雑感
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2001年08月31日(金) 自分の直感を信頼する

若いときは、自分のことが信頼できずに、筋の通った説明ができない
自分の感情や行動を否定的に捉えていた。
年を重ねると、自分の勘というのか、無意識的に取った行動
は案外自分にとっては必要で、自分にとっての正しいことだったので
はないかと感じるようになった。目や耳、口を通すだけでなく
皮膚だってセンサーの一部だと思う。

説明のできない行動を取ったことがあり、それはその時どうしても
自分に必要だったのだなあと、今では納得している。
自分はこの場にいてはいけないと、心の中で警鐘が鳴っていて
気がついたら、離れていたというようなことがあった。
こういう直感って、自分を守ってくれるのだなと思っている。



2001年08月30日(木) 人生は選択の連続

人は朝から晩まで、日常生活においていろんなものを選択し、捨てて
生きている。人生の大事な転換期において、選択するというのは、
ひとつを選んで他を捨てることだけど、このときの決断がその後の
人生を大きく左右するといっても言いすぎではないと思う。
人生の課題である、仕事、愛、人間関係のそれぞれにおいて取捨
選択していくことは勇気がいる。
でも、間違って選んだとしても、勇気があればやり直しができること
を知っておれば、選択することは難しいことではないと思う。


2001年08月28日(火) シンプルライフ

ウィーン市民の生活はシンプルだ。給料が少ないことも原因だけど、
ついお金を使う機会というものが少ないので、必要なものしか
買わない。商品に魅力がない、コンビニがない、100円ショップ
がない、デパートがないと、ないない尽くし。

モノがないと、食に走るかというとそうでもなく、外食が好きな
傾向のあるウィーン人だけど、一日3食サンドイッチか黒パンという
食生活の人も多い。毎日1回は外食している人というのは私の周り
のウィーン人にはいない。

じゃあ、どこにお金を使っているのかというと、年1〜2回の
休暇、自家用車、あるいはマイホームを建てる、内装を変えるといった
ことに集中しているみたいだ。
食べる、着る、買う、旅行すると全部はできないので、どれか選択しな
いといけない。
外国で働いて生活してよかったのは、自分の給料の範囲で、質素に
生活できているということだろうか。そうすると、欲しいものが
手に入ったとき、満足指数も跳ね上がるように思う。


2001年08月27日(月) ウィンナーワルツ

ワルツの国に住んでいる。
年末のホーフブルク宮殿の舞踏会(バル)から始まって、カーニバル
の最終日まで、冬の夜はどこかかしこでバルが催される。男性は
タキシード、女性は華やかなロングドレスに身を包み、老いも若きも
それぞれのバルに出かけていく。

バルの最高峰は国立オペラ座バルだけど、他にもっとお手軽なバルが
いっぱいある。警察関係者のバル、弁護士のバル、パン屋のバル、
喫茶店主のバル、大学のバル、高校のバル・・という具合に。
冬のバルというのは、それぞれ属している社会(ゲゼルシャフト)の一員
としてかかせない社交場所となる。
したがって、17,8歳にもなると、ワルツのステップを踏めないと
バルに参加しにくいので、社交ダンスの教室に通うことになる。国民に
とって、社交ダンスは一人前の大人として市民としての最初のパスポート
であろう。
女性のイブニングドレスはさぞかし高価だろうと思われるけど、そんな
ことはない。ワンシーズンで着るものとわりきっている人が多いので、
安いものなら5千円くらいからでもある。もちろん何十万円もするドレス
もあるけれど。

オーストリアで有名な音楽家というと、一番にモーツァルトを思い浮か
べるがウィーン人は、ワルツ王ヨハン・シュトラウス(息子の方)である。
シュトラウスのワルツを聴くと、人々は古きよき時代を思い出すのだろう。
バルは明け方まで続く。



2001年08月26日(日) ヤウゼの時間・ケーキとメランジェの至福

「もしもあなたが旧市街にいて、おいしいケーキとコーヒーを楽しみ
たいと思うなら、年配のオーストリア人マダムが二人歩いている
あとをついていきなさい。きっと、10分後すてきなカフェに座って
いることでしょう。」
当たってると思う。ヤウゼ(おやつ)の時間は、イギリスのアフター
ヌーンティのように確立されているわけではないけれど、コンディトライ
(洋菓子店とカフェを兼業している)でメランジュ(コーヒーに泡だった
ミルクがのっている)とケーキを食べる人は多い。

旧市街の1区には、かつての王室御用達のコンディトライが威風堂々と
店を構えている。デーメル、ハイナー、オーバーラー、ゲルストナー
、ザッハーとケーキ好きなら一見の価値はある。かつてのハプスブルク
帝国の威光で、ウィーンにはありとあらゆる食の文化が流れ込んだのだ
ろう。ものの本によればケーキの種類は1000以上もあるという。

