長い綺麗な鳥を、
いつまでも見ているみたい。

うっすらした切なさはなんだろう。
懐かしい感覚に似ている。
嫌な感じじゃないんだけど。

何に動かされたのか今ならよく分かる。
正しかろうが正しくなかろうが、
人を踏みつけて押し通すことがいいわけない。理屈抜きに。
でもそこを通って、そこじゃないところに来れたわけだから、
大きく見れば動かされてきたものは同じなんだ。

あなたの大切なものも、あなたの大切なものも、
きちんと感じられてよかった。
だから私の大切なものもちゃんと感じる。

あなたの大切なものは私の大切なものです。
私の大切なものもあなたの大切なものです。
いつも心をあたため続けてくれるものです。



2005年06月10日(金)



 失敗をしてこそ

月曜火曜と、いささかグッタリしておりました。

直感とゆうものは、まだまだ上手く働きません。
わけもわからず物事に飛び込む時、
直感無くしては成立しませんね。
それはただの無鉄砲。計画性なし。
見極められない行動なだけでした。

でも失敗をしてこそ、大切なものが初めて見える。
一度言い出した自分の間違いに気づいた時、
すばやく認めるにはエネルギーを使う。
でも逃げてたって意味ないから、ええいっと認める。
それで多少グッタリしたって、引っかかるものはもうないから、
あとは回復を待つだけです。
その回復もなかなか早くなってきた。
少しは成長してるのかも?

シンプルでなくなった社会の仕組みに巻き込まれちゃうことがある。
ここからあっちに行こうとすると、
いろんなものを持っていろんな人が割り込んでくる。
みんながみんな良かれと思っていろんなものを差し出してくれる。
でも方向が違うことが多すぎる。
すべてが伝わらないのは当たり前。
それより人のことを注意深く分かろうとはしないところが問題だ。
例えばそれに一度うんざりするんだけど、
角度を変えてよくよく見てみれば、全く違う真実が見えたりする。

私はどこか人の思いに寄り添おうとしすぎところもある。
重ならないものも重なるような気がしてしまって、
その結果、自分の居所を見失う。これはマズイ。

失敗するたびに、気づくことは無数にあるね。
そのたびに人に迷惑かけちゃうこともあるけど、
一生懸命なんで許してくださいな。


2005年06月09日(木)



 大切なものを本当に大切にすること

目の前のそれが何で、自分がどうしたいのか、
何を大切にしていくべきなのか、ぜんぜん見えずにいた。

そうゆう自分をどこかで感じていたはず。
絶対感じていたはずなのに。

目の前のものもきちんと見もせず、
わからないことは放っておいて、
頭だけでぐるぐる考えて、
実体のない欲求をつかもうとしていた気がする。

これまで何度も自分で自分を傷つけて、
そのたびに気づいて、大切にすることを知ったつもりでいたのに、
まだまだ全然だった。

情けない。情けないけど、仕方ない。
気づくことが出来たから、よかった。

もう一度大切なところをしっかり見つめて、
惑わされないように。
自分が何かもわからず捨ててしまうことのないように。



2005年06月06日(月)



 正直言うと。

内側でこっそりこしらえていたものが、
外側へと広がってゆく始まりなんだと分かっています。

それなのに正直言うと、少々尻込みする自分を感じる。
不安や怖れがないわけでもないのも見える。
何が?と考えてみた。
まず、どうしていっていいのかわからない。
これってただのいらん想像なんだけど。
実際のところ、どうしてったっていいわけだし。
流れに身を任しきれないところがある。
こうやって書いて、自分を確認中。

それから、
まだ自分への自信のなさや認めない部分に引っ張られる。
今はちょびっとしかへこまないけど、
急に自分に関するすべてが色褪せて見えたりしちゃうことがある。
すごくキラキラ見える時もあるのに。
だから、私が実際どうかってことなんて関係ないし、
どうかってことを決めるものもない。
ダメと思えばダメで、すばらしいと思えばすばらしい。
それが一瞬のうちに真実として入れ替われるもんだ。

先への不安だって、
自分が社会的評価に価する存在だと信じられない部分が、
多分昔からあって、それに繋がる未来を打ち消していたかもしれない。

ある日、イトコとの会話の中で、
「○○かなぁ。よくわからん。自信ない。」と言うと、
「えいこちゃんが自信ないなんて言うなんて珍しいね。信じられん」
と言われた。
いつも何をするにも確信を持っているように感じていたし、
話していてもそうだったって。
それに私のほうがビックリした。
私の中ではいつも自信のなさやいい加減さ抱えていたのに、
いかに隠して、カモフラージュした姿を見せていたのかが分かった。

