道院長の書きたい放題

2005年08月05日(金) ◆大阪高槻道院長・田邊眞裕先生の文集より

■先日、掲示板に以下の書き込みをしました。

-----------------------------------------------------------

「涓滴文庫」!  投稿者: あつみ♂  投稿日: 8月 1日(月)17時12分41秒

◇先週、大阪高槻道院長、田邉眞裕先生から、(勉強せよ!と)「文藝春秋特別版/特集、昭和と私」と「涓滴文庫」を送って頂きました。

これは、ずーと以前から先生から送って頂いているものです。その中に「靖国問題」に関する著書についての先生の読後感があります。

昨今の重大関心事。見識ある先輩拳士のご意見を是非、書きたい放題に紹介したい、と今日の昼、先生にお電話し、ご許可を頂きました。

近々、全文を紹介します。

-----------------------------------------------------------

本日写し終えたので掲載します。ただし、段落は筆者=先生のものではなくて、私がつけましたので、ご了解下さい。


///////////////////////


【「涓滴文庫」田邊 眞裕<良書推薦/「靖国問題・高橋哲哉著・ちくま新書」\720>】

■小泉首相の靖国参拝問題が、中国の強い抗議で外交問題としてこじれている。中国との問題を解決するには、東条英機ら14名のA級戦犯の合祀に端を発しているなら、分祀が手っ取り早い解決方法にも見える。

しかし靖国問題の本質は、中国との問題ではなく、日本人の精神構造としての問題把握が肝要であると考えている。

つまり、戦前の日本人を戦争に駆り立てた精神的な装置としての靖国神社、現人神天皇制を支えた国家神道の主柱としての靖国神社という観点が必要であると思っている。つまり、天皇のために戦って死ぬということを、疑う事無く受け入れていく精神的構造の滋養と定着を目指した宗教装置ということである。

国家神道というのは日本人の精神意識を根底にしているため、きわめてうまく日本人の精神に上乗せさせられており、それ故靖国神社への参拝も、日本人の心に大したわだかまりもなく、溶け込んでいるのである。

「国家のために戦い、戦死した人を祀った靖国神社が何故悪いのか?」

「その靖国神社に首相が参拝して、何故悪いのか?」

という素朴な宗教感情である。しかしこの宗教感情こそ、国家神道を通じて目指された帝国臣民の精神構造であるということである。

■次に、中国が問題にしているA級戦犯の合祀については、

「過去に日本が起こした悲惨な戦争のことを思えば、中国の気持ちも分かるとして、靖国神社はA級戦犯を分祀すればよい」

という意見がある。しかしこれは宗教への干渉であり、政治がこれをすれば、政教分離の原則から「信教の自由」という日本国憲法に抵触する大きな問題となるのである。特に宗教がこれを軽々しく取り上げる内容ではない。

明治後期から昭和20年8月の敗戦まで、国家が宗教に全面的に干渉して、日本人の「内面の自由」を統制した国家神道への強い反省の中から、現在の日本憲法の「信教の自由」が保障されているのである。

つまり、敗戦までの国家神道が担った役割は「日本人の内面からの支配」=「現人神天皇制の維持・強化」が目論まれていたのであり、すべての国民(当時は臣民)は国家神道から逸脱することは、一切許されていなかったのである。そのしがらみから解放されたことを、日本国憲法で「信教の自由」として保障されたのである。

これは、宗教が国家の束縛を離れ自由になったということであり、逆に言えば庇護をうけないことにより国家から自由であるということである。

このように、分祀の問題は国家(政府)がこれを推し進めると、日本国憲法の「信教の自由」に抵触する、という大問題を抱えているのである。

現在のところ、靖国神社自らが分祀をしない限り実現できることではなく、靖国神社自身はA級戦犯も「昭和の殉教者」として、戦死者と共に英霊として祀っており、分祀は到底考えられる選択肢にはない。

もし分祀を政府が靖国神社にせまり、或いは圧力を掛けるということになれば、日本国憲法が最も忌み嫌う、国家による「信教の自由」への干渉ということになる訳である。

■以上のように靖国問題とは、一つには、日本人の精神構造(内面の収奪)に関する問題であり、二つ目が「信教の自由」という日本国憲法に抵触する問題であると私自身はとらえており、中国との問題ではなく日本人自身の問題であると考えている。

さて、本書は私の問題把握と共通の視点を持って論述されており、教えられ参考になることの多かった一冊である。目次を見てみると

*感情の問題ー追悼と顕影のあいだ
*歴史認識の問題ー戦争責任論の向こうへ
*宗教の問題ー神社非宗教の陥穽
*国立追悼施設の問題ー問われるべきは何か

という内容で展開されているが、特に追悼と顕彰(注:けんしょう)との大きな違いについて見ると

「追悼とは残された者が死者を“追って”“悼む”こと、後から哀悼すること、すなわち哀しみ悼むことである。“悼む”とは“痛む”こと、喪失の“痛み”を共有しようとすることであり、したがって追悼とは悲哀の中で痛みをともにすることである。

ところが、靖国の祭り(祀り)は、こうした感情に沈むことを許さない。それは本質的に悲しみや痛みの共有ではなく、すなわち追悼”や“哀悼”ではなく、戦死を賞賛し、美化し、功績として、後に続くべき模範とすること、すなわち“顕彰”である。

靖国神社はこの意味で、決して戦没者の“追悼”施設ではなく、“顕彰”施設であると言わなければならない」(P.57-58)

という文章がある。靖国神社での顕彰が何を目指していたかが良く理解できる。靖国神社は「天皇のために戦い、喜んで死ぬ」ということを顕彰する宗教施設なのである。

■さて今日、靖国神社肯定論からは首相公式参拝賛成論があり、さらには国(天皇)のために戦って戦死したのだから、天皇が参拝されるべきだという論まである。

一方で靖国神社否定論があり、中間派のA級戦犯分祀論があり、さらには靖国神社はそのままで、別の国立追悼施設設置論かで実に色々な意見があるのが現状である。

しかし、より根本的には国家神道をどうとらまえるのか、そこに最も大きな課題が残されていると感じている。


 < 過去  INDEX  未来 >


あつみ [MAIL]