あるケーキ好きの日本人夫婦がウィーンにやってきて、ケーキ屋巡りを
したいからと言われたのでいくつかのコンディトライを紹介したら、
朝食を抜いて、一日に3軒回ることができて御礼のことばをいただいた
ことがある。

食に関してはフランス料理にぐっと差をつけられているけれど、甘いも
のでは、ウィーンのお菓子はいい勝負をしていると思う。


2001年08月25日(土) ひとりと孤独

ピアニスト、グレン・グールドの伝記のようなもの「孤独のアリア」
を読み返す。(ミシェル・シュネーデル著)グールドほど孤独を愛した
演奏家はいないんじゃないかという気がする。演奏会を憎み、録音を
ひたすら好んだ天才だった。
グールドは32歳で演奏活動を止めて、自分の孤独の領土を拡大
させていったという。死ぬまで録音と執筆に明け暮れた。
1982年9月27日グールドは脳内出血でこの世を去った。
その2日前に、「ゴルトベルク変奏曲」の再録音版が発売された
ばかりだった。
葬儀には、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」の冒頭のアリアが
流されたという。

一人の時間を過ごすことが多いので、自分は一人でいることが
好きかどうか自問する。たぶん好きだ。一人でいる状態は、とりあえず
自分が選択して、なにか行動している、考え事をしている自分に
とっての必要な時間で、そこには寂しさが介在することはない。
ただ、そういう時間は一日のうちでも数時間あればいいと思っている。

孤独というのは、周りに人がいても寂しく感じることだと解釈して
いる。たとえば愛する人が隣にいたとしても、こちらを向いてくれ
ないと感じたら、それは孤独であり、寂しさという感情が沸いてくる
ように思う。だから、24時間一緒にいても、ずっと孤独なのだと
いうことも在り得る。

幸いというべきか、私はグールドのような筋金入りの孤独を愛する
人間にはなれそうにない。


2001年08月24日(金) 小説から英語表現を学ぶ

最近、A suitable boy(by Vikram Seth)を読み始めた。
舞台はインドで、年頃の少女が生涯の伴侶を探す物語。1300ページ
と大作なので、読み終えるまでに何ヶ月もかかるかもしれない。
Sethの英語はどきっとするような表現がそこかしこにあるので、寄り道
し味わいながら読み進めていこうと思う。

I felt protective of him (彼を守ってあげたいような気になった)

She knew from experience that screaming worked wonders
with her parents.(彼女は経験から、泣き叫べば両親が折れて奇蹟が
起こることを知っていた。)

It won't work with me.(泣き叫んでも)私には通用しないからね


2001年08月23日(木) ペール・ギュント

午後から、頭の中にグリーグの「ペール・ギュント」の組曲が
うつらうつら流れている。出だしの音が繰り返し鳴って、7,8年
前にブルグ劇場でみたイプセンの芝居「ペール・ギュント」を思い
だした。若いペール・ギュントは冒険心に富み、病弱な母親を残し
故郷の村を着の身着のまま去り、長い長い人生を外国を転々とし
破天荒な人生を送ったが、最後から手で故郷に舞い戻って生を終える。
上演時間が4,5時間かかる長大なドラマだけど飽きることがなく
最後まで見た。途中、グリーグ作曲の組曲がそこかしこに奏でられ
(残念ながら録音)音楽とドラマが相和したすてきな世界にひたる
ことができた。

ペール・ギュントが探し求めていたのは、自分の生き方、それは
安定したものではなくて、その時々で熱中できる瞬間に喜びを
見出すものだったのではないかな。旅の途中、愛情や財宝を
何度も得たり失ったりしても、意に介さずさらに冒険を求めていく
姿勢に一生懸命生きることの大切さを教えられたように思う。


2001年08月22日(水) 東海林さだおは在外邦人の救世主

東海林さだおのファンのランクでいえばまだまだ幕下付けだし
デビューから一向に番付けが上がらない力士みたいなものだけど・・

丸かじりシリーズはずいぶんたくさん持っている。といっても
20冊くらいだろうか。とにかく食べ物のことばかり書いてある。
ピンは秋の味覚松茸にはじまりキリはもやしにいたるまで扱う
食材は何でもござれ、文章のいきがいい。文体が要を得て簡潔。
改行の妙。エッセイの始まりのつかみが上手いし、最後は必ず
オチをつけてくれる。

こと食べ物に関しては丸かじりシリーズを読んで、なつかしい
料理をまるで目の前で味わっているかのように感じることができ
る。日本食の手に入りにくい地域にとっては、つかの間の砂漠の
オアシスのようだ。
東海林さだおは、食べることに関する観察眼のものすごくするどい
人である。ほんのちょっとした事でも見逃さず、深く追求してくる。

「とんかつの丸かじり」の中に、中華食堂のお品書きを眺めて
長大な物語を想像するなんて普通の人はしないし、思いもよらない。
貧から身を起こしたラーメン族から炒飯の飯族へ、さらにチンジャオ
ロースーや酢豚の新興貴族へと成り上がっていく栄華物語にしたたて
いる。

