A Thousand Blessings
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2006年12月11日(月) 『ただ、君を愛してる』 より 「完成された恋」



市川拓司の小説『VOICE』 『SEPARATION』 『いま、会いにいきます』、 
エッセー『きみはぼくの』の4冊を一週間で読み終えました。
これで読了した市川作品は『世界中が雨だったら』 『恋愛寫眞〜もうひとつの物語り』
と合わせて全部で6冊。今日から7冊目の『そのときは彼によろしく』を読み始めます。
実は、市川拓司が書くような小説を好んで読むことはありませんでした。
SFやミステリーの風味をまぶしてはいても、基本的にはコテコテの恋愛小説です。
文体もそうですが、小説の中で交わされるセリフも読んでいて
ちょっと気恥ずかしくなるほど、夢見る文学青年的な、あるいはどこか
少女趣味的な色合いがあり、
人様に「僕は市川拓司が好きです!」と大声で表明できない部分も・・・
確かにありましたね。
でも、今はこうして表明しちゃってるけど(笑)

なんか、僕は前の会社を辞めたあたりから趣味が変わってきましたね。
猛烈な孤独感に悩まされて、まあ、それは今も変わらないのですが、
何と言うか映画や小説、あるいは音楽に至るまで
人間の肌の温度や湿度を感じさせるものを強く求めていく方向に
導かれていっていると思います。もっと単純に言えば、
たくさんの「愛してる」を観たい・聴きたい・感じたい、ってことでしょうか。
これは自分自身の過去への思いなのか、それとも未来への願いなのか。
定かではない部分も残りますが。






映画『ただ、君を愛してる』の原作本『恋愛寫眞〜もうひとつの物語』の中に
こんな一節があります。主人公の静流と誠人の会話です。




「世界がもっと単純ならいいのに」

「どういうこと?」

「だから、私はあの人が好き、そしてその人もわたしの事が好き。

それで成り立っているから難しいのよ」

「そうだよね」

「私はあの人が好き。それだけで成り立つなら、すごく簡単なことなのに」

「うん、僕もいつもそう思っている」

「それなら、世界の恋はすべて成就するわ」

「片想いの惑星?」

「そう」





このやりとりには、生き方へのひとつのメッセージがあると思います。
こういう考え方をどこかにしまっておけば孤独とも対峙していけるのかも
しれませんね。片想いとは必ずしも愛に関する意味だけを持っているのでは
ないのですから。

上記のやりとりは映画の中では誠人の
「片想いは、それはそれで完成された恋だと思うよ」という言葉ひとつに
置き換えられています。
映画のあとに小説を読んだのですが、何故、このセリフのやりとりを一字一句そのまま
映画でも再現してくれなかったのか、返す返すも残念で。
これはやはり、静流から誠人へ向けて放たれるメッセージであるべきでしょう。
小説で誠人は「僕もいつもそう思っている」と応えていますが、
それは静流の言葉を受けての「そう思っている」なわけですから、
誠人から静流に何かを伝えるのではなく、映画でも静流から誠人に
何かを伝えるべきではないかと。

たとえば「完成された恋」という映画のセリフ。
誠人がまだ無意識ではあるけど静流を愛し始めていたことを
観客にそれとなく伝えるための道具として用意したのだろうけど、
実はそれは「完成された恋」ではないんだ、という静流の思い、
つまり「完成された恋」ならどんなにいいだろうか・・
という静流の切ない願いをこめた言葉として使われるべきでしたね。



だから。



誠人「完成された恋だと思うよ」
静流「そうね」


ではなくて


静流「完成された恋だったら・・いいのにね・・」
誠人「うん」


と、なるんですよね。これって、意味が違ってきますよね?
どちらが「せつなさ度」で上回っていると思いますか?



『いま、会いにいきます』の原作本を読んだ時も、映画との違い
(もちろん違いはあっていいです)で残念に思う部分がいくつかありました。



それと『ただ、君を愛してる』の静流は原作を読んでも宮崎あおいでしたが
(誠人はちょっと違ったかも)、『今、会いに行きます』の巧は
原作を読んでしまうとどう考えても中村獅童ではないでしょー、と。
あんなにギラギラした男はどう考えても違うのでは?(笑)
永瀬正敏とかどうですかね?
まあ、あの夫婦(獅童・竹内)のその後のドロドロした展開を知ってるせいもあるけど。
竹内結子は適役だったと思います。でも松たか子だったら更に良かったかも。
ちなみにテレビ版は未見ですが、ミムラ&成宮コンビは、ちょっと
若すぎるのでは?あと、美男美女ならいいというわけでもないので(笑)

ま、余談ですが。




(12月2日 記)


響 一朗

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