知らないことは知らない、出来ないことは出来ない。
わからないことはわからない。
その時点でそうであれば、ただそうだということだけ。
なぜ「その時点」を素直に認められないんだろう。
いつも一番認めないのは自分なのね。

それを認めたところで、
自分を貶めるような感情をくっつける必要もないのに。
認めないから進めないことにやっと気づいてから、
だいぶ認められるようになってきた。
とゆうか、逃げてる時とか自分ですっごいわかる。
だから仕切り直して、認めてみる。の、くり返しかな。

リラックスして、身を任せて、自由になるのはなかなか出来ないなぁ。
でもさらけだすことは深呼吸するみたいで気持ちいいなぁ。
おやすみなさい。





2005年06月05日(日)



 解き放つ心が溶け合いひとつになる世界

今日は長久手のD-Pocketで初めてライブ。
お昼の1時からとゆうのも初めて。
カフェらしきところでやるのも、私は初めて。

そして2人で歌うのも初めて。
新曲も含めオリジナル全曲をほとんど2人で歌うことになった。
考えてみれば男女のユニゾンは珍しい。
響きやリズムがピッタリ合うとものすごく気持ちいい。
ハモリにしても、音が合ってても響きが合わないとピタッとこない。

私はまだもう1歩階段をのぼれたら。。とゆうところ。
今はまだ入り口。
だからちょっと頑張っちゃう。
そうすると余計に力んじゃう。
自分の声を出そう出そう、聴こう聴こうとすると、
ちっとも溶け合わない。
のどが主張してきてしまう。
その空間にあるどの音とも溶け合うとゆうことは、
自分を無くすことだと気づけた。
お客さんとも雑音ともすべてと同化する。
自分の存在をハッキリしていくのではなく広げて消えていくの。
そうしていくことで、
必要な声だけがきれいに引き出されていくんじゃないかな。
これまたI'm In Loveの歌詞みたい。
「解き放つ心が溶け合いひとつになる世界」だから。

私にとってはとても勉強になったライブだった。
今日のライブはひとつの経験としてしっかり刻まれたと思う。


2005年06月04日(土)



 こんなふうに変わっていった

今日は何を見ただろう。
久しぶりに嫉妬心や不安感やあの時のいいようのない悲しみも見た。
見ただけ。

昼間はゴスペルの練習に参加してから、
終わったあと2人で食事に行った。
もうあれもこれもね、
ほとんどの苦しんでいたことがどうでも良くなったよ、
なんて話していた。
以前泣きながら練習していた話になった時、
友達がこんなことを言った。
「歌ってる時なんて感情開けっ放しでしょ?
 ってことは、歌うのやめるか泣くしかないよね。
 練習しながら泣くのをやめるってことは、
 基本のところを変えていくしかないんだよね」
そう!そうそう!
結局そうゆうことだったんだ。
私はこんなふうに変わっていったから。

 泣くくらいは向かい合わずに逃げていた
 →泣くところまで向かい合ったけど、もう歌えない
 →泣きながらでも何とか向かい合おうとして歌う
 →泣きながら歌うけどやはり集中力は切れてるので気持ちが負けてる
 →泣かずに歌う
 →楽しんで工夫しながら感じるままを表現する

最後のところはまだ途中かな。
音楽を通して成長したのは自分。
結果、音楽も自由になっていって。
音楽も自分も本当に大切に出来るようになってきた。


考えてみればここ2、3ヶ月のことだ。
悲しみや苦しみがこの世からなくなったわけではない。
もちろん初めから私のものでもなかった。
存在はしているけれど、チャンネルを合わせなくなった。
大切なことは悲しむことでも苦しむことでもないと分かった。
でも悲しむことも苦しむことも味わったからこそ、
今はそこにいないのかもしれない。
私がいつも向かい合っているのは、人であり物事であり、
音楽であり、言葉であり、それは自分。

私にとってはどれも同じだから、
世の中は複雑ではなく、驚くほどシンプルなんだ。






2005年06月01日(水)
初日 最新 目次 HOME


My追加