ふたをテーマに原稿用紙17枚も書ける作家はちょっとお目にかか
らない。東海林さだおは、安打製造機のイチローみたいに
食材をネタに質の高い文章を提供してくれる。食材に向ける眼差し
は暖かく、読む者のこころをぐっとつかんでいる。


2001年08月19日(日) マスメディアから離れた生活

一人で自宅で過ごすときはテレビをほとんど見ない。ニュースの時間
さえうっかりして忘れることがある。ニュース以外の番組がつまらない
せいもある。何しろ、ケーブルテレビや衛星放送のアンテナがないと
チャンネルは国営放送2局と民放1局になり、国営の1局は昼間は
文字放送だけになる。

最近はインターネットを繋ぎぱなしにしているので、ニュースを
知るスピードは速くなった。ネットから、またテレビやラジオから入る
情報はそれなりにあるけれど、大きな事件があったからといって
人々がみなそのことを話題にすることがないのは不思議。新聞や週刊誌
などのメディの数が少ないこともあるが、肝心のテレビが情報を煽らない
からだと思う。芸能スキャンダルも放映されないし、芸能人の数も
少ないので、昼間のテレビ局は前夜放映した映画を再放送している。

自宅に届く、DMも昨今は増えてきているが、入るときはこっそり
ビニール袋にいれてドアのノブにかかっているし、セールスの
電話もないので、自宅にいる限り、外部から邪魔されることはない。
好きなときに、情報を手に入れられるのが気に入っている。情報を
シャットアウトできる環境がまだここには残っている。


2001年08月18日(土) アカデミー(美術大学)

王宮に面した環状道路の外側にシラーの銅像がある。そのちょうど
後ろにアカデミーの建物がある。オーストリア有数の美術大学。
所用で楽友協会に行く道すがら、構内の画材店にバーゲン品がないか
立ち寄ってみた。建物は古くいかめしいが堂々とした作りである。
残念ながら大きな油絵の具以外はバーゲン品はなかった。
この建物に入るときは、とても嬉しい。学生でもない部外者だけど
美術の匂いがそこかしこにただよっている。自分も学生になったよう
な気がする。

20世紀も初期の頃、ウィーンが世紀末の芸術の潮流の主役にあった
とき、アドルフという少年は芸術家になろうと大志をいだいて、アカデ
ミーの入学試験を受けた。森本哲郎の「維納」には、アドルフの成績は
すこぶる悪く、デッサンなどもできが悪かったと記されている。
この年には、オスカー・ココシュカがアカデミーに入学している。
アドルフはその後数年ウィーンに留まって、底辺の生活を続ける。
彼は、ウィーンリング内の豊かな人々、特にユダヤ人が経済的に、
学芸の分野でイニシアチブを取っていたのを目の当たりに見たのだろう。
ユダヤ人に対する憎悪はこのとき、生まれたらしい。アドルフはその後
ミュンヘンに行き、政治の世界で頭角を現していく。

アカデミーのほの暗い回廊を歩きながら、もし彼がアカデミーに入学
できていたら、第二次世界大戦は避けられただろうか、600万人の
命は失われなかったかなあと歴史家と同じような質問を繰り返して
みる。アドルフは姓をヒトラーと言った。


2001年08月17日(金) ウィーン1区

ウィーン1区は環状道路(リング)でくるりと囲まれている。
リングの中心点にあたるところにシュテファンス寺院の尖塔が鋭角に
空をえぐるように立ちはだかっている。

1区には王宮があり、オペラ座、瀟洒なショッピング通り、高級ホテ
ルにレストラン、大学も、骨董屋もあり、観光客を飽きさせない。
さらにリングを市電で回れば、ゴシックからロマネスク,果ては
世紀末の様式までいろんなおもしろい建物が林立していて、建築博物
館の様相を呈している。

観光客ばかりでなく、1区には国の政治をつかさどる各省庁が集中して
いる。
王宮の横には、大統領府、その斜め向かいには、大統領と仲の悪い首相
府、大蔵省も外務省、内務省とすべて1区にある。

1区に住所をもつのは私の夢である。隠居するような年齢になれば、
賑やかな街に住んで元気を外側から調達したいと思っている。リング
は、政治や芸術の中心だから。
ただし、1区のアパートの値段はとても高い。普通のサラリーマン
ではなかなか手に入らない。リングにはガラスの壁が張り巡らされ
ているように見える。かつてヒトラーも、美大に入れず若い時の何
年かは、ドヤ街に住んで、リングの外側から1区を見ていたはずだ。
リングの中にいるユダヤ人に強烈な憎しみを抱いたのはこの当時の
体験が大きいと聞く。

散歩したいなと出かけていくところは、だいたい1区のケルントナー
通りからグラーベンにかけての地域が多い。観光客の幸せそうな顔を
みるのがなぜか好き。


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